第40話 導き
精霊に見放された土地。
精霊信仰の強いルクセント王国の民の多くが忌避するだろう呼び名とは裏腹に、そこでは決して魔法が使えないということはない。
ただ、その土地には人が住むのが難しい大自然が広がっていて、魔物の領域となっている。
だからこそ、人々は自然と魔物への畏怖と恐怖を込めて、精霊に見放されたような土地だと口にする。
そこには凶悪な魔物が跋扈し、互いに争い、食らいあい、より凶悪な魔物が誕生する最悪の連鎖が起きているのだと。
その実態を知らずとも、多くのものに伝聞する情報は、力を持たない市民を震え上がらせるには十分なもの。
まるで禁足地のように扱われている精霊に見放された土地だけれど、実際に人々が足を運んでいないというわけではない。
精霊に見放された土地は魔物が食らいあい、より強い魔物を生む土地である。
ゆえに王国の平和を司る騎士団は、魔物を間引き、あるいは強くなった個体を討伐するために、定期的に精霊に見放された土地へと足を踏み入れる。
そうして魔物を狩るのは何も騎士団だけではない。
宮廷魔法使い、あるいは在野の戦士も力試しのように精霊に見放された土地に足を踏み入れる。
ただし、自己責任。
時として森の奥から追われることで凶悪な魔物を連れ出してしまう者もおり、そういった相手には重大な罪が課せられる。
とはいえ侵入が禁止されていないのは、完全に足を踏み入れさせることができないほどに、精霊に見放された土地と呼ばれるその森が広大で、王国の騎士の目が届かない場所が多々あるからである。
つまり、勝手に足を踏み入れる者は自己責任。そして、より強い者の侵入は、むしろ騎士の手助けとなり、凶悪な魔物の減少、あるいは魔物の凶悪化の遅延につながる。
そうして今日も、精霊に見放された土地のそばで、ルクセント王国王都は繁栄を続けている。
閑話休題。
そんな精霊に見放された土地に、わたしがこうして足を運ぶのはもう何度目になるか。
慣れた道ではあるものの、普段とは違う月夜の道はやはり勝手が違う。
時に躓きかけ、時に魔物の遠吠えに動きを止め、吹きすさぶ風に体を震わせる。
暗がりにひっそりと広がる巨大な森は、底知れぬ威容をわたしに突きつける。
踏み入れば、闇が、死が、殺意がわたしを飲み込む。
それはまるで、深淵がこちらを覗いているような、根源的な恐怖をわたしに与えるものだった。
そんな土地の入り口に差し掛かって、ふわりと灯った光に、わたしは思わず息をのんだ。
この場にある光源は空に瞬く星々と、強い光で世界を照らす月明りばかり。
ただし、一歩森に足を踏み入れた現在、外縁部にして鬱蒼と生い茂る木の枝葉に天蓋の明かりはさえぎられ、足元を視認するのも困難なはず、なのに。
わたしのポケットの中に、布を透かすほどの強い光があった。
「……紙が、光ってる?」
森の入り口に差し掛かっても手掛かりはなかったらどうしよう――そんな懸念は杞憂に過ぎなかった。
最後にして唯一の頼みの綱。ローブのポケットにしまっておいたそれは、魔女ハンナから手渡された、手のひらの上に収まるほどの紙切れ。
取り出せば、それはまるで月光を取り込んだように、淡く光を帯びていた。
そっと、手の上にのせて持ち上げる。
布越しでこそ強く光り輝いているように見えたそれは、蛍のようなどこか儚げな光をしていた。
ずっと過ごしていたレティスティア領の森にある美しい湖で毎年みられる幻想的な光景を思い出し、郷愁の念に駆られてほんの少しだけ泣きそうになった。
領地では毎年、湖の浅瀬の当たりで蛍が生まれ、夜になると薄闇に無数に散って光輝いた。
その光景はまるで満点の星空のようで、空が雲に覆われた日にはまさに息をのむような美しさをしていた。
それを家族そろって眺める毎年の習慣を最後に一緒にしたのはいつのことだったか。
お兄さまの学園入学前……そう考えるとひどく昔のことに思える。
感傷は、冷たい風が梢を鳴らすどこか不吉な音の前に消えた。
涙はすぐに引っ込み、わたしは好奇心の赴くままに改めて紙面の観察を始める。
手の中に収まっているのは、やや質の悪い、縦三センチ、横七、八センチの紙。
浅黄色なのは漂白をされていない、木の色がついた低品質の紙だから。
ざらついた手触りだけれど、何か紙に細工がしてあるような凹凸は感じられない。
表面には「魔女の円卓」、裏面には「月の満ちた日の夜、精霊無き世界へ」と書かれているだけ。
そのインクには特に特殊性は感じられないと、顔のすぐ前に持ってきて目を皿のように見つめながら考えて。
「……なんか、甘い?」
ふわりと、やや酸味を帯びた甘い匂いがチケットから漂ってきた気がした。
もう一度、こんどはしっかりと鼻に近づいて紙片を嗅いでみれば、確信に変わる。
やっぱり、そのチケットから甘い香りがしていた。
甘味――おそらくは、インクに。
そこまで考えて、ある予感と衝撃が、わたしの体を突き抜けた。
「まさか……甘味をインク代わりにして文字を書いて、遠隔で精霊に魔法を発動してもらっているの?」
まずは、紙に甘味で文字を書く。きっとその時に精霊に頼んで、紙に張り付いていてもらう。
そして、紙が所定の場所に来たら精霊に魔法を発動してもらって、紙面を光らせる。
甘味のインクを代価にして。
可能か不可能かでいえば、おそらくは可能。精霊が紙に引っ付いていてくれるというのがいまいち想像しづらいけれど、現にこうして実現している。
ならば、可能なのだ。
……ああ、いや、可能だ。だって、わたしは似た例を知っている。
町に置かれた「精霊の宿り木」。
精霊が寝床にしているのか、住処にしているのか、とにかく、精霊の存在によって勝手に光り出す特殊な物。あれも似たようなことをしているのかもしれない。
例えば……材料に甘味を入れていて、精霊は宿り木に入ってそれを舐めとりながら魔法を発動する――何か間違っている気がする。
ただまあ、そうした、ただ精霊に頼んで、対価を捧げることで発動する方法とは違った魔法の使い方があるということ。
「こんなこと、考えたこともなかった」
わたしの知らない、魔法発動技術。
けれど、その有用性は計り知れない。
例えば狩りの時、あらかじめ甘味を設置して条件を指定して魔法をお願いする。
そうして魔物を引き寄せて、その条件を達成すれば、わたしが考えることなく勝手に発動された魔法が獲物を襲うことになる。
追われる身としての緊張も、恐怖を抑えながら必死に頭を振り絞る必要もない。
甘味を取り出すのに手間取ることもない。
ただ、目的の位置に相手を引き寄せ、しかも、相手が予期しないところから奇襲のように攻撃できる。
何しろ、相手に背を向けた状態で、逃げながらの攻撃になるのだ。
「……精霊が、この攻撃を受け入れてくれればだけれど」
俄然、魔女の円卓というこの案内に興味がわいてきた。
ハンナの言葉では、魔女とは魔法を戦い以外に使う者たちのこと。
わたしはそれを、ただ「戦わない魔法使い」だと適当な理解をしていた。
それは間違ってはいないのかもしれないけれど、魔女という存在の理解には不十分だったのだろう。
魔女は、魔法を体系的に理解しているのかもしれない。魔法発動に、理論を見出しているのかもしれない。
魔女と呼ぶくらいにはまとまった集団であるということは、連綿と受け継がれてきた情報を持っているのは確実。
そんな魔女たちの知見は、戦いに魔法を使うわたしにとっても役に立つことは明らかだった。
改めて手の中にある紙面へと視線を落とす。
わたしが魔法を使っているわけではない。周囲に魔女が隠れているわけでもない。
遠隔の魔法発動と、維持。
こんなことを考え付く、あるいは知っている魔女たちは、いったいどんな人たちなのか。
そわそわして落ち着かなかった。
そんなわたしの心を静めるように、ただ木々がざわざわと揺れる。
周囲に変化はない。あるのは、紙がひとりでに光るという超常現象だけ。
「……ええと、ここからどうすればいいの?」
紙片はまだ、変わらずに光を帯びている。
ただ、逆に言えば光っているだけ。それも、インクの甘味がなくなれば終わる。
現に、裏面の文字はじりじりと減り、インクが精霊のおなかに収まっているようだった。
紙面についたインクをぺろぺろとなめているのだろうかと思い、そんな精霊の姿を思えば笑みがこみ上げる。
とりあえず、光っている紙片を持ち上げ、左右に動かしてみる。
光の強弱の変化はなかった。てっきり光が強まったり弱まったりすることで道案内してくれるのかと思ったけれど、違うみたいだった。
次はどうすれば――と、そこまで考えて。
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