第36話 空虚な胸中に木霊して
「……奥様?」
気づかわしげな呼び声にはっと我に返る。
熟考から浮上した意識に喧噪が飛び込んできて、少し耳が痛い。
話を聞き流していたからか、隣を歩くフィナンはややジト目をしている気がする。
「何かしら?」
「いえ、少しぼんやりとされていたようでしたから。……お疲れですか?」
疲れてはいないと思う。ただ、少しよそ事を考えていたかもしれない。
別れ際のハンナの一件がまだ心の中で尾を引ていた。
「そうね、フィナンとのデート中に他事なんて考えていてはだめよね」
「で、デート!?」
声をひっくり返して叫ぶフィナンの反応が面白い。
近くを歩いていた通行人がハンナの叫び声にぎょっと目を見開く。そのあとすぐに生温かい視線になったのは、フィナンが揶揄われていると理解したからか。
視線にさらされたフィナンはカッと勢いよく顔を赤くする。
くすくすと笑っていれば、揶揄われたと理解したフィナンが頬を膨らませて不満を訴える。
「こういうところが可愛いのよね」
頬をつつけば、ぷしゅう、と間の抜けた音が響く。
それが恥ずかしかったのか、フィナンはますます顔を赤くして、もはや湯気が立ち昇りそうなほど。
目は潤み、あちこちに揺れ動く。
その姿を、わたしはにやにやと眺める。
こうしてフィナンと話をしていると、現実に帰ってきたとでも言うような、そんな温かな気持ちになる。
現実というよりは、日常だろうか。
魔物との戦いはわたしの気持ち的には日常の一環なのだけれど、やっぱり気を張るもので。
だから、この何でもない掛け合いは、気を抜くことができる落ち着いた、大切な時間だった。
――恥ずかしいから、面と向かってフィナンにそんなことを話すつもりはないけれど。
やがてフィナンは気持ちを落ち着けるべく深呼吸をして、近づいてきた王城へと目を向ける。
わたしたちの生活の場。わたしにとっては、牢獄に等しい場所。
まあ、その牢獄から勝手に抜け出しては出入りを繰り返しているのだから、もはや目の前の王城は鍵無しの鳥籠にしか見えない。
外見はひどく堅牢で、本来は出入りは難しいはずなのだけれど……。
王城に近づくほどに町は装いを変えていく。
一般市民中心だった歩行者の大部分は姿を消し、喧騒は遠くなる。
貴族や豪商のそれと思しき馬車が、どこか余裕をもって行きかう。馬車の往来が絶えない平民区画とは大きな違いだ。
歩行者は少なく、かといってゼロというわけではない。
道を歩いているのは遣いに出された使用人が多く、お仕着せの服を来た彼ら彼女らは、自らの所属を示す家紋を多くは胸のあたりに頂いている。あとは見回りの騎士が少々。
高位貴族の家紋を身に着けている者ほどどこか自信ありげに胸を張って歩道の中央を歩き、低位の貴族の使用人はこそこそと道の端を歩く傾向にあるのが印象的。
まあ、高位とは言っても伯爵家や子爵家の使用人がせいぜい。それ以上高位の貴族家に仕える使用人だと、使用人自体が貴族家の出身であることが多く、どこかへの移動にも馬車を出すことが多い、らしい。
この辺りは妃教育で得た知識なので、実際のところは定かではないのだ。
そんなわけで、貴族の屋敷が並ぶ区画を歩くわたしとフィナンはそれなりに注目を浴びている。まあ、人自体が少ないので、そこまで注目されている、と意識するほどではない。
ローブで貴族の護衛あたりの魔法使いと判断されているからか、あるいはローブがそれなりに高価なものであるからか、フードをかぶって歩いていても騎士に見咎められることは無かった。
……ああ、隣を歩くフィナンが居るおかげかもしれない。
ちらと横を見れば、視線に気づいたフィナンが目を瞬かせつつ聞いてくる。
「今日は満足されましたか?」
「ええ、いい気分転換になったわ。これでしばらくは鳥籠の中の鳥の生活を受け入れられるかな」
「それ、は……」
「少し意地悪だったわね。別に、そこまで言うほど気にしていないから」
暗い表情をするフィナンは、何も言えずに黙り込んでしまった。
でもまあ、王城でのわたしは、まさしく鳥籠の中の鳥だ。
腫れ物。あるいは、見世物。
王子殿下に粗雑に扱われる、形ばかりの妃。
使用人からは見下され、毒を盛られ、王子殿下は近づきもしない――その、はずだった。
スミレの乙女――どこか悲痛な、恋焦がれる声が耳の奥に蘇る。
庭園の一角、魔法で作り出した薔薇棚の奥の空間に身をひそめながら聞いた声は、まだわたしの中から消えてくれない。
彼があんな声で誰かを呼ぶなんて、想像もしたことが無かった。
氷の王子。わたしの中で、その在り方は確固としたものになっていたはずで、事実、彼のわたしへの対応は、その呼び名が的を射ていることを示していた。
アヴァロン王子殿下は、どうでもいい相手にはひどく冷たくて、まさしく氷のようで。
そして、一応は彼の妻であるはずのわたしは、殿下にとってはそんな「どうでもいい」相手の一人で。
氷の王子の心を溶かす、あるいは氷の中に火を灯させる何者かが、この世界にはいるらしい。
わたしの聞き間違い。
そうであってほしい。
だって、そうじゃないと、わたし自身が報われない。
……少し、違うかもしれない。わたしは、殿下がわたしを放っておいていることに怒りを抱いているのではない。殿下に、わたしの知らない彼を見出したことに動揺しているのでもない。
彼が、わたし以外の誰かに夢中になっていることに、困惑しているのでもない。
わたしは、殿下に、ひどい人間でいてほしいと、そう願っていた。
だって、わたし相手には形ばかりの結婚で済ませて、近づきもしなくて。
苦しかったのだ。辛かったのだ。わたしがどれだけ、彼のせいで傷ついたか。
その原因を殿下だと思っていれば、少しは救われた気がした。仕方がないのだと、諦めがついた。
そんな生活の中で、それなりに上手くやっていけるようになって、息抜きの時間を手にして、
それなのに、少しわたしの対応が違っていれば、あるいは、わたしが殿下の心を開かせることができていれば、と。
こんなにも苦しい思いをしなくても済んだかもしれないと、そう突きつけられてしまっては。
――過去のわたしの言動に嘆き、後悔せずにはいられない。
あるいは、殿下の変化が、殿下の心を動かす何者かの存在が、わたしの今の日常を奪ってしまうかもしれないと思ったのだ。
せっかく日常になじんだ、こっそりと抜け出して魔法を使うこの生活が。
魔法を使える幸せすらもが奪われてしまいそうで、恐ろしくなったのだ。
「奥様?」
「……なんでもないわ。やっぱり、少し疲れたわね」
早く休みたい。
けれど、わたしたちが向かうのは、少しも気の休まらない場所。
「それじゃあ、こっそりと忍び込みましょうか。大丈夫。もう慣れているわ」
「…………どれだけ抜け出してきたんですかぁ」
泣き言に、わたしは笑った。
ああ、話し相手がいることが、これほどまでに楽しいだなんて。
だから、いいのだ。フィナンと仲良くなれたのは、殿下がわたしを放っておいたから。殿下がわたしに無関心だったからこそ、殿下に好かれようなんて無駄な努力をしなかったからこそ、今のわたしが居るのだと。
何度も心に言い聞かせながら、こっそりと王城に侵入――帰還した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます