第24話 朝の庭園

 朝露が葉から滴る庭園には人一人いない。

 使用人も下がらせたから、今この場所はわたしが独り占め。


 色とりどりの花々は、露のせいで少し香りが弱まっている。

 むせ返るような甘い匂いも嫌いではないけれど、今日のすさんだ気持ちにはこのほのかな香りが落ち着く。

 穏やかさを取り戻した心は、自然と昨日のことを思い出す。


 昨日はフィナンを引きずるように王城へ舞い戻り、彼女を置いて逃げるように王都から飛び出した。当然、向かったのは精霊に見放された土地。


 森で、無心になろうと魔物狩りにいそしんだ。というのも、動物を狩ることができるほどの精神的な余裕がなかった。

 動物は人の気配を感じると大抵逃げていくけれど、魔物は向こうからやって来る。

 すさんだ心では自然に溶け込むなんてできなくて、動物たちはわたしの存在に気づくとすぐに逃げて行ってしまった。


 お陰で昨日の結果は魔物一匹。しかも巨大な蜻蛉。

 流石に食べる気にもなれなくて、リフレッシュとは程遠い結果に終わった。


 それでもこうしてお城の中で気を抜けるくらいには心は落ち着いていた。

 ――はずあったのだけれど。


 かすかに聞こえて来た足音に背筋が伸びる。

 また、殿下だろうか。

 そう思うと言葉にしがたい感情が胸の内に生まれる。

 それは、感情というよりは衝動という表現が正しいであろう、わたしを突き動かすモノ。


 怒りがあった。わたしをこんな目に合わせている殿下への。

 けれど同時に、不安もあった。今後も殿下の接触が続いては、ひょっとすると森での狩りができなくなってしまうのではないかと。


 そうして、はたと気づく。いや、改めて認識した。

 わたしは、殿下とありふれた夫婦であるよりも、魔法を使って狩りができる方がよほど大事なのだと。

 事実、殿下がわたしに妻相手としてきちんと関わるようになったその時、王城を抜け出して狩りをするのはできなくなると思うと、途端に絶望が形を成す。


 このまま、ずっと変わらずに在れたら。

 それは妃としての職務放棄ではあるけれど、もとより放棄しているのはアヴァロン王子殿下の方なのだから、わたしが責められる謂れはないはず。


 なんて、そんなたらればは、首を振って追い払う。

 そもそも殿下はわたしが妻であることも認識していないようだから、こんなことは考えるだけ無駄だ。


 ――でも、もし今殿下と再会したとしてどんな顔をすればいいのか。


 薔薇棚の向こうから現れた姿を見て、すぐに肩から力が抜けた。


 現れたのは、殿下ではなかった。


「おはようございます。エインワーズ様」

「おはよう。相変わらず言葉が固いね。マリーと同じくらい気やすく話してくれていいんだよ?」


 軽薄な笑みを浮かべる遊び人のごときエインワーズ様は、空席だったわたしの対面に座ってからハッと周囲を見回した。


「もしかして誰かを待っていたかな?」

「いえ、庭園を独り占めして楽しんでいたところです」

「そっか。独占できなくして悪いね」


 頭を下げるエインワーズ様。

 慌ててお顔を上げるように言えば、上を向いた顔にはいたずらめいた笑みが浮かんでいた。


「お揶揄いになりました?」

「ああ。随分と緊張しているようだったからな」


 緊張している?

 言われて、体にひどく力が入っていることに気づいた。

 どうしてかと首をひねりながら周囲を見回す。

 今、この場にはエインワーズ様以外は誰もいない。周囲には朝露に濡れる青々とした枝葉と、花開こうとするつぼみたち。

 であれば、彼に見られているから?


 いいや、彼が来る前からわたしは緊張していた。


 わかってはいる。わかっているけれど、わかりたくない。

 理解したくない。

 自分が王子殿下のことを考えて、これほど心を乱している等、許しがたいことだった。

 どうして自分だけがこんなに苦しまないといけないのか、こんなに悩まないといけないのか。

 どうしてあんな男との再会に身構えないといけないのか。


「オレはてっきり人を待っているものと思ったが」

「……っ、誰を待つのですか?今日は、アマーリエは王城へは来られませんよね?」

「そう聞いている。式の準備で忙しいらしいからな。それはもう真剣な顔で、当日のドレスに修正を入れて、会場の設営に口を出してと精力的に動いているさ。全部、オレとの結婚のためだ」


 エインワーズ様は、それはもう幸せそうな顔で語る。甘すぎる彼の表情に、けれど不思議とわたしの心は揺れ動くことはない。

 ああ、だからアマーリエは、わたしのことを友人としてくれるのかもしれない。大切な婚約者になびかない、エインワーズ様を男として見ないわたしだから。


 友人の婚約者に懸想しない良識ある人間として見られていることに喜べばいいのか、エインワーズ様にときめきの一つも感じない女として残念な自分を嘆けばいいのか。

 まあ、エインワーズ様がタイプじゃないということで。

 少なくとも、婚約者への愛を語るエインワーズ様を見れば、百年の恋も冷めるというものだろう。


「惚気ですか」

「ああ、惚気だ。可愛いだろう?特に、オレとの結婚式のために張り切っていることを減給すると、頬を赤らめて、上目遣いに『ダメ、なのですか?』なんて聞いてくるんだ。心臓が一瞬止まったぞ」


 エインワーズ様を前にしたアマーリエを想像する。


 真っ赤な顔。照れすぎた彼女の目はうるみ、やや充血し、視線は周囲を当てもなくさまよう。

 けれどやっぱりエインワーズ様を見ずにはいられなくて、彼を見るたびに思いは強まり、口端が緩み、そっとエインワーズ様の袖をつかみ、自分も好きだと、小さくアピールする。 


 ああ、それはもう、猫かわいがりたくなるような姿だと思う。

 気の強いように見える彼女は、その実、とても乙女だ。

 凛とした仮面も彼女の一面ではあるけれど、その内側には優しくて可愛らしいアマーリエがいる。


 そんな彼女は今、晴れ舞台のために多忙を極めている。日々努力して自分を磨きつつ、当日のためにドレス選びをはじめ多くの準備に余念がなく、そんな中であっても毒で倒れたわたしを心配してくれる。

 大切な、得難い友人だと思う。


 だから、祝ってあげたい、のだけれど。


「……わたしも、結婚式に行けたらいいのですけれど」


 言って、慌てて口を手でふさいだ。

 眉間にしわを寄せたエインワーズ様の目が見られなくて、自然と顔は下を見る。

 怒っているだろうか。困惑しているだろうか。

 体の前でぎゅっと握った手がやけに白くなっているのが目についた。


 頭上、こぼれるため息に肩が跳ねる。


「何を言ってるんだ?マリーがクローディア嬢を招待しないわけがないだろう?」

「それは、そうですね」


 顔を上げれば、わかりきったことを、とその目が告げている。

 それは、わかっている。

 アマーリエもまたわたしを友人と思ってくれていることくらい理解している。

 毒を盛られたと聞いて淑女らしさをかなぐり捨てて医務室に駆け込んできた彼女の乱れた服装の一つも見れば、「自分を足場にしてなりあがったいけ好かない娘」なんて思っていないことくらいわかる。


 そうじゃなくて、わたしは――わたしは?

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