第4話 動き出す歯車
エインワーズ様はアマーリエをからかうのが好きなようだけれど、引き際は心得ているらしい。
沸騰寸前までアマーリエをからかって満足した彼は、くるりと体をわたしに向ける。
「それで、レティスティア嬢。精霊のいたずらというのはその手かな?」
彼の視線からとっさに右手に左手を重ねて隠してしまう。
しまった、と思ったけれど、顔を上げた先に見える彼の目に嫌悪はなかった。
そのことに安堵し、こういう人だからアマーリエが惚れこんでいるのかな、なんて思って。
――少しだけ、素敵な恋人がいるアマーリエのことをうらやましく感じた。
「あ、はい。そうです。……ご興味がおありなのですか?」
「まあね。身近にいないからわからないのだけれど、精霊のいたずらはやっぱり醜悪な傷なのかな?精霊から嫌われるというのはどれくらいかな?」
なかなかにセンシティブな質問だった。特に、精霊のいたずらを気にしている人であれば脳の血管が切れていたかもしれない。
慌てるアマーリエを視線で止めてから、わたしは改めてエインワーズ様をじっと見つめる。
軽薄そうに見えるけれど、その眼にはどこまでも真剣な輝きがある。少なくとも、ただの知的好奇心というわけではなさそう。
それなら詳しく話してもいいかもしれない。
少しの覚悟を胸に、肺いっぱいに息を吸い込む。
「わたしの精霊のいたずらはあまり傷のような見た目ではありませんよ。何かの模様のような感じ、でしょうか。それから、精霊との仲も良好ですね」
「へぇ、ちなみに、何が理由で精霊にいたずらをされたんだい?」
「それが、わからないんです」
「……わからない?」
そう、わからないのだ。
普通に魔法を使っていた時、わたしは手の甲にいたずらをされた。だから多分甘いものが好きではない精霊に違う対価を差し出したせいだと考えていたけれど、本当のところはわからない。
「はい。森で一人で魔法を発動したときに傷を負ったのですが、果実は捧げました。発動した魔法も、そよ風を吹かせて木の枝の先についた葉を落とすもので、対価が足りないわけでもなさそうでしたし……」
「本当に、言葉通り『いたずら』なのかな?」
「ああ、精霊が気になった相手に行うとされるいたずらですか。迷信ではないのですか?」
精霊信仰が盛んなこの国では、様々な事象の裏に精霊の存在を匂わせることがある。
例えば、春に寒気が吹きすさべば、精霊が前の季節を運んできたと表現する。樹上から降ってきた木の実や何かが頭に当たれば、精霊が気を引こうとしていると言われる。他にも、精霊の行いだと表現されることは多い。
けれどそれらはすべて、ただの言葉遊びのようなものだ。
実際に精霊が関わっているとは思えない。
ただ、この手に突然生まれた「傷」は、言われてみれば文字通りの「いたずら」というのが一番しっくりくる気がする。
精霊のいたずらに似せた傷を負う代わりに精霊が積極的にお願い事を聞いてくれているのだとすれば、わたしの魔法の技量にも説明がつく、かもしれないし。
少しだけ考え込んでいたエインワーズ様がためらいがちに口を開く。
「あまりこんなところで言うことではない気がするけれど、見せてもらえないかな?」
「エインワーズ様!さすがにそれは駄目ですわ。わたくしの親友を見世物にしないでください!」
とっさにわたしの前に立ってかばってくれるアマーリエの姿に目頭が熱くなった。
こんなにわたしのことを大事に思ってくれる友人を持てて、わたしは幸せ者だと思う。
「いいよ、アマーリエ。別に見せたところで減るものでもないし」
「……婚期は減るわよ?」
「う、ま、まあ?すでに婚期なんてあってないようなものだと思うし……」
結婚できないというのは少し寂しい気もするけれど、ここでエインワーズ様の要求を断るのも問題な気がする。
何しろ、すでに周囲から視線が集まってしまっているのだ。精霊のいたずらをその身に持っているうえにナイトライト侯爵令息の要求を拒んだといううわさが重なれば、どうなるか分かったものじゃない。
諦めを吐息に混ぜて吐き出し、わたしは手の甲を隠すために巻いていたハンカチに指をかける。
そういえば、誰かに見せるのは初めてしれない。ショックで気を失いそうだからと、お母さまにも見るのを拒まれたのだ。
ハンカチがするりと手の甲を滑り、その模様があらわになる。
改めて目にしたそれはやっぱり、傷というよりは模様だった。
淡い緑色の、樹木を思わせる不思議な印。
久々にまじまじと精霊のいたずらを見ていると、周囲から次第に音が消えつつあることに気づいた。ひょっとして王子殿下がいらっしゃったのだろうか。
「……嘘」
慌てて顔を上げたわたしの耳に、茫然としたアマーリエの声が届いた。
顔を上げる。
大きく目を見開いているのは、アマーリエだけではなかった。エインワーズ様も、周囲で様子を見ていた令嬢令息も、ただ固唾をのんでわたしの手の甲へと一心不乱に視線を向けていた。
「……何、ですか?」
この傷に何か意味があるのだろうか?
何か悪い前触れを精霊が教えてくれている、とか?
「レティスティア嬢……君は、それを見て何か気づかないのかい?」
「何か、ですか?……ええと、木のような模様に見えなくもないな、と思いますね」
本当に、どうしたというのだろうか。
誰も何も言わない。嘘だろ、とただただ驚愕に満ちた声がどこからともなく聞こえてくる。
そんなにおかしなことだろうか。これを見て、何かに気づく?何かって、何?
「失礼」
「ッ!?」
そっと、慈しむような手つきでエインワーズ様がわたしの手に触れる。撫でるようにわたしの手の甲を細い指が這う。アマーリエも、それを止めない。
絹のように傷一つない指が皮膚の上を這っていく感触が、すごくくすぐったい。逃げたいけれど、がっしりと手をつかまれて逃走は叶いそうになかった。
細められた金色の目は、一切の偽りを許さないとばかりに怜悧な輝きを帯びている。
獲物を見つけた肉食獣みたいに。
「……マリー。レティスティア嬢は本当に何も知らないのかい?」
「クローディアは机に噛り付くよりも野山を駆け回って狩りをするのが趣味な子ですもの。だからこそ気の置けない友人であることができるのですわ」
エインワーズ様にまでわたしの本性を暴露する必要はないんじゃないの、なんてにらめば、わたし以上に険しい視線でにらみ返された。
困惑と、少しの不安を宿したアマーリエの視線を受けて、わたしの胸の中にも不安が広がっていく。
「……ねぇ、クローディア。本当に、気づいていないの?」
「だから、何に?」
ごくりと唾をのみながら、わたしは震える唇を必死に動かす。声が裏返ってしまいそうだった。
いつになく真剣なアマーリエの目から視線が逸らせない。
身じろぎの一つもできず、わたしは息をひそめるようにして言葉の続きを待った。
「……自作自演の可能性はあるかな?」
「ないでしょうね。最低でもわたくしが会った八年前から彼女は精霊のいたずらを……契約の証を隠していましたもの。男っ気の一つもなくてようやく焦り始めているとはいえ、そもそも妃の地位になんて少しも興味のない令嬢ですよ?間違いなく『自由に狩りができないなんて王妃は窮屈だ』なんて言いますわ。彼女、魔法が好きで仕方がない人ですもの」
「……妃?」
何やら話が壮大になりつつある。一体どうして妃なんて単語が出てくるというのか。
この場でただ一人、わたしだけが話についていけていなかった。
優しく響くヴァイオリンの音色が、ひどく不吉なものに聞こえた。まるで怪物がゆっくりと口を開き、わたしを飲み込もうとしているように感じられる。
ぎゅっと、アマーリエがわたしの両手を握る。
その手はかすかに震えていた。
「よく聞いて、クローディア。貴女の手にあるそれは、精霊のいたずらなんかじゃないわ。それはもっと高貴で価値のある代物なの。……それは、古の時代にルクセント王が精霊と交わしたとされる守護の契約の証なのよ。そして、王と結ばれるべき乙女の証でもあるの」
「契約の――」
――証?
聞きたいことが怒涛のようにあふれる。オウム返しのようにアマーリエの言葉を拾ったわたしは、さて何から尋ねようかと口を開いて。
そこでひときわ大きな歓声がお茶会の会場に響いた。
アマーリエもエインワーズ様も、周囲でわたしたちの話を聞いていた令嬢令息も、皆がすぐさま頭を下げる。
わたしもみんなに倣うように慌ててこうべを垂れながら思い出していた。
今日、このレイニー伯爵夫妻が執り行うお茶会には王子殿下がいらっしゃるのだ。
わずかな冷気を感じた気がした。静まり返った会場に、ただ一つの足音が響く。かつかつと一直線に進む足音はこちらに近づいてきている。
なぜか――多分、すぐそばにエインワーズ様がいらっしゃるからだ。
彼が王子殿下と親しいと思い出したことで、胃の中に石でも飲み込んでしまったように体が重く感じられた。
足音が止まる。視界の端に長い脚が映る。黒いズボンはよく見れば魔物の素材を使った皮製品だった。床を踏む靴もどこか物々しい。
まるでこれから戦いに行くような――
冷たい声が響く。その声音には、あらゆる感情が削げ落ちているように聞こえる。
「エイン。大型の魔物の目撃情報が入った。すぐに出る」
「あ、ああ。わかったよ。……でもその前に、耳に入れておきたいことがあるんだけど」
王子様相手に随分気安い口調で話すエインワーズ様がわたしに視線を向けるのを感じた。どんな目で見られているのか気になって、けれどまだ、顔を上げることはできなくて。
小さな話し声が聞こえる。ただ、少し遠くてさすがに何を話しているかはわからない。
でも、話の内容はきっと、わたしに関係すること。
王子様と侯爵令息に内緒話をされる男爵令嬢……意味が分からない。
「そこの者、顔を上げろ」
わたしのこと、だろうか。
言われて、恐る恐る顔を上げる。
そこには、完全武装をした、覇気をまとった男性の姿があった。
長い銀の髪を揺らす、黒いコートに身を包んだ青年。情報が正しければ十七歳のはずだけれど、まったくそうは見えない。それは戦闘経験を積んだ者に特有の威圧感と、相手を射殺すような冷徹な水色の瞳のせい。
そして何より、その全身に満ち満ちる王の貫禄があったからだ。
わたしは、何も言えなかった。以前森の中で偶然目撃したドラゴンのことを思い出した。息が詰まるような死の気配を前に、わたしは瞬きの一つもできなかった。
その時と同じか、それ以上のプレッシャーを感じていた。余計な口をきけば叩き切る――そう、その瞳が語っていた。
ちらと、氷のような目がわたしの右手に向けられる。
この傷が、何か関係あるのだろうか。ある、のだろう。だって、これを見てからエインワーズ様やアマーリエの反応がおかしすぎる。
思わず左手で右手の甲を隠したけれど、殿下はそれ以上わたしに何かを言うことはなかった。
「……そうか。エイン、準備をしておけ。帰ったら式を挙げる」
「は!?あ、いや、わかった。すぐに準備を始めるよ」
アヴァロン王子殿下はエインワーズ様に何かを告げて、そのまま颯爽と歩き去っていた。手を合わせてアマーリエに詫びるエインワーズ様がそのあとに続く。
二人の姿が扉の向こうに消え、ようやく濃密な死の気配が薄れる。
全身からどっと汗が噴き出した。
けれど、大口を開いて待ち受ける受難はまだまだこれからだったということを、わたしは今から突き付けられることになった。
「……ええと、結婚おめでとう?」
「……………………え?」
突然の祝辞に、わたしはアマーリエと顔を合わせる。時間が凍り付いた。
「……結婚?」
あまりに自分の人生からほど遠い言葉は、口にしても非現実さを強めるばかりだった。
再び響き始めた弦楽器の落ち着いた曲が、ただむなしくわたしたちの間を通り過ぎて行った。
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