契約妃は隠れた魔法使い

雨足怜

第1話 実家

 森の中、地面に伏せ、じっと息をひそめて獲物を待つ。揺れる草が頬を撫でてくすぐったい。土のにおいが鼻腔をくすぐる。そよそよと吹き抜ける風によって鳴る葉擦れの音が森に木霊する。

 小さな音がして、わたしは一層集中を増す。近く、足音が聞こえた。多分、ウサギ。

 わずかな獣臭いにおいが香る。近づいてくる気配に、わたしは心の中の高ぶりを必死に抑え込む。

 まだ、まだだ、まだ――今!


「土よ!」


 簡略詠唱――最低限の呪文で精霊と意思を交わすことで魔法を発動する。精霊はわたしのイメージを受け取り、土を動かしてくれる。

 顔を上げたわたしの視線の先には灰色の毛皮に身を包んだ、丸々と太ったウサギの姿があった。びくりと赤い目を見開くウサギはすぐに逃げ出そうとするけれどもう遅い。


 粘土のように動き出した土が、ウサギの足をからめとる。キュ、と高く鳴いたウサギはその場から飛びのくこともできずに捕らわれる。


 両手両足で地面を押して獣のように飛び出したわたしは、土の束縛から逃れられる前にウサギにとびかかる。

 服が土で汚れ、わずかに膝が擦れて痛んだ。


「つっかまえた!」


 柔らかなぬくもりが両手に収まる。わたしの腕の中、逃げ出そうと身をよじるウサギが暴れる。慌てて首を絞める。

 鼻をひくひくとさせていたウサギは瞳孔を見開き、ただじっとわたしのことを見ていた。

 やがてウサギは動かなくなり、わたしはそこでようやく安堵の息を吐いた。


「痛ッ」


 先ほどとびかかった際に擦りむいた膝小僧がひりひりと痛んだ。よく見れば地面に転がっていた木の枝に引っ掛けてしまったのか、服が少し破れていた。お母さまに怒られるかもしれない。

 このウサギのお肉で許してくれないだろうか。


「……はぁ」


 陰鬱なため息が口から洩れる。いやなことを思い出した。そういえば明日はお父さまとお母さまと一緒にお茶会に出席するのだった。


 貴族という地位は人によってはすごくうれしいものなのかもしれないけれど、わたしにとっては窮屈で仕方がない。それでもこうして一人で狩りに出ることを許してくれているのだから嬉しい。お父さまとお母さまはあまり貴族らしくない方だ。だから、わたしもこんな風に育ったのかもしれない。

 お母さまのお小言が、女性らしくないわたしのふるまいに対する不平からくるものであることはわかっている。でも、仕方ない。狩りは好きだし、何よりお肉がおいしい。わたしに狩りをさせたくないのなら、満足にお肉を食べることができるくらいの稼ぎが必要だ。

 まあ、貧乏男爵家にそんなお金はない。だからわたしが自分の手でお肉を手に入れるのはおかしなことじゃない。


 友人はみんな、わたしのことを奇天烈な存在に見るけれど、おかしいのは友人たちの方だ。成長盛りのこの体はお肉を欲しているのだから。わたしに草食動物になれってこと?


 鞄からナイフと一緒に果実を取り出して虚空に捧げる。瞬間、わたしの手の中にはまるで始めから果実などなかったかのように、その存在が消える。

 クスクスと、精霊が笑う声が聞こえた気がした。

 首にナイフを当てて血を抜く。地面に滴る真っ赤なしずくを見つめながら、わたしは明日に迫るお茶会のことを思ってこぶしを握る。

 右手を包む布がくしゃりと音を立てた。





 家に帰ると、お母さまは庭で花の手入れをしていた。鬱蒼と枝を広げる夏薔薇が真っ白なつぼみをたくさんつけていた。赤や黄色、淡いピンク色をしたジニアが花壇の一角で咲き誇っている。その向こうでは鉢植えのハーブがもっさりと茂って存在感を主張していた。

 そんな庭園のなか、長い金髪を揺らしてお母さまが顔を上げる。胸が揺れる。

 足元を見下ろせば、足が見える。わたしの胸は一向に膨らむ気配がなかった。……はあ。

 わたしとお母さまのため息が同時に響く。小さくかぶりを振るお母さまの視線が痛い。


「……ディア、貴女また狩りに行っていたのね?」

「だってお肉が食べたかったのだもの」

「狩りについては半ばあきらめているけれど、怪我をするような方法はやめなさい」


 鋭い赤眼がわたしの膝小僧に突き刺さる。にじむ血も赤。スッと鋭く細められた目が責めるようにわたしを射抜く。

 その手に握られたサルビアの花が小さく揺れた。


「…わかった。明日は裾の長いドレスを着ていくわ」

「あら、お茶会のことは覚えていたのね?長いドレスというのは賛成よ。最近の若い子のドレスは丈が短すぎるのよ。膝が見えそうな長さなんてありえないわ」

「わたしもさすがに膝が丸見えなドレスは嫌だよ」

「そうね。なんといっても明日はレイニー伯爵夫妻のお茶会だもの。いい?私もレイニー伯爵のお茶会でビリーと出会ったの。貴女もあの場でいい人を見つけなさい」


 レイニー伯爵のお茶会に出ることになるとお母さまはいつもお父さまとの出会いの話をする。うっとりと当時に思いをはせるお母さまは乙女の顔をしていた。いつまでもきれいで娘として鼻が高いのだけれど、周りの視線を気にせずにいちゃつくのはどうにかならないのかと思う。正直すごくいたたまれないのだ。

 それを思えば、人前でそのような行為をしないわたしはすごく礼儀正しいと思う。

 まあ、そういう関係にある婚約者だとか恋人がいないだけなのだけれど。


「もう十五歳になるのに貴女は……」


 お母さまの視線がわたしの手に向かう。そこには麻袋。そしてその中に入っているものが何か、もはや言うまでもなかった。この時間にわたしが帰ってきた時点で、すでに狩りの成果が上がったということなのだから。最近はどうにも動物たちの警戒が強くなっている気がして逃げられることも多いけれど、今日の狩りの結果は満足のいくものだった。


「本当に、この子を嫁に迎えてくれるような方がいるのかしら……」


 仕方ない。クローディア・レティスティアという男爵令嬢はそういう娘なのだ。というか、お母さんたちが自由にしてくれたから今のわたしがあるのに、そんな反応はどうかと思う。

 わたしだって少しは気にしているのだ。レティスティア家はお兄さまが継いでくれるから、わたしは家の心配はしなくていい。でも、十五歳になるのに恋人の「こ」の字もありはしないというのは少し問題なのかもしれない。最近、ようやくそう思うようになってきた。

 何せ、友人たちと顔を合わせると決まって婚約者や恋人、あるいは意中の男性の話になるのだから。最近ではとうとう友人たちはわたしにその手の話を振ってくれなくなった。つまり、わたしは男っ気ゼロだとみんなに断定されてしまっているわけだ。

 間違っていないから余計悔しい。


 このままレティスティア家の狩猟番になるというのは駄目だろうか。駄目だろうな。さすがにお母さまが許してくれるとは思わない。わたしに甘いお父さまとお兄さまは許してくれる気がするけれど、わたしも嫌だ。


 はぁ、と諦めのにじむため息を漏らしたお母さまが天を仰ぐ。その先には、強風に吹かれて流れる真っ白な雲があった。

 今日もレティスティア男爵領は平和だった。

 ただ、わたしの人生にはどうにも暗雲が立ち込めているような気がした。

 ちらと右手を見ながら思う。


 ――何しろ、わたしは「傷物令嬢」なのだから。

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