第15話 化粧(一つ目の扉)
女の背を眺めながら、この廊下を歩くなんて、青年にとって新鮮なことだった。
全く振り返りもせずに堂々と胸を張る女に、少しだけ昔を思い出す。
「ここよね」
当たり前のように聞いてくる声に、一瞬戸惑う。そんな自分がこれまた新鮮で、何かが込み上げてくる。
強い衝動に、犯される。
「どうしたの?」
無感情に瞳を覗き込む女に、青年はにやりと笑った。
今さらこの女の前で取り繕う必要はないだろう。
「何でもありません、楽しいだけです」
それは何よりだわ、と微笑んで、女はごてごてと飾られたノブに手を掛ける。
んー? と数秒考え、適当に振り返る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
いつもの通勤の時であるかのような気軽さで、女は重苦しい装飾の扉を開いた。
にこにこと夫婦らしい二人が笑っている。
人生で一番今この時が幸せなのだと、周りに撒き散らすように。
男が綺麗に整えられた指を女の下腹部に触れさせ、ガラスや綿でもあるかのように大事そうに撫でる。
腹だけを見ているときの、女の表情は知ることもなく。視線が交わることはない。
「男が無神経なのではなく、あまりに女が普通とかけ離れていたためよ」
まっすぐ、澄んだ目で、でも自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
自分が手入れした指の思い出を振り返りながら。どうしようもなく幸せで、どうしようもなく苦しかった、あの日々を完全に捨てるため、歩く。
どんどんと、歩みを進めるために時は進む。
スーツ姿の仕事着と産服の二人は切迫した表情をして、女は絶叫している。
柔らかで切実な声が院内に響き、皆がほっと顔を和らげる中、女は一人取り残されたように呆然としていた。
痛みのためそうなったのだろうと疑いもせず皆が女を誉め称え、女は自然な、造り上げてきた笑みを浮かべた。
女の口から一筋の血が流れる。
噛み締められた唇に赤く滲んだ血は、何故か紅のように艶やかだ。
気にせずに、女は進む。
男が皺を刻みたての夫婦らしい二人の前で必死の形相をしている。あげく床に頭を擦り付けるようにして、やっと老いた夫婦の空気が和らぐ。
側で、芝居でも見ているかのような様子で佇む女は、誰にも見つけられることない。バカらしさに笑みを浮かべ、孤独に涙を浮かべると、女の両親は振り返り、嬉しそうな顔をして祝福の言を述べた。
「あら?」
その時、女はそれを初めて見たような気分になった。
二人の表情は、嬉しさだけだと思っていたそれは、寂しさも確かにあったのだった。
「知らなかった……」
完全に場外から、青年と少女に会ったからこそ見えたのかもしれない景色に、機械のような強ばった驚きが女の顔に載った。
心なしか、少しだけ軽くなった足で先へ進む。
小さな小さな手足を一生懸命動かし、女の後ろをついてまわるその子に、洗い物をして手に泡のついた女はちらりと男を見る。
途端に男が立ち上がり、可愛らしいおもちゃのようなピンクの服を着たその子に駆け寄った。
目線を合わせ、何かを言い聞かせるとその子は真剣に聞き入れ、頷く。それでも数秒後には忘れてしまうことを男は知っていて、それも楽しんでいた。
特に女は、自由に、よく分からない動きをするその子にとても惹かれていた。ひょいと抱き上げ、その子をつれて玄関に向かう男に、女は慌てて泡をおとしてそちらへ急ぐ。
そうしたいからしているだけの、幸せな動きだった。
手を振り合って扉が閉まった時、疲れを感じさせる目の隈とは対照的に、瞳は明るく輝いていた。
少女が無言で母親を見つめている。
端正な顔立ちを無表情に歪めたままのその子に、圧を感じるはずの母は、ただ見返していた。
どうしたの? と言わんばかりの純粋に不思議そうな視線に、少女はしっとりと年頃のため息をつく。いや、少しだけ大人びていたかもしれない。
妙に大人びて不気味だと、そう言われた幼少期を思い出しつつ、女は歩く。
じゃらじゃらを飾られた、今となっては見かけない二つ折りのガラパコス携帯が見える。
当時流行っていたのだという曲が流れカラフルに光るそれに、バタバタと少女が走り寄った。
文字が出ている液晶に目一杯の期待を込めた目を向け、すぐに暗くなる。
それを知らずに音だけを聞きつけ、不機嫌そうに目を歪めた男と、ただ不思議そうなおんながキッチンと自室から向かってきた。
大声が聞こえて、またかとため息をつく男と、ただ見つめる女。その無機質な目に、少女は唇を噛み締め、湿った瞳を向ける。
だが何も言葉を交わすことなくソファに座った二人に、安心したように目元を緩め、男は定位置へと戻っていった。
トントン、と規則正しい音を聞きながら、いつも通り唐突に始まった謎に満ちた脈略のない少女の話を黙って聞いていると案外心地よかったらしく、少女の肩が落ちていく。
なんとか均衡を保つ家庭に、女は苦虫を噛んだ顔をしていた。
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