序・黎明の章

第1話、雪降り積もる喫茶店

「おや、雪ですか。営業再開初日だと言うのに幸先が悪い。」


 天暦9119年、年始間もない頃。

 喫茶店トワイムの店内。

 白銀の髪の人物は、カウンターの内側に高い丸椅子を置き、その上に座って、頰杖をついて窓越しに通りを眺めている。

 窓の外には大勢のスーツを着た人々が行き交っている。


 白銀の髪の人物の名は、綾川慧星あやかわけいせい。この喫茶店、トワイムの新たな店主である。

「別に雪は良いんですが、これだと仕事以外で通りすがるお客さんは減ってしまいますねぇ……」

 店を開けてから少し経ちはしたが、時刻はまだ朝八時。

 ずっと営業していた喫茶店ならモーニングでも頼む客がいるだろうが、一年近い休業から明けたばかりのトワイムの店内には、未だ一人の客の姿も見えない。


「昼過ぎには先代がお見えになるとのことでしたし、それまでに一人ぐらいいらっしゃると良いのですが……」

 そのまましばらく時間が過ぎたが、店に入ろうとする者は一人もいない。

 慧星は時々箒をかけに客席や店先へ行ったりしていたが、結局大してやることもないらしく、店内に置いた小さなテレビを、カウンターに顎を乗せて眺めているだけだ。


 このトワイムという喫茶店は、単なる街中の喫茶店に見えて、実は百年を超える歴史のある店である。

 元々初代店主・村上行秋むらかみゆくあきが、長年の海外旅行で入手した珍しいお茶やコーヒーなどを飲んでもらうために始めた店だったが、やがてその料理の腕前や人柄や博識さ、そして彼の「特殊な能力」ゆえに、相談や雑談をする人が集まるようになり、店は長く続くようになった。

 店を継いだ二代目以降もそれは変わることなく、数世代にわたって通っている常連客一家もあったそうだ。

 しかし一年前、三代目店主の村上史秋むらかみふみあきが脳梗塞で倒れ、急遽営業を中止することになった。当時すでに七十九歳だった彼には子供がおらず、後継者となるような人はいなかった。

 それから一年間営業は再開されず、常連客も惜しみつつも、営業再開は諦めつつあった頃、突如この白銀の髪の青年によって店は再び開かれたのだ。


「ひま〜」

 開かれたからと言って事前に告知をしたわけでもなく、お客さんが来るのはかつての常連さんが気づくかどうかと、新たに知って入ってくれる人がいるかによる。

 当人もそれは重々承知で事前告知なしの営業再開に踏み切ったのだが、かれこれ四時間ほど誰も来ないので良い加減暇を持て余しているようだ。

「長い間何もせずいるのは慣れていると思っていましたが、知らず知らず、随分と堪え性がなくなったものですね。たかだか一日の間の話だと言うのに。」


 そろそろ顎が痛くなってきたのか、よっこいせと体を起こす。

 と、同時に、初めてドアにつけられたベルがカランと音を立てた。


「あ、いらっしゃいませ!」

「……おう。」

 入ってきたのは、いかにも散歩中といった様子の、初老の男性だった。セーターにマフラー、ハンチング帽という、絵に描いた人物のような服装をしている。

 そして店に入ってきてから、ずっとジロジロと、無遠慮な視線を慧星に投げかけてきている。

「…………カウンター、座らせてもらうぞ。」

「はい」

 慧星も多少緊張する様子で、笑みは絶やさないものの、その首筋には少しだけ冷や汗が見える。

「オリジナルコーヒー、ホットで一杯。」

「承知いたしました。」


 慧星が注文に従ってコーヒーの用意をしている間も、男性は店内をジロジロと睨むように見ているし、少しの笑顔も見せなかった。

「お待たせいたしました。」

「……」

 男性は一切リアクションを見せず、黙って目の前に置かれたコーヒーカップを手に取った。そして眉一つ動かさずに一口コーヒーを飲んだ。

「……」

 しばらく身じろぎもせずにいたかと思うと。またもう一口コーヒーを口に入れる。

 そして、

「……はっはっは!」

「!?」

 突如大声で笑い始めた。

「はっはっ……いやすまないね」

「……何がでしょうか?」

「君からしたら私は、単なる無礼なジジイにしか見えんだろうな。最初に謝っておこう。無礼な真似をして申し訳ねえ。俺はこの店が二代目の時から通ってるんだ。」


 男性の話を聞くところによると、この男性は篠田公哲しのだこうてつさんと言い、子供の頃からこの喫茶店に通っていたらしい。

 一年前に三代目が倒れてから、毎日のようにこの店の前を散歩で通っていたが、今日突然店が開いていたので入ってみたのだと言う。

 そうしたら見知らぬ変な女がカウンターに立っていたため、居抜きで変な女に店を買われたのではないかと心配になったらしい。


「それで、初代から変わってないと言うこの店のコーヒーを頼んでみたんだ。俺はコーヒーは好きじゃあないんだが、この店のは何度も飲んだことがある。味は昔と全く変わらなかった。いや、そう言っちゃ失礼だな。実にうまいコーヒーだ。コーヒー嫌いの俺でも飲んでも良いと思ったよ。どうやら姉ちゃんがちゃんとした後継者みたいで嬉しいな。」

 笑いながらそう話す。


「そう言っていただければ幸いです。一応半年ほどは修行をつけて頂きました。まだまだ不足だとは思いますが。」

「たった半年かい!?それであれだけ良い味が出せてるんなら大したもんだよ!姉ちゃんなかなか良いセンスしてるじゃないか。」

「お褒めに預かり光栄です。」

 最初の印象より大分豪快な人のようだ。名前を聞かれたので答えたのだが、それ以降もずっと姉ちゃんと呼ばれている。まあ別に構わないが。


 その後も篠田さんは、色々なメニューを注文しては懐かしそうに騒いでいた。口は喧しいが、他に客もいないし、様子を見るにマナーはかなりきちんとした人のようだ。話を聞いていても面白く、なかなか良い人という印象を受ける。

(成程、この店くらいになると、常連になるのはこう言う質の良い人間だけになるのかも知れませんね。)

 そんなことを思いながら、しばらく篠田さんと話して過ごした。まだ二代目が店をやっていた時の話から、若い時の先代の話など、知らない話もたくさん聞いた。


 そうして時間が過ぎた頃、またドアベルが鳴った。


「いらっしゃ……」

「なんだ、喧しいと思えば公哲さん、私より早いご来店じゃないか。まさか、折角の新しい店主をいじめてるんじゃないだろうね?」


 その言葉と共に、その人物は杖をついて店に入ってくる。

「なんだ史秋ちゃんか。店は引き継いだんじゃなかったのかい。」

「継いでもらいましたよ。自分の店だった場所に客としてくるのも悪くはないかと思ってね。」


 入ってきたのは村上史秋。一年前までこの店の店主だった人物である。外套にハットと言う、いかにも西洋風な紳士と言った風体をしている。

 背筋も曲がっておらず元気そうには見えるが、しかし体重はかなり杖に預けているのが見て取れる。

 一年前の脳梗塞は主に足に影響を残したらしく、加えて老化による筋力低下もあって、杖なしでは歩けなくなってしまったらしい。


 店主の姿を見て、篠田さんがわざとらしく慌てた素振りを見せる。

「こりゃ良くない。俺は退散しようかな。」

「なんです、一年ぶりに会ったというのに逃げるような真似して。」

「いやいや、今まで姉ちゃんに散々講釈垂れてたんだ。何か告げ口されたら気まずくってしょうがないからな。」

「それは、綾川さんにお話を聞くのが楽しみですね。」

「よしてくれよ。勘定はここに置いておくよ。釣りはいらないからな。あんだけうまいもの食わせてくれた礼だ。じゃあな。」

「ありがとうございました」

 篠田さんは、本当に逃げるようにして去ってしまった。



 彼を見送ってから史秋は慧星に向き直ると、ハットを取り、最敬礼の姿勢をとって話しかける。

「彼は何か無礼などを申し上げませんでしたか?綾川様に向かって“姉ちゃん”などと呼びかけていたようにお見受けしましたが。」

 慧星は軽く手を振って応じる。

「いえ、気にして頂かずとも大丈夫ですよ。姉ちゃんでも兄ちゃんでも、何と呼ばれようと大した問題ではありません。話していて実に愉快な御仁です。」

「彼は本当に古くからの常連でございまして。きっと“綾川様”の店となってからも通い詰めるだろうとは思っていましたが。営業再開を見つけるのがこうも早いとは。」

 史秋は半ば呆れるような、或いは感心するような複雑な表情を浮かべている。


「ひとまず、その姿勢では身体に堪えるでしょう、いいから腰掛けてください。」

「では失礼を致します。」

 史秋は姿勢を直すとゆっくりとカウンター席に座った。


「まず史秋さん、“様”付けは止めましょう。今のオレは、四代目店主の綾川慧星。あなたは先代店主の村上史秋。それ以上でもそれ以下でもありません。」

「それは承知しておりますが……何度思い返してみても、まさか貴方様のようなお方にこの店が渡る日が来るとは、全く思いもよらないことでございました。」

「あなたから頼んだことでしょう?それにオレも結構楽しそうだと思ってるんですよ、こう言う仕事は。なにしろ人間と交流することは好きですから。それに……」

「それに?」

「……」

 慧星は声は発しないが、表情が心做しか嬉しそうに見える。


「綾川さ……さん?」

「ああいえ、なんでもありません。とにかく、ここはとても楽しそうな店です。今後も、限界が来るまでは営業を続けるとお約束しましょう。」

「そう言っていただければ有り難い限りです。では一旦このことは忘れます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。綾川さん」

「はい。先代。」

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