六日目 -1

 思えばその日は、朝からやけに不穏な出来事が相次いだ。


 まだ日も昇らぬ早朝、僕はガラスの割れる音で叩き起こされた。粗忽な従業員が、廊下の壁掛け鏡を落として割ってしまったのだった。

 近所のコンビニまで朝飯を買いに行こうとした矢先に、宿備え付けの下駄の鼻緒が切れた。そしてトドメとばかりに、自転車の修理が済んでいざ出発という段になって、黒い猫が悠々と目の前を横切っていった。


「四時四四分現象ね、それ」その晩、旭川までの大移動を果たしたメリーさんは、僕のぼやきに対してそんなことを言った。


「なんだい、それ」


「私が勝手に造った言葉なんだけどね。要するにたまたま目についた取るに足らない事象に不吉な意味を勝手に見出して、自分を取り巻く世の中が悪い方へ、悪い方へと向かっているように思い込むこと。ほら、壁のシミが顔に見えるのと同じようなものよ。つまりは怯えた心がもたらす錯覚ね。安心なさい。鼻緒の切れた下駄はただの粗悪品にすぎないし、黒猫には黒猫以上の意味はないから」


「怯えてなんかいないけどさ」憮然として、僕は言い返した。「ずいぶんリアリストじみた、夢もロマンもないことを言うじゃないか」


「当たり前でしょ。私は合理主義を重んずる現代人なの。オカルトな戯言なんて願い下げ。……何? 何を笑ってるのよ」


「いーや、別に」


 怨霊のくせに、合理主義だって。

 そんなツッコミは、例によって心の中に留めておく。


 留萌と稚内のちょうど中間に位置する、海辺の小さな町。それが僕の六日目の宿泊地だった。その町に至るまでの道中、僕はずっと霧に悩まされ続けた。日本海側特有の、深い深い霧である。夜になって、霧はその濃さをいっそう増していた。


 なおも彼女とよもやま話に花を咲かせていた時。不意にノックの音がした。


「ちょっと待ってて、誰か来たみたいだ……はい、どちら様ですか?」


 正体不明の訪問者のために、不用意に解錠するべからず。ドアを開ける前に、必ず誰何すること──ひとり暮らしで培われたこの教訓に、その晩ほど救われたことはない。


 ドアの前に立った何者かは、こう言ったのだ。たった今電話で話していた女の子と、寸分たがわぬ声で。




「私メリーさん。今あなたの部屋の前にいるの」

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