義士嫌ひ

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      感心させたい書き振り


 義士傳はあとから〱 と出て參りますので、何ほどの數がありませうか、ちよつと

は數へやうもないほど澤山にあります。最初に鳩巢の書きましたものは、心あつて感

心させるやうに書いたのでありますが、それから以後のは、感心しては書き、感心し

ては書きするやうなことになり、讀む方も又感心する爲に讀むやうになつて參りまし

て、その數が殖えて參ります毎に、褒める言葉もだん〱 多くなつて參ります。固よ

り感心してもいゝことに違󠄂ひはないのでありますが、その上にも感心させようと思

つて書き、かねて思つたよりも、もつと感心しようと思つて讀む、といふやうになり

ましては、もうその事柄の本當の姿を書き傳へるといふ心持からは、大分󠄁離れたもの



になつて參ります。已にその事柄を以て敎にしようとか、御手本にしようとかいふ心

持で書くことが、その事柄とは大變な隔りのあることで、さういふ心持を持たずに、

たゞ有體に書いても、日御小感動さすべきものであるならば、十分󠄁に人の腹にこたへる

やうになる筈であります。どういふ註文󠄁にしても、註文󠄁をつけて拵へ出すといふこと

は、よいことではない。その註文󠄁の按排式が思ひ合される話があります。


      お誂への春日局の像


 湯島の麟祥院に置いてあります春日局の木像、これは私も見たことがありますが、

坐像で二尺ばかりの丈で、十德を著た五十恰好の姿であります。この像が出來ます時

に、春日は病氣をして居つて、さうして自分󠄁の姿を拵へてこの寺へ納󠄁める。佛師が春日

の寢て居りますところへ參つて、その容貌をすつかり寫して拵へて、それを持つて行つ

て見せた。ところが最初は、佛師が本當に行けるまゝの春日の姿を拵へるつもりだつ

た。一體春日局は美しい女ではないので、容貌は惡い方であつたといふことであります

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が、この出來上つた木像が春日の氣に入らない。それから大凡の恰好どりだけして、大

分󠄁いゝ女に仕立てゝ持つて行つて見せたが、まだ氣に入らない。尤もそれではまるで似

て居りません。三度目には顏は美しく、眼だけは銳く拵へて、持つて行つて見せた。

さうすると春日は鏡を出して來て、顏と木像とを見くらべて居りましたが、これでよ

ろしい、これを形見に殘さう、ときめたので、現在これが麟祥院に殘つてゐるのであ

ります。さうして見ますと、春日の註文󠄁といふものは、眼だけを似せて、あとは似せ

て貰ひたくなかつたと見える。畫にかいた春日の像も一二ありますけれども、これは

皆いゝ女に出來て居ります。

 さういつたやうなもので、本人が註文󠄁をつければ勿論でありますが、側のものが自

分󠄁でかうもあらう、あゝもあらうといふところから、勝󠄁手に恰好をつけて、その上に

まだ註文󠄁までつけることになりますと、眼だけでも似てゐるといはれる春日の木像が

まだましな位になる。さうしてこれが譃でない、本ものである、といつて人々に見せ

る。それは決していゝことでない。畢竟人を騙󠄀すことになりますから、人を騙󠄀すとこ



ろの分󠄁量が少々でもあつては、本當の人間の心から湧いた義理立を見せる役には立つ

まいと思ふ。それ故に一番最初に出來た鳩巢の「義人錄」のみならず、學者ほど議論の

多い四十六人の事柄、それについていろ〱 な論辨もありますが、いづれとも取捨を

しないで濟むものはないだらうと思はれます。


      楠石論と金鍮論


 そこで大我和尚が書きました「楠石論」といふ本があります。これは楠木正成と大石

內藏助とを論じたもので、大我和尚はこの本の出來ます前󠄁に「金鍮論」といふものを書

いてゐる。金は黄金、鍮は眞鍮で、似て非なるものといふことで、この中には支那の

方では、堯舜からはじまつて、孔子、顏子、老莊は勿論のこと、韓退󠄁之から歐陽修、

周茂叔から朱晦菴に至るまでの評󠄁論をしてゐる。下巻の方になると、聖德太子からは

じめて、蘇我氏、守屋、天神樣もあれば、佐藤繼信もある。楠木正成もあり、太閤樣

もあり、荻生徂徠もある、といふ風に竝べ立てゝゐる。勿論この根柢は金鍮論に在つ

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て、已に「金鍮論」の中でも楠木を非難してゐる。「楠石論」の方でも、無論楠木と竝べ

て、大きい忠義と小さい忠義といふことについての非難をしてゐる。さうしてどちら

も忠義ではない、とまで云つてゐる。さうでありますから、山本北山が「義士雪寃」とい

ふものを書いて、大我和尚は太宰春臺の後繼ぎであつて、まことに怪しからんことを

いふ人である、といつて長々と駁論を書いて居ります。大我和尚が何故に楠公や大石

といふものを非難したか。これは太宰春臺などが大石等の行動について批判󠄁を加えた

のとは大分󠄁心持が違󠄂つて居ります。

 世間には義士癖と稱して、だん〱 四十六人の人の行跡を喜ぶものが多く、明治の

末の頃まで信夫恕軒翁󠄂がありました。その後にも西村越渓、陸軍敎授をしてゐました

が、この人も大分󠄁義士が好きで著書もありました。楠公などに至つては、もう議論も

絕えたやうで、日本第一の忠臣とされて居る。義士といへば直に赤穗浪士といふこと

がわかる。忠臣も義士も楠公と四十六人とに限つたことではないけれども、御祖師樣

は日蓮、大師樣は弘法であるのと同じやうに、人が呑み込󠄁んでゐる。そこに對して大



我和尚は、楠公嫌󠄁ひ、義士嫌󠄁ひをやる。これは一體どんなわけか。


      薩摩の蕃藷嫌󠄁ひ


 そこでをかしく思ふのは、薩摩の人でありまして、長く海軍省の水路部長をつとめ

て居つた、海軍中將の肝付兼󠄁行といふ人がありました。艦に乘らない海軍の軍人とし

て名高かつた人であります。この人の親父に肝付海門といふ人がある。この人が薩摩

名物の南洲が大嫌󠄁ひで、西鄕が生きて居るうちには、國にも歸らなかつたが、東京に

も入らなかつた。明治十年に城山のことがあつて後、はじめて東京に入つて來た、と

いふほど嫌󠄁ひな人だつた。今日でも西鄕嫌󠄁ひな人がありますが、それは十年のことに

ついて考へるところがあつて、西鄕を嫌󠄁ふのである。肝付海門のはそれより前󠄁に西鄕

嫌󠄁ひなので、然も同國人であつて、これほど嫌󠄁ふといふことは、よほど考へて見なけ

ればならぬところであります。

 他藩の人でありましても、土佐の樋口眞吉、この人は御贈位がありまして、正四位

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になつた人でありますが、二條城で後藤象二郎等が慶喜將軍に對して、大政奉還󠄁の勸

告をしました後に、この人が京都で西鄕に面會しました。さうして歸つて來ていふに

は、今日は西鄕さんに逢つて來た、實に滿足だ、これでもう死んでもいゝ、といつて

大喜びをした。それから國へ歸つても、今度西鄕さんに逢つて滿足した、もう死んで

もいゝ、といつて話したといふほど喜んだ。平󠄁生に親しみのない鄕國を同じくしない

樋口がたゞ一度遭つたゞけで、かくまで喜ぶ。一體西鄕南洲といふ人は、維新後は勿

論でありますけれども、その前󠄁からひどく人に喜ばれた人で、一遍しか逢はない樋口

が斯の如く喜ぶ、といふやうな人でありました。それだのに同國に生れて、知らない

仲でない肝付海門は、何でそんなに嫌󠄁つたか。これは何とも本人が說明してゐないん

だから、想察することは出來ません。併しこの肝付海門といふ人は、維新よりも前󠄁に

東北の諸藩をめぐつて步いて、各地の人心を考へて、「東北風談」といふものを書いて

居ります。人間を見ることの眼玉は、相當に持つてゐた人のやうに見える。この人は

師範學校の校長さん位で世を了りまして、伜ほどにも世の中に用ゐられなかつた人で



ありますが、何か思ふところがあつて、別に喧嘩をしたんでもないが、西鄕南洲を嫌󠄁

つた。死ぬまで西鄕の話をしなかつたともいひます。これは何の爲にさうであつたか

此の邊から考へて眞の南洲が知れるのだらうと思ふ、肝付海門の心事は別にして、世

間に醉はないやうに用心することを、海門先生が我等に敎へて居るやうな氣がする、

只だ評󠄁判󠄁に附和雷同するだけで世道󠄁人心が維持される筈はない。


      贔屓が引倒す吉田松陰


 又先年は吉田寅次郎を神樣にして、松陰神社を拵へました。今日でも二十一回猛士

の好な人は大分󠄁ある。先師島田南村先生が在世の時分󠄁、承りましたお話に、自分󠄁は

吉田の兄の民治といふ人とは懇意だったけれども、弟の松陰には遂󠄂に一遍も逢はなん

だ。が、今思へば逢つて置く方がよかつたと思ふ。考へて見れば、松陰は三十で死ん

だので、例の有名な松下村塾は、安政三年の九月に開いたのであつて、翌󠄁々年の十二

月には、もう二度目の下獄をやつてゐる。丸く二年ほどしか若いものを丹精したので

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はない。けれどもその短い間に、年の若い松陰が、明治の世界に大臣となり大將とな

つて、世間の用をつとめるものを、十幾人も拵へ出して居るといふことは、あの人の

えらいところである。誰が何といつても、あの年で、あれだけの短い間に、あれだけ

の人材を拵へ出すといふことは、比類の無いことゝ思ふ、といふことを云はれた。そ

れから先生は、松陰が野村靖に與へた手紙の一節をおぼえてゐるといつて、暗記して

居られるのを、口づから授けられたことがある。

  我李卓吾ノ孝孺論ヲ見テ甚感アリ、建文󠄁ハ我淺野内匠同科ノ人物、孝孺モ似タヤ

  ウナモノ、大石ハアレデモ少シスグレテヲロウカ、我功業ハ右四人等ニモ及ブマイ

  ガ忠義奮激ノ士ヲ拵ヘルコトハ多クマケハシマイ、シカシ學問ハコヽデハナイ、

と書いてゐるよ――かういふことを云はれた。先生はこの野村に與へた手紙を以て、

松陰の批評󠄁に代へられたやうに思ひました。松陰が書いたものゝ中には、人は死んで

も死なゝいものだ。そのなすところによつて、その名は千載に殘る。死も猶生けるが

如しではない、死なないのである。かういふことを書いてゐる。精神家だといはれる



松陰のことでありますから、慥にさう思つて居られたのでせう。だがこの野村に與へ

た手紙に當てゝ見ると、忠義奮激の士を拵へることは大石にも譲らぬ、といふことを

云ひながら、「しかし學問はこゝではない」とある。忠義奮激の士を拵へる目標は何であ

るか。功名を立てゝ長くその名を歴史にとゞめる、といつて忠義奮激の心を鼓舞する

のである。併し學問といふものはそこでないことは知つて居られた。そこのところに

ちよつと息閊へたところが見える。松陰が刑死する前󠄁には、誠といふことの工夫が出

來た。平󠄁生學問の功が現れた、といふことも云つてをられる。さうすると前󠄁に學問は

こゝではないといはれたが、今死際になつて成就したその工夫、それが學問なのであ

るか。さうであるならば、前󠄁に忠義奮激の士を拵へられたことが、學問の外であり、

松陰の眞の面目でないことになりやしないか。もつと手短に云へば、煽動するのが本

當の人間のすべきことであるのか、ないのか。坊主󠄁の方では貪慾が惡だけではない、

一人も多く濟度がしたいといふ法欲があつても惡いといふ。松陰が煽動して人を拵へ

たのも、坊主󠄁にすれば法欲といふやうなものであるだらう。併しそれは坊主󠄁の方でも

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本當の坊主󠄁は嫌󠄁つてゐる。吉田松陰といふ人に對して、感服しないことは外にも無い

ではないが、先づ眞正面にいふべきことは、「學問はこゝではない」といつた一句にあ

らうと思ふ。さうして最後に成就した誠といふことの工夫は、どんなものであつたか。

越後で名高い河井繼之助は、人間といふものは、棺桶の中に入れられて、上から蓋を

され、釘を打たれ、土の中に埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ、

といつてゐる。この河井の云はれた言葉は何を云つてゐるのか。

 西鄕にしても、松陰にしても同じことでありますが、雷同といふか、附和といふか、

贔屓の引倒しといふやつで、うつちやつて置けば、松陰先生で濟んでゐる。賊名も朝󠄁󠄁󠄁

廷󠄁から御取除け下された後は、西鄕も南洲翁󠄂で濟むであらうが、松陰神社となり、南

洲神社となりますと、二人ともに生れもつかぬ神樣になつて、さてその後がどうなる

か。西鄕の方などは、大きな騷動を見せつけて居る。松陰の方は、その業績の悉くが

まだ世間に知られてゐないこともあり、發表するのに少し困難なこともありますが、

それは取置いて、野村に與へた手紙の一句二句によつて、それがどんな人であり、ど



んな心持であるといふことは、眼のあるものには見へないことはない。よく眼を光ら

して、これらのことを見たら、この二人の人を神樣にするのはどんなものか、といふ

こともよくわかる。あの廣瀬中佐の銅像を御覧なさい。旅順閉塞の壯擧、千萬年の後

に傳へても何の申分󠄁もない立派󠄂な武人の心魂を発露して居る、その背景は日本海の大

戰、忘れられやうのない渠の銅像である。極度に尊󠄁敬すべき精神を寫したもの、それ

でも街地整理の邪魔になると云つては持扱ふ。持扱ふとすれば、……大我和尚が殊に

大石について非難を加へたことは、贔屓の引倒しにならないやうに、といふことであ

る。讀んで字の如くに見てはいけないのであらうと思はれる。


      傑出した大我和尚


 大我和尚は字を孤立と申しました。淨土宗の御定りの社號、譽號もあつて、白蓮社

天譽といふ。この人は大石嫌󠄁ひを振廻󠄀した爲に、吉良の子供だといはれ、小林平󠄁八の

子供だともいはれるやうになりましたが、寶永六年に江戶に生れたことはわかつてゐ

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ますけれども、何者の子だといふことはわかつてゐない。それで湯島の靈雲寺の慧光

といふ人のところで剃髪した。湯島の靈雲寺は古義の眞言であります。それから出ま

して、數年の間、あちこちと行脚をしてゐまして、吉野へ入り込󠄁みました。彼處の西

行庵に暫く居られましたが、この間に專修念佛につとめられ、大に證得するところが

ありました。享保十六年に、そこを出て念佛をすゝめて方々步いた。眞言の坊主󠄁が念

佛をすゝめたといふことは、或は變に思ふ人もあるかも知れませんが、これは根來の

覺鑁の先蹤を辿られたわけで、覺鑁は申すまでもなく、新義眞言の祖でありますけれ

ども、この人が淨土宗の祖師である法然より五十年前󠄁に、お母さんの爲に、「孝養󠄁集」

といふものを拵へて、念佛の行をすゝめて居ります。「深ク圓智ヲ修メ即身成佛ヲ期ス、

但ダ信行成ラハ順次ノ往󠄁生ヲ期セヨ」といつてゐる。かういふ先轍がありますから、眞

言の坊さんが念佛をすゝめたといつても、さのみ驚くべきことでもない。併し大我の

は、眞言坊主󠄁そのまゝに居つて念佛をすゝめたのではありませんで、鎌倉光明寺の稱

譽眞察のところへ行つて、十數年修行して、淨土宗の坊主󠄁になつてしまつた。さうし



て延享二年に八幡の正法寺の住職になりました。が、どうも住職をしてゐることが厭

はしいので、寶曆の初に氣違󠄂の眞似をして寺を退󠄁いて、ほど近󠄁いあたりに夢菴といふ

ものを拵へまして、寺住ひではなく、唯一人庵に住つて居られました。そのうちに江

戶では日蓮宗の火の手が益々上つて來ました。これは江戶の町々に住つて居ります者

共、だん〱 下層のものまでが、暮し向が裕かになつて參りました爲に、自然と信仰

方面にも手が伸びて來て、町の佛敎といひますと、先づ念佛宗か、日蓮宗である。江

戶では何といひましても、江戶時代の町寺は、淨土宗か、日蓮宗かといふ有樣だつた

のですが、明和の頃から日蓮宗の方が大分󠄁頭を持上げた。これは上方からだん〱 柳

營へ下つて來ます女中達󠄁、いづれも公家の娘でありますが、日蓮宗はそれと知つて手

を廻󠄀して、これを皆日蓮宗にしてしまつて、それから江戶へ下す。この手段方法の如

きも、なか〱 面白いことがありますけれども、こゝには略しまして、さうやつて柳

營の奧向に日蓮宗を植ゑ込󠄁む。從つて民間の信仰も高まつて、日蓮宗の景氣がよくな

つて來ましたので、自然と日蓮宗と淨土宗とが爭ふ。江戶の町寺といふものは、兩宗

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が主󠄁でありますから、末寺末派󠄂が盛󠄁に爭ふので、增上寺でも黙つて見てゐるわけに行

かない。それに對抗することを考へるやうになる。大我和尚は當代の傑物でもありま

したし、關西ではなか〱 名高くもなつて居つた。そこで明和四年の春になりまして、

增上寺の四十六世に當る定月和尚、この人が大我を江戶に呼び下しまして、山內の

寳松院といふところに置いて、より〱 布敎して貰ふやうな心持で居りました。とこ

ろがなか〱 一風も二風も變つた大我のことでもありますし、魚族に結緣したいから、

己が死んだら綾瀬川に水葬してくれ、といふ遺言をしたとも傳へられて居ります。さ

ういふ風な一種變つた男で、どこで死んだかわからない。死場さへ見えないやうにし

てしまつた、といふ人でもある。たゞこの人が增上寺へ來た爲に、從來の淨土宗の趣

を變へたことは、念佛は往󠄁生の行で、極樂へ行く來世の爲にするやうに思はれてゐた

のを、現世の利益の爲に念佛は唱ふべきものだ。といふことにした。その爲に專修念

佛祈禱論、辟魔決等の著作をして居りますが、それを愈々眞向に振かざして、淨土宗

を現世の利益のものにしようとした。これがその後の淨土宗に、新しい形式を與へた



とでも申しますか。と申すのも畢竟は御祈禱流儀で、日蓮宗は御祈禱で民間に力があ

る。それに對抗する爲に、大我の議論の仕方といふものが、淨土宗に採用されたわけ

で、まだそれのみならず、この人には「新撰念佛和讃」、「唯稱問津訣」などといふやう

な本がいくつもありますが、高聲念佛といつて、大聲でどなる念佛を主󠄁張した。これ

を要するに大我の念佛といふものは、臨死念佛といふので、今死ぬ、それ死ぬ、たゞ

この一聲が境である、といふ行き方である。この臨死念佛といふことも、なか〱 面

倒なことであるさうで、念佛にもいろ〱 ありまして、御禮の念佛もあれば、救を求

める意味のもある。臨死念佛は、今唱へるその一聲によつて、直に成佛を決定しよう

といふので、一聲念佛とでもいつたらいゝか。そんな心持のものである。これは增上

寺の立前󠄁であります鎮󠄁西派󠄂の許しがたいことで、容れられないのであります。けれど

もそんなことは、大我はなか〱 構ひつけない。同じことでありますが、文󠄁化の十二

年に德本行者を、增上寺の五十六世典海大和尚、この人が呼寄せて、皆に御十念を授

けた、大變にこれは繁昌しまして、小石川に一行院といふ御寺を殘すことにもなりま

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した。この德本行者の方は、慥に日蓮宗と對抗する上に效能がありました。この人は

一文󠄁不通󠄁の人でありましたから、大變に都合がいゝ。大我のやうなあばれものぢやな

いから、その說きますところのことも、亦一種の妙味のある說き方でありました。他

の宗旨などからは、經歴も無い、學問も無い人でありましたから、往󠄁々にして輕侮さ

れることがありましたけれども、その宗門の信仰を固めて行くことは、大さう工合よ

く行つた。それとは違󠄂つて、大我の方は學問もありますし、才辯でもありましたし、

文󠄁章も作れば、狂歌まで作るといふやうな人であつて。實に坊主󠄁としては多藝な方で

何でも出來る。從つて宗內でも誰も馬鹿にするやうなものは一人も無い。他宗から侮

られるやうなことも決してない。自分󠄁の方から押かけて議論などをして、やり込󠄁めた

やうなこともある。けれども德本行者のやうな、すべつこい、丸い人ぢやない。とげ

〱 だらけの人だから、どうしても持餘してしまふ。宗內では持餘すし、民間の信仰

に大きな〱 力を與へるといふことも出來ない。そこで工合が惡いので、淺草寺の內

の法善院といふのが世話をして、境內の姥ヶ池の側に、別に庵室を作つてそこに移ら



れました。

 ものが出來て、人間も傑出して居つて、然も猶信仰を植ゑうける、信仰をつないで

行くことになると、無學な、不辯舌な德本行者に及ばないといふことも、まことに面

白いことのやうに思はれる。宗門以外のことなどは、德本は一口も云つてゐない。又

云ふ人でもない。ところが大我の方になると、狂歌の集や狂詩の集まで出すといふや

うな風で、著述も五十種に近󠄁いほどありませう。世上のことにも直に議論を試みる。

かういふ人でありましたから、遂󠄂に大石の批判󠄁をも試みるやうになつた。目のあり

心のある人は、無論德本行者の行き方を難有いとも思ひ、結構だとも思ひますが、そ

れと共に大我のやり方が、どういふ心持で、坊主󠄁の身でありながら、世上のことにま

で及んで、殊に楠公や大石まで非難するやうなことをしたか。脇から見れば直に見え

ることで贔屓の引倒しになるのを見かねたから、どうしてもつゝかひ棒をかはずに

はゐられなかつた。そこではじめてわかることは、坊主󠄁は欲があつてはいけない。法

の欲、法欲さへも欲といふ字がつくからいけない、といふことをかねて聞いてゐる。

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大我和尚は慈悲が過󠄁ぎた。あまり法欲が多過󠄁ぎた爲に、働きが横へそれる。それが爲

に淨土宗を引立てゝ、日蓮宗に對抗するといふやうなことは、いゝ成績が擧らなかつ

た。それは坊主󠄁としてのことですが、さういふことも殘らずおつゝけてしまつて、大

我和尚は餘計なことをしたのかどうか。かう一つ考へて見ると、實はそれが餘計なこ

とでも何でもない。贔屓の引倒しになつて、危いと思つたから、つゝかひ棒をかふと

いふが如きは、まことに結構なことで、いゝことではあるけれども、それをいゝ按排

に世間の人が、つゝかひ棒をかつてくれたんだとは思はなかつた。爰のところになつ

て來ると、大我和尚のしたことが、いゝのか惡いのかといふことにもなる。私どもは

大我和尚の云はれたこと、働かれたことを、單に淨土宗に限つて見たくなく、世間も

亦淨土宗の中なのであるから、やはりつゝかひ棒などをかつて貰ふ方が、大丈夫でい

ゝと思ふ。今日から後も、義士嫌󠄁ひが澤山出來たならば、はじめて武士の義理立がど

んなものであるか、忠孝といふものがどんなものであるか、といふことが、世人によ

くわかるやうになるのではないかと思ふ。それ故に大我和尚の義士嫌󠄁ひを一の問題と



して、どつさりある義士傳を嬉しがつて讀んでゐる人達󠄁に差上げたい。何故義士嫌󠄁ひ

が大切なのか、入用なのかといふことから、詮議して行つたならば、どんな返󠄁答がそ

こへ湧いて出るか知れないが、それを修練することが、はじめて五倫をすべて義理と

見て行く、その根本にぶつかることが出來るやうにも考へられる。

 あまり理窟ばかりになつたやうですが、大我和尚の狂詩には、なか〱 面白いのが

ある。それよりも耳よりな狂歌などには、誰にもわかり易く、興味のあるのが多い。

美濃の半󠄁月だともいひ、三河の磯丸のだともいつてゐる、あの

  お富士さん霞の衣脫がさんせ雪の膚が見たうござんす

といふ歌がある。これが大我和尚が作つたので、それを奪られて居ります。半󠄁月も磯

丸も、大我よりは時代が後ですから、奪られたといふことがよくわかります。然るに

大我が在世の間に、團十郎が大我和尚の歌を取つた。海老藏――團十郎――が伊勢で

  明星の茶屋の出女よいもあり又ゑりもとにあかつきもあり

といふ歌を書いてやつた。この歌は大我和尚の歌であります。そこで後に海老藏が、

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六十の御祝をするから、祝の歌を頂戴したい、といつて大我和尚にもとめた。さうし

たら和尚は、あれは先年己の歌を盗んだやつだ、泥坊するやうなやつに、祝の歌なん

ぞやれるものか、と云つた。海老藏がいふのには、それはどうも相濟まんことでござ

いますが、私めは時々大たう宮樣にもなりますものでございます、といふことだつた

ので、成程󠄁さうだ、お前󠄁は何にでもなるからさうであらう、といつて歌を與へたなど

といふことが、歌集の中にも書いてあります。大我和尚の狂歌といふものは、この時

代には隨分󠄁世間に傳はりもすれば、他人が自作だといつて奪つた、といふこともあつ

たらしいやうです。大我和尚の心持を傳へたものとしては、

  夢の世に夢のいほりを結ぶ夢さめなば夢と見しも又夢

これらが和尚の面目を示したものゝやうに思はれます。



横から 赤 穂 義 士 終

見 た



鎮󠄁:ヒ→上 正しいのは恐らくヒの方であろうと思われる。

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懐古探訪録 Efi @Efi

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