後室瑤泉院
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怪しい追󠄁善の一首
義士の家族のこと、殊に女の子供の行方は、知らない方が却つて多い位であります
が、實は内匠頭長矩の夫人のことさへも知れない。その年齡さへわからない位であり
ますから、その家來の子供や娘の行方が知れないのも、當り前󠄁と申すのもをかしなも
のですが、仕方の無い成行であるかも知れません。
長矩の夫人は、瑤泉院と申されまして、大變な美人であつたといふことゝ、賢夫人で
あつたといふことゝが傳へられて居ります以外には、殆ど何も傳はつて居りません。
元祿十六年の二月十日切腹した四十六人の初七日に、泉岳寺で千部の法事がありま
した。その時に、
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おくれじと思ふ浮世にながらへてなき數々に言の葉もなし
といふ歌を詠んだ、といふ傳へがあります。法事をされたといふことは事實でありま
すけれども、この歌は瑤泉院の作つた歌ではなく、何者が作つたかわからない歌なの
であります。何か殘つたものはないかと思つて色々搜して見ましたが、この歌さへも
贋者でありました。又その年の彼岸に、淺草の千束、つい近󠄁頃まで田圃と申して居り
ました。彼處の慶印寺といふ寺で、彼岸中囘向をされまして、ご自身でも題目を十萬
遍唱へられた。これも泉岳寺の法要同樣、譃でない話のやうでありますけれども、何
も寺に殘つたものはございません。何故法華の寺で法事をなされたかといひますと、
赤穗家は禪宗で、瑤泉院夫人の御里の三次家は日蓮宗でありますから、御自分󠄁の歸依
してゐる日蓮宗で法事をおさせになつたものと見えます。
芝居でする顏世御前󠄁、本當の名は阿久里と申されました。この人の御里は、備後國
御調󠄁郡三次五萬石、本家の淺野彈正大弼長政の孫の長晟󠄁といふ人に、男の子供が二人
ありました、本腹の弟の光晟󠄁といふのが家督を相續しまして、脇腹の先へ生れた長治
といふ人が三次へ分󠄁家をしました。この人は因幡守といひましたが、子供がありませ
んで光晟󠄁の二男を相續人にしました。これが和泉守長尚で、この人が早世しましたの
で、和泉守の弟を又養󠄁子に致しました。それが式部少輔長照といひまして、瑤泉院夫
人の養󠄁父になつた人であります。夫人の同胞は、萬吉といふのがありましたけれども、
早く亡くなり、妹は川鰭少將實義のところへ緣づかれました。長照にまた相續人があり
ませんので、本家の綱晟󠄁の二男、土佐守長澄といふ人が三次の方を相續しました。こ
の人も早く亡くなりましたが、それでも幸に嫡子がありました。これが又六郎長經で
この人が相續致しましたが、享保四年四月二十三日に十三で亡くなりましたので、相
續者が無い時にはその家は潰れる、といふのが幕府のきまりでありましたから、その
年の五月十一日に三次家は潰れてしまひました。瑤泉院夫人は式部少輔長照の女とい
ふことになつて居りますが、實は長治の二女で、養󠄁父長照とは從兄弟同士になるので
す。長治の夫人といふものは、赤穗家の初代、采女正長重の女でありました。その長
重の曾孫に當る長矩のところへ嫁に行つたわけですから、三次と赤穗とは、元來が一
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門である上に、重緣を結んだわけであります。
懺を爲す勇士常心記
元祿十四年の三月、長矩に不慮のことがありました時に、鐵炮洲の赤穗の藩邸を出
て、さうして赤坂の生家に立戻られました時は、養󠄁父の長照はもう隱居して居りまし
て、當主󠄁は土佐守長澄でありました。そこへ引取られて行つて落飾されまして、そこ
に閑栖して居られたことが十五年、正德四年六月四日に亡くなりました。その遺骸を
泉岳寺の長矩の墓側に埋めて、瑤泉院殿良榮正澄大姊と諡した。かういふわけであり
ますから、瑤泉院夫人は十五年前󠄁に夫の家が亡び、自分󠄁が亡くなつてから六年目に、
三次の生れた家も斷絕したわけでございます。
そこで一つ面白いことは、「三嗜集」といふ古寫本を見たことがあります。この本は三
部の書物を一緖にしたもので、一番最初にありますのが「武意小錄」、これは三次藩の軍
學指南でありました山鹿流の軍學者岩室傳藏といふ人の著作であります。それから「勇
士常心記」これは瑤泉院夫人の實父である長治の書かれたもの、もう一つ「見學集」と
いふものは、養󠄁父に當る式部少輔長照の書かれたものであります。「勇士常心記」の方
は、武士たるものゝ平󠄁生心がけて置くべきことが書いてある。「見學集」の方は、外出供
先の用心を書いたもので、殿樣でかういふものを書かれるところを見ますと、長治も
長照も共に心がけのある御方で、ぼんくらな殿樣でなかつたことも察せられます。「勇
士常心記」といふものは、何時作られたものでありますか、その時日は知れませんが、
長治は延寶三年正月十九日に六十二歲で亡くなつて居りますから、元祿十四年三月の
殿中の刄傷よりは二十七年前󠄁になります。この二十七年前󠄁に長治の遺した言葉が、恰
も長矩の身の上にすつかり嵌つて居ることは、まことに不思議なやうであります。
一於₂殿中₁諍論之事
殿中にて口論有ㇾ之、相手如何樣之狼藉有ㇾ之といふ共、令₂堪忍󠄁₁以後其意趣を急󠄁度
申斷、尋󠄁常に可₂討果₁。是武士之道󠄁なり。
一於₂殿中₁喧嘩等有ㇾ之節者、その所󠄁、勤番之輩、早速可₂取鎭₁ 若相手を切殺す
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時者、其者を不ㇾ逃󠄂、取押可ㇾ置、體により切殺事も可ㇾ有ㇾ之、他番よりは可ㇾ有₂
遠慮₁也。但樣子によるべし。
一主󠄁君へ對し慮外有ㇾ之而御意あらば、縱兄弟親與いふとも無₂差別₁、其座を不ㇾ嫌󠄁
可ㇾ討也。
一敵を討差別之事
父兄祖父伯父叔父御族の敵を討也。武士たるもの此敵を不ㇾ討ば同じ天をいたゞ
くべからず。取分󠄁母方の伯父は孝第一なれば强く念かくべし。母、男なれば討共
女性なれば其子、母に替りて討なり。
一主󠄁人朋友の敵は其義の淺深に可ㇾ依也。
一我子並弟の敵者不ㇾ討也。
此敵討、武士道󠄁吟味、信玄公之被₂定置₁所󠄁也。
一敵を衎者は晝夜共に無₂油斷₁、心懸、時節場所󠄁の無ㇾ構、相逢を最期と不ㇾ恐可ㇾ討
也
これをよく長矩がおぼえて居られましたならば、あゝいふ不慮のことは一切無く、
赤穗の家も無事であつたのでせうが、惜しいことに舅の書いて置いたものを讀んで居
られなかつた。讀んでゐたかも知れないが、それを役に立てなかつたのであります。
今井の下屋敷
さて瑤泉院夫人は三次の屋敷に引取られたのでありますが、それはどこだといふと、
淺野又六郎長經の上屋敷は赤坂の末とあります。これが江戶城の大手から二十九町あ
る。下屋敷は赤坂今井とあります。この上屋敷の位置は電車通󠄁りで、第一師團司令部
の向側で、新坂町のところになります。下屋敷の方は氷川の明神下で、氷川町、今井
町を前󠄁にしたところになる。この下屋敷の方に瑤泉院夫人は十四五年住つて居られた
のであります。元祿十四年の三月十五日、內匠頭が切腹いたしました晩に、直に夫人
は髪を摘んで壽昌院と申されましたが、本家からの指圖で、綱吉公の生母の桂昌院殿
に對して、昌の字は御遠慮しなければならないといふので、三十五日の濟むのを待つ
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て、瑤泉院と改められた。斯うですから最初は壽昌院といつて話して行かなければな
らないのですが、あとで改められた瑤泉院で通󠄁して行くことにします。
十四日の晩赤坂へ、鐵炮洲の屋敷から出て引取られて行く。御手道󠄁具その他のもの
は、深川の町人の屋敷を借りて。そこへ置かれた。當日晝の間は、御目付進藤平󠄁八郎
天野傳四郎といふ兩人が、築地の赤穗の屋敷へ來る。これは築地の新榮町で、堺橋の
角のところになる、これが赤穗の本邸である。そこへ來て、刄傷の次第、御處分󠄁にな
つた趣を家中に申渡した。未の後刻といひますから、午後の二時過󠄁、その次第を本國へ
早使󠄁を出す。早水藤左衞門、萱野三平󠄁の兩人が、早で本國へ行つた。この時の邸內の
混雜は一方ならぬ騷ぎで、原惣右衞門の働きで、速かに邸內のお荷物その他の整理が
出來た、といふのもこの時のことであります。早の立つ時分󠄁に長照からの迎󠄁がありま
したので、瑤泉院夫人は早速三次家の方へ出て行かれる。丁度その時は、芝の愛宕下
の田村右京太夫の屋敷で、內匠頭が切腹の座に就かうとしてゐる時で、自分󠄁は生家の
方へ引取られて行く。自分󠄁の足が人足づつだん〲 築地の屋敷から離れる。それが又
夫の最期の時間にだん〲 近󠄁寄つて行くことになつてゐる。もうこれで明日、明後日
といへば、家來どもも悉く退󠄁轉をしてしまつて、跡形もなくなつてしまふのでありま
すから、何ほど悲しかつたらうか、思ひやるも御氣の毒な次第であります。
又一つの傳へによりますと、今井の屋敷へ著かれたのは、夜の七ッ過󠄁であつたとい
ひます。七ッといふと四時頃で、迎󠄁に來たものは、大橋忠兵衞、木村吉左衞門、神谷
助右衞門、松井宗吟、その外に侍二人、步行目付二人、平󠄁步行二人、足輕五人、それ
だけの同勢で今井の屋敷へ歸つた。鐵炮洲の方からは、中澤彌一兵衞といふ步行頭が
お供して行つた。これも奧樣のお供のしをさめといふので、泣く〱 お供をして行つ
たといひますが、大きにさうでありましたらう。向うにお著きになつても、中澤は直
に御暇するでもなく、夜が明けてから築地の屋敷へ戻つたといふことであります。こ
れは定めて長矩の切腹の濟んだ便りもお聞きになり旁々で、お慰め申して居つたり、
多年主󠄁從の情󠄁誼でありますから、急󠄁にお別れもしかねて、おつき申して居つたのでせ
う。かうして中澤が悲しいお別れを致して後は、暫くの間は誰も御機嫌󠄁伺ひに出るも
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のも無い。さびしく暮しておいでになつたのであります。
尤も翌󠄁年の夏を過󠄁ぎましてからは、だん〲 に江戶に居ります舊臣どもが、御機嫌󠄁
伺ひに出る。內藏助がはじめて參上しましたのは、翌󠄁年の十二月十日であつたさうで
す。さういふ按排で、翌󠄁年になりましては、稀々ながら舊臣や何かゞお訪ね申すのが、
おさびしさを幾分󠄁かお慰め申すといふ有樣であつた。それから後は敵討がありまして
それから又四十六人の切腹といふやうな、嬉しいやうな、悲しみのあることばかりで
過󠄁されましたから、先君といひ、舊臣といひ、それらのものゝ法事法要にお暮しにな
つたといつてもいゝやうなものでございます。
常光寺の三方
併し十五年近󠄁くもありますので、法事法要はなされるにしても、この夫人の仕置か
れたことが、何かちつとは殘つて居りはせぬか、それによつてその爲人も察せられる
やうなことが、何かありはしないだらうか、と思つて搜して見ましたが、どうも何も
無い。蜀山人の書きました「向岡閑話」に、
馬引澤大敎寺日蓮淺野內匠頭殿奧方の寺也、此寺に奧方の調󠄁度みなおさめありし
宗
を、近󠄁頃所󠄁々にわかちしといふ、宇奈根村常光寺になる黑漆の三方も此寺より分󠄁
ちし也、常光寺は大敎寺の組合なり。
といふことがあつて、その三方といふものは、內匠頭の奧方が持つて居られたもので
黑塗に松と鶴と葵の御紋がついてゐて、至つて古く見える、と書いてある。かういふ
聞書を、蜀山人は文󠄁化󠄁五年にして居ります。この記事を見まして、せめてもこの寺に
行つたら、何かありはしないか、といふので先年大敎寺といふ寺を搜して見ました。
然るにこの寺は、もう三十年も前󠄁に上目黑の俗に大坂上といふところへ引越してゐる、
漸くそこを搜して行つて見ると、實に荒れた、ひどいもので、漸く寺の恰好が殘つて
ゐる位のものである。折角參つたものですから、住職に會つて尋󠄁ねて見ますと、こゝ
へ引越して來る時に、淺野家と手が切れてしまひましたから、今ではお墓もありませ
ん。何も殘つて居るものはありませんが、こゝの幾代目かに當る日住といふ住職の代
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に、淺野家の女子が一人剃髪された。その人のお墓がここにありました。といつて、
過󠄁去帳の壞れた殘りを見せる。それには「妙國院眞月淸圓大姉」享保十九巳年二月十五
日、安藝殿墓」とある。古い御位牌が一つ、それには「眞月淸圓日法大姉」とある。誰の
ことかわからない。無論長矩夫人の法名ではない。猶何かないかといつて住職に聞き
ます中に、この荒寺の假小屋みたいなお寺には、不似合な鐘樓があつて、釣鐘がかゝ
つてゐる。あれはといつて、それを見ますと、銘文󠄁が彫つてございます。この彫つて
あります銘文󠄁は、普通󠄁の囘向の文󠄁言でありますが、
武州荏原郡馬引澤村
祈禱
淡劦阿劦兩國之太守武運󠄁長久
淺野氏御女中息災延命
× × × × × ×
× × × × × ×
それからずつと人々の名前󠄁が彫つてある。「成程󠄁淺野氏御女中」といふ言葉があるか
ら、この寺にゆかりのあるもの、といふだけはたしかめた。それから又脇の方へ廻󠄀つ
て、銘文󠄁の末を見ると、
享保三戊戌八月四日淺野土佐守殿
天柱院殿前󠄁土州刺史靈應熊山大居士
南無妙法蓮華經 中興日住
享保壬寅壬歲十一月吉祥日九世日順
(寅) (補助)
といふ文󠄁字が書いてありますから、「淺野氏御女中」は三次の淺野土佐守長澄の家のこ
とである。だが鐘を拵へました壬寅は享保七年で、もう三次家が絕えてから四年目に
なつて居ります。「安藝殿墓」とありますのは、三次家が潰れて、その領土は幕府から本
家の方へ返󠄁したのですから、後室などは本家へ引取つたのでせう。そこで藝州といふ
ことを書いたものかと思はれる。そんならこれは三次家のかゝり合のお寺で、赤穗家
のかゝり合のお寺ではない。瑤泉院のものなどは、何もこゝには無い。妙圓院殿とい
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ふのは、長澄の夫人ではないかしらと思つたけれども、速斷は出來ませんから、本家
の淺野侯爵󠄂家の方で聞いて見ますと、大敎寺から靑山墓地へ移した、といふ返󠄁事があり
ました。早速靑山へ行つて古い御墓を見ますと、妙圓院殿は三次の方の長照の夫人で
尾張大納󠄁言光友の養󠄁女になつて居りますが、實は廣幡大納󠄁言忠幸の女であります。こ
の人は瑤泉院には養󠄁母に當る人で、こゝで剃髪されたのもこの人であり、常光寺に殘
つてゐたといふ三方も、長照夫人の遺物なのであります。百年も前󠄁に蜀山人は、長照
夫人と瑤泉院夫人とを――實は親子の關係に在る人なんだけれども、それがわからな
くなつてゐたほど、もうわからなくなつてゐた。だから瑤泉院夫人のことは、とても
何もわからないものと思つてあきらめて居りましたら、たゞ一つ見つかりました。
それは先年和歌山の岩谷民造󠄁といふ人から、瑤泉院が泉岳寺へ寄附した額面の寫眞
を贈られたので、どうしてさういふものが和歌山にあるか、その傳來もよくわかつて
ゐない。何でも濱口吉右衞門さんの本家に濱口梧陵といふ人があつて、その人から讓
り受けたものだ、といふことだけは知れてゐる。表の方には金が入つてゐて、金文󠄁字
になつておりまして、觀音の御詠歌が彫つてある。
なべて世を惠むひかりや照らすらん泉が岳の月のさやけさ
緣に「萬松山泉岳禪寺、元祿十八年癸未三月吉旦」と書いてある。元祿十八年といひ
ますと、寶永二年なのですが、元祿十八年は四十六人の三囘忌になるわけですが、元
祿十七年の三月に寶永と改元されて居りますから、此の額面は元祿十七年の一月か二
月、改元よりも前󠄁に来年三囘忌を見込󠄁んで拵へたものでせう、實物がかうならをかし
く思はれる。裏には囘向文󠄁が七行、
願以此功德、普及於一切、上報四恩、下資三有、六親九族、存者福壽增長、亡者
離苦安樂、如意吉祥、我等與衆生、皆共成佛道󠄁、
施 主󠄁
瑤 泉 院 尼
と彫つてある。たゞこれだけ殘つてゐるに過󠄁ぎないので、これ以外には何もこの御方
のものはありません。
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月光院の故主󠄁
瑤泉院樣の御話はたゞこれだけのものでありますが、家綱將軍の生母、後に月光院
といつた人がありまして、この人の挿話の中にちよつと出て來ます。月光院は江島事
件で知られてゐる、あの役者買をやつて大騷動を拵へた江島は、月光院の御年寄をつ
とめておりました。瑤泉院の話は、そこまでは行かない。月光院は正德二年十月十四
日に、家宣將軍が亡くなられてから、櫻田の御用屋敷に移られて、法名になつておら
れたのでありますが、この人の出所󠄁は甚だむづかしいことになつてゐまして、眞相は
甚だ究めがたい。加州浪人佐藤治部左衞門といふ人の娘だともいひ、或は又京の五條
佐屋町に、醫者をしながら手習󠄁師匠をしてゐた松井文󠄁治といふものゝ娘だともいひま
す。この松井文󠄁治もどこの浪人か知れませんが、とにかく浪人で、御所󠄁方の女を妻に
迎󠄁へて、その間に月光院が生れたのだ、といはれてゐる。月光院は貞享二年の生れで
ありまして、親父が貧乏醫者だつたのですから、その頃はやる京の躍子になつておつ
た。十三といふ元祿十年に江戶へ出て來まして、それから六箇年といふものは、そ
ここゝと小大名の奧向に入つてつとめて居つた。その頃は大名の奧向に躍子を置いて
お賑かしをするといふことが、大分󠄁はやりものになつておりまして、殊に嫁入などを
される場合には、必ず躍子を大勢連れて行く癖にもなつておつた。江戶へ來ました當
時、月光院は小つまといふ名でありました。京都の躍子には、その時分󠄁「小」の字をつ
けるものが多く、どれもこれも「小」の字をつけてゐた。月光院は彼方此方と步いたの
で、どこ〱 の奧向といふことは全部わかりませんが、その中で、但馬豐岡一萬石、
京極甲斐守、出羽新庄六萬石、戶澤上總介、それと赤穗家、これだけがわかつており
ます。赤穗家には中でも長くおつたものと見えて、この人は後々まで瑤泉院夫人のと
ころへ、盆暮は勿論、いつの節句にも人を以て御挨拶申して居つた、といひます。故主󠄁
へ御挨拶などが出來るやうになりましたのは、親が淺草の唯念寺といふ本願寺派󠄂の寺
がある、その塔中に林昌軒といふ庵みたいなものがあります。娘は大名の奧向へ奉公
さして置いて、自分󠄁は門徒寺へ入り込󠄁んでゐたうちに、林昌軒に後家さんがあつたの
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を幸ひに、そこへころがり込󠄁んで居りました。さうしてゐるうちに、四代將軍の乳母
でありました矢嶋、この矢嶋の子供に大御番をつとめる矢嶋治太夫といふ人がある。
この矢嶋治太夫は子供がなかつた爲に養󠄁子をしましたが、養󠄁子をしたら實子が出來た
そこで實子に家督をさせるやうにしましたから、養󠄁子は離緣することになつた。この
離緣されたのは太郎兵衞といふものでありまして、小普請󠄁手代などをつとめておつた
これも京都者で、月光院の親とは知合だつたので――自分󠄁は已に林昌軒に入り込󠄁んで
ゐたものですから、太郎兵衞を預つて、養󠄁家との間にかれこれと調󠄁停しました。一遍
養󠄁子にして置いたのを追󠄁出すのですから、かなり面倒なこおであるのを、いろ〱 取
りうくろつて置いた。そこで矢嶋治太夫と月光院の親父とが心易くなつて、矢嶋の娘
分󠄁にして、躍子の小つまを――家宣がまだ甲府殿といつておつた櫻田の屋敷へ、喜世
といふ名で奉公させた。何しろ躍子で仕立てたものではあり、容色も從つてよかつた
ものですから、女は大好だつた家宣がいつか手をつけて、寶永六年には家繼が生れる
やうになりました。さうしてこの人が將軍の御腹樣といふことになつた。さういふ身
柄になつても、猶忘れずに瑤泉院夫人のところへ、時よりのおとづれをして居つた。
瑤泉院夫人の話としては、別に何のこともない。月光院の親は、後には勝󠄁田玄哲とい
ひました。太郎兵衞も月光院の出世するにつれて、玄哲の子といふことで、これが又
三千石の旗本衆になれた。かういふ月光院の立身話の中に、ちよつと挿まつた爲に、
瑤泉院夫人の話が出る。まあ〱 そんなところで、まことにこの人に就ては何も傳は
つておりません。長矩夫人の話さへこの位でありますから、その家來の娘や女房のこ
とがわからないのも、無理ならぬことであらうと思ひます。
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