女の子の行衞

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      娘の方が數が多い


 義士の遺族のことは大槪知れないやうでありますが、その中で男の子供が十九人あ

りました。十五歲以上のものは、親の咎によつて處分󠄁されるわけで、悉く屆出をさせ

ましたので、その數がわかつて居ります。そのうちで十五歲以上のものが四人、伊豆

の大島へ流されました。その外のものは皆十五歲になるまで親類預といふことになり

ました。そのうちに寶永の大赦がありましたので、島流しになつたものも赦免いなり

當時幼年であるが爲に親類預になつて居つたものも、一同に許されてしまひました。

この十九人の行先々はどうなつたかといふことも、知れて居りますのおりは、知れて

居りません方が多い。殊に女の子供の如きは、男の子よりも知れて居りません。これ



は親類書にたゞ書添へてありますだけで、男の子は刑罰を受けることがあつたから、

特に屆出もさせてあるのですが、女の子の方は、無論何の咎めも受けるのでありませ

んから、別段な屆出もしてありません。女の子供の總數は二十一人、それに矢頭右衞

門七の妹が三人、これは成年のもありますし、幼年のもありまして、共に二十四人で

あります。これらの行方については、殆どまあ知れてゐない。誰も調󠄁べもしない、と

いふやうな有樣になつて居ります。親に離れ夫に別れて、その行先は最も氣の毒なこ

とになり易い人達󠄁でありますのに、これが一向わかつてゐない。武士の義理立の爲に

親共は命を捨てたのでありますが、口へこそ出さね、我子のことであります。殊に當

時の世界は、女の立ち行きにくい時勢でもありましたから、定めて親としては悲しか

つたころであらうと思ふのに、義士傳の硏究者が義士の娘達󠄁の身の上について、全く

知らん顏をしてゐたといふことは、をかしなことだと思ひます。しばらく書付の上で

眺めて見ますと、この二十四人の女のうちで、六人は旣婚者であります。併し旣婚者

と申しましても、堀部安兵衞の妻、これは二十七歲でありました。奧田貞右衞門の妻

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は十九歲でありました。かういふ人は旣婚者ではあつても、親に離れ夫に別れて、若

い身を行末長く世間の浪に漂はせなければならない。況してそれよりも若い未婚の人

達󠄁が、何ほど世路に迷󠄁つたものであるか、今日から考へましても、その親達󠄁の立派󠄂な

心がけから考へても、まことにいたはしく思はれるのであります。


      大石の家族


 その中では何と申しても、大石內藏助の家族は、一番注意されても居りまして、一

番よくわかつてゐるやうでありますが、それでも女の子の方は知られて居りません。

男の子の方で見ますと、長男の主󠄁稅は申すまでもない。二男の吉千代、これは元祿十五

年の十月のはじめつかた、大石が二度目に江戶へ下りましたのが十月の七日でありま

して一度は豐岡の大石の妻女の里、京極甲斐守の家來、石束源五兵衞の方へやつて置い

たものを、山科へ又呼び戻しましたが、二度目に江戶へ下ります前󠄁に、離別といふこと

になりまして、大石の妻女は豐岡へ戻された。その時には、三男の大三郎はまだ生れ



ませんで、豐岡へ歸つてから生れたのです。二男の吉千代の方は十二歲でありました

元祿十五年の六月に、南禪寺に居られました大休和尚の御弟子にすることになりまし

て、そこに行つて居りましたが、十月には剃髪を致しまして、祖練といふ名をつけた

その後但馬の美倉郡須吉村の國通󠄁寺のうちに、大休和尚の隱居所󠄁が出來まして、それ

へ伴󠄁はれて參りました。この人は出家して居りましたから、大赦以前󠄁に十五歲になつ

て居りますけれども、別に流刑の御沙汰も無く、坊主󠄁の修行をして居つたのでありま

す。が、氣の毒なことに、寶永六年三月、十九歲で亡くなりました。さうでありまし

たから、大石の妻女が山科から離別されて、里へ戻ります時には、芝居でするやうに

二人の男の子を連れ、然も內藏助の母親を伴󠄁つて、四人で歸つたやうなことは無い。

もう二男は坊主󠄁になつて家に居りませんし、三男はまだ生れないで腹の中にゐる。內

藏助の母は十二年前󠄁に歿して居りますから、居りやうがありません。大石の妻女はお

空󠄁といふ娘だけ連れて里へ歸つた。さうしてこの大三郎を生み落しまして、翌󠄁年の正

月、まだ二歲でありました大三郎を、どういふゆかりがありましたか知りませんが、

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丹後宮津須田村の浪人眼醫者、林文󠄁左衞門といふものに、養󠄁子にくれてしまつた。そ

れも金子を十兩つけてやつた、といふことであります。それから大赦も行はれました

し、內匠頭の弟の淺野大學も寄合に召出されましたので、大三郎は藝州の淺野の本家

の方へ、正德三年三月二十五日に、親の祿高千五百石で、番頭格で召出されました。

ところがこの人はつとめ嫌󠄁ひで、なまける方の男であつたし、その上に隨分󠄁放蕩でも

あつた按配で、藝州へ參りましてからは、名も宿衞と改めて居つた。この人は放蕩が

ひどかつたものか、晩年には鼻が落ちてしまつた。そこで落首があります。

  大石が召出されしも內藏のかけ鼻の落ちたもまたくらのかげ

といつた按配でありましたから、祿高もだん〲 にへりまして、後には五百石ほどに

なつてしまつたさうです。この家は今でも藝州に殘つて居りまして、たしか八代目位

になつて居りませう。

 ともかくこの位のことは、大石の子供だけにゆくたてがわかつて居りますが、女の

子供の方の二人、これは親類書によりますと、元祿十六年に十四歲でありまして、名



はお空󠄁といつた娘、是は攝津尼ヶ崎の靑山大膳亮の家來靑山藏人の妻になりました。

それからもう一人五歲になる娘、これは山科に居ります進藤源四郎の養󠄁女になつてゐ

る。この進藤といふ人は、例の脫盟者として、仲間外れになつてしまつた人です。脫

盟者にはなつてしまつたけれども、大石は養󠄁女にやつた子供を取返󠄁しもせずに死んで

しまつた。この源四郎の行衞が知れて居りません。從つてこの娘につきましては、傳

說もあるわけであります。


      淸圓尼は季女か


 曲亭馬琴が「玄同放言」の中に、手形を押したのに書添へて、「こんひら月參大石良雄

娘百十四才淸圓」と書いてあるのがあつた、といふことを書込󠄁んで居ります。これは

いつが百十四歲なのであるか、それがわからない。山科の進藤へくれた娘と致します

と、寶曆十年が百十四歲になります。たゞこれだけのものが殘つてゐるのであります

から、何處で何時金毘羅の月參をしたか、それはわかりません。一體金毘羅樣の月參

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などゝいつてはやりましたのは、文󠄁化󠄁度のことでありますが、さうすると百六十餘歲

になりますから、文󠄁化󠄁まで生きて居つたとは思はれない。馬琴も大凡に推測を致しま

して、文󠄁化󠄁三年に百十四歲だつたんであらうといつて居りますが、馬琴の鑑定は年齡

を算へないのですからお話になりません。そんな鑑定ではとても濟まされないわけに

なります。それにこの手形といふものは胡亂なもので、何とも決著の致しやうが無い

ものであります。


      祗園可音󠄁物語


 それよりも更にもの〱 しいのは、寶永六年四月の聞書、「祗園可音󠄁物語」といふも

のが殘つて居ります。これは大石の下僕の半󠄁右衞門といふものが京都に居りました、

この半󠄁右衞門が五六年來、あの有名な茶やつぢを染めます呉服所󠄁、茶屋宗古と懇意に

なりました。今日の小川町通󠄁り出水上ル町、宗古と申すのは代々名で、これも代々名

でありますが、茶屋四郎次郎といつてゐる、その方がわかりがいゝかも知れない。こ



の四郎次郎と懇意になつて、日頃行來致して居ります。ところが當代の四郎次郎が嫁

取前󠄁の息子を持つて居りますので、半󠄁右衞門は暇さうな仁でもあり、風雅なところも

あり、手堅い人でもあり、ぶら〱 遊󠄁んでゐるやうだから、どうか懇意先に相當な人

があつたら、世話をして貰ひたい。あなたは世間の廣さうな方だからよろしく賴む、

といつた。茶屋は家柄から申しますと、幕府の御用達󠄁でもあり、金持でもあり、舊家

でもありますから、歷々の衆から娘を貰ふことも、別にむづかしいのではありません

が、どうぞ人柄のいゝ、筋目のいゝものを欲しいといふことを申すと、さてなか〱 

無いもので、方々に賴んで置かなければならないから、半󠄁右衞門にも賴んだのでせう

さうすると半󠄁右衞門は、よろしうございます、懇意先でいゝのを見たてゝ上げませう

と委細承知して歸りましたが、それからぴたりと茶屋のうちへ來なくなつた。來ない

も來ない、五六十日も參りませんので、半󠄁右衞門のうちへ店の者を見にやると、そこ

は引越してもうゐない。はてどうも不思議な話だ、どこかへ行つてしまふやうな話も

聞かなかつたが、どうしたことだらう、と茶屋では案じて居ると、六十日ほどたつて

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から、半󠄁右衞門がやつて來た。さうして、先日お賴みであつたが、結構なお嫁さんを

見つけて來ました、先日一切賴むといふことでしたから、私もその心組で話をして來

ました、結納󠄁の品をお渡し下さい、先方へ持つて參ります、明日道󠄁具をお送󠄁りして、

明後日御婚禮といふやうに話をきめて下さい、さあ結納󠄁の品をお渡し下さい、といふ

話である。茶屋の方では、賴むことは賴んだんだが、そんなに獨り呑込󠄁にきめてしま

はうと思つたのではなかつた。が、さう運󠄁んで來られゝば、賴まなかつたわけぢやな

いから、何だか煙󠄁に卷かれたやうではあるが、否やは云へない。無論昔は、相當なも

のゝ婚禮には、見合を致すなどといふことはないので、見合を公然やるやうになりま

したのは、天保以後からださうで、それより前󠄁には無かつたことだといひます。それ

以前󠄁には、物見遊󠄁山その他にしめし合して置いて、向ふの娘の出かけるのを餘所󠄁なが

ら見る。嫁の里方のものも、その時に婿を見る といふやうなことが町人どもの間に

は行はれてゐたらしい。けれども寶永の頃あたり迄は、町人でも大きい相當なもので

は、さやうなことは一切無い。たゞ筋目素性を聞き質すといふ位がやう〱 のことで



娘の爲人とか、容色とかいふものは、その家に出入するものによつて內分󠄁する位のも

ので、嫁さんも婿さんもどんなものか、當人同士は一向知らない。愈々來てしまはな

ければわからない。さういふ時代でありましたから、前󠄁に賴んだには相違󠄂ないから、

結納󠄁をせよと云はれゝば、先方の樣子を內聞してから、ともいひかねるので、熨斗と

か、杉原紙とかいふやうなものを取揃へて、形ばかりの結納󠄁を渡す。けれども何分󠄁平󠄁

素の半󠄁右衞門といふものから見ると、話が變だから、どこへあれを持つて行くか、先

方の樣子が見たいといふので、人をつけて樣子を見させた。さうしますと、半󠄁右衞門

は或寺の門を入つて、その中に別宅とか、隱居所󠄁とかいふ風に仕立てられた家がある

そこへ半󠄁右衞門が結納󠄁を持つて行く。ついて行つたやつは、その家の垣根の蔭に隱れ

て、なるべく中の樣子を聞かうとする。半󠄁右衞門は大聲で、まことに結構なお婿樣が

おきまりになりまして、こゝに御結納󠄁の品を持參致しました、明日は先方へ御道󠄁具を

お屆け致しまして、明後日はおめでたく御婚禮でございます、と事丁寧に誰にか云つ

てゐる。家中のものも大さう喜んでゐる按排である。これだけのことは茶屋に知れた

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けれども、先方が何者であるかはわからない。

 翌󠄁日の朝󠄁󠄁󠄁になりますと、長持を三十棹ほど、人足が三百人ほどついて、大變な勢で

嫁さんの荷物を運󠄁んで來た。茶屋の方では、こんな大した勢で來るとも思はなかつた

ので、急󠄁に支度して、人足に祝儀を出したり、大騷をやつてそれを迎󠄁へる。かういふ

業々しい嫁さんを、輕はずみなことをして緣組したのが、何だか疑はしくなつて、心

配になつて來た。そこでこの荷物に半󠄁右衞門がついて來たから、茶屋の方では、明晩

嫁さんが來る時に、自分󠄁のうちの家例であるから、乘物は玄關口で卸して貰ひたい。

それから駕籠を出る時に、綿帽子を取つて貰ふ、よその家ではさういふことは無いが

自分󠄁の家の家例だから、是非心得てゐて貰ひたい、といつた。半󠄁右衞門も、家例とあ

れば據ない話だから、一般の風とは違󠄂ふが、さやう致しませう、といつて歸つて行つ

た。それから翌󠄁晩になると、嫁さんが乘込󠄁んで來る。供方が大勢ついて、何百といふ

松明をつけて、大變な勢でやつて來た。茶屋の方では、どんな樣子であるか、次第に

よつては玄關から返󠄁してもいゝ位の腹で待つてゐる。ところが愈々やつて來て、玄關



へ乘物をつけて、その中から出て來る嫁さんを見ますと、實に神々しい、立派󠄂な女で

かういふ立派󠄂な嫁であれば、好んで貰つてもちつとも恥しくはない、案に相違󠄂致しま

して、とにかく伜と祝言させました。それから先づ御酒盛󠄁もめでたく濟みまして、一

同にお開きといふことで、半󠄁右衞門も酒に醉つた機嫌󠄁で、いゝ心持さうに茶屋の家を

出て參りました。あれだけの品のいゝ、美しい娘だから、里方も由緖あるものに相違󠄂

ない、どうしても見屆けて來い、といふので、又候人をつけて、半󠄁右衞門のあとから

見え隱れに、先日のところまで參りました。さうしますると半󠄁右衞門は、今晩は滯り

なく萬事相濟んでまことにめでたい、といつて、この寺の住職から、納󠄁所󠄁の方に住つ

てゐるもの、召仕まで一同に呼び集めて、又酒盛󠄁をはじめた。めでたいく といふの

で、皆酒を過󠄁して臥りました。夜の八ッ時頃になりますと、半󠄁右衞門は起󠄁きまして、

もう夜明だから皆起󠄁きろ、といつて起󠄁しましたが、昨夜の疲れがある上に、酒を過󠄁し

てゐるから誰も起󠄁きない。そこで半󠄁右衞門は熨斗目麻󠄁上下に著替へまして、佛壇に明

りをつけて、線香を立てゝ、その前󠄁に坐つて、さて私も一大事の御供を致す筈であり

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ましたけれども、御姬様をお預りして居りますので、御供も致さずに今日まで打過󠄁ぎ

ましてございまするが、今晩といふ今晩は、茶屋四郎次郎方へめでたく御輿入も相濟

みましてござります、仰せ聞けられました用事も、先づこれで相濟みました、今はは

や世の中に別段の用事もございませんから、おくればせながら御供仕ります、といつ

て、見事に切腹いたしました。そのけはひに家中のものが起󠄁出でて騷ぎ出し、寺の住

持も駈寄つて大騷になつた。かねてそこに見え隱れについて居つた茶屋のものは、そ

の始末を見屆けましたから、飛び返󠄁つて宗古に申します。宗古も驚いて、それはどう

も大變なことだ、それはどうしたころであるか、嫁に聞くより外に仕方が無い、とい

ふので、早速嫁に聞質しますと、まことに不便なことを致しましたが、あれは思ひ込󠄁

んで居つたのでございますから、さうなることも致し方がございますまい、とたゞか

ういふ。それは不思議な、どういふことだと聞きますと、嫁が申しますのに、まこと

にお恥しい次第でございますが、私は大石內藏助の娘でございます、といふころであ

つた。それではこれは大石の家來が、主󠄁人の娘を預つて、これまでの骨折をして、さ



うして今主󠄁人のあとを追󠄁つて死んだのか、といふので、跡の片づけをもし、懇に法

要も致したといふ、かういふことであります。

 ところでかういふ實錄體小說の常として、日附だの、寺の名だの、さういふことは

大槪書漏してある。これは大石の娘二人が、どうなつたか世間に知れて居ないので、

かういふものが出來たのらしく思はれます。それと共に類話があるので、「祗園可音󠄁物

語」の方は、敵討があつて七年目の話になつて居りますが、もう一つの方は、寶永元年

の話――四十六人が切腹した翌󠄁年の話であります。丁度同じやうな話ですが、もう少し

手綺麗に出來て居ります。これは淺野内匠頭長矩の落胤とでもいふべきもので、元祿

十三年の三月の赤穗で生れた。例の瑤泉院夫人の腹ではない、何者の腹であるかわかり

ませんが、とにかく内匠頭長矩の娘、それを內藏助がつれて來て、山科にも置いたので

ありますから、行く〱 成人の後、然るべき方へ、御家の娘分󠄁にしてどうぞお片づけ

願ひたい、といつて、多分󠄁の金子をつけて賴んだ。これが後に松平󠄁兵部大輔の奧方に

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なつた、といふ話がある。內藏助がどうしてさういふ取はからひをしたかといふと、

內藏助の親類に當る進藤筑後守長富といふ人が、代々近󠄁衞家の家司をつとめてゐる。

その方から手を廻󠄀して、かういふ風にした、といふ話がある。書き方もごく「祗園可

音󠄁物語」と似寄の書き方で、この二つは何方が先に出來たか、何年何月に聞いたとい

ふことは畫いてありませんが、先づはこの方が先であらうかと思はれる。これは共に

吟味して見るまでもなく、揑造󠄁物でありますが、この揑造󠄁の根本はどういふものかと

いふと、內藏助の娘がどうなつたかわからない、といふことから出て來る。淺野長矩

の落胤としましては、淺野の本家があることでもあり、又弟の大學の家もあるので

ありますから、娘一人位は内蔵助がかういふことをしないでも、どうにでもなる話で

ある。又「祗園可音󠄁物語」に致しましても、話の行き方が無理であつて、莫大もない嫁

入の支度をしたといふことなども、浪人して居ります內藏助としては出來さうもない

それに茶屋の方には何の申傳へも無い按排であります。



      問題の堀部彌兵衞の女


 それに引替へて女のことでも、堀部彌兵衞の娘で、安兵衞を養󠄁子にしましたあの人

のことは、あの有名な妙海といふ尼が出て來まして、或時には大岡越前󠄁守に對して、

淺野家の再興願を出して見たり、自分󠄁としても泉岳寺の四十六人の墓の脇へ庵室を拵

へて、こゝで老後を送󠄁りましたやうなことがあつて、名高い人である。これが彌兵衞

の娘だといふので、世間の人に知られてゐる。時によつては安兵衞の妻の妹だとも云

つて居つた。これが名高いものですから、この婆さんが怪しいといふので、吟味をす

るついでに、安兵衞の妻の方の詮議も割合によくされて居りまして、何分󠄁かわかつて

ゐる。先年福本日南翁󠄂が、この妙海といふ尼について穿鑿をされた時分󠄁に、妙海は十

六歲で赤穗を出て、十七歲で討入があつて、十九歲で剃髪して諸國を行脚したといふ

のに、細川家の親類書には、彌兵衞は自分󠄁の娘を二十七と書いてゐる。これは間違󠄂の

無い書付であるから、これと合はない。これは不審であるといつて、いろ〱 と穿鑿

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をして、妙海の話を書集めました「妙海語」といふものがある。その中で矛盾してゐる

ことを指摘して居ります。私も物數寄に妙海のことについては、一つ二つ搜して見た

こともあります。妙海が安永七年に九十三で死んだといふことから勘定して見ますと

安兵衞が高田馬場で、菅野六郎左衞門の爲に敵討をした、これは元祿七年二月十一日

のことで、細川家の親類書によりますと、その時彌兵衞の娘は十八になる。妙海にし

ますと九歲になります。無論世間で傳へて居りますやうに、母親と二人で高田馬場の

敵討を見物して、腰のしごきを解いて安兵衞の襷にした、などといふ話は拵へ事であ

ります。これは親の彌兵衞も行つて見たのではなく、彌兵衞の妻や娘も無論行つて見

たのではありません。けれどもその時安兵衞は二十九でありますから、婿に貰つて三

年たつてから彌兵衞は隱居して居りますが、前󠄁の勘定で行きますと、妙海は十二歲で

無論婚姻などは出來るわけがない。かういふことから勘定して、福本さんは妙海を贋

者といつて居られる。親類書によつて二十七と致せば、元祿七年は十八歲であります

から、如何にも安兵衞と年ばへも釣合つてゐる。三年たつて彌兵衞が隱居する事もよ



く似合ふ。福本さんの云はれる通󠄁り、細川家の親類書の年齡が結構だと思ひます。

 そこで妙海といふものは贋者なんだが、どこからさういふものが出て來たか、本も

のゝ彌兵衞の娘はどうなつたか、といふことになる。本ものゝ彌兵衞の娘は、親類書

にも妻と一緖に米澤町に居る、と書いてある。米澤町の家主󠄁の市兵衞といふものが、

元祿十五年の十二月十九日に屆出をしてゐる。自分󠄁の店に置いた堀部彌兵衞といふも

の及び伜の安兵衞が、この十四日から見えない。そのあとには彌兵衞の妻、安兵衞の

妻、下男一人、下女一人殘つてゐる。それから質して見ると、淺野内匠頭殿の浪人で

ある由であるから、五人組共々御屆に及ぶ、といふ屆出をしてゐる。それから十六年

の二月になりましたところで、柳澤甲斐守の徒目付で關甚五兵衞といふ人があつて、

それがかね〲 彌兵衞と懇意でありました。彌兵衞は當時細川家に預けられて居つて

いづれは何とか處分󠄁を受けるに相違󠄂無い。日頃懇意のことであるから、訪ねてやらう

といふので、關甚五兵衞が米澤町の市兵衞の店へ行つて、彌兵衞の妻に面會しました。

さうして、この度は武運󠄁めでたく本懷を達󠄁せられて、何よりではあるが、あなたとい

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ひ、娘御といひ、さぞ御力落しであらう、かういふ挨拶をした。彌兵衞の妻が申すに

は、お尋󠄁ねは千萬難有い。私どももまことに夫婦󠄁親子の分󠄁れでございますから、お察

しの通󠄁りでもございますが、併し亡君の遺恨を散じて、首尾よく敵の首を擧げたとい

ふことは、まことに大慶の至でございまする。これ又お察しを願ひまする、といふ口

上であつて、併し悲しみも喜びもあるにはあるが、殊に御法度に背いたものゝ女房ど

ものことであるから、何時如何なる御召出があるかも知れませんので、手廻󠄀りの道󠄁具

その他はすべて取片づけて置きまして、見苦しくないやうにと存じて、髪も結ひ化󠄁粧

も致して、何時如何なる御召出があつても差支無いやうにして、その日〱 を送󠄁つて

居ります。といつて、少しも取亂した樣子が無い。落著き拂つてゐる。これは關甚五

兵衞の直談を書いたものに出て居ります。

 それから三月の十二日になりまして、彌兵衞の妻――名はわかと申しました――は

この人の兄に當りますのは忠見扶右衞門と申して、松平󠄁兵部大輔樣に御奉公して居り

ます本多孫太郎といふ人の家來、又者であります。それが本所󠄁に居りますので、その


方へ親子とも引取られて參りました。その後間もなく四月十日になりますと、丹羽五

郎三郎殿の祖母に當る冷臺院といふお方の方へ御奉公をすることになりまして、わか

といふ名を改めて、高島といふことになり、その方へ引移つて參りました。娘のおほり

といふ、これが安兵衞の妻で、これをも丹羽の屋敷へ引取つて、そこに御奉公するこ

とになりました。丹羽の當主󠄁はその頃まだ幼少で、任官もせずに居りましたが、同家の

六代目左京太夫秀延といつた人で、二本松の城主󠄁で十萬七百石であります。この二本

松の家と赤穗の家とは親類筋にもなつてゐる。丹羽の方の三代目、左京太夫光重とい

ふ人の妹が、内匠頭長直のところへ入輿されまして、その人の腹へ采女正長友が出來、

長友の子供が内匠頭長矩でありますから、丹羽家から來た人は、長矩の爲には祖母

に當ります。冷臺院といふ人は、德島の蜂須賀安房守光隆の女でありまして、丹羽家

の四代目の若狭守長次といふ人の奧方であります。この人のところへ、彌兵衞の妻と

娘とが御奉公に出ることになつた。これは彌兵衞の遺書にも、冷臺院樣は年久しく御

懇下さるので、まことに難有い仕合である。どうか自分󠄁の死後は、妻娘ともに冷臺院

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樣へ御奉公申上るやうにさせたい。年頃の御懇であつた御恩報じに、どうか一生を捧

げて御奉公申上るやうになつたならば、自分󠄁は何よりも滿足に思ふといふことがした

ゝめてある。どういふおかゝり合になつてゐたか知りませんが、この遺書の願が叶ひ

まして、彌兵衞が切腹して間もない四月には、もう丹羽家に御奉公することになりま

した。然るにこの冷臺院といふお方は、元祿十六年十月十七日に亡くなられました。

まことに御緣が薄いので、僅に數箇月のことで、この主󠄁從は長いお別をしなければな

らなかつたと見えます。この長いお別れを、一生奉公致すつもりのものがする時には

御菩提の爲にきまつて尼になる。これは大名の奧につとめるものゝ珍しくないことな

のです。それですから初代團十郎の女房が、目黑の行人坂の下のところに隱居して居

りました。これは享保の末のことで、その近󠄁所󠄁の庵に堀部安兵衞の妻が、これも剃髪

して居つた。これが初代團十郎の妻の剃髪した榮光尼と心易くて、安兵衞の妻が拵へ

た孫の手などが、團十郎の家に殘つて居つたといふのも冷臺院が亡くなられた時に、

一生奉公の筈であつた彌兵衞の妻も娘も共に尼になりまして、目黑に引込󠄁んだものと



見えます。こゝまでわかつて居りまして、どちらが何處でいつ死んだか、わかつて居

りません。里方の忠見の菩提所󠄁は、榮久町の淨念寺といふ寺に、代々の墓所󠄁がありま

すが、その中に堀部へ片づいたわかといふ人の墓も、娘のおほりの墓も無い。これは

どうなつたかわかりません。

 そこで親類書にも、彌兵衞の妻は忠見氏といふことになつて居りますから、この安

兵衞の妻になりましたおほりも、忠見氏の腹とばかり思つて居りました。ところが穗

積陳重さんの夫人歌子さんの持つておいでなさる古鏡が一面あります。これは早く織

田完之氏が記文󠄁を書いて居りますが、この鏡の裏には「元祿二年己己三月、願主󠄁堀部彌

兵衞金丸妻山田氏」と書いてある。さうして見ると彌兵衞には先妻があつたので、忠見

氏から來た人の前󠄁に、山田氏から來た人があつたわけで、さう思つて見ますと、安兵

衞が姑にあてた手紙に、何分󠄁自分󠄁の妻のことも御願ひする。親仁樣のおゆかりと思し

召して、何分󠄁お世話を頼み奉る、と書いてある。忠見氏の腹から出た娘であるとすれ

ば、親仁様のおゆかりでなくてもいゝわけである。そこに少し分󠄁け隔てがあればこそ

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安兵衞はさうした手紙をかいて殘したのであるやうに思ふ。それから彌兵衞の遺書の

中にも、文󠄁五郎を養󠄁子にするつもりであつたところが、旦那が承引されない。それ故

に安兵衞を養󠄁子にした、と書いてある。これは淺野長矩が文󠄁五郎を婿にすることを許

さなかつた。これが忠見扶右衞門の伜でありますから、妻の弟になるわけである。そ

れとおほりと娶すつもりであつたことから考へましても、彌兵衞の一人娘は後妻の忠

見氏の生んだのでなくて、先妻の山田氏の生んだのではなからうかと思はれます。こ

のことのみならず、彌兵衞の先妻、後妻の墓所󠄁がわかりましたならば、大分󠄁この行く

たてがわかることゝ思ひますが、多年心がけて居りながら、未だに見つけ出すことが

出來ません。

 贋者の妙海は、彌兵衞の娘のおほりであるといひ、時によつてはその妹のお順であ

るともいつて居ります。この妙海は、元文󠄁の頃に龜井戶の殊明院といふ庵室みたいな

ものがあつて、そこに榮智坊といふ夫婦󠄁の道󠄁心者が居つた。それが後に夫婦󠄁別れをし

まして、立別れてしまひました。その女の道󠄁心の方が、うれしの森の安波大杉大明神



の近󠄁所󠄁に庵を結んで居りまして、月に五度づつ泉岳寺へ墓參をして居つたのが、年を

取つて步行が難儀であるといふので、泉岳寺の墓所󠄁の前󠄁に庵を拵へて貰つて、引移る

ことになつたのでありますが、この女道󠄁心がどうして堀部の娘だの何のといつて居る

か。彌兵衞には娘はおほり一人で、二人は無い。どうしてそれがかういふ云ひがゝり

をいふやうになつたか。彌兵衞の妻の忠見から來てゐる人が、二本松の屋敷につとめ

て居ります時分󠄁に、女を二人使󠄁つて居つた。その中の一人が順といつて、その頃十五

六歲でありました。これが後に妙海といつたやつで、おほりの妹の順であるなどとい

ふのは、自分󠄁の子供の時の名を云つたのである。元祿十六年に十五六であつたのです

から、安永頃になりますと、七十何年もたつてゐる。もう久しくなりまして、誰も見

知つたものゝ無い時分󠄁に現れて來たんだらう、といつて居ります。これは彌兵衞の親

類で熊本候の家來の堀部忠兵衞の話であります。

 時がたちますと何も彼もわからなくなるもので、まことに僅な年限でも、さすがに

名高い赤穗義士の事柄も、直に知れなくなつたものと見えて、妙海のやうな贋者が通󠄁

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用するやうになつて居ります。これにはいろ〱 をかしい話もございますが、秋田候

のお醫者で小田島元良といふ人がございました。これが間喜兵衞と親戚であつて、そ

の息子の新六の妻といふのは、堀部彌兵衞の娘である。その娘が後に出家して妙海に

なつた、といふ話がある。これは明和の頃のことでありますが、殿樣が元良を御使󠄁に

して、泉岳寺の內に庵を拵へて住つて居りました妙海のところへ、昔話を聞きにお

遣󠄁しになりました。その時妙海はたゞ落淚を致すだけで、何事も申さなかつた。秋田

候からの賜り物は難有くいたゞきましたけれども、何の御話もせずにしまつた。これ

は秋田藩の傳へであります。それはこれつきりの話のやうでありますが、間喜兵衞の

親類書の中を見ますと、小田島元良などといふものは書いてないのみならず、間新六

は無妻であります。堀部彌兵衞に娘が二人無かつたことはいふまでもない。これだけ

のことは、親類書を一見すれば直にわかる筈である。然るに秋田の殿樣が騙󠄀されたと

いふのは、如何にもをかしいのですけれども、名高い赤穗浪士のことは知つてゐても

その親類書にちよつと手をつけて見る、といふことだけもしてゐなかつたことが、こ



れでよくわかります。それからもう一つは、小田島元良なるものは、妙海婆さんと何

かの續き合でもあつたんではなからうか、と推測される。婆さんはもと二本松候のと

ころに、彌兵衞の妻が御奉公してゐる時使󠄁つた子女だつたのですから、東北人であり

さうな話で、その邊から考へますと、妙海の身許がわかつて來さうにも思はれます。

この妙海のことのみならず、安兵衞の妻の成行にしても、まだつきまとつたことはわ

かつて居りませんが、もつと手をかけて參りましたならば、しまひには明白になるで

あらうと思ひます。

 義士の娘の行方につきましては、かういふ問題になつた人の外は、すべて知れない

のでありますが、氣をつけて居りますうちに、たゞ一つ見つけました。それは岡島八

十右衞門の娘で、切腹當時には、八十右衞門の妻と共に赤穗に置いてあつたのですが

それが後に秋元但馬守喬房の家來、安藤源五右衞門といふものゝ方に嫁入を致しまし

た。この安藤の家は、秋元家で代々勘定役をつとめて居ります家でありますが、この

人の曾孫に吐菩加美講の祖になります井上正鐵が生れました。これは井上正鐵が生れ

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たことによつて、岡島の娘の曾祖母が、書物の上に現れて來るやうになつたのであり

ます。昔の世の中は、女が出しやばらない方がいゝとしてあつたのでありますから、

義士の娘達󠄁も、つゝまやかに目立たない方がいゝと思つて居つたので、子孫に格段な

人が出來ない限りは、世間に知れないやうになつて參るのも、不思議はなからうと思

ひます。


壇:旦が且


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