講談の根本資料

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      不思議な與力同心


「泉岳寺書上」はあまり馬鹿々々しいものであるから、誰彼も相手にしないのでもあ

ろうか、一向辨正したものがございません。併しこれが一方では「義士夜討功名咄」

それから、「義士傳一夕話」などといふやうなものになりまして、他方に於ては講談とか

小說とかいふやうなものになりまして、義士の話といふ話の一般に行はれて居ります

ものは、どれこれとなく大分󠄁この影響を受けて居りますから、馬鹿々々しいものでは

あつても、一通󠄁りこれを考へて見るといふことを致さなければなりますまい。

 泉岳寺に四十六人の人達󠄁が一日居ります間に、老輩の人は物數も多く云はなかつた

が、若い人達󠄁は盛󠄁んに手柄話をしたと傳へられて居ります。これは如何にも、尤な話



で、大石內藏助とか、吉田忠左衞門とかいふ相當な分󠄁別思慮を持つてゐる人でありま

すと、むやみに自分󠄁のしたことを吹聽するといふほど、淺薄なものでないのはわかり

きつたことである。然るにこの書上では、若いのも年寄もうちまぜて、口々に討入當

夜の話をして居ります。まことにその話ぶりから申しても淺ましい有樣でございます。

この「泉岳寺書上」は、もう一つの名では「承天覺書」となつて居ります。書上と申すか

らは、寺社奉行へ差出したものでなければなりませんが、この泉岳寺の書上といふも

のにつきましては、寺社奉行のみならず、町奉行の方にも、勘定奉行の方にも、泉岳

寺からかうした書上をさせたといふやうな記錄もありませんし、受取つたといふこと

も書いてない。又この書上なるものについて見ましても、四月幾日に誰にあてゝ差出

したといふことも書いてない。書上の一定の書式の上から申しても、かういふ形の書

上は嘗て無いのである。これは文󠄁書としての不審が覿面に出て居るので、誰も信じが

たいものになるのであります。

 それにこの書上といふものは、近󠄁所󠄁に廣岳院といふ同宗の寺がありまして、承天は

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そこの住職でありました。四十六人が引揚げて來た時に泉岳寺の方丈はびつくりして

しまつて、何とも仕方が無い有樣であつたから、直ぐ鄰の廣岳院の住職を賴んで、

一切の取はからひをした。その廣岳院の承天が書いて置きました覺書である、といふ

ことになつてゐる。これも亦大に怪しむべき話でありまして、例へば泉岳寺の和尚が

びつくり仰天してしまつて、前󠄁後の辨へもない程󠄁になつたと致しましても、寺にはそ

れ〲 の役僧といふものがありますから、それが代りを致すやうになつてゐる。だか

ら鄰寺の住職を賴んで來て、その代辨をさせるといふやうなことは、泉岳寺ほどの寺

になりますと、決してありはしない。役僧も何もないやうな小寺では、或はさういふ

ことがあるかも知れませんが、泉岳寺としては相當に役僧が居りますから、さやうな

ことはある筈が無いのであります。また泉岳寺の隣に廣岳院といふ寺がない、醫王山廣

岳院は二本榎で正保年中から動かないのである、それに同じ曹洞宗ではあつても泉岳

寺は大中寺末で、廣岳院は永嚴寺末で派󠄂が違󠄂ふ、假令隣になつても交涉があるべき筈

でない、まして同派󠄂の圓福寺が側にあるのを差置いて、遠く派󠄂の違󠄂つた廣岳院を賴む



譯がない。此の賴むといふことも渠れ程󠄁の寺ではあるべき事柄でない。

 それから元祿十五年十二月十五日の朝󠄁󠄁󠄁に、四十六人が泉岳寺へ參りまするに先だつ

て、岡嶋八十右衞門が典座寮へ參りまして、先君の廟前󠄁へ參詣供養󠄁いたしたき趣を通󠄁

じた、といふことになつて居ります。さうかと思ふとあとの方では、吉右衞門と定右

衞門といふ二人の足輕を以て、先に泉岳寺へ一同の引上げて來ることを知らせたとい

ふことも書いてある。自分󠄁の覺書で前󠄁後矛盾してゐる。この吉右衞門といふのは寺坂

のことでありますが、もうそれより先に逐󠄁電したといふことになつてゐる。定右衞門

などといふものは、四十七人と數へた中には、吉右衞門までで、定右衞門は入つてゐ

ない、定右衞門を入れゝば四十八人になるので、この二人がゐなくなつた爲に、四十

六人になつたのだといふことは、中に書いてありますけれども、この人數が四十八人

でなかつたことは、申すまでもない話であります。定右衞門の話は、何方道󠄁受取れな

い。それはそれとして、寺へ來て典座寮へ申込󠄁むといふことは、をかしな話でありま

して、典座寮といふのは、重い役僧ではありますけれども、これは大勢の坊さんの食

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事の世話をするところですから、岡嶋が泉岳寺の門番に申込󠄁んで、さうして典座寮へ

一同が先君の墓前󠄁に參拜する趣を通󠄁じたことは、岡嶋が望んだとしてもをかしいし、

門番人が取はからつたとしても變だ。書上の方でいふと、典座寮へ申入れて、副司の

方へ申入れて、それから住職へ取次いだといふことになつてゐる。これが又間違󠄂つ

てゐるので、副司は出納󠄁事務を司るので、他宗の寺でいへば御納󠄁所󠄁の仕事である。そ

んならどういふところへ申込󠄁んで來るのか、外から來た檀家の者なり、信徒なりはどう

いふ風になるかといふと、知客寮といふものがあつて、そこへ申込󠄁みまして、そこから

方丈へも通󠄁じ、寺內の指圖もそこから受ける筈であります。廣岳院の承天は、同じ宗

旨といひますから、曹洞宗なのでせうが、どうしてかういふ間違󠄂をするか、どうも甚

だをかしく思ふ。

 それからこの副司が一同を門內に入れて、典座寮が粥を拵へて一同にすゝめた、と

書いてある。典座寮が粥を出すのはいゝが、副司が指圖をしてゐるのはどうもをかし

い。それから又人を近󠄁所󠄁の寺に馳せて、一同が引上げて來た次第を知らせる。これは



よろしい。その中で如來寺へ知らせたこと、これはわからない。如來寺は芝の大佛と

いふ、大きな佛があるので名高い天台宗の寺で、他宗の寺院へ何で知らせたものかわ

からない。これらの指圖のすべては、隣の廣岳院の承天がしたことになつてゐる。

 それから一同を通󠄁して、火鉢を出して、粥をすゝめて、その時に承天が又、泉岳寺

の住職は今日病氣の爲、拙僧が萬事取はからひを致すことになつてゐる。あなた方

はどういふ御都合で、どうして御出になつたか、といふことを寺社奉行へ屆けなけれ

ばならないし、旁々であるから、一應お聞かせを願ひたい、といつて、それからいろ

〱 なことを一同から聽取つた趣になつて居ります。その中でこま〱 したことを申

せば、數限りもないのでありますが、吉田、富森の兩人が、寺社奉行仙石伯耆守へ訴

へた爲に、泉岳寺の訴へと入違󠄂ひ位に、已に役人が泉岳寺へ出張した。それはよろし

い。けれども近󠄁邊警戒の爲に、與力同心が二百人も出て來た、といふことが書いてあ

る。これは又決してあるまじきことである。大目付の手には與力同心がない、寺社奉

行にも與力同心が附いて居らぬ、そんなら町奉行を賴んだのか、さういふことはない

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筈である、お先手や御留守居等には與力同心が附いて居るけれども、決して融通󠄁され

ることはないのだから、此處へ出て來た與力同心等は何處から出て來たのだらう。


      祭文󠄁捧談とは新趣向


 それから又泉岳寺が寺社奉行に屆に出るその間に、座敷に通󠄁つてゐた四十六人の人

々は、先君の廟前󠄁に出て、上野介の首を洗つて、それを首桶に入れて供へた。その時

に內藏助は懷中にかねてしたゝめて置いた一通󠄁の祭文󠄁を出して讀んだ、とある。これ

も飛んでもない話であつて、さういふことは嘗て無いのだ、その文󠄁句を見ますと、「四

十七人の輩」と書いてあつたり、先君がお持ちになつた刀だといつて、小脇差を出して

只今それを返󠄁納󠄁する、といふことが書いてあつたりする。現にその祭文󠄁が寳物館に竝

べてありますが、大變な文󠄁章であるのみならず、書體からも、紙の質からも、すべて

元祿度のものではない。それは贋のものにしても、本當のものがあつたのかといへば、

本當のものは無かつた。いづれの義士傳にも、これだけは揃つて否定してゐる。どこ



でかういふものを拵へて置いたか、そんな暇は無かつたことは申すまでもない話で、

寺坂が居ないから四十六人しかゐないものを、四十七人と書いてあるのもをかしな話

である。祭文󠄁の中の短刀といふのは、芝居の忠臣藏が影響して――長矩の切腹の短刀

を內藏助に渡す――さういふことが含まれてゐるやうに見える。それもいゝが、上野

介の首を供へたら、長矩の石塔が動いた。それを見物人が大勢ゐて、鳴動の聲を聞い

た、などといふことまで書いてある。この際さうどこまでも、見物人が附纏つたか、纏

はなかつたか、申すまでもない話である。

 それから市場の燒香が間十次郎で、二番が武林唯七、三番が萱野三平だ。それも三

平が切腹した時の膓を袱紗包にして、內藏助が持つてゐて、その袱紗を手向けた。昨

夜吉良の屋敷でも、三平の亡靈が現れて一同を導いた、といふことまで書いてある。

義士傳もかう迄なつたとすれば、怪談入のものになつて來る。又三平の持槍に札をつ

けて、吉良の屋敷へ持參して、玄關へ立かけて置いた、などといふ話もこれにある。

さういふことは決してなかつたことは、何の本にもよくわかるやうに書いてある。

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      女の居ない吉良邸


 それから神崎與五郎のいつた言葉と て、上野介は近󠄁いうちに上杉の上屋敷へ引越 *

される、この頃は親類や懇意へ暇乞に步いて居られる、かういふ通󠄁信が吉良邸からあ

つた、といふことが書いてある。これも世間では、よく吉良が引越すといふことをい

つて居りますが、事實は決して無いことなので、吉良の本所󠄁の屋敷といふものは、元

祿十四年八月十九日に、近󠄁藤登之介の上り屋敷であつたのを、吉良へ賜つたので、彼

は首尾よく隱居を許されて、家督を左兵衞に讓つてこゝに移つたのである。けれども

この近󠄁藤の上り屋敷といふものは、久しくうち棄てゝあつたものと見えて、大分󠄁破損

致して居る。が、俄に修繕するといふことも、いくらか遠慮しなければならぬわけで、

上野介の居りますところや、左兵衞の居りますところは、皆普請󠄁をしなければなりま

せんが、その出來上りましたのは、翌󠄁十五年の五月頃であります。だん〲 中の方の

普請󠄁は出來て參りましたが、外圍ひやまはりを圍んでゐる家來どもの長屋は、まだ普



*と て:として か



請󠄁が濟みません。それは遠慮して急󠄁に工事を起󠄁さなかつたからである。それどころで

はない、吉良の奧方でありまする上杉から來た方の居られる座敷向や何かも、まだ普

請󠄁が出來ません。それ故に久しく住み慣れた鍛冶橋の屋敷を返󠄁上いたします際に、奧

方は上杉の下屋敷である白金の方の閑居に行つて居りまして、この時までも歸つて來

ない。行く〱 普請󠄁が出來すれば、無論奧方は歸つて來る筈だつたのでせうが、この

時はまだ歸つてゐない。この普請󠄁ももつと捗々しくしさうなものでありますが、何し

ろ赤穗の方は潰れて居るのでありますし、自分󠄁の方の首尾は惡くはないけれども、出

來事のあつたあとだから、隱居を願ふといふほどなので、捗々しい普請󠄁などをするの

は、穩かでないやうに思つたから、工事を急󠄁がなかつたものらしい。それ故に討入の

當夜にも、女といふものは、家來達󠄁の住む長屋の方には、家來の女房や何かゞ居つた

けれども、吉良親子の住みます方には、女氣は一人も無かつたのである。けれども別

に吉良が他へ移るなんていふことはありはしない。殊に好みの茶座敷などは、隨分󠄁數

寄を凝らしたものが出來たらしい。上野介は隱居こそ致しましたけれども、左近󠄁衞少

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將といふ身柄になつて居りますので、人の屋敷に――例へば自分󠄁の子が婿になつて居

るに致しても、そこへ居候に行くなどといふことは、身分󠄁が身分󠄁で出來ません。從つ

て本所󠄁の屋敷を動くことは、決してないのであります。世間でも吉良がやがて上杉の

方へ引越してしまふ、といふことを信じてゐる人も、無いことはないやうですが、そ

れは泉岳寺書上のやうなものから誤󠄁られたことだらうと思ひます。


      書上揑造󠄁の年代


 それから又四十六人が一同に、兩國橋の向うの楠屋十兵衞方へ立寄つて、手打蕎麦

を五十人前󠄁用意させて食べた、といふことが書いてある。これなどもどの義士傳で

見たところが、饂飩屋久兵衞と書いてはあるが、楠屋と書いてあるのは決してない。

たゞ十兵衞といふのは、一同が引上る際に、酒屋へ寄つて、酒樽の鏡を槍の石突でこ

はして酒を飮んだといふことがある。そこの亭主󠄁が十兵衞といふのでありますから、

討入の前󠄁後に、饂飩屋久兵衞、酒屋十兵衞の名は、どの義士傳にも書いてある。楠屋



はこの書上に限る話である。殊に手打蕎麦といふ言葉などは、寶曆以後の言葉で、元

祿時代には決していはない。その當時は蕎麦切といつた。その邊から考へて見ても、

この書上といふものがいゝ加減ぶしであることの外に、時代がひどく若いものである

ことを知ることが出來る。又一同に一つ目辨天の社に立寄つて支度をした、などとい

ふことも書いてありますけれども、これもどの義士傳でも併せて讀んで見ればわかる

話で、皆間違󠄂つて居ります。

 これから討入の話になるのでありますが、それをこの書について申すと、却つて繁

雜になりますから、この書上の特徵でありまする、誰が誰を討つた、誰が誰と戰つた

といふことが明細に書いてある、これについてお話をしたい。これが講釋の一番いゝ

材料になつてゐるのであります。だが四十六人のうちには、定府と申して、內匠頭の

江戶の屋敷に永年つとめて居つたものもありますけれども、それよりは赤穗から出て

來た士の方が多數である。肝腎の上野介の顏でさへ、誰も見たものが無い。この書上

の中ですら、神崎與五郎が一人知つてゐるだけだ、と書いてある。それほどでありま

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すのに、誰が誰を斬つた、誰が誰と戰つたといふやうに、吉良の家來の小さいものま

でも、四十六人が知つてゐる筈は、どうしても無い。これは別段に考へて見るまでも

あるまいと思ふ。それだから書上でも、吉良方の方から一々に名乘を上げて。我は誰

々である、といつて立現れて勝󠄁負󠄂をしたやうになつてゐる。この討入をした場合が場

合でありますだけに、決して名乘を上げる筈は無いのでありますが、先づそれはそれ

として、一人々々名乘を上げて勝󠄁負󠄂したといふのについて、少し吟味をして見ます。

 第一に堀部安兵衞と倉橋傳介が、十八貫目もある掛矢で、吉良の門の扉をぶちこは

したといふこと、これはよく大きな掛矢を擔いでゐるところが、繪にもかいてありま

すが、實際は大掛矢などを持つて行つたのではありません。又表門をぶちこはしたと

いふことも、事實ではありません。そのわけは、あとで討入の槪況を一緖に申すとこ

ろでお話し致しませう。

 さて堀部安兵衞が玄關口で出會つた新貝彌七郎、これも名乘を上げて渡り合つた。

掛矢を以て打合つた、といふことが書いてある。さうしてその掛矢で打つたから、眼



玉が飛出して死んだ、と書いてある。これは大目付の手で調󠄁製しました書付を見まし

ても、眼玉が飛出したなんていふことは決してない。新貝は左兵衞へ上杉からつけら

れました中小姓であります。義央の奧方であります三姬にも中小姓格の附人が三人

ある。が、これは奧方が白金に行つて居られたので、附人もその方へ行つて居りまし

たから、本所󠄁にはゐない。新貝は左兵衞附だからゐたのです。この三人のうちの

一人、山吉新八は大變に働いたので、もう一人の村山五左衞門は、左兵衞の寢間の次

に寢て居りましたが、斬合がはじまると、大小をそこへ置いて見拔をして逃󠄂出してし

まつた、といつてひどく物笑ひになつた。新貝は死骸の腹から槍の穗先が出たといふ

位で、一向臆するところなく敵を迎󠄁へて、討死をして居ります。けれども相手は誰だ

つたか、それはわからない。

 それから岡嶋八十右衞門がやはり同じ表玄關で、左右田源八と名乘り合つて斬合

つた、これはなか〱 劍術󠄁の達󠄁者なものである、と書いてある。この左右田源八は吉

良家の中小姓でありまして、この人の死骸は臺所󠄁口にあつたともいはれて居ります。

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が、劍術󠄁の達󠄁人であつたなんていふことは、何にも書いてあるのを見かけません。無

論岡嶋に斬られたといふやうなこともありません。

 菅谷半󠄁之丞は淸水逸角と名乘るものと出合して戰つたが、これはなか〱 尋󠄁常一樣

のものでなくて、手に餘つた。倉橋傳介と二人がかりで相手になつたが、まだいけな

くて、武林唯七と三人になつて、漸く仕止めたと書いてある。けれどもこれは死骸が

玄關口にありませんで、臺所󠄁にあつたので、三人がかりで斬つたかどうか、それはわ

からないが、場所󠄁は違󠄂つて居ります。

 それから武林は、十四五になる小坊主󠄁で、牧野春齋と名乘つて出て來た。これは斬

る氣も無かつたけれども、つい邪魔になるものだから殺した、といふやうに書いてあ

る。この場所󠄁は小玄關口でなくてはならない。又これは鈴木松竹といふ坊主󠄁がありま

した、それだらうと思ひます。牧野春齋の方は、やはり坊主󠄁ですが、手負󠄂で唸つてゐ

て、翌󠄁々日あたり死んでゐる。坊主󠄁で當夜殺されたのは鈴木だけです。書上の方は、

場所󠄁はどことも書いてありませんけれども、裏門の方から入つて行つて、そこに隱居



所󠄁がある。それが上野介の住居で、小玄關といふのはそこについてゐるのでありまし

た。勿論鈴木に致しても、牧野に致しても、誰が斬つたか、それはわからないのであ

ります。

 それから又武林は、暗闇の中から、何者だか知れないが、九尺ばかりの槍で自分󠄁の

太股を突いたものがある。何者だ、といつたら、大河內六郎左衞門だといつたので、

直に首を打つたとありますけれども、大河內六郎左衞門といふものは足輕でありまし

て、表門の番人である。さうして討入から十日たちました二十四日の日に死んで居り

ます。その晩は誰に斬られたのであるかわかりませんが、なか〱 の重傷で、遂󠄂に死

んでしまつた。門番で一番先に斬られましたのは、裏門で森半󠄁右衞門といふ足輕が斬

られて死んだ、四十六人が火事だ〱 と云つて押掛けて、眞先に門番を斬つたのだ、

誰がやつたか知れない、この書上で見ると、座敷へ飛込󠄁んで武林に斬られたやうにな

つてゐますが、決してさうではない。

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      物々しい兩刀つかひ

 それから又長屋から、何者か知らないが、透間を見て出て來た。そこに張番をして

ゐたのが前󠄁原伊助でしたが、これが然も兩刀をつかふやつで、なか〱 前󠄁原がかなは

ない。それを見かけて近󠄁松勘六と赤埴源藏と二人駈けて來たが、たうとう逃󠄂げられて

しまつた。そこで四十六人の人々が、上野介の姿が見えないので、方々搜して居りま

すと、磯貝十郎左衞門の前󠄁へ、女の著物を引かぶつたものがによつこり出て來て、斬

つてかゝつた。これが兩刀使󠄁ひで、なか〱 强いのでありますから、磯貝だけでは防

げない。主󠄁稅と堀部安兵衞が加勢に來て、三人で相手になつたが、なか〱 手ごわい。

さうしてゐるうちに、主󠄁稅の妻と萱野三平の妻とが、玉襷をかけ、薙刀を持つて出て

來て、これを突いた。さうしてひるむところを漸く仕止めた。これは何者であるか、

名乘らなかつたけれども、これが上杉から附置かれる小林平八といふ人であつたさう

な、と書いてある。これは又どうしてこんな馬鹿々々しい間違󠄂をしでかしたものかわ


からない。第一にこの小林平八といふものは、一般に上杉の附人といふことになつて

ゐる。今日でもさういはれて居るけれども、當時に在つては、吉良の家來だか、上杉

の附人だか、そんなことがわかる筈は無い。小林といふことさへわからないのだから、

そんなことがわからう筈が無い。こんなことを書いて置くものだから、なか〱 世の

中には面白いことが出來るもので、私が先年米澤に參りました時分󠄁に、土地の人で小

林源藏といふ人が總選擧に出ました。たしか明治四十四年のことでありましたらう。

それが小林平八の後裔であるといふので、大變に選擧に影響して、ひどく迷󠄁惑したこ

とがあつたさうです。米澤でさへ小林平八といふものは、上杉の家來だと思つてゐる。

いゝ加減ぶしのことも、うつかり出來るものではない。勿論上杉の分󠄁限帳にこの人の

名が無い。それも其の筈、三州吉良の譜代であつて古くから使󠄁はれて居つた家來筋で

ありますから、義央の央の字を貰つて、平央道󠄁と名乘つて居つた。この人の墓所󠄁は、

もと本所󠄁の猿江の慈眼寺にあつたのでありますが、染井の墓地の方へ引越して、今で

も小林の墓は殘つて居ります。外にも當夜討死をしたものがあるのに、吉良に忠義立

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をした他の家來達󠄁の墓は一つも殘らないで、小林のだけ殘つてゐるのはどういふわけ

だといひますと、小林に一人の娘があつて、この娘が幕府の御鏡御用をつとめて居り

ました。代々中嶋伊勢と申しまして本所󠄁にあつた。そこへ片づきました。その家から

附屆をしますので、この墓所󠄁は未だに殘つてゐるわけであります。この中嶋の家から

分󠄁れまして、繪かきの北齋の母が中嶋の家から出たので、北齋の母は小林平八の孫に

當る。北齋は曾孫になるわけです。さういふやうなところで、小林だけが意外に花を

咲󠄁かしてゐるやうなわけですが、これは當夜は表の方の長屋の出口で、出ると直ぐや

られてしまつた。とても三人を相手にする景氣ぢやない。お話にならないざまでやら

れたのです。それを書上では大變强さうに書いてある。


      女が手引した


 それから又手傳ひに二人の女が出て來たといふ話、前󠄁に神崎が吉良邸から內報があ

つたといふのも、その內報は誰がしたかといふと、なみ、かよといふ二人の女で、こ



の二人から得たといふことになつてゐる。この二人が襷をかけて出て來て、小林のう

しろから薙刀で斬つてかゝつた。このなみといふのが主󠄁稅の許嫁の妻で、山岡角兵衞

の娘、年は十八であつたとある。それから一人のかよといふ方、これは萱野三平の妻

で、村松三太夫の妹、この時が二十五であつたとしてある。十五になる主󠄁稅の妻に、

十八の女といふのも變な話だ。それよりも山岡角兵衞なんていふものは、赤穗とある

けれども、赤穗にはそんなものは無い。村松三太夫にも妹がない。何れにもこの二人

の女は無いのです。例の堀部彌兵衞の娘と云ひ觸らして居りました妙海などでも、赤

穗浪人の娘が七人、吉良家に居つて、それが手引をしたといふことを云つてゐます。

それから延享の頃に淺草の大音󠄁寺前󠄁、町でいへば龍泉寺町に、本立山長國寺といふ寺

があつて、その寮に賢了といふ坊主󠄁がゐた。さうして六十を超えたやうな尼も一人ゐ

た。この尼は武林唯七の妻で、若い方の坊主󠄁は、尼の甥だといつてゐた。この尼の左

の方の手は、握つたきりであけることが出來ない。これは敵討の時、吉良の屋敷に住

込󠄁んで居つて、內藏助と忠左衞門と唯七とを手引して、上野介の寢間へ引入れて、三

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人に先づ敵を討たせて置いて、それから表門、裏門をあけて、大勢がこみ入つた。そ

の時に大石が拔身の刀を提げて居つたのを知らずに、手を取つて引込󠄁むつもりで握つ

たので、左手に大變な怪我をした。それで手を開くことが出來ないで、握つたまゝで

居るのだ、といふことを云つた。これは自分󠄁ばかりでなしに、吉田忠左衞門の娘も吉

良に奉公して居つた、といふことを云つて居つた。これなども同じやうな話で、武林

に妻の無かつたことは、親類書で明白な話で、「いろは文󠄁庫」などは、かういふものから

著想して、あれだけ艶つぽい記事まで揑造󠄁したのであります。吉良の奧向に一人も女

のゐなかつたことから考へて、かういふ話は無論相手になれるものではない。


      在りもせぬ小書院


 それから今度は近󠄁松勘六が小書院の前󠄁通󠄁りで、小鹽傳四郎と名乘つて出て來たもの

と渡り合つて、怪我をしたことが書いてある。吉良の屋敷の圖をひろげて見ましても、

小書院といふ場所󠄁はありません。吉良の家來どもの中にも、小鹽傳四郎といふ名前󠄁は



ありません。この時に勘六は左の手を斬られまして、池へ落つこつたといふことで、

そこへ堀部安兵衞が危いと見て駈付けて、それを槍で突いて突倒してしまつた。さう

して近󠄁松を泉水から引上げて、衣裳を著替へさせて藥を呑ませた、といふことが書い

てある。藥は持つて居たかも知れないが、著替までも持つて夜討に出かける。隨分󠄁を

かしな話だ。氣をつけて讀めば、かうしたことはいくらも出て來さうであります。吉

良の家來の名前󠄁に似寄つたものがあるかと思つて、搜して見ますと、小堺源次郎とい

ふ臺所󠄁役人がある。これを宛てたのではなからうかと思はれる。いづれにもこの中の

名前󠄁は、幕府から吉良の屋敷へ檢使󠄁に來た。その調󠄁書を見て拵へたもので、それも善

本に據らずに、いゝ加減な處で揑造󠄁したから、傳寫の誤󠄁りに引摺られて小鹽傳四郎と

いふやうな名前󠄁が出來たんだらうと思ひます。小堺が討たれたのは臺所󠄁であつて、小

書院はありもせず、さうしたところで討たれたのでもない。

 横川勘平は、折角敵の屋敷に斬込󠄁んだが、一人も相手に出合せない。それから六尺

棒で方々叩き立てゝ步いてゐると、中ノ口玄關前󠄁の暗いところから、二人の男が拔き

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連れて出て來た。二人を相手にして、一人を横なぐりに斬り、一人は肩先から胸板へ

かけて斬つて落した。これは名前󠄁が出てゐないから、ボロが出ない。


      薙刀を振ふ佐兵衞義周


 大石瀨左衞門は、大書院の方で、年の頃二十歲位の若い男が、薙刀を持つて打つて

かゝつて來た。それと渡り合つてゐるうちに、相手はもう敵はないと思つたのか、逃󠄂出

した。瀨左衞門はそれを追かけて、廣間の方へ出やうとすると、そこへ左兵衞の守役

の齋藤源五兵衞だといつて名乘つて、六十餘りの老人が出て來て、入替つて渡り合つ

た。その間にかの若者はどこへか逃󠄂失せてしまつた。老人は六尺八九寸もあらうといふ

大きな男で、白毛だらけの總髪で、なか〱 劍道󠄁が出來たものと見えて手ごわい。漸

くのことでそれを斬伏せた。と書いてある。この薙刀を持つてゐた若い男といふのは

これは左兵衞であることがわかつて、その相手をしたのも武林唯七であつたことは、

評󠄁定所󠄁の應對の時申立てゝあります。齋藤源五兵衞といふのは間違󠄂でありまして、こ



れは淸左衞門、役柄は中小姓で、死骸のありましたのは玄關先、六十餘といふのも誤󠄁

りで、さまで年を取つて居つた人ではない筈であります。

 矢田五郎左衞門は座敷から蹈込󠄁んで、だん〲 行くといふと、薄暗いところに突伏

してゐるものがある。見捨てゝ行かうとすると、そのものが立上つたので、一刀に斬

捨てた。火鉢の上へ突俯してゐたので、火鉢へ切込󠄁んだ、金の火鉢だつたので、刄が

こぼれた。それから不破數右衞門は、玄關のうしろのところに何か隱れてゐるやうに

思つたから、それを捕へて押へつけようとすると、それが斬つてかゝつたので、頭か

ら帶際まで一刀に割りつけた。これは兩方とも名前󠄁が出て居りませんから、別にボロ

は出て參りません。


      先君の亡靈が出て來る


 そんなことをやつてゐるうちに、だん〲 時がたつて參りますし、肝腎の目ざす上

野介がゐない。皆力を落しながら、猶つゞけてあちこちと搜して居りますと、向うに

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長矩の亡靈が萱野三平の亡靈を供につれて、齒咬をしながら立つてゐる。さうしてそ

れが物置の雜物部屋の屋根へ飛上られた。皆々不思議に思つて、板塀があるのをうち

壊して、雜物部屋へ駈けて行つた。といふことが書いてある。愈々討入も怪談入にな

つて來た。これらは辨ずるまでもないことゝ思ひます。それからこの雜物部屋へ大高

源吾が一番先に參りまして、槍の石突で戶を突放すと、その中にゐたものが、炭や薪

をどん〲 投出して、その間から二人飛出して來た。千馬三郎兵衞は半󠄁弓で一人の胸

板を射た。萱野和助がそこへ來て、もう一人を斬倒す、さうするうちに又一人、その

中から飛び出して、それが萱野にかゝつて來た。萱野がそれと渡り合つてゐるうちに、

間十次郎が十文󠄁字の槍で突いた。さうして小野寺幸右衞門とも〲 に敵を防いでゐる

間に、十次郎が槍でその炭薪の重ねてある中を突いた。それから武林唯七がその疵人

を引出してみたら、白無垢を著て居つて、どうも上野介らしい。前󠄁に取押へて置いた

敵の小者に見せると、これは主󠄁人の少將殿に相違󠄂無いといふのできまつた、こんなこ

とが書いてあります。さうして引上間際になつて、矢頭右衞門七が裏門の番人を斬つ



た、といふ風になつて居りますので、上野介を押へます時に、前󠄁後に三人ほど敵方の

ものがついて居つたことになります。はじめから名のわかつてゐるのと名のわからな

いのとすべて上野介の外に十六人斬つたことになつてゐます。


      江戶便りで當夜の實況


 先年私が米澤へ參りまして、いろ〱 調󠄁べて見ました時分󠄁に、米澤藩士でありま

した鹽井といふ家と、大河原といふ家に、當時の書面が保存されてあります。その書

面には、いろ〱 討入の狀況が書いてあるものでありますが、それによりますと、當

夜殺されましたものは十五人で、その他に杉山三左衞門といふものは、重傷を負󠄂うて

居つて、翌󠄁日になつて死にました。怪我人の方は、輕重ともに二十四人で、そのうち

四人は中間でありました。幕府の外科醫者でありました栗崎道󠄁有といふ人が、賴まれ

て吉良の怪我人の療治を致しました。この人が弟子七人をつれて、本所󠄁へ參りまして、

十六日の午後五時から、次の日の午前󠄁五時までかゝつて療治したのでありますが、こ

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の栗崎の記錄によると、總體の怪我人は二十四人といふのでありますけれども、先づ

醫者にかけなければならんほどの疵をしたものが十六人、そのうちで大きな怪我と認󠄁

められるものが九人、他の七人は甚だ輕傷であるから、他の醫者を賴んで療治して貰

へ、といふことをいひつけ、或は附藥だけ與へて歸つた、といふことが書いてある。

これでも當夜の狀況は想察出來るのであります。

 一體当夜吉良邸へ大勢が押かけました時に、火事だ〱 といふわけで、大勢が門へ

詰めかけたのでありまして、門番が邸內に火事は無い、といふ挨拶をしますと、いや、

さうでない、今書院と思はれるあたりから、どん〲 火が出てゐる。早く門をあけて

火消󠄁を入れなけれやいかん。いや、入れない、といつてて爭つて居ります。この時に

足輕の森が斬られたのであります。さうしてゐるうちに梯子をかけて、表裏とも門を

乗越えて皆入り込󠄁みまして、合圖に小さい太鼓を鳴らし合つて繰込󠄁んだ。中へ入つて

からも、火事だ〱 といつて騷いだ。さうしてぐるりとまはりに家來達󠄁のゐる長屋が

ある。その方へ人配りをした。この「火事だ〱 」といふのは、淨瑠璃坂の敵討の往󠄁き



方で、その通󠄁りやつたものらしい。一體昔の武家屋敷の火事といふものは、門さへ燒

けなけれが、表向に火事に遭つたといふことを云はずにも濟むのである。それ故に若 @

し自分󠄁の家から火事でも出ました時には、自分󠄁のうちだけで消󠄁しとめてしまへば、別

に面倒にもならないで、火災を內分󠄁に濟すことが出來る。だから大槪門を開かずに消󠄁

してしまふ。中が混雜してゐても、門があいてゐない以上は、手傳ひのものも來ない

慣例になつてゐる。この邊をも四十六人は利用して、中は騷がしくつても、合壁から

出て來ないやうに、表門は締めたまゝにして置いたのです。それ故に表門を掛矢で壞

したなどといふことは、有るべき話ではない。それは鹽井、大河原兩家に傳はつた通󠄁

信文󠄁を見てもよくわかります。

 これからお話するのは、兩家に有る手紙をかいつまんでのお話ですが、人數なども、

大石は敵は大凡百人餘りある、と書いて居る。幕府の檢使󠄁がしらべました書付を見ま

すと、中間小者とも八十九人とあります。それですから、世間で傳へるやうに、上杉

から士が四十人、足輕が百八十人來てゐたなどといふのは、とんでもない話で、總勢

283

焼けなけれが:焼けなければの誤字か

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八十九人しかゐなかつたのであります。その八十九人を容れるのさへ、吉良邸のまは

りに立つて居りました長屋の樣子からいひますと、一杯であつたと思ふほどでありま

すから、上杉の加勢を收容する場所󠄁がどこにあつたか、長屋の建物からいつても人數

の證明は出來さうに思ふ。

 この晩に吉良の宿直として詰めて居りました足輕以上の者は何人位ゐたかといふと

二十二人、このうちで四人はびつくりして逃󠄂出してしまつたので、十八人の勘定にな

る。さう致しますと、四十六人の人達󠄁のうちで、家の中へ斬込󠄁みました人數と略々同

數であるのですが、吉良の宿直のもので、驚いて逃󠄂げたんではなしに、全く火事と思

つて、そこから飛出してしまつたものが六人あるので、抵抗しましたものゝ數は十二

人でありました。討入ました浪士の方の手分󠄁の樣子を見ますと、表門から二十三人、そ

れが四手に分󠄁れて、玄關から家の中へ進んで參るものが九人、側面の方を警戒するも

のが一手、表門を背にして控へてゐるものが一手、東側の小屋の七軒の押へになるも

のが一手、かうなつて居りました。裏門から二十三人入りまして、小玄關から突入す



るものが九人、あとはこれも側面と裏門を背にして陣取つてゐるものと、これは三手

であります。さうしてこの手紙の中には、面白いことが書いてある。蹈込󠄁んで來た赤

穗浪士は、蠟燭を搜すといつて、蠟燭箱を取り散して使󠄁つた。そこに客に出すやうな

菓子が置いてあつたら、皆で取つて摘み食をして居つたといふことです。吉良の家老

の齋藤宮內は、あまり凄じい音󠄁だから、びつくりして長屋から出て見た。さうすると

長屋の方を警戒してゐた浪士が忽ちやつて來て、お前󠄁は何者だといふ。私は下々のも

のですから、何もわかりません、といつたけれども、なりを見ると絹著物を著てゐる。

これは相應なものだらう、隱さずに云へ、といふと、ぶる〱 ふるへて、皆樣も御苦

勞に存じます。どうか私の小屋へ御立寄下さいまして、お煙󠄁草でも召上れ、と挨拶を

したので、浪士も笑ひながら放してしまつたといふことが書いてあります。

 泉岳寺書上では、兩刀をつかつて、凄じく强いやうになつてゐる小林平八、これも

當時の通󠄁信によつて見ますと、小屋から出ると直ぐ捕へられて、下々のものだ、と答

へた。やはり著物がさうでない、といふ問答をして、それから主󠄁人の居間に案內せよ、

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といはれた。決してそんなことは知りません、といつてゐるうちに、誰かわからない

が面倒なやつだ、といふので、直に首を打つてしまつた。まことに呆氣ないものだつ

たやうです。須藤與一右衞門、鳥居利右衞門の二人は、上野介親子が其方へ逃󠄂げ、此方

へ逃󠄂げするのに附纏つて、最後までついて居つた。遂󠄂に斬殺されたのですが、鳥居の

首は眞二つになつて、見るも氣の毒な有樣でありました。淸水一學も主󠄁人親子に附纏

つてゐて殺されました。

 その中で山吉新八、この人は當番でなかつたので、やはり小屋に居りましたが、あ

まり騷がしいので、無刀で出て見ると、もう敵は槍衾を作つてゐる。急󠄁に立戻りまし

て、間に合はないから、小刀だけ摑んで、玄關口から家の中へ入つて行つた。小屋の

中から出て、吉良の本屋の中へ入つたものは、この人一人で、あとは皆小屋のうちに

ゐづくまつて小さくなつてゐたのです。この人だけ入つて行くと、三人かゝつて來た。

一人を池の中へ投込󠄁み、一人を緣側へ押つけて、行過󠄁ぎようとすると、又一人やつて

來て、鬢先から口の脇へかけて斬つけられた。そこでそこへ打倒れてしまつたが、又



漸くにして起󠄁上つて、どうも奧が案じられるから、奧へ急󠄁いで行く途󠄁中で、又二人の

人に立向はれましたので、たうとう左兵衞の居間の脇のところで、倒れて前󠄁後不覺に

なりました。この人が一番働いたらしい。上杉から左兵衞につけられた三人は、皆米

澤藩の士の二男三男のうちで、手當三兩を貰つてこゝへ來てゐる。その中で山吉だけ

がかういふ働きをしたのであります。この疵は幸に全快しまして、左兵衞が流される

時分󠄁にも、この人はついて行つて居ります。左兵衞は配所󠄁で死にましたが、山吉はそ

の後米澤へ歸參しまして、この人だけは大さう褒められて、新に百五十石を賜りまし

た。この人の後裔は山吉盛󠄁典といひまして、靑森縣知事などをつとめたことがありま

す。この人だけが一番氣が利いて居ります。

 同じ上杉から來てゐる村山甚五左衞門などは、當夜泊番で、左兵衞の次の間にゐた

のですが、大小も置放しで逃󠄂げてしまつた。これがひどく御笑草になつた男で、この

他にも五人ほどの死骸で、誰々であるかわかりませんが、大小も持たず、大小と隔つ

たところにあります。大體に於て四十六人の人達󠄁が、ひどい怪我をして居らないので

287

山吉盛󠄁典:青森県知事ではなく福島県令(=県知事)か

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もわかりますが、吉良の方に抵抗するものゝ無かつたのも、かういふ事柄で察せられ

ると思ひます。

 當夜のこととしては、前󠄁後わづか四時間で、表門も裏門も締めたまゝで、事を果し

たのでありますから、後世で云觸らすやうな、騷々しい、大きな事柄ではなかつたの

であります。


      大石の十八箇條申開


 さてこれで「泉岳寺書上」の方に戻りますが、上野介の首を船に載せて泉岳寺へ屆け

たといふのも無い話なら、片岡源五右衞門、神崎與五郎、寺坂吉右衞門の三人が泉岳

寺へ先發したといふのも無い話、めい〱 に自分󠄁の戒名を拵へて持つてゐたといふ、

これも無い話であります。泉岳寺で、切腹した晩に、四十六人の戒名を明方までに大

急󠄁ぎで拵へた、といふのが事實で、自分󠄁で戒名をつけてゐた抔どは、以ての外のこと

であります。又火消󠄁の裝束で一同はゐたが、その上を脫ぐと、下は殘らず、鷹の羽の



定紋のついた、熨斗目長上下の姿であつたといふ。そんな芝居がゝりな行裝をして敵

討に行つた、とは考へるさへ馬鹿々々しい。君侯の紋のついた著物を著ますのは、御

目見以上のもので、熨斗目も平士以下の著るものではありません。長上下などは、重

役でなければ著るものではない。四十六人の中で、さういふものを著ることの出來る

身柄のものといつたら、三四人しかありますまい。著てゐるどころではない、持つて

ゐもしないものが多いのです。

 それから大目付のところで、いろ〱 な應對したことが書いてありますが、これも

他の書物の何にも無いことであります。この譃つぱちの應對から、大石十八條申開

などといふやうな、飛んでもないことが出來て居ります。又泉岳寺から、上野介の首

を本所󠄁の屋敷へ送󠄁つたといふこと、これについても、寺社奉行の御聲がかりで返󠄁した

やうに書いてあるが、これは間違󠄂で、內意を受けたとでもいへばまだしものこと、決

して寺社奉行から、さういふことを泉岳寺に命じたのではありません。これは全く菩提

所󠄁の萬松院と、泉岳寺との交渉で本所󠄁へ屆けたので、それも首桶に入れたのではなく

289

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白無垢の小袖に包んで、上野介の首を送󠄁つたので、それには內藏助の封印がつけてあ

る。その外に鼻紙袋と守袋、これは首を獲た證據に持つて來た。それをも添へて返󠄁

しましたが、この二品にも內藏助の封印がしてある。それが十八日で、その日に萬松

院で葬儀を行つた。これを上杉方の當時の通󠄁信で見ますと、如何にも內藏助は念入な

人で、これほどに行渡つてゐるといふことを書いて、ひどく感心して居ります。

 書上の話が皆譃つぱちであることは、これでよくわかつてゐる。況して泉岳寺から

首送󠄁りをするのに、大勢人足をつけて、仕事師二十人を雇つて連れて行つたやうに書

いてあります。元禄度には、鳶の者とか、手子の者とかいふものはあつたが、仕事師

なんていふものはありません。仕事師といふ言葉が出來たのは、寬政以後のことで、

それ以前󠄁にはなかつたのです。ですからこの書上は、大變あとで何者かゞ、いろ〱 

な書物を眺めもせずに、聞きはつりで揑造󠄁したもので、その時代も略々推測されます。

重野さんが早く僞書であると御覽になつたのは、まことに結構なことだと思ひます。

それをも顧みずに、昔はともかく、大正、昭和の世間になつても、まだこれを、有力



なものゝやうに使󠄁つてゐるものゝ多いのは、まことに沙汰の限りだと思ひます。

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進・遠:之繞が二点之繞

職:音が音󠄁

周:調󠄁の旁

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