泉岳寺の寶物館
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大石良雄の迷󠄁靈
江戶中では、松阪町へ討入を致した時よりも、四十六人が四所󠄁で同時に切腹を致し
たことの方が評󠄁判󠄁が高うございました。江戶の人達󠄁はよほどこれに心を惹かれたもの
と見えまして、とんだところでとんだ話を私どもまで聞いて居ります。小學校󠄁の友達󠄁
で、下谷徒町二丁目に住んで居りました戶塚辰松といふ人がありまして、その人の會
祖父を如水といつた。百八つまで存生で、大さうおめでたい老人であるといふので、
明治の初年にはこの人の書が大分󠄁持囃されたことがあります。大分󠄁能書でもありまし
た。この如水老人た古河の土井さんの家來でありまして、江戶の屋敷で育つた男なの
であります。この如水さんが曾孫に當る辰松に對してよく話された中に、わしが子供
の時に祖母に抱󠄁かれてゐてひどく泣いたりすると、晩には赤穗浪人の幽靈が來るとい
つて嚇されたものだ。その時分󠄁には江戶の武家屋敷で、よく赤穗浪人の幽靈が來る、
といふことを云つたものだ、といふ話だつたさうです。かういふやうなことでも、四
十六人が切腹したといふことを、皆がどういふ風に感じたか、といふことが思ひやら
れます。
さういふ風に江戶中から思はれたのですから、武士達󠄁が四十六人の心持や仕業に就
て感心をして、泉岳寺へ參詣致します外に、物見高い市民のことですから、中々泉岳
寺は賑かでありました。四十六人の死骸は、時を移さず泉岳寺に送󠄁られて、主󠄁人の內
匠頭長矩の墓の側へ、丁度あいてゐる地面があつたので、そこへ一同に埋葬されたの
でありまして、二月十日、初七日になりましては、先君の後室である瑤泉院が御施主󠄁
で、法華千部の供養󠄁がありました。瑤泉院の御實家の三次から、固めの武士も遣󠄁され
て、法要を行はれました。が、急󠄁にそこに墓碑を立てるといふ事になりますと、赤穗
の城主󠄁淺野內匠頭長矩の忠臣誰々といふ肩書をした石碑を立てる筈であつたのが、寺
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社奉行がこれを禁じまして、忠臣といふのはいかん、家來と書け、といふ命令を出し
て、文󠄁字を取替へて立てるやうになりました。
それから又更に、人がその近󠄁所󠄁に立入つて、夥しく混雜する。何しろ國法によつて
處分󠄁を受けた者共であるから、多少の遠慮をしなければならぬのに、憚りげなく大勢
參詣して、雜沓するやうではよろしくない、といふので、寺社奉行が又命令して、墓
の傍へ入込󠄁めないやうに圍をして、入口に鍵をかけて、寺へ斷らなければ墓參が出來な
いやうにした。これはあまり評󠄁判󠄁が高く、あまり雜沓しますから、寺社奉行が命令し
て、さういふことをさせたのでありますが、一般にはそこで女が自殺をした。それは
二月七日の日で、これが間十次郎の妻であつたともいひ、磯貝十郎左衞門の馴染の女
だつたともいひ、いろ〱 なことがいはれて居りますが、これはどうも間違󠄂であつた
やうに思ふ。それと同じやうな間違󠄂であるのは、內匠頭長矩の墓の側に女の石塔があ
る。これは長矩の乳母が殉死したのだといつてゐますが、さうではなく、逆修といつ
て、生きてゐるうちに自分󠄁の墓所󠄁を作つたので、殉死ではありません。そんなのと同
じ間違󠄂で、女が自殺したから寺社奉行が垣根をしたんだ、といひ傳へられて居ります
が、これはどうも間違󠄂らしい。且つ入れないやうにして雜沓を制して居りましたが、
一方に誰がするともなく、二月の中は勿論、四月頃まで法事供養󠄁が絕えず續いて居つ
たやうであります。けれども寺社奉行はその邊の混雜を制して、妄に墓地へ立入らせ
ぬやうにして居りましたから、混雜は追󠄁々減つて行つた。
法要等も內輪に
さういふ風でありますから、四十六人を旌表するといふことも、墓所󠄁や何かでする
ことがすべて遠慮されて居つたので、三回忌に當ります寶永二年の二月四日に、仙桂
といふ比丘尼の名で、四十六人がぐるりと丸く埋められてゐる墓場の眞中のところに、
石の地藏樣が出來た。その臺石には長矩及四十六人の冥福を祈る意味が書付けてあり
ますが、それだけのことで、これも瑤泉院の心から出たことであるらしいのに、自分󠄁
の御名を避けて、殊に心易かつた比丘尼の名を以て立てられた。今日に至るまで、誰
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が立てたのか、何故に立てたのかを誰からも吟味されて居ないほど、この地藏樣は世
間の耳目に外れて居ります。この地藏を立てた仙桂といふ比丘尼は、どういふ人であ
つたか、よくわかりませんけれども、常々瑤泉院へ御出入してゐる尼でありまして、
この地藏樣を拵へました翌󠄁年、寳永三年の九月九日に、八丁堀の船番所󠄁からの知らせ
によつて、大島へ流人になつて居りました吉田忠左衞門の二男の傳內、村松喜兵衞の
二男の政右衞門、この二人が御免になつて到着いたしました。これは仙桂比丘尼が働
きまして、增上寺から特に恩赦を願ひまして、特に許された。增上寺の方から寺社奉
行の方へ打合をして、七日にもう八丁堀まで來て居つたのですけれども、その手續が
濟みませんので、九日まで置いて、九日の日に仙桂へ沙汰をして、船番所󠄁から渡した。
それから仙桂は、その次第を瑤泉院へ申上げまして、この兩人を坊主󠄁にしました。傳
內は惠學、政右衞門は無染といふ名にしました。
曾我城前󠄁寺の住持
一體義士の子供らが流罪になりますのは、四十六人の中で、子供でございますもの
が十四人ありまして、その十四人の子供の數は、女子は省きますから、男子だけ十九
人ありました。十五歲以下のものは、その保護者に預けて、十五歲になつた上で遠島
になる。さし當つて十五歲以上のものだけ流刑にするといふのでありまして、當時二
十五歲でありました吉田傳內、二十三歲でありました村松政右衞門、二十歲でありま
した間瀨久太夫の伜貞八、中村勘助の伜であります十五歲の忠三郎、この四人が流刑
になつた。さうして普通󠄁には、寶永六年正月に綱吉將軍が薨去されまして、法事が
ありますので、同年の五月一日に赦免されて、江戶へ歸つたといふことになつて居り
ますが、どうもさうではなく、それより前󠄁の寶永三年に、特に許されて歸つたやうで
あります。
この四人の中で、間瀬貞八は寳永二年四月二十七日に大島で死んで居ります。中村
忠三郎はどうなつたかわからない、吉田傳內、村松政右衞門は、前󠄁申した通󠄁り、歸つ
て坊主󠄁になつた。この歸つて來た二人のことについては、親戚に當ります吉田忠左衞
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門の娘、即ち傳內の姉が、苅屋の城主󠄁本多中務大輔の家來、伊藤十郎太夫のところに
嫁に行つて居ります。そこで傳內も歸つて來てから、父の祿そのまゝ、本多家の家來
になつたと傳へられてゐる。政右衞門は親が切腹する時に、已に旗本の小笠原長門守
のところへ奉公して居つた。だから歸つて來ても、こゝに仕へてゐたらう、といふこ
とになつてゐる。忠三郎は母の甥であります白川の城主󠄁松平󠄁大和守の家、三田村十郎
太夫といふものがありまして、そこに母と共に居つた。歸つて來た後も、この白川の
殿樣のところに奉公することになつたんだらう、といふことになつてゐる。けれども
これが寶永の大赦によつて歸つて來たのではなくて、增上寺が手を廻󠄀し、仙桂が世話
して特に赦されたのでありますから、死んだ貞八は仕方が無いが、二人と一緖に歸つ
た忠三郎も、當然坊主󠄁になるべきであるのに、さつぱり行方がわからないから、これ
が甚だ不審なことと思ひます。歸つて參りまして坊主󠄁になつた二人、この行方につい
ては、どうなつたかといふことを、多少氣をつけて居りました。坊主󠄁になつてしまつ
たのですから、若し旗本の小笠原長門守に仕へるとすれば、還󠄁俗しなければならん。
これがわからない。傳內に致したところで、本多家に仕へるなら、どうしても還󠄁俗し
なければならないが、この方は還󠄁俗しなかつたといふことを見つけました。先年曾我
兄弟の事蹟をしらべる爲に、曾我の中村の城前󠄁寺といふ寺へ參りました時、本堂の直
ぐ前󠄁に萬日回向の銅佛がある、丁度日の暮方で、その銅佛の背中に日があか〱 とあ
たつてゐる。見るともなしに、その文󠄁句を見ますと「膽譽上人弟子當寺十四代還󠄁蓮社到
譽上人達󠄁玄愚忘」とある。その小書を見ると、赤穗城主󠄁淺野內匠頭長矩家來吉田忠左衞
門兼󠄁亮躮とチヤンと書いてある。さうしますと前に惠學といふ名になつた傳內も、到
譽上人といふやうな上人號を貰つて、この寺の住職となつた。この銅佛を建てたの
は、元文󠄁元年でありますから、數へて見れば五十八歲になつて居ります。まことには
や世間の事柄は面白いもので、曾我兄弟の菩提を營むこの城前󠄁寺に、吉田忠左衞門の
子供が住職をするなどといふのは、如何にも面白い廻󠄀合せで、まことに感慨の深い
話である。かういふ段取を與へましたのは、この義士の墓の眞中へ、お地藏樣を立て
た仙桂比丘尼であります。
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はや:いやはや
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初めての建碑
それから享保二十年の二月四日は三十三回忌になります。この時に南條俊賢、小兵
衞と申しました。この人の撰文󠄁の碑が建ちました。現在もこれは立つて居りますが、
このことについて神田白龍子、これは軍學の講釋で當時に名高い人で、大名や諸旗本
の中へ、彼方此方と軍書の講釋をして步いた人であります。この人の書いたものを見
ますと、自分󠄁は四十六人の中の木村岡右衞門の從弟に當る。それだからこの碑文󠄁も自
分󠄁が代作して、南條に建てさしたのだ。けれども千部の供養󠄁をすることは、幕府に對
して憚らなければならないから、五百部の供養󠄁にして、當日は親戚その他のものだけ
參詣した。寺の方でも四十六人の身寄の人だけを特に饗應してくれた、といふ記事が
あります。
その次は五十回忌でありまして、寶曆二年、この時は大分󠄁大きな法要が行はれたら
しい。が、施主󠄁は誰だかわからない。或は細川家だといふ說もありますが、よくわか
りません。この時に四十六人の親戚身內の者共のうちで、實子が燒香したのは富森助
右衞門だけで、その他にもあつたのですけれども、江戶にゐませんから、燒香が出來
ない。この時に實子で燒香をした唯一人の富森助右衞門は二代目でありまして、子供
の時の名を長太郎と申しました。これは十五歲以上流刑になるといふので、何しろそ
の時二歲でありましたから、島流しにならずにしまひました。そのうちに大赦が行は
れましたから、そのまゝ居なりで赦免になつてしまつた。親が切腹いたします時分󠄁に
は、親戚である愛宕下の田村右京太夫、これは主󠄁人の長矩が腹を切つた屋敷で、その
家中に菅治右衞門といふものがある。その家に母と共にゐた。一體助右衞門といふも
のは、親からが金滿家でありまして、よく諸大名の御用達󠄁をつとめて居つた、當寺江戶
で知られた金持住江仙右衞門の親類で、四十六人のうちで金に困らない有福なのは、
富森助右衞門と、杉野十平󠄁次だけでありました。それですからその子の長太郎も、浪人
いたしてもさう困るなどといふことは無い。水口の殿樣であります加藤佐渡守は、や
はり御用達󠄁のはうからの緣故もあつたのでせうが、まだ二歲である長太郎に百石與へて
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自分󠄁の家來にしました。だん〲 成長して、親の名を繼いで助右衞門となり、水口の
御留守居をつとめてゐました。この二代目の助右衞門が、唯一の實子燒香者でありま
した。
日本一の大開帳
それから寬政八年二月二十八日から、泉岳寺で義士の開帳といふことをはじめた。
これは日本一の開帳といふので、大評󠄁判󠄁になり、なか〱 盛󠄁んでありました。百年忌
といふのですが、實際勘定して見ると、九十六年にしかなつてゐない。これまでは親
戚が主󠄁となつて、法事をつとめるだけで、大びらに公衆に對して、法事をするの、法
要をするのといふことはなく、遠慮勝󠄁に執行して來たのに、こゝになると開帳といふ
名目で、どん〲 やつた。この時にはもう四十六人が當時携へて居りました武器や遺󠄁
墨、その他のものを陳列して皆に魅せた。その目錄を刷物にして出しも致しました。
九十六年でありまして、本當の百年ではないが、是まで隨分󠄁忠義であるとか、義士で
あるとかいつて評󠄁判󠄁されて居りながらも、法事抔のことは氣兼󠄁なしに大びらにやるこ
とを致しかねて居つたのに、こゝではじめて公衆に對して、遺󠄁品や遺󠄁物の目錄の刷物
まで出して御開帳といふことで賑かにやれました。その目錄を見ますと、總數は五十
二點ほどでありまして、內藏助が主󠄁人の墓で讀みました祭文󠄁、懷中して居りました口
上書、長矩が自殺致した九寸五分󠄁、吉良の家の繪圖、吉良の子供の左兵衞の持つてゐ
た長刀を分󠄁捕つて來たのが一ふり、 墨蹟などを見ますと、大高源吾の手紙が一通󠄁、同
人と堀部彌兵衞、神崎與五郎の發句の短冊を一枚づつ、といふやうなのが、先づ目立
つたものでありました。それを文󠄁化󠄁五年三月には大阪まで持出して、天王寺で義士のお
開帳をやりました、霊寳は前󠄁年のと略同じでしたが、四十六人の石塔を木造󠄁した墓所󠄁
の模型を出陳しました、是が大阪出開帳の景物と思はれます。
龜田鵬齋が義士碑を建てましたのは、文󠄁政二年の三月十四日で、その時分󠄁にはもう
寳物を錢を取つて見せるのみならず、義士堂は出來てゐないやうでありますが、義士
の木像は出來て居つた按配であります。ところで折角鵬齋が書いて立てました碑は、
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「鈞公亦義士哉」といふ文󠄁字がありまして、當寺の住職も義士だ、と褒めて書いた。
その當時の泉岳寺は、先代からの相弟子が寺を爭つて居りまして、鵬齋に碑を建て
さした坊さんは、爭に負󠄂けて退󠄁寺した。あとで出て來た住職は、先代のしたことは面
白くないし、殊に先代のことが褒めてあるので、その碑を引倒して、滅茶々々に敲い
て讀めないやうにした。さうして寺社奉行から內訓があつたから倒した、といつて譃
をついてゐる。泉岳寺にはよろしくないものが多いが、これなども甚だよろしくない。
それを飛んでもない時分󠄁に腹を立てゝ、先年政敎社で新しく、前󠄁に建てた通󠄁りの碑を
建てました。この碑を建てましたについては、當時鵬齋は石摺を澤山拵へて、それを
持つて遊󠄁歷に出かけて、行く先々の書畫會で景物に出して、金を儲けたといふ位で、
こゝまで來ると、もう何の心配もいらなかつたのである。けれども寬政以前󠄁に在つて
は、なか〱 そんあことは思ひもよらない。方々に遠慮しなければならなかつたので
あります。
寳曆に五十回忌をやりましたあとで、木挽町の森田座で、「假名手本忠臣藏」をやり
ました。これは寶曆四年の秋興行であつたやうに思ひます。この時山本京四郎の由良之
助が大評󠄁判󠄁だつた。それから前󠄁にも赤穗義士の芝居はありました、操りはもつと早くか
らあるのですが、假名手本をそのまゝ芝居にしてやつたのは、この時がはじめでありま
す。これより前󠄁にも、赤穗義士を書込󠄁んだものはある。だが淨瑠璃を丸でとつたのはあ
りません、その時の評󠄁判󠄁は大變だつたやうですが、廣島では勿論、霞關の淺野家でも、
四十六人の噂もしない。これはどうも不思議な話で、よほど自慢顏に、得意でありさう
なものですが、一向そんな話をしない。どうしたことかと思ふと、藩の歷々の人で、大石
等と連盟せずに外した人の親類が澤山あるので、四十六人の評󠄁判󠄁もうつかり出來ない
ところから、藩中でもその話をせずに、黙つてゐるといふ有樣だつたさうであります。
泉岳寺住職の私慾
かういふ風でありますから、法律で禁ずる、禁じないの外に、義理固い武士らしい
人だといふことも、遠慮が無さゝうなものでなか〱 遠慮がいる。維新の話が今日に
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なつても打明話が出來ない、といふことでもよく察せられる話で、寬政になつて御開
帳騷ぎが出來るやうになりましたのは、やつとそんな引絡まりが取れたのでもありま
せう。さてそうなると、當時は隨分󠄁御開帳といふことがはやつてゐるやうでもありま
したが、何しろ評󠄁判󠄁の高い四十六人のことでありますから、日本一の開帳といふので、
すばらしい景氣だつた。ところで面白いことになるのは、義士の遺物といつて出すべ
き品物は、實を申すと泉岳寺には一點もない筈である。その癖四十六人を御預り申し
た四家の大名衆からは、その人々が持つてゐたり、身につけてゐたりしたものは、御
預り中に與へたもの、使󠄁はせたもの、例へば夜具蒲團のやうなもの、⻝器󠄁のやうなも
のから、その部屋で使󠄁つたところの茶碗のやうなものまでも、悉く泉岳寺へ持つて
行つた。それだから大變にあるわけである。ところがその時の住職でありました酬
山といふものが、何しろ評󠄁判󠄁の高いだけに、武士連中から、いろ〱 な無心をいつて
その品を讓受けたいといふものがある。又賣りさへすれば、何程󠄁かになるので、す
つかり賣拂つたのでせう。その中でも大石と堀部の二軒では、親類のものが申込󠄁ん
で、遺󠄁族のあるものであるから、自分󠄁どもに貰ひうけたい、形見にしたい、といふこ
とを二月五日に申込󠄁んだ。さうして置いて、程󠄁なく行つて見ると、もう何も無い。大
さうそれが面倒で、やかましい問題にはなつたが、たうとう手に入らずじまひであつ
たらしい。この酬山といふ人が遺󠄁物を皆賣拂つて、大分󠄁の金を得たといふことについ
ては、當時も相當に非難があつたらしい。大名衆四家からの御布施や、その他いろ
〱 の收入があつて、現在の山門はその金で出來たのだといひますのに、酬山はいひ
わけに困つて、山門を拵へる金にする爲に遺󠄁物を賣つた、寺に刀や薙刀は似合しくな
いから、皆賣つたのだ、といふいひわけをした。現に僞造󠄁だといふことは明かにわか
つてゐますが、二月二十六日の日附で、出口與市左衞門といふ人に與へた讓狀とい
ふものがある。それは酬山から、矢頭右衞門七の大小、槍一筋、內藏助の守袋にあ
つた義經の具足の切、これだけを與へた書付であります。こんなものでも無いと、あ
との坊さんが、先代の者が欲張つて賣つてしまつたといはれるのが厭だから、こんな
ものを揑造󠄁したんぢやないかと思はれる。事實は當時賣拂つてしまつた、といふのが
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本當らしい。一つや二つの書きものではなく、いくつものものに、酬山が欲張つて賣
飛したといふことが書いてあります。
さういふわけでありますから、日本一の開帳の時の品さへ、甚だ疑はしい。その時
には成程󠄁、內藏助の武器の如きは一點もありませんで、呼子の笛と硯箱だけしかない。
堀部のものは一點も無い。それでさへも、綺麗に賣つてしまつたといふことから考へ
るとをかしい。けれどもその外を見廻󠄀しても、著込󠄁でありますとか、袖印であります
とか、鎻頭巾でありますとか、鉢金でありますとか、肘當でありますとか、賣つても
金になることの少いものだけが並べられてある。ところへ持つて來て、現在の寳物館
といふものを眺めますと、四十六人にゆかりのありさうに見えるものが百七八十點も
あります。殊に大石內藏助のものゝ如きは澤山ある。堀部親子のものも澤山ある。こ
れほどあつたならば、當時に於て兩方の遺󠄁族からやかましく云はれて、面倒を生じさ
うなことも無し、これほどあるならば、何故はじめての開帳の時に出さなかつたらう
と思はれる。これは當初賣拂つてしまつたものは、なか〱 戾つて來ないので、だん
〲 に戾つて來たのだといへば、いひわけが出來ぬことも無い。私は寳物館を見て、
端から〱 目錄を作つて置きました。
菅谷半󠄁之亟、原惣右衞門籠手各々一双、
間喜兵衞鎻襦袢、茅野和助脛當、
木村岡右衞門、寺坂吉右衞門、小野寺十內籠手各々一、
吉田忠左衞門脛當、原惣右衞門鉢がね、
大石主󠄁稅革の手袋、神崎與五郎鉢がね、
大高源吾筆額面、大石傳來菅公自作之如意、
天野屋利平󠄁脇差、村松三太夫刀、不破數右衞門刀、
武林唯七刀、岡嶋八十右衞門刀、小野寺十內硯箱、
大石妻女文󠄁箱、天野屋利兵衞金箱、
山科閑居鬼の面の火鉢、大石家所󠄁傳文󠄁箱、
奧田孫太夫刀、神崎與五郎刀、小野寺十內色紙、
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大石內藏助自畫賛武田信玄幅、大石主󠄁稅畫幅、
大高源吾自畫賛、大石內藏助色紙、
內藏助金丸源吾十內寄合書、
大石內藏助が僕八助に與へたる自畫幅、
木村岡右衞門、赤埴源蔵、片岡源五右衞門、村松三太夫刀各一口、
大高源吾、吉田澤右衞門長刀各一振、
吉田忠左衞門陣羽織、同人鎻襦袢、
富森助右衞門著込󠄁、吉田忠左衞門差物、同人籠手、
赤埴源蔵鉢鐵、原惣右衞門腰當、
倉橋傳介、間新六半󠄁弓各一張、
貝賀彌左衞門、赤埴源蔵、大高源吾刀各一、
小野寺十內、大石內藏助脇差各一、
堀部彌兵衞筆はけや看板、
大石內藏助筆掛板、
大高源吾手紙、同筆竹の畫、同筆長歌半󠄁折、
大石主󠄁稅短刀、吉田忠左衞門刀、寺坂吉右衞門脇差、
富森助右衞門、原惣右衞門刀各一、
三村次郎左衞門富森助右衞門槍各一、
大石內藏助、赤埴源蔵、間瀨久太夫刀各一、
神崎與五郎、大高源吾、、原惣右衞門、磯貝十郎左衞門槍各一、
堀部安兵衛分󠄁捕吉良左兵衞の長刀、
同人筆齒磨󠄁や看板、同人鐵鍔、
大石內藏助手紙、同短冊、同刀二、同小づか、同太刀、同采配、同家傳來大小鍔、
木村岡右衞門、大石主󠄁稅、菅谷半󠄁之亟刀各一、
大石內藏助、早水藤左衞門、岡嶋八十右衞門呼子各一、
肩印三枚、
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淺野長矩切腹の刀、同奧方短刀、
大石內藏助、間喜兵衞木刀各一、
大石主󠄁稅所󠄁持觀音󠄁像、
潮田又之亟鎖󠄁頭巾、間新六鎖󠄁襦袢、
小野寺十內麻󠄁襦袢、
大石內藏助手紙、同懷中口上書、同人鏡、同人茶壺
勝󠄁田新左衞門、茅野和助、武林唯七刀各一、
大石主󠄁稅槍、大高源吾短冊、同自畫賛、
原惣右衞門鍔、矢田五郎左衞門、堀部彌兵衞、神崎與五郎刀各一、
大石內藏助盃、堀部彌兵衞茶壺、
大石內藏助祭文󠄁、
勝󠄁田新左衞門、不破數右衞門、間新六、間重次郎、大石瀨左衞門槍各一、
寺坂吉右衞門、小野寺十內、杉野十平󠄁次、大石瀨左衞門、片岡源五右衞門、木村
岡右衞門刀各一、
大石主󠄁稅、中村勘助籠手各一雙、
堀部彌兵衞持槍、寺坂吉右衞門、倉橋傳介腰當各一、
潮田又之亟兜、貝賀彌左衞門鉢鐵、
堀部彌兵衞含燈、同鉢頭巾、大石瀨左衞門手紙、
大石內藏助野遊󠄁器󠄁、同盃、同兜二、同瓢、
小野寺十內鷲爪、同著込󠄁、
杉野十平󠄁次、大石瀨左衞門兜
淺野長矩兜二、
前󠄁原伊助脇差、千馬三郎兵衞刀、奧田孫太夫、矢田五郎左衞門鉢鐵各一、
間喜兵衞頭巾、
近󠄁松勘六、大石瀨左衞門面鐵各一、
大高源吾げんきん生諸白看板、
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勝󠄁田新左衞門、間喜兵衞鎖󠄁頭巾、不破數右衞門、矢頭右衞門七籠手各一、堀部安
兵衞鎖󠄁襦袢、矢頭右衞門七腰當、倉橋傳介臑當。
これを一通󠄁り眺めて見ますと、委しく一品々々手に取つて見ることは、出來もせず、
又許されもしませんが、槪見したところで、天明の狂歌師がやつた寳合、存分󠄁に洒
落のめしたことなどが思ひ合されて、何となくをかしい氣が致します。
胡亂な物品の數々
寳物館の二階の眞中にあります。明治天皇が東京へおいでになつた時に、泉岳寺へ
賜りました勅宣があります。これは申すまでもなくお立派󠄂なものでありまして、神々し
く拜みましたけれども、その他の品々に至つては、これがどうして四十六人の遺󠄁物で
あるかといふことを聞きました場合に、その返󠄁答の困難でないものは無いのではない
かと思ひます。例へば內藏助の持つてゐた菅公自作の如意、かういふものは何と申し
ていゝか。それから大石の自筆の掛板、掛板といふのは禪宗の公案を書いたもので、
これが後々の掛物といふものゝ最初だ、といふ說があるものです。その方の智識の書
くもので、誰でも書くものではない。その位のことは、內藏助が知らないとは思はれ
ない。然るに掛板に自分󠄁で書いてゐる。又野遊󠄁器󠄁といふものがある。これは外箱があ
つて、中に辨當の箱が入つてゐる。シヤモジのついてゐる飯櫃もある。三重に重ねて
ある。それと朱塗の金蒔畫の「喧嘩口論堅無用、盃下に置くべからず、したむべから
ず、押へること無用、尤相手によるべし、助ること無用、但女は苦しからず」と書い
てある。これは名高い盃であります。この二品といふものは、現在安場男爵󠄂家にある。
殊にこの辨當箱の方は、小野湖山の箱書がある。盃の上は三重箱になつてゐて、内箱
の方に、これも湖山の自筆で「大石氏手製の盃」と書いてある。これが現に安場男爵󠄂家
にあるのです。ところが泉岳寺にもそれがあつて、殊に盃の方は半󠄁分󠄁碎けて居る。同
じものが二通󠄁りあるわけで、たゞ泉岳寺にある方がお粗末なだけです。それから大石
家傳來の大小の鍔が、五つ六つもあるやうでありましたが、中には鐵鍔もあるやうで、
甚だ粗末な品である。どういふわけでかういふものを傳來の品として、內藏助の家で
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保存したかが疑はれる。といふのは泉岳寺でつけた札を信用しての話であつて、それ
らは如何にも粗末な品で、どこかの古道󠄁具屋にでもありさうに思ふ。又山科閑居の鬼
の面の火鉢などといふものは、馬鹿々々しくつて何とも考えられるものではない。主󠄁
稅の持つてゐた観音󠄁樣だといふのも、如何にも製作の新しいもので、殊に厨子の半󠄁分󠄁
もないやうに、觀音󠄁は小さく、厨子は大きい。一見して厨子と佛樣は別々なもので
あることがよくわかる。如何にも下等な製作物で、時代もなければ品も惡い。こんな
ものは三十年前󠄁に柳原土手の大道󠄁店の道󠄁具屋で賣つて居たものだ。
內藏助の自畵像
それから呆れ返󠄁つたのは、內藏助が老僕の八助に自分󠄁の姿を畫いて與へたといふ自
畫像の掛物、石摺になつて隨分󠄁方々にあるものですが、能書は大変にあるもので、この
大石の自畫像のことは、「赤水鄕談」といふものに委しく書いてあります。元祿十四年の
四月十九日に、赤穗の城を渡しまして、その日のうちに內藏助は城を出て、城下の遠
城寺に立退󠄁いて居ります。それから數日を經まして、尾崎村といふところへ寓居いた
しました。この尾崎村と申しますのは、家來の瀨尾孫左衞門の兄弟の八十右衞門とい
ふものがある。この八十右衞門の世話で、こゝに寓居することになつたのだといひま
す。こゝで山科へ出るまでの間を過󠄁した。內藏助がこの尾崎村を立つて、京都へ出る
といふ話を聞いて、內藏助の祖父の代から使󠄁つて居りました老僕の八助が、赤穗城下
のかりや寺町といふ所󠄁に住んでゐる。その八助は、内蔵助の若い時分󠄁からお供をして
步いた旦那樣でありますから、馴染が深い。そこで暇乞に來て、あなたとは長い御馴
染で、御先代から御目をかけて下されて、何とも忘れがたいのであるけれども、愈々
此度當地を御引拂になる趣で、まことに御名殘惜しい。殿樣の內匠頭樣は、あゝいふ
ことで御切腹をなされて、お城も遂󠄂に公儀へ差出してしまふことになり、あなた樣も
亦御浪人なされるわけである。さて相手方の上野介殿は、御怪我も御直りなされば、
御身上に御障りもなく、まん〱 として御暮しになるといふことは、御家來としてあ
なたも御氣がかりであらう。定めて何とか御考へがおありのことでせう。さうして見
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ると、今度の御別れは、たゞ京都へいらつしやるだけの御別れでないかも知れません。
爺は取る年でございますから、重ねて御目にはかゝれますまい。いづれにもこれが御
名殘でありませうから、何ぞ御形見にいたゞきたい、と斯ういつた。その時に内蔵助
が、如何にも尤千萬だから何か遣󠄁はさう、といつて金包を出して、これは些細である
が、氣は心だから取つて置け、といつた。さうすると八助が、これは〱 あなたにも
御似合のない、さもしい御はからひでございます。爺は決してお金などをいたゞかう
と存じて、御暇乞に出たのではございません、御幼年の頃から御側について、御成人
なされて立派󠄂に御家老におなりになつたのを見上げて、行末を樂んで居りました私で
ござりまする、といつて淚をこぼして居ります。內藏助はこれを見て、これはどうも
自分󠄁が心得違󠄂をした、といつてその金をしまつて、それではお前󠄁に似合しいやうなも
のをやらう、といつて繪をかいた。それは十八歲の時にはじめて江戶へ下つて、その
時に八助を供につれて吉原に遊󠄁んだことがある。その編笠を深くかぶつて、八助を供
に連れて行つた時の繪姿を畫いて八助に與へた。八助はそれを押戴いて、どうもあり
がたう存じます。これでこそ御形見でございます。御筆の跡といひ、わけて又私の
姿までお畫き下されて、若い昔が思ひ合される御形見、これほどありがたいものはな
い、といつてそれを持つて歸つた。この八助といふものは、赤穗の城下に居ります齒
の醫者、木村玄光の妻の祖父に當るといふので、內藏助の畫が木村の家に傳はつて居
つた。それを寬政の時分󠄁になりまして、柳田武左衞門といふ者が乞ひ求めて、さうし
てあの有名な赤松滄洲に文󠄁章を書いて貰ひまして、それを珍藏して居つた。これを亦
滄洲の文󠄁と共に石摺にしまして、隨分󠄁方々にちらかつてゐるものであります。
かういふ話は又ちらかるもので、如何にも面白いと思ひますから、伴󠄁蒿蹊が「近󠄁世
畸人傳」を書きます時分󠄁に、「大石氏の僕」といふので、八助とこの繪のことを書いて居
ります。それから又方々へちらかつて書いてありますが、いづれともこれは寬政以後
の話で、だん〲 赤穗のことについて、遠慮の少くなる時分󠄁になると、得ていろ〱
なものが出て來る。大石の娘だといふ淸圓尼も出て來れば、堀部の娘だといふ妙海も
出て來る。なか〱 物騷千萬な話のもので、後々までその爲に欺かれてゐることを面
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白く思ふ。
先づ第一に十八歲の大石と申すと、延寶四年の話になる。現在泉岳寺にあります繪
などと申すものは、石摺になつてゐる原畫のわけですが、實に怪しからんもので、と
ても御話にならない。そこで先づよく見ますと、この石摺になつて居ります方の繪を
模寫したものらしく思はれる。が、その石摺の繪がまことに怪しからんもので、十八
歲の大石といふのが、熊谷笠をかぶつてゐるのはいゝかも知れないが、この時分󠄁に年
の若い者に口髭などの生えた人間がある筈は無いのに、これは鬚が生えてゐる。奴で
もないのに膝には三里紙を當てゝゐる。どうも不思議千萬な恰好をしてゐる。又八助
の方をよく見ると、これはまがふ方もない坊主󠄁小兵衞の姿である。紋につけた十の字
の撥方までが其の儘に芝居百人一首の揷畫で、この老僕が長い一刀をさしてゐる。僕
といつても中間なのでありますから、刀をさしてゐる筈が無い。だが坊主󠄁小兵衞の六
方なら其の通󠄁りで文󠄁句はありませんが、武家の奉公人としては此の風俗が請󠄁取れる譯
のものでない。さういふ變なものであるのに、誰も咎めない。よく〱 又考へて見る
と、この繪に何かおぼえがあるやうに思はれる。師宣のかいたものゝ中に、慥にこの
繪がある。それを誰かゞ模したので、それを赤松滄洲が知らずにこの記文󠄁を作つた。
それからこれが傳播して來たのである。さうするとこれから後の義士傳は、どれでも
この話を本物にして居ります。さうして今度はその怪しい石摺を又模して、泉岳寺へ
掛けてあるといふに至つては、言語道󠄁斷の沙汰だと思ひます。
一體泉岳寺のする仕事は、實に機會千萬なことが多いので、世間に傳はつて講談や
小說の何よりの材料になつてゐる、廣岳院承天の書いたといふ「泉岳寺書上」といふ
ものがあります。それによつて飛んでもない、いろ〱 な愚說が行はれたのである。
この本については、早く重野成齋翁󠄂が僞書と斷定して居られますが、講談や小說とは
振つても振りきれない惡因緣を持つてゐるものであります。これからこの書上につい
て、少し吟味して見ませう。
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感:心は一口の下、戊の中
遠:二点之繞にならず
船:旁が八→几
記:旁が己→巳
像:旁の日を横向きにした部位が、罓のメ→人。
霞:コ→マ
朱:木の二画目、左に撥ねる
郷:真中、白の下に匕
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