二月の四日

      切腹作法の御稽古


 義士の中に切腹の仕方を知らないものがあつたといふので、隨分󠄁評󠄁判󠄁になつて居り

ますが、その人は奧田孫太夫でありまして、身分󠄁を申せば、新參者ではありますが、

赤穗の馬廻󠄀役をつとめ、百五十石を貰つて居ります。年配はと申すと五十六になつて

ゐる。この人は新參者で、内匠頭長矩の代に赤穗へありついたのでありますが、その

祖父といふのは、奧州中村の相馬長門守の浪人であつたさうです。親父は一代浪人で

あつて、それから孫太夫といふわけで、これが町人や百姓の子供から成󠄁上つて、士に

なつたといふのではない、武家の家に生れたのでありますから、如何に浪人の子供と

は申せ、武士の嗜みがまるで無いといふことは、どうも考へられないのであります。

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然るにこの人は腹を切ることを知らなかつた。これは一面には、當時の武士といふ武

士が皆疊の上の奉公であつて、槪して武士の嗜みが薄くなつて居ります。それを證據

立てる一つの話だとも思へますが、四十六人で約束を極めて、本望を達󠄁した上は、無

論どうなるか位の心得はある筈である、今までは知らなくつて濟んでもゐたらうが、

この時は是非心得て置かなければならない位の氣はつきさうなものだと思ふ。赤穗の

城の明渡しから討入までと申せば、一年有餘の間がある。そのひまに習󠄁つて置けない

こともない筈である。それどころぢやない話で、それが、中小姓とか、足輕とかいふ

やうな輕輩であれば格別のこと、武士として武士の家に育てられたものが、それほど

の嗜みが無いといふことは、一體がをかしいのである。けれども奧田孫太夫は全く知

らなかつた。細川家へ預けられてから、つけられて居る堀內傳右衞門に對して、自分󠄁

は腹を切ることを知らないから、心得て置きたいといふ話があつた。堀內は、自分󠄁も

ためしもおぼえもないことであるが、式作法だけは知つてゐるといつて、著てゐる肩

衣を脫ぐことだとか、腹切刀の取りやうとか、肌の寬げやうとか、刀の突立て方とか



いふことを一應話した、さうすると孫太夫が、その型の通󠄁りを實際やつて見ようとい

ふので、今肌を脫がうとするところへ、磯貝十郎左衞門と富森助右衞門が出て來て、

そんなことはいらん稽古だ、その場になればたゞ打たれてしまへばいゝんだから、そ

んなことはよせ〱 、といつてとめてしまつた。この途󠄁中で遮󠄁つた二人は、その嗜みが

あつたからであるか、それとも今更そんなことを聞くといふことが、みつともないと

いふ心持から、外聞を厭つてそれを遮󠄁つたのか、その邊はわからない。けれども世間

では、孫太夫が不覺であるといふことは決して云はずに、まことに正直に打明けて、

それらのことを聞いて置かうとしたところに、いゝところがあるといつて、例の通󠄁り

褒めている。世間では四十六人のことといふと、何でも褒めるのだから、これもやは

り褒めるので、義士傳といふものは何でも彼でも頭から尻穗まで褒め通󠄁すのが珍しく

ない事柄でありますけれども、これは何としても不覺であり、不嗜みである。これか

ら考へて見ると、孫太夫は困るといけないと思つて、おくればせにでも聞いて見たが

聞くのは外聞が惡いし、實は知らないといふことから、そのまゝうち過󠄁ぎた人間もい

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くらもあつたらうと思ふ。


      賴三樹三郎も號泣した


 義士の切腹といふものについては、大さう委しく傳へられてゐるやうであつて、そ

の實傳へられてゐない。たまに傳へられてゐるのは、皆打消󠄁しつきで傳へられてゐる。

大石內藏助は見苦しい切腹ぶりであつたといふ。どんな風に見苦しかつたかは傳はつ

てゐない。けれどもさういふ筈は無い。あれだけの忠義に凝つた、然も四十六人の棟

梁である彼が、さう見苦しい筈は無い、といふ言葉で打消󠄁してしまつて、調󠄁べようと

してゐない。主󠄁稅と富森助右衞門は、切腹の前󠄁に當つて淚をこぼしてゐた。助右衞門

の如きは、新參者であるのに内匠頭長矩に引立てられた、その御恩を思ふと、今更淚

がこぼれるのだ、といつてその落淚をも打消󠄁してゐる。主󠄁稅も、まことに武士の作法

で、切腹を仰付けられたことが面目の至である、といふので淚をこぼしたのであらう、

といつてよく推量してゐる。こゝで思ひ出されるのは、安政の大獄のおしまひに、小



塚原で賴三樹三郎が首を打たれる前󠄁に、聲を放つて泣いた。時勢を憤る淚が絕えなか

つたのだ、といふ風に解釋されてゐるが、何の心持でどうして泣いたのか、それはわ

かつたものではない。一體が士氣を鼓舞して、團結の力で押して來たのでありますか

ら、四十六人の中でも有力な人は、如何なる場合にも心持の碎けることはない、きま

つた覺悟が動きさうもないが、それは四十六人皆悉くに望まれないことであつたら

うと思ひます。その切腹の模樣がどんなであつたかといふことは、僅に垣間見ること

が出來る。

 四十六人の人は、高輪の細川越中守綱利の屋敷で一組、これが十七人、愛宕下の松

平󠄁隱岐守定直の屋敷で十人、麻󠄁布長坂の毛利甲斐守綱元の屋敷で十人、芝の切通󠄁金地

院前󠄁の水野監物忠之の屋敷で九人、四所󠄁で略々同時に切腹してゐる。この四家では、

それ〲 皆當時の記錄を傳へて居りますが、細川家が一番人數も多く、その待遇󠄁も鄭

重であつて、記錄も分󠄁量多く世間に出てゐる。他の三家はこれほどではありませんけ

れども、いつれにしたところで、當代有數の忠義、武士らしい武士といふやうな氣持

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から、何につけても大事にして、丁寧な取扱であつたことは申すまでもない。そこで

二月四日切腹の當日、四家へ幕府から檢使󠄁として、御目付が一人、御使󠄁番が一人づつ

出張つて居ります。これが切腹の現場に立會つて見屆けることになつてゐる。この日

長坂の屋敷では、先づお扇󠄁子を十本紙に包󠄁んで、支度をして置いた。これは芝居や講

談で御馴染の扇󠄁子腹といふやつで、この紙に包󠄁んだ扇󠄁をとつて、腹へ當てるのを合圖

に介錯してしまふ。太平󠄁の世の中になりましては、切腹も本當に出來るものがなかつ

たのでありますか、いつからかういふ作法がはじまつたか知らないが、扇󠄁子腹などと

いふことが、もうはじまつてゐたのである。これでは切腹をさせるのではない、介錯

をしてしまふのであります。

 扇󠄁子腹の支度をして待つてゐるところへ、そこへ檢使󠄁に行きました御目付は鈴木次

郎右衞門といふ人でありましたが、この人は、扇󠄁子腹を切らしたとあつては面白くな

い、といふのでこれをやめさせた。この鈴木の指圖によりまして、長府の屋敷では、

小脇差の先を三分󠄁ほど出して、薄い板に挾んで、その上を紙捻でよく卷いて、その上



に白布をかけた、それを三方に載せて持出すやうに致しました。これならとにかく腹

へ突立てることが出來る。本當は腹を切つただけでは死ねないのでありますから、後

で自ら咽喉部を搔切つて死ぬのが本當なのだけれども、一般に介錯人がゐて首を打つ

てしまふ。だから刀は腹へ筋をつける位のものなのだが、それさへもさせないやうに支

度をして置いたといふことは、これはどういふ扱ひなのであるか。丁寧に取扱つて居

つたといふことは、四家が皆同じことであつて、當時の士どもは、誰彼の差別無く、

四十六人の人達󠄁は忠義の人である、といふことに感服󠄁し、立派󠄂な武士であると賞讃す

る上には變りが無い。その時に扇󠄁子腹などを切らせるやうな支度をして置いたことは、

どういふことでありますか。枕拍子や役者の聲色などをつかつて、タワイもなく煽り

立てられて來た、立派󠄂な武士だ、忠義な人だといふので煽られて來たものゝ、そこに

又いさゝか不安なものを感じて、立派󠄂なものゝ上にも立派󠄂なものにしたい、といふや

うな、武士としての同情󠄁もあつて、かういふはからひをしたのであることは疑も無い。

又さう見るべき要素があつたにも違󠄂ひなからう。

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      聲援を與へる檢使󠄁


 そこで御目付の指圖によつて、本當の脇差を使󠄁ふことになつた。併しそんならどう

いふやうに腹を切らせたか、といふところに立入つて考へて見ますと、こゝで腹を切

つたものは、岡嶋八十右衞門からはじまつて、小野寺幸右衞門に至る十人、そのうち

で村松喜兵衞は六十も超えてゐる人で、五番目に切腹した。喜兵衞は切腹の座に直つ

て、介錯人の氏名を尋󠄁ねて、お手を汚させ申してまことに相濟まない、且老人のことで

あるから、不手際なことも致すであらうから、何分󠄁よろしく賴む、といつて大さう丁

寧な挨拶をした さうして肌を脫ぐ時に、正面に見て居りました御目付の鈴木次郎右

衞門は「お見事でござる」と褒めた。幕府の御目付が切腹の場所󠄁に立會ふといふこと

は、かう多數の切腹人のところへ出て來た例は甚だ乏しいのでありますけれども、檢

使󠄁に來た御目付が聲をかける、聲援󠄁を與へるといふやうなことは、後にも先にもあつ

たことではない。それにこの腹を切る人が五番目であつたといふことも考へられる。



これは他を激勵する爲に、かういふ例外のことをしたものとしか見られない。かうい

ふ三百年間に例の無いやうなことといふものは、忠義な士である、立派󠄂な人である、

といふ爲の、感歎の聲であるとするならば、こゝで腹を切る十人のいづれもが、感歎

の聲をかけられなければならない。たゞ一人村松のみが褒められる筈は無い。その邊

のところは大に考へて見なければならないと思ふ。切腹の手際のどんなであつたかと

いふことも、何だかこゝで褒められたことによつて妙に推察されもする。

 こゝで思ひ出すことは、「忠臣講釋」の芝居、あの中で有名な彌助の鎌󠄁腹、これは神崎

與五郎の兄といふことになつて居ります。百姓の身ではあつても、弟に士を持つた

といふ力みから、腹を切らなければならない。たゞ死んでは弟に對して面伏である、

といふ心持から腹を切る。あの時の樣子は、如何にも芝居で見ましても思ひやられる、

たゞ胸に閊へるものは、武士を弟に持つたといふだけで、あれが腹を切れる。腹切の

つゝかひ棒になつてゐるのは、弟が武士になつてゐるといふことだけである。それを

もつと行越したものに、定助權八といふ雇人足の腹切がある。これも芝居でよくしま

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彌助の鎌󠄁腹:弥作の鎌腹のことか

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す。これは文󠄁化󠄁十五年七月の中村座の新狂言でありまして、「仇討揃達󠄁者」といふ外題で

「彦山權現誓助太刀」を書き替へたものでありますが、その中に絹川弥彌三右衞門といふ

人の槍持、佐五平󠄁といふものゝ腹切がある。これは後に天保度になりましてから、「平󠄁

井權八吉原通󠄁」といふのに書き替へられまして、出來事も小田原の出來事のやうになつ

て居ります。大名の家來ではなく、旗本水尾十郎左衞門の槍持定助といふものが、腹

を切ることになつてゐる。今やるのは大抵この小田原の方です。けれどもこれは中村

座の新狂言でありましたその前󠄁の年、文󠄁化󠄁十四年七月の出來事でありまして、隨分󠄁早

く芝居になつたのであります。

 これは奧州海道󠄁の大田原の宿であつたことで、會津の家來――この時の會津候は肥

後守容衆といはれた人――それが先觸なしに大田原の定宿へやつて來た。これは君

侯が江戶から歸國される宿割󠄀の爲に、先へ出てこゝへやつて來たのです。ところがこ

の宿には、相馬長門守益胤の家來が、先へ來て宿を取つてゐる。大名の參覲交代の往󠄁

來は、各宿ともに本陣に泊ります。さうして重役以下の家來が脇本陣へ泊る。どこの



宿でも本陣、脇本陣と二つある。尤も小さい宿には本陣しかないところもある。大き

い宿といつても、本陣が二つあるところは無い。だから一つ宿場へ大名が同時に二頭

以上泊ることは、殆ど出來ないので、さういふ時には一方が向うへ行き越すか、或は

一つ手前󠄁で泊るか、どうかして宿を取る。それがこの時は殿樣がまだ來てゐない。家

來だけ先へ來たのがかち合つてしまつた。けれども會津候の方は、こゝが定宿にな

つて居りますし、二十三萬石の大身であるのに、相馬の方は六萬石の小さい大名であ

りますから、宿屋の方でも仕方がないので、どこかへお代りを願ひたい、といつて相

馬の家來へ相談しました。が、此方は先にちやんと案內をして泊つたのだし、會津の

方は案內なしにやつて來て、先に泊つてゐる自分󠄁の方に、轉宿せよなどといふのは怪

しからん、といふのでなか〱 承知しない。だん〱 事が面倒になつて來た。問屋場

のものも西東へ奔走して、あれのこれのといつて、話をいろ〱 にして見るが、なか

〱 何方の聞かない。とゞのつまり仕方が無いものだから、相馬の家來の方に泣きつ

いて、どうしても宿をお替へ下さらなければ、當宿のものが大に迷󠄁惑いたします、ど

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うか枉げて御承引願ひたい、といつて賴み込󠄁んだ。相馬の方でも、たゞ定宿だか

らのけといふことなら、轉宿するわけには行かないが、宿方が迷󠄁惑するといふことで

は不愍だから、それなら轉宿してやらう、といふことで、やつと話のかたがついた。

會津の家來はそれで話がとゝのつたから、大田原の本陣に入り込󠄁んで宿を取つた。が、

退󠄁く相馬の家來の方では甚だ面白くない。宿の者に泣きつかれて、さうなつた以上は、

ぐづ〱 してゐても仕方が無いから、そこを引拂つて、相馬の家來の方は別の宿に移

つて來ると、自分󠄁のつれてゐる槍持が恐入つて出て來て、何とも申譯の無い事を致し

ましたが、御轉宿を急󠄁ぎましたので、御持槍を本陣へ置忘れて參りました、といふ。

それでは早速󠄁本陣へ行つて、さういつて取つて來るがいゝ、といふので、家來が持槍

を貰ひに行つて見ると、これはどこでもきまつたことではありますが、本陣に宿がき

まると、そこへ幔幕を打たせて、槍などを飾󠄁つて置くのであります。無論前󠄁には相馬

の方で、幕を張り、槍を立てゝあつたので、それを引拂つて此方へ移つて來た。向う

は相馬の家來が引拂つたあとへ乘込󠄁んで來て、幔幕を張り、武器󠄁を飾󠄁つて構へてゐる。



そこへ相馬の家來の槍持が行つて、まことに何とも恐入りましたが、先程󠄁主󠄁人の持槍

をこゝへ置忘れて參りました。どうぞそれをお返󠄁し願ひたい、といふと、先刻どくの

どかぬのといつて、妙に悶著したあとだから、會津の家來も妙に意地を持つたか、そ

れは渡されない、槍は武士の表道󠄁具であることは、貴樣も知つてゐるだらう、さうい

ふ大切なものだから、たゞ忘れましたといつて來たつて、迂濶には渡されない、といふ

返󠄁事をした。そこで槍持が困りまして、すご〱 歸つて來て、槍を渡してくれない趣

を主󠄁人に話した。さうすると主󠄁人は、それではわしが請󠄁取證を書いてやるから、それ

を持つて行きなさいさうすれば慥に此方へ請󠄁取つたことになるから……、たゞ忘れ物

だから渡してくれといつても、武士の大事な道󠄁具をうつかり渡して、間違󠄂があつては

ならん、といふところもあるのかも知れない、だからこれを持つて行つて持槍を貰つ

て來なさい、といつた。槍持もさういはれて見れば、槍は大切なもので、武士の表道󠄁

具に相違󠄂無いのだから、それを忘れたといつて、おいそれと渡さぬといふのも尤千

萬である、と思つたので、その書付を持つて又本陣へ出かけて來て、先刻は無證據で

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槍をお返󠄁し願ひたいと申したのは、自分󠄁の心得違󠄂ひでありましたが、今度は主󠄁人の請󠄁

取證を持參致しましたから、これでどうぞお返󠄁しを願ひたい、と云つた。会津の家來

の方では、槍一筋を立てゝ步く身分󠄁のものであれば、相當な家來もゐる筈である。然

るに道󠄁中で雇つた人足の槍持、さういふものを以て槍を貰ひによこすなどといふこと

は、ぞんざい千萬な話である。假令自身で出て來ないまでも、もう少し丁寧に、兩刀

を帶する者を使󠄁として來さうなものだといふので、請󠄁取證を持つて來たところが、そ

れは誰が書いた請󠄁取證かわかりやしない、それに貴樣のやうな身分󠄁も何もない者が主󠄁

人から一應の挨拶もなしに、貴樣だけで麁相いたしました、申譯がございません、と

いふ位なことで、武士の面目に拘る表道󠄁具の受渡しをしようといふのは心得違󠄂ひであ

る。うちへ歸つて主󠄁人にさういへ。若し大切な道󠄁具がなくなつたらどうする。幸ひ槍

がこゝにあるからいゝやうなものゝ、返󠄁してやらなければ無くなつた以上に面倒なこ

とになる。そんな麁相な下僕を遣󠄁つてゐるのは主󠄁人の不覺である。槍持といふ人間で

槍を持たずにひよい〱 と動くやうなものは、後來の見せしめに首を打つて來い。さ



うすれば槍は返󠄁してやる。よく歸つて主󠄁人にさういへ、さういつて相手にならない。

この時に相當なものをやつて、手續を鄭重にしましたら、そんな面倒なことにならな

かつたのでせうが、相馬の家來の方でも、先刻の悶著が胸に閊へてゐるから、ちやん

と挨拶をして、本式に受渡しがしにくかつたので、槍持を使󠄁にやつた、片方にも亦そ

れがあるから、事を面倒にのみ云ひかけて行く。これだけのことを云つてやつたら、

誰か來て平󠄁あやまりにあやまるだらう、と會津の方では思つてゐる。相馬の方では前󠄁

の行がゝりが胸に閊へてゐるから、平󠄁あやまりにあやまつて槍を貰ふといふわけには

行かない、けれども明日になれば宿を立つてしまふので、そうしても棄てゝは置かれ

ない。槍も亦取られつ放しにはして置けない。不愍ではあるが、この槍持の首を斬つ

て、それを提げて行つて、小身ではあるけれども、相馬の家來にも骨のあることを見

せてやらなけれや仕方が無い。いくら何でも先刻の爭がある以上は、さう碎けたこと

ばかりは出來ない。かういふ張合を生じた。そこで愈々この雇ひ人足の首を刎ねるとい

ふことになりました。これからの趣向は、芝居の方にそつくり採󠄁り用ゐられて居りま

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す。

 何しろ道󠄁中で出來た事柄でありまして、會津、相馬の兩家の家來の名さへ出さずに、

穩便に隱してしまつたことでもありますから、家來どもの名も傳はつて居りませんが、

芝居では最初は絹川彌三右衞門、槍持佐五平󠄁といふことに致しました。その後は水尾

十郎左衞門の槍持、定助といふことにしてあります、が、これからの運󠄁びは、大田原

宿にあつた、道󠄁中でも珍しい悶著を、芝居が丸取にしたのであります。雇ひ人足とい

ふものは、江戶から國まで何程󠄁といふ賃錢で雇ふもので、家來ではない。中間でさへ

も、そんなに短いものではない。先づ一年は居る、さうして武家の奉公人といふわけ

で、身分󠄁はいくら輕くつても、その家からいへば家來である。ところが雇ひ人足とな

ると、使󠄁はれてゐるだけで主󠄁從でもない。武家の奉公人でもない。たゞの人足である、

それをつかまへて斬らなけれやならない。この相馬の家來は、何としても雇ひ人足の

首を斬つて持つて行かなければ、自分󠄁の面目が立たないことになつた。そこで、貴樣

は何と思ふか知らないが、かういふ悶著が出來て、槍は返󠄁されない。槍を返󠄁されなけ



れば、自分󠄁は武士として居られなくなる。武士の意氣張として、どうしてもこの槍を

取返󠄁さなければならない。さうして槍を置忘れて來たといふ大麁忽が、この迷󠄁惑の種

を蒔いたことでもあるから、貴樣はまことに不便であるが、この場を立たせるわけに

は行かない。貴樣はもうこの座を立つことの出來ない人間になつたのである。否でも

應でも貴樣を首にするのだけれども、考へて見ればものゝ因緣で、長い馴染があるで

はなし、これから國許まで歸れば暇を出すほどのことであるのに、かういふことを惹

起󠄁した爲に、貴樣の首を斬らなければならぬことに立到つた。思へば實に氣の毒千萬

な話で、貴樣は死なゝければならないが、雇ひ人足そのまゝでは死なせない、唯今か

ら已の家來にしてやる。さあ已の家來になつて見ればもう士だ、といふので、挾箱の

中から著替や大小も出して來て、士だから直にこれを著て、これをさせ、上下もこゝに

ある。とてものことに死ぬならば、貴樣も士になつて死ね、と再應これを申聞けまし

た。さうするとこの人足は、如何にも仰やる通󠄁り、私の麁忽からお槍を忘れましたの

で、かういふ面倒なことに相成󠄁りました。そのまゝになされば、あなた樣の御身分󠄁に

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拘はることでございますから、御手討になるのも據ございません。それに就て御慈悲

に士に御取立下さるのは難有いことで、まことに私の死花󠄁でございます。昔の人間は

――昔に限らず、これは正直な人間だつたと見えまして、自分󠄁のしたことを後悔した

ものか、何しろ討手は目の前󠄁に眼ツ張リ子で眺めてゐるのですから、逃󠄂げても逃󠄂げら

れぬと覺悟したと見えて、それではどうぞ士にして打つて下さいまし、といつた。そ

れから著物を著替へさせて、上下をつけさせて、そこへ坐らせた。さあ打たうとして

うしろへ廻󠄀るといふと、いくら逃󠄂げられない場であり、云ひ渡されて覺悟はしてゐる

やうだが、何しろ雇ひ人足のことで――雇ひ人足でないとしても、今首を斬らうとし

てうしろへ廻󠄀つた時、首をさし伸べてゐることは、さう出來るものじやない。首を引

込󠄁ましたり、前󠄁の方へこゞんでしまつたりして、なか〱 斬れない。幾度かやつて見

るが、どうもうまく行かない。變な首の打ちやうをすれば、打てないこともないが、

そんな首を持つて行けば、相馬の家來は手打の作法も知らない、といはれるだらう。

下手にやれば頥にかゝつたり、首の根が斜になつたりする。そんなにならないやうに、



立派󠄂に斬らうとすると、一方が動いてびく〱 するから、なか〱 斬れない。そこで

又考へた。貴樣も己が士にしてやつて、己の家來になつたのだから、己が首を打つて

渡したのでは士にならない。士になつたのだから腹を切れ。どうで死ぬのであるが、

士ならば本式に腹を切れ。これから己が腹を切る支度をしてやるから、その通󠄁りに

やれといふわけで、疊を二疊持出して、樒だの何だの用意して、三方に小刀を載せて

かういふ風な按配にして腹を切れ、士だぞ、今から士だぞ、士だから立派󠄂に死なゝけ

ればならんぞ、といつて煽る。それに自分󠄁も、前󠄁には主󠄁人がうしろに刀を持つて立つ

てゐたんだが、今度はさうでなく、主󠄁人が前󠄁にゐる。さうして、かういふ風に、あゝ

いふ風に、といつて作法を敎へ込󠄁んで、上をはねて、懷を寬げて、刀を取つて、左に

突立てゝ右の方へ廻󠄀すのだ、かうだ、あゝだ、といつて敎へるけれども、なか〱 刀

が突立つものではない。ちよつとやつて直ぐやめる。躍󠄁り上るやうなことをしてゐる。

それではいかん、もつと落著いて、反身になる位になつて突き立てなければいかん、

かういふ風に、あゝいふ風にと、だん〱 〱 〱 腹を切る作法の方に力を入れて勵

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まして行く。それがいくらか利いて來て「かういふ風に旦那樣、かういふ風に旦那樣」

と延び上るやうになる。もつと首を上げて、下腹に力を入れるやうにしろ。さういは

れてさうするところを、急󠄁に來てうしろから首を打つた。腹を切る方に屈托して、か

うかあゝかとやつてゐる。さうして首の伸びたのを見すまして斬つたから、見事に斬

れたので、その首を持つて行つて、前󠄁の槍を取返󠄁して來た。――この大田原の話は、

そつくり定助權八の舞臺でもやつて居ります。

 何の覺悟のない雇ひ人足でも、やり方、仕向方によつては見事に首を打つことが出

來る。かういふことから考へますと、鈴木次郎右衞門が御見事と褒めたといふやうな

ことも、いゝ上にもよく、立派󠄂な上にも立派󠄂なやうに、生害󠄂を遂󠄂げ了せさせようとし

て、かういふことを云つたものと察せられる。


      一人の切腹が十二分󠄁間づゝ


 それから又、村松から三人間を置いて、間新六が切腹致します時などには、上下の



上を脫ぎませんで、直に三方を戴いた。腹へ突立てたか、突立てないかゞ御目付には

知れませんでしたから、見屆けさせると、腹へ突立てゝあつた、といふことも書いて

ある。それ等から思ひ合せて見ますと、肌を脫いだところで御見事と褒めなければ、

褒める間が無い。腹へ突立てるひまなしに打つたのでせう。喜兵衞にしても誰にして

も、お扇󠄁子を脇差に替へたけれども、事實はお扇󠄁子と同じことで、どつちみち突立て

たか、突立てないのにもう首は落ちてしまふ。正面にゐる檢使󠄁が、腹へ突立てたかど

うかわからないで、見屆に行つたら、もう棺桶に入つてゐた、といふ位仕事が早い。

それなら扇󠄁子を持して置いても同じことだ。これを時間にして考へて見ますと、御目

付が最初に來ましたのが、當日の午後二時、切腹の濟んだのが四時過󠄁といひますから、

二時間はかゝつてゐない位である。十人の者を端から一人づつ呼出して來ては、腹を

切らせて、屍體を取除けて、又腹を切らせる。さうして又次の者を呼出す。なか〱 

時間がかゝる筈なのに、十人の切腹が二時間內外しかかゝらない、といふことも考へ

て見なければならない。坐るが否や首を斬つてしまはなければならぬわけになる。他

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の家々でも、大槪切腹の濟んだ時間が、午後四時過󠄁ぎか五時過󠄁位のことになつて居り

ます。たゞ細川家だけは、人數が多く、十七人もありましたから、夜に入るまでかゝ

つたらしい。この方の傳へによると、內藏助は自分󠄁が聲をかけてから首を打つてくれ、

と賴んだといひます。內藏助以下二三人、吉田忠左衞門とか、原惣右衞門とかいふあ

たりまでは、腹へ突立てさせてから首を打つた。けれども四五人目からは、脇差を取

るのを合圖に首を打つたといひます。


      頻に介錯を急󠄁ぐ


 それどころぢやない、水野監物の家などでは、三方を戴いたのを合圖に首を打つた、

さういふ風に介錯を馬鹿に急󠄁ぎましたから、四十六人のうちで、六人といふものは斬

損つて居ります。介錯をやり損つて、隨分󠄁殘忍󠄁でお話にならないやうな打損じをして

ゐる。これは何の爲にさう急󠄁いだか、人數が多いから、片づけを急󠄁いだのであるか。

さういふ筈はないわけだ。武士の作法を以て處分󠄁するといふことも、已に陪臣である



ところの赤穗の家來を、幕府の直の家來を同じやうに、四軒の大名に預けるといふ取

扱をしてゐる。又預けられた四家でも、實に鄭重な取扱をしてゐる。そこの人達󠄁

も、皆四十六人を歎美して居り、四十六人の人達󠄁も、武士の作法を以て處分󠄁されると

いふことを、榮譽と解して居つたのでありますから、刀を突立てゝ、引廻󠄀してから、

尋󠄁常に首を打つたらよささうなものでありますのに、一番大切にした細川家ですら、內

藏助以下二三人は、尋󠄁常に突立てさせてから介錯したけれども、その他はさうでない、

といふことを公々然として書き殘してゐる。これはどういふことであるか。立派󠄂な上

にも立派󠄂に、よきが上にもよくしたい爲には、急󠄁がなければならない事情󠄁があつたと

見なければならない。

 果してさうであるとするならば、前󠄁に云つて置きました鼓舞煽動の力といふこと、

團結の力といふことが顧みられる。最初に赤穗城引渡しの時の誓約から、一年有餘に

して實際討入する時までに、同志の人數が減つたといふことも、同じ理由であるとし

たならば――討入をしたその場所󠄁で、直に腹を切つたなら、介錯人無しでも腹が切れ

223

224

たらう。それが又一箇月有餘を過󠄁して見ますと、今度は介錯人がついても、然も猶󠄁急󠄁

がなければ、立派󠄂にそのことを結了することが出來なかつた、といふことが察せられ

る。四十六人皆悉くがさうでなかつたことは勿論であるが、そのうちの或數は慥に

さういふ事情󠄁があつたから、介錯を急󠄁いだやうな形迹が殘つてゐる。これから考へて

見ると、幸に醜態を殘さなかつたからよかつたやうなものであるが、その場を去ら

ず本所󠄁で切腹することが、最も彼等を美しくすることであつて、萬全󠄁を圖らうとした

のが、彼等を美しくすることでなかつたやうに思はれる。そこに又彼等が神でもなし

佛でもなし、人間らしいところが出て來る。けれどもそれが人間味なのではない。褒

められて、大事にされたところで、穢い死にやうは出來ない、といふやうに感じて來

る。それも人間にありふれた心持であるが、それが人間味なのでもない。死を恐れ、

樂しみを喜ぶ人の、ごく〱 普通󠄁な、それが弱󠄁󠄁みでもある、それに打越えて、五倫を

すべて義理と見て、君臣主󠄁從の義理を立てぬかなければならない、といふところに人

間の味がある。否でも應でもよすによされないと考へて、義理を立てぬくところに人



間の味があつて、これは動物の上に共通󠄁しないものである。その他のものは動物と變

らない。人間の持つてゐる味ひであるから、人間味なのではない。人間も持つてゐる

からではない、人間のみが持つてゐる味ひが人間味なのである。だから四十六人のう

ちで、いよ〱 切腹の場合に、面白くないやうな形迹が何分󠄁か見えても、猶󠄁それに忍󠄁

び克つて、向うへ出て行かうとする。人間の持味を見せるところが、頗る感心すべき

場所󠄁であらうと思ふ。若し我武者羅に死の恐れもなく、何の喜び、何の悲しみも解せ

ないやうな者共ならば、それは氣違󠄂である。この切腹の場合の或形迹は、誰でも人間

たる者の大に考へて見なければならぬことであらうと思はれる。



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