百二十五人から四十六人

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      翌󠄁春の連盟膨脹


 淺野の家來は士以上が總數三百八人といはれて居りますが、元祿十四年四月に城渡

しをする際に、決死籠城の連盟を致しました。その人數は六十一人ありました。その

人名を一々こゝへ擧げて置きます。

  大石內藏助   千五百石      奧野將監    千石

  河村傳兵衞   四百石       進藤源四郎   四百石

  長澤六郎左衞門 三百五十石     小山源五右衞門 三百石

  原惣右衞門   三百石       佐藤伊右衞門  三百石

  近󠄁松勘六    二百五十石     渡邊角兵衞   二百五十石



  稻川十郎右衞門 二百二十二石    山上安左衞門  二百石

  吉田忠左衞門  同         間瀨久太夫   同

  潮田又之亟   同         岡野金右衞門  同

  同 九十郎   伜也        佐々小左衞門  二百石

  岡本次郎左衞門 同         同 喜八郎   

  多藝太郎左衞門 二百石       平󠄁野半󠄁平󠄁    同

  小野寺十內   百五十石      同 幸右衞門  

  大石瀨左衞門  百五十石      早水藤左衞門  同

  灰方藤兵衞   同         上嶋彌助    同

  田中權右衞門  同         幸田與惣右衞門 同

  里村津右衞門  同         間喜兵衞    百石

  間十次郎    同         中村勘助    同

  菅谷半󠄁之丞   同         千馬三郎兵衞  同

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  橋本平󠄁左衞門  同         中村淸右衞門  同

  高谷儀左衞門  同         仁平󠄁鄕右衞門  同

  榎戶新介    同         河田八兵衞   同

  久下織右衞門  二十五石 五人扶持 岡嶋八十右衞門 二十石 五人

  村松喜兵衞   同         同 三太夫   

  大高源吾    同         矢頭長助    同

  同 右衞門七            豐田八太夫   二十石 三人

  倉橋八太夫             勝󠄁田新左衞門  十五石 三人

  各務八右衞門  十石 五人     陰山惣兵衞   十五兩 三人

  萱野三平󠄁    十二兩二分󠄁 三人  貝賀彌左衞門  十兩二分󠄁 三人

  武林唯七    十兩 三人     猪子理兵衞   九兩 三人

  神崎與五郎   五兩 三人     吉田貞右衞門  九石 三人

  三村次郎左衞門 七石 二人



が、これは若い者が割合に少い。部屋住者などは一人しかありません。と申すのは、こ

の時登城を致して、この評󠄁議に加はりましたものは、いづれも一役持つてゐるもので

ありますから、部屋住の者や、隱居や、地方などにつとめて居りますものは、加はら

ないわけであります、それからそこに居合さないものがだん〱 殖えて參りまして、

翌󠄁年の春から、內藏助に所󠄁存のほどを申立てゝ、あとから加はりましたものが六十餘

人でござゐます。

  吉田澤右衞門            間瀬孫九郎   

  前󠄁原伊助    十石 三人     茅野和助    五兩 三人

  横川勘平󠄁    同         寺坂吉右衞門  

  堀部彌兵衞             同 安兵衛   二百石

  奧田孫太夫   百五十石      同 貞右衞門  

  富森助右衞門  二百石       赤埴源藏    同

  矢田五郎右衞門 百五十石      木村岡右衞門  同

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  倉橋傳介    二十石 五人    杉野十平󠄁次   八兩 三人

  不破數右衞門  元二百石      間 新六    

  片岡源五右衞門 三百五十石     磯貝十郎左衞門 百石

  大石主󠄁稅              河村太郎右衞門 傳兵衞伜

  長澤幾右衞門  六郎左衞門伜    小山彌六    源五右衞門伜

  佐藤兵右衞門  伊右衞門伜     渡邊佐野右衞門 角兵衞伜

  佐々三右衞門  小左衞門伜     大石孫四郎   三百石

  月岡治右衞門  同         糟谷勘左衞門  二百五十石

  同 五左衞門  伜         井口忠兵衞   二百五十石

  高田郡兵衞   二百石       井口半󠄁藏    同

  高久長右衞門  同         木村孫右衞門  同

  田中貞四郎   百五十石      鹽谷武右衞門  同

  前󠄁野新藏    同         酒寄作右衞門  同



  嶺善右衞門   百石        田中代右衞門  百石

  杉野順左衞門  同         近󠄁松貞六    同

  小幡彌右衞門  同         松本新五右衞門 同

  山羽理左衞門  同         中田理平󠄁次   同

  小山田庄左衞門 同         田中序右衞門  八十石

  近󠄁藤新吾    三十石 六人    鈴田重八    三百石

  田中六郎左衞門 二十五石 三人   生瀬十左衞門  二十石 三人

  毛利小平󠄁太   同         大塚藤兵衞   十五石 五人

  土田三郎兵衞  七兩 三人     三輪喜兵衞   六兩 三人

  同 彌九郎   伜         梶 半󠄁左衞門  五兩 三人

  橋本次兵衞   五兩 三人     木村傳左衞門  不詳

  矢野伊助    足輕        瀨尾孫左衞門  大石家來

こゝでは若輩の參加、輕輩の參加が著しく目立つて參りまして、足輕さへ矢野伊助

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寺坂吉右衞門なんていふものが二人入つてゐる。又者の瀨尾孫左衞門、これは內藏助

の用人であります。それから部屋住が十四人、隱居が二人、これを分󠄁限で分󠄁けて見ま

すと、百石以上が七十一人、百石以下が二十人、御給金ばかりのものが十六人、とい

ふことになります。この總計を申しますと、百二十五人であります。けれどもこの人

數といふものは、普通󠄁一般の義士傳では、復讎の同盟人數のやうにも見えますけれど

も、必ずしもさうではなかつたやうである。たゞ君の爲に忠義を表明する、といふ意

味のもので、敵討と聞いてびつくりして逃󠄂出すものも大分󠄁あつた。これは敵討の爲に

した同盟ではない。最初の決死籠城の時には、氣も立つて居りますが、籠城すること

が無くなつて、それでも同盟はそのまゝになつて居つた。見やうによつては、出所󠄁進

退󠄁を同じくしよう、といふ同盟とも見られないことはない。この同盟を復讎の同盟に

するといふこと、それは同盟を固くすることの意味からばかりでなしに、同盟の目的

が違󠄂つてゐる。殊に第一の同盟よりも、後に申込󠄁んだ人數の方が多い。それには輕輩

若輩の參加が多いといふやうなことは、盛󠄁に士氣を鼓舞激勵した爲であるやうにも見



られる。それだから忠義を勵む、君の爲に勇むといふ武士らしい宣傳によつて、それ

に加はらないのは、何だか景氣が惡いやうな心持がするので、外見を飾る心持もあり

景氣につられるやうな心持もあつて加つて來た。けれども若い者等は乘氣が强いから

割合に蹈止つて、最後までついて行つた。若し激勵の手が緩めば、造󠄁作なく解體しさ

うにも見える。さうであるから、最初の人数が七十五人までも盟約を背いて、十一月

には五十五人となつてしまつた。それならばもう大丈夫固まつたのかと思ふと、又減

つて四十七人になつた。この五十五人から四十七人になつた際に脫けた八人の者は、

何をする爲に同盟したかといふことは、十分󠄁心得て居つて、その間際になつて逃󠄂げた

のであるから、これが一番穢い、尾籠なものでなければならない。


      一槪に云へぬ七十五人


 最初の七十五人の脫盟者の中には、內藏助と意見を異にして手を引いたものもある。

內藏助等が首尾よく事をし遂󠄂げたから、卑怯未練のやうではあるけれども、當人達󠄁か

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ら云へば、相持して下らないといふ場合になつて、意氣張から內藏助に背いた。その

爲に連盟から外れなければならぬやうになつたものもあらうと思はれます。內藏助が

放蕩であつた爲に、その人柄に厭きて、事を共にするに堪へないと思つたが、さりと

て少數な人間では事をし遂󠄂げられない。遺憾ではあるが、已むを得ず泣寝入にする、

といふハメに陷つたものもあらうと思ふ。そこから又眺めて行くと、鼓舞激勵といふ

ことが、何ほど大事であるか。第一の決死籠城がやめられて、第二の敵討の方に轉じ

て行く。その轉換を同盟に拘らずに持つて行く。仕事は變つても、同盟は維持しようと

いふことは、一體は逆でありますが、それを貫くものは、主󠄁君に對する家來の義理合

君臣主󠄁從の情󠄁合から、それを一貫させる。又一貫すべき筈でもある。

 そこでこの仕事に對して、最も注意しなければならないのは、誰が鼓舞激勵によつ

て一統の士氣を維持して行つたか。大分󠄁ひどく刺戟して、士氣を高めなかつたならば、

どうしても解體するやうになる。さうしてそれは老人が奇體に急󠄁進主󠄁義であり、鼓舞

者であつて、若い者が常に引張られた形であつた。分󠄁けて云へば、上方の方にゐるも



のは、熟慮して事を擧げようとする。江戶にゐるものは、速に決行することを主󠄁張す

る。それでいつも異論を生じて、この調󠄁和がむづかしい。一度は原惣右衞門が江戶に

出て來て居り、重ねて吉田忠左衞門が又江戶へ出て來て居る。さうしてこの間を調󠄁停

融和してゐたなどといふことは、鼓舞激勵の上によほど考へて見なければならぬこと

が多いのだと考へます。この一味徒黨の人々を鼓舞激勵する。それに就ては無論內藏

助が主󠄁になつて居りますが、その外に江戶に居て一黨の牛耳を執つて居つたのが、堀

部彌兵衞親子である。それから上方の方で重きをなしてゐた吉田忠左衞門、原惣右衞

門、これらを除いては、大石と雖もその仕事を成すことが出來なかつたらうと思はれ

ます。


      鼓舞激勵の擔任者


 吉田忠左衞門は足輕頭をつとめ、郡奉行となつて一藩の財政を押へて、二百石貰つ

て居りました。年配も六十を超えて居り、淺野家代々の家來でもあり、大石と竝んで

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 一黨の領袖格として、重きをなす筈である。文󠄁才もあり、學問もあり、殊に風雅の道󠄁

にも長じて居つて、歌などはなか〱 手に入つたものであります。

 堀部彌兵衞は、一味同志の中では一番年上の人で、七十四になつて居つた。この彌

兵衞といふものは、赤穗の淺野家代々の家來ではなくて、肥前󠄁嶋原六萬五千九百石、

松平󠄁主󠄁殿頭忠房の家來で、どういふことで浪人したかは知れませんが、島原浪人であ

つた。この人が赤穗に仕へるやうになつたのは、二十幾歳かの頃、寬文󠄁年中のことで、

手蹟を申立てゝ召抱へられた。それから祐筆部屋へ出てつとめる、無論屋敷內に長

屋を貰つて、そこへ移つて來る。そこで頭役が案文󠄁を渡して書かせて見る。祐筆と

申せば、當時はなか〱 筆道󠄁に達󠄁した人がなる役で、今殘つてゐる彌兵衞の自筆を見

てもわかりますが、並々には書くけれども、決して筆道󠄁を申立に召抱へられるやうな

ものぢやない。彌兵衞は頭役に向つて、自分󠄁が惡筆であることは、神以て僞無いとこ

ろで、見事に書けといつても出來ない。かう云つた。頭役も驚いて、新參者の癖に飛

んでもないことをいふやつだ。それでは殿を欺いたことに當る。ともかくも書いて出



せ、といつたけれども、彌兵衞は、いや、私の惡筆は決して僞の無いところである。

これから先がどうなるかといふことは覺悟して居るから、上役の衆に御披露を願ふ、

と云つて聞かない。仕方が無いからといふので、祐筆部屋から、その趣を申立てる。

それからだん〱 吟味になると、彌兵衞は一向恐れるところもなく、由緖書の通󠄁り、

父祖代々少祿の者の伜であつて、殊にこの通󠄁りの不器量者でござるから、誰彼といつ

て召抱へてくれる人はありません。自分󠄁などは浪人で果てるより、他に仕方が無ささ

うな有樣であるが、浪人で果てるといふのは、如何にも面目ない次第であると思ふ。

一日でも主󠄁人にありついて、祿を受けて居るといふことを、冥途󠄁の土產にすれば、祖

先に對しても恥しくない。不器量だから誰にも用ゐられることが無い、といはれぬだ

けでも心持がいゝ。そこで斯樣にはからつたのである。この上は御遠慮の無いことだ

から、怱々切腹を仰せつけられたい、と答へた。あまり水ばなれのした返󠄁答だつたか

ら、上役の連中も取りはからひやうが無いので、主󠄁君內匠頭長直(長矩の祖父)に向つ

て、家來共からそのことを言上した。さうすると、士として誰にも用ゐられないと云

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はれるのが口惜しいから、かういふことを取はからつて、當家の家來になつたといふ

ことは、その志が如何にも不便である。思ふところがあるから、そのまゝさし置け、

といつて長直が許してしまつた。さうして用ゐて見ると、字は書けなかつたけれども

なか〱 の男で、これが江戶の屋敷の留守居役をつとめるやうになつた。留守居役と

いふのは外交方で、隨分󠄁用の多いものでありますから、しつかりして居るばかりでな

く、機敏でもなければならない。それを見事につとめた。祐筆が入用だといふから、

それを機會にむやみに飛込󠄁んで來たところなどは、或はこの話は作り話かも知れない

が、彌兵衞の姿󠄁をよく現してゐる。もうこの頃になりますと、諸家で「お爲〱 」とい

つて、どこでも人減しをする。又士の家に生れても、總領は祿を世襲することが出

來るけれども、二三男はその家では採用してくれませんから、思ひ〱 にどこかへ

奉公を稼ぎに行かなければならない。武家の方の就職難といふものは、萬治、寬文󠄁度

からありまして、彌兵衞が淺野家へ飛込󠄁んだ狀況は、萬治、寬文󠄁度の武家の就職難

を說明するいゝ材料である。彌兵衞はかういふ風に膽力もあり、機智もある男で、さ



うして相當浪人をして、世の中の味ひも知つてゐた。かういふ人間が若い者を取扱へ

ば、どんなに扱へるか、思ひ遣󠄁るだに餘りあることだと思ひます。

 それから原惣右衞門、これも亦上方にゐて、同士の糾合と激勵とに大に盡した男で

あります。ところがこの惣右衞門といふ者は赤穗の譜代の家來ではない。先年米澤へ

行つた時分󠄁にも、米澤の花澤町といふところ、停車場の直ぐ側ですが、そこに惣右衞

門の屋敷址が殘つてゐます。この惣右衞門のことについては、米澤藩士の鹽井といふ

家に、當時の古い手紙が殘つて居りまして、その手紙の中にも明かに書いてある。惣

右衞門は元來花澤にゐた御當家お家來であつたが、先年本鄕の御前󠄁樣附の家來になつ

て江戶へ出てゐた。そのうちに不調󠄁法があつて、御仕置になる筈であつたのを、加賀

の殿樣から御挨拶があつたので許されて、本鄕から直に浪人して、それから赤穗へ取

付いて、三百石郡代まで立身した。今でも米澤藩には彼の親戚が殘つてゐる。といふ

ことが書いてある。たゞ米澤の申傳へばかりではない。かういふ文󠄁書まで殘つてゐる

のであります。本鄕御前󠄁といひますのは、上杉播磨守綱勝󠄁の腹違󠄂ひの姊に德姫といふ

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人がある。それが大聖寺の城主󠄁前󠄁田飛彈守利治のところへ輿入をする。さうして谷中

の三崎の屋敷に居られた。それへ附人として原が行つて居つたので、上杉からは婿が

行つても、嫁が行つても、士一人、中小姓二人ついて行くのがきまりであつた。この

原といふものはどんな身分󠄁であつたかといふと、上杉家の三手組の中の馬廻󠄀組といふ

のでありまして、百石貰つて居りました。上杉の三手といふのは、第一が馬廻󠄀組とい

ふので、これは譜代です。この譜代といふのは、上杉管領家以來の筋目で、上杉の家

にとつては一番大切な家來である。その次が五十騎組で、これは上田衆ともいひまし

て、長尾政景の率ゐて居つた人達󠄁のころで、輝虎入道󠄁が上杉を相續することになつて、

上杉の家來になつたので、謙信からいへば家附の家來だから、これも大切な家來であ

る。もう一つは與板組といつて、直江山城守兼󠄁續の部下である。これは米澤へ轉封し

て來てから、上杉の身上が小さくなりましたので、直江の部下を上杉の方へ組替へて

この組が出來た。原惣右衞門の家は、上杉の家では一番重い家筋で、謙信は天文󠄁廿年

越後へ逃󠄂込󠄁んだ管領憲政から上杉の家名を貰つたので見れば、旦那より古い家筋な



のだから、これはよほど大切なものだ。三代相恩の主󠄁君なんていふが、もつと上手の

ものである。然るに何かしくじつたことがあつて追󠄁はれたのでありますが、何で追󠄁は

れたのか、それはわからない。

 ところで原の親類書を見ますと、「父七郎右衞門。上杉播磨守浪人」と書いてある。

播磨守綱勝󠄁といひますのは、吉良義央の奧方であつた富子の兄であつて、七郎右衞門

は延寶七年に死んで居ります。七郎右衞門は綱勝󠄁の代に浪人してしまつたのだらうか

といふと、綱勝󠄁の死んだのは寬文󠄁四年だから、浪人したのはもつと前󠄁ではなからうか、

といふことになつて來る。若し延寶まで米澤を浪人せずにゐましたならば、吉良の總

領三之助が綱勝󠄁の養󠄁子になつて、上杉家を相續したのでありますから、吉良から行つ

た彈正大弼綱憲、その彈正大弼浪人と書かなければならんわけになる。さうすると原

惣右衞門は、故主󠄁の親父を討たなければならん、といふわけになる。その邊の斟酌か

ら、殊に「上杉播磨守浪人」と書いて、自分󠄁でないやうにしたのかとも思はれる。けれ

ども本鄕御前󠄁の德子は、寬文󠄁四年の七月二十五日に大聖寺で死んでゐる。前󠄁田利治は

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萬治三年に死なれて、その夫人である德子は、本國の大聖寺に引込󠄁んで居られた、さう

であるから、本鄕御前󠄁の手許で失策をして、暇が出たといふことは、どうしても萬治

三年、利治が亡くなられない前󠄁でなければならない。それ以後では本鄕御前󠄁も本國へ

引込󠄁まれなければならないから、殊更に逃󠄂げて「上杉播磨守浪人」と書いたのではなく、

本當に綱勝󠄁の時代に浪人したことがわかる。惣右衞門は元祿十六年に五十二歲であり

ましたから、承應元年の生れで、前󠄁田利治の亡くなつた萬治三年には九歲、上杉綱

勝󠄁の亡くなつた寬文󠄁四年には十三歲にしかならない。本鄕御前󠄁の附人だつたといふの

は、慥に親父の話と思はれる。だが、「原惣右衞門老母義信錄」といふものには、惣右

衞門は京極對馬守高賴へ小姓奉公を三四年もして、京極家が改易になつて後に浪人し

た、といふことが書いてある。宮津の京極が潰れたのは、寬文󠄁六年五月三日のことで

その時に惣右衞門は十五歲である。三年勤續といへば、それからまた向うへ遡るから

十一二歲でなければならない。さうして惣右衞門の母は赤穗の原家へ嫁入した。なん

ていふことも書いてある。惣右衞門の生れたのが承應の頃であつて、その頃は七郎右



衞門は米澤の家來だつたのだから、赤穗で結婚などをする筈が無い。これは惣右衞門

の母が、京極家の家來のところから嫁入したので、それに引搦まつて間違󠄂へた說だと

思はれます。

 惣右衞門はさういふ風で、采女正長友(長矩の父)の晩年に、算勘役人として淺野家

に用ゐられ、さうして三百石まで取り、遂󠄂に郡代にまでなつた。惣右衞門の親類が米

澤にあるといふこと、これは親類書にもちやんと大びらに、山田長左衞門、羽嶋五右

衞門といふものが從弟で、舊主󠄁の許に居るといふことを、自分󠄁で書いてゐるから間違󠄂

はない。その親類書に就て、もう一度云つて置かなければならないことは、祖父の陣

右衞門は最上源五郎浪人とあつて、父の七郎右衞門から上杉の家來になつたのだ、と

書いてある。けれども馬廻󠄀の組だつたのだから、さういふ筈は無いが、これは何か考

があつて、惣右衞門自身そんなことを書いたものと思はれる。何にしても上杉の譜代

の馬廻󠄀組の原が、とにかく上杉家を直接ではない、間接であるにせよ、向うに廻󠄀して

松坂町へ討入するといふことをやつたのは、そこに大分󠄁なわけが無くてはならない。

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新參者の原惣右衞門に對して、米澤で百石しかくれなかつたものを、三倍の高祿を與

へて、郡代にまでなれたのであるから、淺野家に對して非常な恩を感じなければなら

んわけでありましたらう。士は己を知るものゝ爲に死すといふことも、かういふ時に

尤もだと思はれる。惣右衞門が專ら立身出世したのは、長矩の時でもあつた。そこで

又考へて見ると、赤穗の家といふものは、古い人でも、新しい人でも、とかく地方役

人から出て立身する人が多い。新しく採用された人も大分󠄁多いやうであるが、大槪算

勘の方面から出て來る。さういふ家の風だつたと見えます。これが又一方からいへば

軍備を充實させるといふやうなことにもなる。それから又妙に吝くなつて、大判󠄁一枚

の禮物にまで、殿樣が干渉するやうな風にもなり行くのであります。

 磯貝十郎左衞門が、江戶の事變を赤穗へ急󠄁報する時に、六日で著いてゐる。そのこ

とに就て磯貝が云つてゐるのは、內匠頭は代々傳馬町の問屋向に金をやつて置くから

駕籠でも馬でも外より早く出してくれる。それだから早いお使󠄁がつとまるのである。

かういふことを云つてゐる。水谷出羽守の居城を、内匠頭長矩が受取ることがありま



した。この時は富森助右衞門が早使󠄁で赤穗へ駈附けてゐますが、これも六日で行つて

ゐる。江戶と赤穗は百五十五里、普通󠄁で申せば、どうしても十二日、或は十四五日も

かゝるところである。それに就て原惣右衞門が云つてゐるのは、傳馬町の問屋共にも

平󠄁生金が遣󠄁つてあるし、道󠄁中筋の問屋々々にも、やはりさういふ風になつてゐるから

助右衞門も早く行けたわけである。早使󠄁には常に懷中に金子を二十兩持たせて置く。

それだから萬事が便利よく行くのである、と云つてゐる。これはさういふ仕來りにな

つてゐたので、長直の時以來、こんな風になつてゐるらしい。長直(長矩の會祖父)と

いふ人は、ひどく儉約をして、吝なやうでありますが、いゝ人を抱へたり、又軍備の

ことであるとか、かういふ道󠄁中筋に金を撒いて置いて、萬一の場合に早使󠄁を出す便宜

をはかるとかいふことは、惜しげもなくして居るのである。長矩になつては、大體に

それを繼承して來てゐるけれども、そこに大分󠄁の違󠄂があつて、長直であつたらば、ち

つと位の金を惜しむといふやうなことから、饗應費を節約するといふやうなことも無

かつたらう。吉良へ遣󠄁る大判󠄁一枚を惜むなどと云はれるやうな事はしなかつたらう。

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同じ方法でも、人物が違󠄂ふのだから、どうも仕方が無い。大體の家風が儉約筋である

といふことは、主󠄁人がどうでも、仕來りを守つてゐるのだから違󠄂はない。何しろ算盤

高い家筋なのだから、義士といはれる四十六人のうちにも、大分󠄁算盤の方の役向の人

がある。意氣地無し、臆病者で知られた大野九郎兵衞ばかりぢやない、褒められてゐ

る中にも、吉田忠左衞門は加東の郡代、間喜兵衞は勝󠄁手方吟味役であるし、矢頭右衞

門七の親父の長助、これも勘定方である。前󠄁原伊助は金奉行、奧田貞右衞門は加東の

郡代についた勘定方である。又きはどいところで逃󠄂げて評󠄁判󠄁の惡い高田郡兵衞などは

新參の二百石で、何でもつとめかねないといはれた評󠄁判󠄁の利口な男、これなども郡方

から立身して行つた。郡方から出身した者が多かつたといふことも、四十六人一體の

上に就て眺めると、いろ〱 な現れがある。勘定高い家風であつたから、不破數右衞

門の如きは何でお暇が出たか。あれは譜代のものであるのに、新刀を試すために、死

人を掘出して斬つた。それが惡いといふ。その外にもう一つ、饗應好で、不斷人を集

めて御馳走をしてゐる。大變奢り者だといふ箇條がある。これは算盤高い家風からい



へば、大變許しがたいことなので、不破の罰せられた二つの理由のうち、一つは成程󠄁

咎めてもいゝかも知れないが、一身の贅澤ならば兎に角、御馳走好といふやうなこと

は、他家では云は無い理由だらうと思う。千馬三郎兵衞、これも長矩から勘當されて

赤穗を立去らうとして、恰も御家の破滅の時になつたので、直に蹈止つて四十六人と

同じ行動に出た。この人の御暇に就ては、何の說明もありませんが、不破のことなど

を參酌して考へなければならんことだらうと思ひます。


      二君に仕へたのが多い


 一體赤穗の家といふものは、淺野の分󠄁家でありますが、本家からついて來た家來と

いふものは、ごく少うござゐますから、古い家來といふものが無いので、大槪長直が

抱へ入れた。その次の長友、長矩になつても抱へてゐるといふわけで、家來の多數は

譜代ではない。それは堀部彌兵衞や原惣右衞門も同樣なわけであります。後々までも

義理を唱へて、義理を缺かなかつたもので、他家から來た道󠄁順のよくわかるものも大

143

144

分󠄁ある。間新六などは、祖父の左兵衞といふものが、故主󠄁で朋輩を殺した。さうして

長直のところへ駈込󠄁んでかくまつて貰つて、遂󠄂にその家來になつたので、その故主󠄁は

誰か知れません。危いところを助けて貰つた恩誼、それによつて淺野家を難有く思つ

てゐたに違󠄂ひない。駈込󠄁者は後にはだん〱 無くなりましたが、寬文󠄁度までは諸大名

によくあつたことで、それを渡す渡さぬで、大名同士で爭つたことがいくらもある。

それをかくまひ通󠄁すのが、大名の面目でもあつた。そのいきさつから間新六の祖父さ

んが淺野家の家來になつたのであります。

 奧田孫太夫などは、最も面白い閱歷を持つてゐる。それは祖父さんや親父ぢやない

自身の話で、孫太夫は志州鳥羽三萬石、內藤和泉守忠勝󠄁の家來でありました。ところ

が延寶八年五月八日に、四代將軍家綱公が薨去されて、寬永寺で葬儀が行はれた。六

月二十四日には引續いて增上寺の方で法事をなさる。その時に丹後宮津の城主󠄁七萬五

千石、永井信濃守尚長といふものが御奏者番をつとめてゐて、これが新將軍の御名代

として上野へも參詣をする。芝へも出て來る。これが當年二十六歲で、勝󠄁氣で妙に威



張る男だつた。內藤和泉守も二十七歲で、なか〱 負󠄂嫌󠄁ひな男、上野で已に一度面白

くない、、喧嘩みたいなことをやつた。その上に增上寺で又行違󠄂ひをした。そこで御法

事の三日目の二十六日に、御佛殿で內藤が永井をたゞ一刀に斬殺してしまつた。その

時には落首がありました。

 昔より和泉守はきれもので永井命をたんだ一打

 それで孫太夫は浪人になりまして、淺野家に用ゐられた。それから二十二年目で、

長矩が吉良を斬つて切腹した。自分󠄁一代のうちに、二人の主󠄁人を持つて、その二人

が共に人を斬つて、切腹して家が潰れた。堀部安兵衛は一生に二度敵を討つて、敵討屋

だといはれたが、そんなら孫太夫も旦那潰れの性分󠄁だとでも云へるだらう。その內藤

が潰れたばかりでなく、永井の方も潰れましたので、この時は敵討をしたくても出來

ない。二度目は吉良が殘つてゐたから、孫太夫も敵討をするわけになつたのです。


 村松喜兵衞は例の佐倉宗吾事件で名高い堀田上野介正信の家來で、親父の九太夫と

いふものが堀田に仕へた。佐倉の十二萬石が潰れたのは、萬治三年十一月三日で、そ

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れからこの九太夫が淺野へ來た、さうして四十二年目で、赤穗が潰れたわけである。

 千馬三郎兵衞は養󠄁子でありますが、養󠄁祖父に當る喜兵衞といふ人は、越前󠄁少將とい

ふのは、例の忠直卿で、厄介なあばれもので、始末に困つた人だ。三郎兵衞は越前󠄁家

を浪人して、養󠄁父に當る三郎兵衞から赤穗に仕へた。

 岡嶋八十右衞門は、これも養󠄁子でありますが、養󠄁祖父に當る次郎右衞門といふ者は

生駒壱岐守高俊の家來で、この生駒は讃州高松で十七萬石を領して居つたけれども、

大馬鹿者で何とも仕方の無い人だつた。そこで江戶家老の前󠄁野助左衞門といふものが

大我儘をして横暴を極めたので、國表の家來と江戶の家來との間に爭が起󠄁つて、國

家老の生駒將監が幕府に訴へた。幕府に訴へると、吟味を受けなければならない。そ

の訴訟の爲に、主󠄁人の生駒壱岐守が馬鹿なことがわかりまして、とても國郡を治めて

行けないことが明白になつたので、寬永十七年七月一日にその家が潰れました。八十

右衞門には養󠄁父に當る善右衞門といふ人から、赤穗の家に仕へることになつた。

 神崎與五郎は津山の森伯耆守長武の家來で、この人の親はわかりません。津山の森



家は十八萬六千石でありましたが、こゝでは兄さんの美作守忠繼が早く死んだので、

三男の伯耆守長武が相續をして兄の子供の成人するのを待つてこれに讓つた。これ

が美作守長成となりましたが、その人が又生憎と若死をしました。さういふことでそ

の家は備中の西江原へ二萬石、隱居の長武へ之を賜はつた。大變身上が減つてしまつ

た。この方の家は八男の長直といふ人が相續することになつた。この人は和泉守に任

官しまして、寶永三年の正月に、淺野長矩のあとを受けて赤穗城を賜はつてゐる。こ

の美作守が死んで、家が殆ど潰れたやうになつた時に、神崎は津山を離れてしまつた

のであります。

 前󠄁原伊助は津山の森家で神崎と懇意になつて、二人はそれから極めて心易く、始終

一緖に行動して居りますが、前󠄁原の親父は赤穗の家來で、祿が少いから、部屋住の間、

他へ奉公を稼ぎに出て、津山の森家へ奉公してゐたものと見える。そこで神崎と心易

くなつたものでありませう。これは當時の小給の武士などは、なか〱 子供の面倒を

見きれないので、他家へ奉公させる。又さうでもしなければ立行かない、といふ側面

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もわかります。

 かういふ風でありますから、搜せばまだいくらも出て來るでせうが、ちよつと調󠄁べ

ただけでも、いろ〱 ないきさつがあつて、右から左、左から右へ流れ渡りをすると

いふのも、をかしなものですけれども、蔓から蔓へ傳はつて、世間を渡つて行く。金

平󠄁淨瑠璃の中にさへ「武士は渡りもの」といふことがある位で、大分󠄁古くからさういふ

風になつてゐたと見える。それだkら主󠄁君に義理を立てるといふことも、容易ならぬ

話で、士とすればお恥しいが、食へさへすればいゝ人間が多かつたことは、申すまで

もありません。その中で義理を立てゝ行かうとすることは、なか〱 むづかしい。そ

こで同志を糾合することが大仕事であり、糾合し得たものを維持して行くには、どう

しても士氣の激勵が必要になつて來る。絕えず連絡をとつて、結束させて行かなけれ

ばならない。それには會合が大切であるといふこともわかります。


      殆ど無條件での糾合



 堀部彌兵衞の殘して置いた反故の中に、山科の大石との通󠄁信の下書らしいものがあ

る。その中にかういふことが書いてあります。

 前󠄁方同士無之族ナリ共、此節急󠄁急󠄁發氣セシムル輩於在之者、實之節殊勝󠄁候之間、荒

 增御吟味之上御捨無之樣ト存候

「荒增御吟味」といふ言葉から考へて見ると、同志の糾合の上に、嚴密にしらべて加盟

させる仕方でなかつたことはよくわかる。況して「御捨無之樣」といふのは、なるべく

捨てずに拾つたといふことでもあるから、旁々以て糾合し得たところのものは、どん

なものかといふことが想像される。一般の義士傳では、心持なり人柄なりを十分󠄁に詮

議して、選󠄁りに選󠄁つて加盟させたやうになつて居るけれども、彌兵衞のこの手紙を以

て見れば、「荒增御吟味」といふ程󠄁度であつたことがよくわかる。さうであればこそ激

勵も必要であり、結束が大事でもあるので、それを少しでも怠れば、いくらともなく

ダメが出る。已に傳へられてゐるところの連盟者の半󠄁數以上、脫盟者を出してゐるとい

ふことも、注意して糾合したならば、もう少し減すことも出來たのであらうかととも思

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はれる。何が故にたゞ數の多いことを貪つて、十分󠄁に吟味しようとはせずに、荒增の

吟味で滿足するやうに云つてゐるか。堀部彌兵衞といふ人の大體を見れば、なか〱 

そんな緩いことを考へてゐるやうな人ではなく、手强く嚴重に考へさうな人であるの

に、さうでなかつたといふことは、大に考へて見なければならぬことであらうと思ひ

ます、さうしてそのあとに同志の連名が書いてある。そのうちに、在京、在伏見、在

大阪、在加東龜山、在赤穗、在奈良、在江戶として人名が擧げてある。これ

によつて大石の二度目の東下りの前󠄁に書送󠄁つたものだといふことがわかります。この

總數を見ますと九十六人ある。その一々の連名は左の通󠄁りでありますが、その人々の

名の下に丸がついてゐる。この丸は何の爲につけたのか、一向にわかりません。さう

して在江戶といふ連中には、一人も丸のついたのが無い。これはいつまでも疑問とし

て殘ることだと思ひます。

 在京、小山源五右衞門、河村傳兵衞、潮田又之亟、大高源吾、小野寺十內、同幸右

    衞門、川端善兵杉浦□右衞門異名○、早水藤左衞門、平󠄁野半󠄁平󠄁、炭方藤兵衞○

       衞養󠄁子       忠介



    貝賀彌左衞門、進藤□五○、三輪喜兵衞、同彌九郎、井口忠兵衞○、近󠄁松勘

    六、小幡彌右衞門○、佐々小左衞門、武林唯七、進藤源四郎、小山彌六

 在伏見、田中□右衞門、近󠄁松貞六、菅谷半󠄁之丞○、田中權右衞門、田中代右衞門○

    山羽理右衞門、

 在大阪、原惣右衞門、同兵太夫、千馬三郎兵衞、中村淸左衞門、中田藤內○、矢頭

    衞門七、嶺善左衞門

 在加東龜山、吉田忠左衞門、同澤右衞門、渡邊角兵衞、同佐野右衞門、高谷儀左衞

    門、間瀨久太夫、同孫九郎、多藝太郎左衞門○、木村岡右衞門、高久長右衞

    門、上嶋□助○、山城金兵衞○、

 在赤穗、間喜兵衞、同十次郎、岡島八十右衞門、梶半󠄁左衞門、岡野九十郎、榎戶新

    助、大塚藤兵衞、前󠄁野新藏、萱野和助○、各務八右衞門、生瀬十右衞門○、

    右田三郎右衞門○、佐藤伊右衞門、渡邊半󠄁右衞門、鈴木重八、矢野爲助、井

    口半󠄁藏、木村孫右衞門○、

151  *矢頭右衞門七の右が抜けているものか。

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 在奈良、大石孫四郎、同瀨左衞門、幸田與左衞門、

 在江戶、富森助右衞門、赤埴源藏、矢田五郎左衞門、松本新五左衞門、片岡源五右

    衞門、田中貞四郎、磯貝十郎左衞門、杉野十平󠄁次、奧田平󠄁左衞門、同小四郎

    倉橋傳助、前󠄁原伊助、勝󠄁田新左衞門、中村勘助、村松喜兵衞、同三太夫、神

    崎與五郎、横川勘平󠄁、

 堀部彌兵衞は江戶の同志の主󠄁領でありまして、江戶の狀況もよく知つて居り、十

人もあれば討入は出來る、と云つてもゐるし、從つて敵の樣子もよく知つてゐる人で

ある。それだから決して多きを貪る必要は無かりさうに見える。上方組がいつも熟考

主󠄁義で行くことを、何しに辛抱して急󠄁進論を抑へてゐたらうか。朋輩の義理を考へて、

さうしてみなと一緖に事をしよう、といふだけの心持だつたのであらうか。そこはどう

も明かでないが、何にしても上方の人數を纏めて一緖にやらうとしたことは疑ひない。


      御手本になつた浄瑠璃坂の仇討



 そこでもう一つふり返󠄁つて見ると、赤穗の人達󠄁の本所󠄁討入に最も近󠄁く行はれた敵討

は、元祿十四年の五月九日、伊勢の龜山の城中で、そこの城主󠄁である板倉周防守重冬

の家來、赤堀水之助といふものを、信州小諸の城主󠄁靑山因幡守宗俊の浪人、石井源藏、

半󠄁藏の兄弟が討つた。これは親の敵で、當時なか〱 名高い話でありまして、そのこ

とは堀部彌兵衞が親しく記錄しても居ります。これは淨瑠璃にもなり、浮世草子にも

なつて、元祿曾我といふので、なか〱 の評󠄁判󠄁だつた。新しい出來事であつた爲でも

ありませうが、上方のみならず、江戶でも評󠄁判󠄁だつたのです。それよりも江戶のみな

らず、日本中で知られてゐる市谷淨瑠璃坂の敵討といふ大評󠄁判󠄁なものがありました。

江戶ではその土地で行はれたのであるから、猶更以て人が忘れない事柄だつたので、

赤穗のことがあつて以來、敵討といへば大石等のやうになつてしまつて、淨瑠璃坂の

方は人が忘れてしまつたけれども、赤穗の人達󠄁が本所󠄁へ討入する以前󠄁に於ては、淨瑠

璃坂の敵討がひとりおぼえられて居つた。若し赤穗の敵討が無かつたならば、淨瑠璃

坂の方がいつまでもおぼえられてゐるわけでありましたらう。

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 この淨瑠璃坂の敵討といふものは、野州宇都宮の城主󠄁奧平󠄁美作守忠昌が寬文󠄁八年

二月十九日に逝去されまして、三月二日に宇都宮の興禪寺で葬儀があつあ。その時奧

平󠄁家の一門であり、老臣でもあるところの、千石取の奧平󠄁內藏允と、二千石取る奧平󠄁

隼人といふものとが爭論をして、兩方その場で白刄を揮つて果合になつた。けれども

當座の者に押隔てられて、雙方ともに本意を遂󠄂げなかつたが、その後法要のあつた時

に、內藏允が隼人を斬つた。それは僅にかすり疵であつて、隼人が內藏允を斬つた、

この方が深手でありました。けれども又この時も、法要で大勢の人がゐるから、おし

隔てゝしまつて存分󠄁にすることが出來なかつた。內藏允は重手を負󠄂つた爲に、再擧す

るのがむづかしいので、うちへ歸ると腹を切つてしまつた。昔の大名といふものは、

自分󠄁の家來でありましても、幕府へその名前󠄁を通󠄁したもの、幕閣に知られたものであ

りました場合は、それらのものゝ任免黜陟は獨斷でしないことになつて居りますので、

內藏允と隼人の刄傷の始末を幕府へ屆け出ました。それに就て請󠄁訓した譯です。其の

時に幕府の指令は、內藏允の致したことは亂心であると見える。これは死損で沙汰に



及ぶまい。隼人の處分󠄁は勝󠄁手次第に致してよからう、といふことでありました。そこ

で奧平󠄁家では、喧嘩兩成敗の本文󠄁の通󠄁りに、內藏允の子源八、隼人及びその父の大學を

改易にして、所󠄁領を取上げて士籍を削つてしまつた。兩方ともに浪人になつたわけで

す。そこで隼人は一族從類をつれて、市谷の淨瑠璃坂に住居を拵へて居つた。併し內

藏允が存念を殘して切腹したのであるから、必ず敵討に來るに違󠄂ひないといふので、

充分󠄁に警戒して居る。源八は源八で親父の鬱憤をどうかして晴したいといふので、こ

れも一族を語らつて、叔父の夏目外記、從弟の奧平󠄁傳藏などといふものと共に、宇都

宮を立退いて、野州黑羽に引越した。お互に同じ名字を名乘る家筋で、これがかうい

ふ不仲になつたのであるから、他人よりも却つて深刻である。隼人の弟の奧平󠄁主󠄁馬

允といふものは、親戚の奧平󠄁左馬允といふものゝ養󠄁子になつて居りましたから、兄や

親父が改易になつて、宇都宮を去りましても、自分󠄁は主󠄁家に殘らなければならない。

遠い親類まで語らつて兄が用心してゐる場合に、親や兄の安危を傍觀するに忍󠄁びない、

といふ書置を殘して出奔した。さうして相當の方人を引張つて、兄のところに合體す

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るつもりでゐた。それを源八が知りましたので、さう敵を多くしてはならぬから、主󠄁

馬允を合體させないやうに、といふので、寬文󠄁十年七月十三日に、主󠄁馬允が立廻󠄀つて

ゐる場所󠄁。出羽の上山に近󠄁い藤五村で、同勢十六人でそれを襲擊した。主󠄁馬允は三十

人ばかりの一行でありましたが、不意をうたれましたので、主󠄁馬允はじめ數人討たれ

てしまつた。淨瑠璃坂の方ではこれを聞いて、更に警戒を加へて居りました。

 黒羽の源八の方では、それから江戶の樣子を窺つて、銳鋒を隱して待つて居りまし

たが、中一年は丸く置いて、十二年の二月一日、急󠄁に立つて夜通󠄁しで江戶に著いた。

もうほどぼりのさめた自分󠄁だと思つたからでありませう。二日の夜更けて淺草に著い

た。この時に江戶中はひどい大風でありまして、殆ど戶をあけてゐる家が無い位であ

つたといひます。腹が減つても物を賣つてゐるところも無いから、源八の一行は飮み

も食ひも出來ない、飮まず食はずで三日の寅の刻――といひますから午前󠄁四時、四十

人ばかりの同勢で、白木綿の背に丸に一文󠄁字の印をつけた上著を著て、手に〱 松明

を持つて淨瑠璃坂の隼人のうちへ取詰めた。さうして「火事だ〱 」といつてわめき叫



んだ。隼人の方でもかねて用心がしてあるから、それつといふので直ぐ用意をする。

源八の方は門を押破つて中へ入つたが、入口が非常に狭い。そこへもつて來て、隼人

の弟の九兵衞が、十文󠄁字槌を持つて、さあ來いと構へた。源八が飛込󠄁んで行けば、ど

うしても突かれてしまふ。眞先に進んだ下僕が一人、その十文󠄁字槍を受けたが、突か

れながらその柄を摑んで、さあこのひまにお這入りなさいまし、といつたから、その

下をかい潛つて、源八の連中は一同に繰込󠄁んだ。敵は六十人ほどもこの時居つたので

こゝを先途󠄁と防ぐ。飛込󠄁んだ源八の方は、もうこゝが死場所󠄁だといふ心持で働く。暫

時の間は何方が勝󠄁つかわからないといふ風に切合つてゐたが、遂󠄂に隼人の親の大學と

弟の九兵衞を討ち、その他親類から河成に來てゐた十三人を討つて、餘人に傷つけ

たので、あとの者は逃󠄂げてしまつた。源八は勝󠄁ちは勝󠄁つたが、肝腎の怨敵隼人が見え

ない。これでは仕方が無い。けれども味方も討死が六人、手負󠄂が五六人あるといふ有

樣だから、まことに殘念ではあるが、手負󠄂を戶板に乘せて、據なく引上げて參りま

す。源八の連中が牛込󠄁の土橋のところまで引上げて參りますと、夜がしら〱 と明け

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て、人の顏も見えるやうになつた。その時にうしろから、馬煙󠄁を上げて駈けて來る二

十人ばかりの人數がある。ふり返󠄁つて見ると、これが隼人なので、怨敵こゝに在りと

ばかりに、又勇氣を振つて戰ふ。源八は隼人にかゝつて勝󠄁負󠄂をしてゐる。どうしたは

ずみか隼人が大溝へ落つこつたので、手もなく源八に討たれてしまつた。

ところで、討ち放しにして源八の同勢は、どこへ行つてしまつたかわからない。その

まゝ形迹を見せなくなつてしまつた。幕府の方では、これだけの大騷ぎをしたのだか

らといふので、いろ〱 搜すけれども、さて知れない。これが三日の出來事で、十七

日の朝󠄁󠄁󠄁になつて、源八及び外記、傳藏等の七人が、井伊掃部頭直澄の上屋敷へ訴へ出

た。これが幕府の評󠄁定になりまして、だん〱 の僉議の上、一同大嶋流罪といふこと

になつて、皆嶋流しになりました。


      復讎の最大規模


 この仇討の事は堀部彌兵衞は書いてゐないで、却つて龜山の敵討のことを書いてゐ

る。淨瑠璃坂のことは一つも書いてゐませんけれども、お揃ひの衣裝を著てゐたこと、

火事だ〱 といつて門へ迫つたこと、事後に訴へ出て公裁を仰いだこと、この三つは

そつくり自分󠄁達󠄁が夜討に實行してゐる。それに目ざす敵が居合せないで、隼人があと

から追󠄁かけて來たからいゝやうなものゝ、その場で敵を討ち損じた場合、これもいゝ

參考になつてゐるらしい。大體の趣向が此の奧平󠄁源八の往󠄁き方を手本にしたやうにも

見へる。四十六人の頭目が淨瑠璃坂事件を參考したのみならず、世間も本所󠄁討入につ

いて他處から類推しては居ない。吉良に上杉の加勢はないが、隼人には親類緣邊の應

援があつたので、それを其のまゝに持込󠄁んだのである。

 淨瑠璃坂の討手の方を見ますと――これは討たれた方も同樣でありますが、緣戚關

係が主󠄁で、これが幹部になつてゐる。が、親父の內藏允の寄子である細井又右衞門(二

百石)、傳藏の寄子であつた河俣三之助(百五十石)、武井傳兵衞(百石)などといふ人達󠄁

がゐる。寄子と申すと、君公からお預りの人で、自分󠄁の家來ではない。さういふ人が

加擔してゐる。あとは源八の召仕で、扶持と給金を貰ふだけの輕い人達󠄁、その給金取

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が五人、中間が二人ゐる。赤穗の方には足輕はありましたけれども、中間はありませ

ん。足輕と申せば、丁度今日で申す下士のやうなもので、名字も名乘れば刀も日本さ

す。士に準じたものでありますが、中間といへば全く給金のもので、名字も無ければ

帶刀もしない。袴も穿かないものである。だから刀をさしたり、名字を名乘つたり、

羽織袴をつけたりする足輕とはくらべものにならない。武家の奉公人の一番低いのは

中間で、その下に下男といふのはありますが、これは全く士の氣が無いのです。その

中間が二人までも敵討に加はつて、殊にその一人は身を捨てゝ十文󠄁字槍に突刺され、

主󠄁人に本懷を遂󠄂げさせてゐる。それよりも凄じく思ふのは、外記の召仕、扶持給金の

ものが三人、外記の中間が一人、傳藏の給金のものが三人、これらは自分󠄁の主󠄁人とい

ふのではありません。自分󠄁の主󠄁人の緣類を應援に行つたので、自分󠄁の主󠄁人がそのこと

に義理を立てられる。その義理に又からまつてこゝへ出て來たのである。かういふこ

とからいへば、內藏助の家來の瀨尾孫左衞門が逃󠄂出したなんていふことは、甚だ遺憾

のことで、內藏助の立派󠄂さを損ずるものと云つていゝと思ひます。



 その癖かういふ風に、先方が六十人、討手も四十人といふ大きな敵討といふものは

江戶ばかりではない、どこにもない。敵討といふもので、討手も討たれる方も、これ

だけの大勢であつたことは無い。伊賀越の敵討といつたところで、討手が五人、討た

れる方が十一人、とてもこんなものぢやない。それより大きいものといへば赤穗の夜

討で、敵討といふことの筋道󠄁が違󠄂ふ違󠄂はないの話は別として、敵討の最も大きなもの

は赤穗事件で、これよりも大きいものはありません。然も浪人同士ではなく、相手は

高家である。奧平󠄁源八の同勢よりは、十人足らず多い。さうして又源八の同勢が一同

に切腹を命ぜられないで、皆が皆大嶋へ流されたといふことは、赤穗の人達󠄁が一同に

腹を切つたといふことにくらべて、皆の心持の上に大變な差違󠄂を生じて來た。赤穗の

人達󠄁はどういふ豫想を持つてゐたか知りませんが、これが淨瑠璃坂と松坂町とをすつ

かりふり替へてしまふやうになつたのでありませう。


      大多數を抱擁する必要

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 さうして見ると、人數の多いことが事件を盛󠄁んにし、大きくすることが出來る。成

程󠄁、糾合激勵につとめるのも無理はない。折角つきつめて殘つた五十五人、それから

先は一人を失つても心配だつたらうと思ふ。然るに瀨尾孫左衞門、中田理平󠄁次、主󠄁稅

と主󠄁に江戶下りをして來た足輕の矢野伊助、吉良の屋敷へ忍󠄁び込󠄁んで、邸内の偵察で

偉功を奏したお手柄者である毛利小平󠄁太、これが討入の前󠄁の日までゐたのに、ゐなく

なつてしまつた。その外中村淸右衞門、鈴田重八、小山田庄左衞門、田中貞四郎、こ

の八人が、もう一擧の間もない時分󠄁になつて駈落してしまつた。これは神崎與五郎が

憤慨して、凄じいことを云つてゐるのも無理からぬ次第で、こゝで人を失つたことは、

「荒增吟味」といふ堀部彌兵衞の心持から考へても、忍󠄁びがたいことであつたらうと思

ひます。この中村淸右衞門、鈴田重八、小山田庄左衞門、田中貞四郎等は、本所󠄁林町

の堀部の家にゐたので、そこには横川勘平󠄁や木村岡右衞門も同宿してゐた。横川や木

村は先から來てゐて、安兵衛と合口だから泊つたのですが、大石が二度目に東下しま

した時分󠄁から、同志の結束が考へられて、前󠄁の四人の者はヤバイと認󠄁めて同宿させた


のである。いつか民生黨が代議士を𤍠海に圍つて置いたやうな氣持が無いでもない。

横川の手紙にも、同志の間に臆病風がひどく吹くやうだ。これは內藏助はじめ上方の

方で、熟考主󠄁義でゐるのが惡い。かうなつては不安心だから、一同の士氣を引立てる

爲に、切腹して見せたらどうであらう、といふことを書いてもゐる。まことに僅な手

紙の中の文󠄁言ではあるが、これによつて士氣の鼓舞、同志の結束といふやうなことが、

復讎事件の爲に、何ほど大きなことであつたかゞ想像される。


      四十六人の分󠄁類


 七十四の堀部彌兵衞から十五の大石主󠄁稅まで、それを年齡別にして見ますと、七十

臺が一人、十臺が二人、四十臺が三人、五十臺が四人、六十臺が六人、二十臺が十二

人、三十臺が十六人といふことになりまして、二十臺、三十臺のものが働いたことが

見えます。これは何も赤穗の浪人に限つたことではない。世間のことは何事によらず、

又時代にも拘らず、若い者が働くことは、珍しくも何ともない事柄であります。だが

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この若いとか、年取つたとかいふことの外に、君臣の情󠄁誼といふ方から見て參ります

と、譜代の家來と新參の者とでは、御馴染が違󠄂つて參ることがあるので、槪數として

は譜代故參のものが多く、新しく抱へられたものは少いのであります。殊にその邊の

統計を取つて見るといふやうなことは、材料が乏しくつて何ともならない。

 もう一つその同じ場所󠄁から云へることは、當主󠄁として祿を頂戴して居る者と居らな

い者、これは高祿の者と小身者との違󠄂ひよりも、まだ甚しい風がある。尤も四十六人

の上で見ますと、祿の高い者は甚だ少くて、祿の低いものが多い。けれどもこれは步

合にして勘定して見たらどうなりますか。高祿の者はその數が少いから、步合も小さ

くなる。祿の少いものは多いから、步合も大きくなる。それよりもこの當主󠄁として祿

をいたゞいて居つた人の外に、部屋住をいひまして、子供分󠄁でまだ勤に出てゐないも

の、即ち家族、さういふものが四人あります。それも親が居つて、親と共に働いたと

いへばまだしも、岡野金右衞門の如きは、部屋住であつた上に、淺野家が潰れた後に

親が死んで、時分󠄁としては全く祿を受けたのではない。それでも四十六人の中に入つ



て居る。これは同じ部屋住でありました他の三人、親について働いた大石主󠄁稅、小野

寺幸右衞門、間新六などとは違󠄂ひます。又身分󠄁の關係もありますが、部屋住も〱 僅

に御目見をしただけ、一遍長矩の前󠄁に出ただけのもの、親は無論祿をいたゞいて居つ

たのに相違󠄂ないが、主󠄁人の顏を一遍見たきりといふ御緣の薄いのもある。この御緣の

薄い四人の者――前󠄁の四人は屡々御目見もして居りましたが、これは本當に主󠄁人の顏

を一遍見たきりである。殊に矢頭右衞門七の如きは、親が死んで居りまして、岡野と

同樣なわけでありました、これは御目見ばかりの口が四人あるうちの、間瀬孫九郎、

村松三太夫、奧田貞右衞門などとは違󠄂つて居ります。併しとにかくこの八人の人とい

ふものは、自分󠄁が當主󠄁といふのではない。親の關係で四十六人の仲間に入つて働いた

ので、かういふものがあるので見れば、祿が高い、少いといふことは云はれた義理で

はない。


      元字金から文󠄁金の間

1 5  *6が脱字か

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 それはそれとしまして、若いものどもが多かつた爲に、四十六人のうちで二十六人

までは、妻の無い、獨り者でありました。それが又若いから元氣がいゝといふことの

外に、彼等が元氣に働けるわけであつたかも知れない。係累が無いから、それでよく

働いたといふわけではないけれども、身體が輕いから働きよかつた、といふことは云

へるだらう。が、この新古といふことは、いつの世間にもあることであつて、年寄と

若い者とはいつも二分󠄁れになり勝󠄁である。古風と當世風とはどうも相對峙するやうに

なる。勿論新しがつた爺もあり、古いのゝ好な若い者も無いことはない。けれども先

は年寄と若い者とは二分󠄁れになる。それが時代によつて、極端に新しく極端に古いと

いふこともある。その割合の低いこともあれば、高いこともある。けれども若い者と

年寄とはどうしても二分󠄁れになり、新しいと古いとを兩方の岸にして、川はその中を

流れてゐる。それが世間の常の有樣である。それが時勢によつて、その岸の險しいの

と險しくないこととがあつて、その岸の險しくさし迫つてゐるとゐないとで、又川の

瀨を急󠄁にもすれば緩めもする、といふわけになつてゐる、何方にしても世間は極端で


はなく、新しいと古いとの中を流れて行くには違󠄂ひない。たゞ岸の高い卑いと、瀨の

速い遅いとは、時代々々で違󠄂つて行くわけであります。丁度この元祿、寶永、正德、

數へて見ればこの間は僅か二十年ほどの隔りでありますが、世間のうつりかはりの烈

しかつたことも、この短い間には隨分󠄁際立つて見えた。それが時勢の替り目であつた

やうにも眺められます。

 さうでありましたから、後世まで元祿時代といふものは、いつまでもおぼえられて

居ります。それは丁度元祿八年の貨幣改鑄から始まつて、さうして元文󠄁小判󠄁の出來ま

す時までが一の區劃をなす時であつて、波瀾は元祿、寶永、正德といふ時が一番波が

高く、岸も險しかつたやうに思はれます。それですから古い川柳、明和度のものには、

 元祿の生れふんどしあごでしめ

とある。それを寬政九年の「柳樽」で見ますと、

 古風なる男ふんどしあごで〆

となつてゐる。それで明和の時に、もう元祿時代といふものを、一の境目に見てゐる

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ことが知れる。その意味を補つたのが、この寬政九年の句であるやうに思はれる。ど

うも元祿といふと、そこに段がついてゐて、一仕切あるやうに考へられます。

 何でそんなに段がついて、辭世の模樣が際立つて變つてゐるかといふと、それは金

の世の中である。小判󠄁丁銀の世界であるといふことが、誰彼なしによく承知の出來た

時、資本の働きを世間の人が充分󠄁に知つた時、といふことなのであります。從つて資

本を擁してゐるものは、誰よりもえらい働きが出來る。誰よりも金を儲ける人がえら

い人である、といふことをまざ〱 と見せつけられた。又その見せつけられたものを

皆が御尤として受容れた。それだから富豪といふものは、氏も素性も入らない。さう

いふ有樣でありましたから、武士の方の世界でも、軍學であるとか、武藝であるとか

いふことを以て、任用されたり、重く用ゐられたりするといふことよりも、やはり算

勘の達󠄁者な者が、採用もされゝば重く用ゐられもする、といふ有樣になる。すべてが

算勘といふことになつて來る。當世の用事が足りる目の前󠄁の便利の人を歡迎󠄁すること

になる。軍學や武藝を申立てゝ、採用されたり、重用されたりした時に於ても、系圖



だの筋目だのといふことはもう無くなつて、その才能を認󠄁めるだけでありましたが、

算勘で用ゐられる時が來ては、愈々さういふ傾が强くなつて、軍學や武藝はとにかく

武士といふ畠から出て來るのが常であるが、算勘といふことになりますと、昨日まで

も今日までも町人百姓と見下した仲間からも出て來る。寧ろその方が多い。それが當

世のつとめをするのでありますから、昔は陰の奉公といつて、勘定役人なんていふも

のは後廻󠄀しで、君の御馬前󠄁の働き、晴の御奉公といふのが第一になつてゐたのだが、

戰爭が無くなつてしまつては、いづれも皆疊の上の奉公である。御馬前󠄁の方の奉公と

いふものは無くなつてしまふ。彼等を何よりも美しく飾つて見せたものは、系圖筋目

でありましたが、それはもうこの元祿、寶永の時を待たずに、信長の時に已にこはれ

かけてゐる。秀吉の取立大名などを見ると、氏素性の無いものが却つて多い位になつ

て來た。それからずつと、氏素性といふことは、彼等を飾ることが少くなつて、當世

のつとめをする者の方を重んずるやうになり、陰の御奉公が晴の御奉公になつて、算

勘の人でなしに、傳來してゐる前󠄁々からの奉公人は、やつぱり同じやうに疊の上の奉

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公であつて、たゞ行儀のいゝ、立居振舞の立派󠄂な、といふだけの話になつてしまつた。

武士らしい武士と褒められて見たところが、一向何の景物も無い。そんなことになり

行つたのは、今の「金の世の中」といふことが、皆に承知されるよりまだ早かつた。武

士が武士らしくして手柄を立てることは出來ない。立身出世は望まれない。といふこ

とは、ずつと前󠄁からあることだつたので、その立身出世が出來ないといふことから、

武士は武士らしい顏をしたつて、思ふやうにならない。さうなると又如何なることで

も、武士は仕出來すものである。


      商賣氣からの殉死


 武士が殉死をするといふこと、主󠄁人が死ぬと追󠄁腹を切る、これは大分󠄁古い仕來りで

ありましたが、それにさへ殉死三腹といふ說がある。奧州中村六萬石、相馬長門守利

胤が寬永十二年十月十六日に亡くなられました時、譜代の家來である金澤忠兵衞、こ

の忠兵衞の親は備中といひましたが、その親から遡り算へて十一代、代々主󠄁君の爲に



討死をしてゐる。十二代目の忠兵衞は、太平󠄁の世に生れて、御馬前󠄁の御用はもう無い、

自分󠄁は先祖代々命の御用に立つて來たけれども、もう今日ではさういふわけには行か

ない。まことに先祖に對しても恥しい話であるから、せめては二世のお供を致したい

といふのでこれが殉死をした。これなどは實に立派󠄂なものだといつて、當時に褒めら

れまして、これを義腹といつた。それからこの時に、忠兵衞の傍輩の者共が、あれが

君公に殉死を遂󠄂げた。自分󠄁等ものめ〱 として居つては恥しい。自分󠄁等も決して忠兵

衞に劣るものではない、といつて數人切腹した。これは論腹といふのである。さした

恩も無いのに、死なずとも濟むものを、自分󠄁の命を捨てゝ君公の二世のお供をすれば

自分󠄁の子孫の爲にもなるだらう、といつて腹を切るやつもある。これは商腹といふの

である、といつて評󠄁判󠄁した。さうするともうこの頃に商腹のあつたことが知れます。

成程󠄁「寬明間記」の中には、子孫の爲に君公の二世のお供をする、といふ書置をして死

んだやつがあつたことが書いてある。なか〱 商腹があつたらしい。今から考へると、

子孫の爲だといつて追󠄁腹を切るといふことは、想像が困難であるが、當時は大分󠄁さう

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いふ人があつたと見える。又それほどにしなければ武士が立たなかつた。商腹といふ

ことは、これだけのことでは、まだ私どもには受取りにくいので、一體寬文󠄁三年の殉

死の法度が出まして、その後にも繰返󠄁してやつて居る。奧平󠄁美作守忠昌、これは宇

都宮十一萬石で、淨瑠璃坂事件もこの忠昌が死んで、その葬儀を行つた時から始まつ

たのでありますが、寬文󠄁八年二月、この忠昌が死んだ時に、家來の杉浦右衞門といふ

ものが殉死をしてゐる。法度が出てゐるのに殉死をしたので、その處分󠄁をしたのを見

ると、杉浦右衞門の子供二人、杉浦善右衞門、横田吉十郎といふものを残材にしまし

た。それから婿になつた奧平󠄁五太夫、孫に當る稻田瀨兵衞、これらのものを追󠄁放の處

分󠄁にした。それで其の後に殉死がやんだといふことであります。この一類の處分󠄁、一

類を處分󠄁したらば殉死がやんだことを考へると、その殉死がどこから出てゐるかとい

へば、子孫の爲に殉死する、といふことになる。それが多かつたから、かういふ處分󠄁

があつたのである。武士らしい根性を持つて武士らしく行くといつても、そのぎごち

ない中にこれだけの商賣氣を出す。殉死といふことゝ商賣氣とは、大變なかけ隔りが



あるやうですが、必ずしもさうでもないことは、此の從類處分󠄁で殉死がやんだことで

もわかる。これで商腹のあつたことが納󠄁得出來る。この處分󠄁で立派󠄂に殉死をとゞめ得

たといふことによつて、商腹が澤山あつたことも窺はれるのであります。

 それだから武士らしい顏をして武士の仕事らしく見える、又武士の根性らしくある

敵討の如きは、さういふ方の意味からも盛󠄁んになつて來るわけでありますが、殉死だ

とか、敵討だとかいふものは、隨意にいつでも出來ることではない。さういふ機會を

待たなければならない。それが又惡い方の意味でなく、いゝ方の意味から云つても、

自分󠄁が武士であることを固く信じて、武士らしくしようとする時には、昔のたとへに

もある通󠄁り、消󠄁えかけた燈火が明るくなるやうな按排で、武士が武士らしい根性を無

くなしかけた時分󠄁に、さういふことが餘計出て來る。享保度になつては、間男成敗の

延長を妻敵討をいつて、それが流行したといふことも、やはりそれからの流れであり

ますが、これはどうも褒めたことではない。どうしても立派󠄂な方の意味には考へられ

ない。ぎごちない方の武士でさへも、眞正直にその根性を續けて行く中に、寬文󠄁度に

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は商腹を生じてゐるほどでありますから、況して當世風の心持になりきつてゐるもの

であつたら、武士が商賣人のやうな心持に流れて行くといふことは、それが時勢であ

つたのかも知れない。この頃では大名が潰れるといふことは少いので、家來はそれに

くつついてさへ居ればよろしいのでありますけれども、それが又むづかしくなつて、

とかくに當世のつとめを解する新進の人から追󠄁ひのけられて、古風な士は追󠄁出される

概して人減しの多い時でもありましたから、浪人はだん〱 多くなり、一度浪人すれ

ば又容易に祿が得られない。失業就職難は當時の武士の上には、なか〱 の問題であ

つたに相違󠄂無い。


      氣の毒な浪人稼業


 さてその武士が、少し學問のあるものは醫者になる。「醫者は一杯儒者食はず」とい

つて、どうか飯になる。その次のやつは手習󠄁師匠になつて世浚りをする。樂なことで

はないが、まあ〱 それで濟ましても行ける。さもないものは、乞食になつてしまふ

より外仕方が無い。それだから當時の浪人といふものは、武藝の稽古を勵んだことを

後悔して、かういふはかない浪人生活を夢にでも知つてゐたならば、醫者にはなれず

とも、手習󠄁師匠になるほどのことをして置くのであつた、と悔んだ話が、よく浮世草子

の中などに書いてありますが、それはまことに僞りの無いところでありましたらう。

この寬文󠄁度といふものが、時勢の變り目の尖端であつて、この時に幕府が儉約令を出

してもゐる。寬文󠄁度の狀況から申すと、米が安くつて物價が高い。それにくらべる

と金はもつと高い。金銀にすべてのものが支配される。この頃の儉約といふものは、

金を出さないやうにする仕方で、大名は盛󠄁んに借倒しをやり、自分󠄁の家來に對しては

祿の步引をしてゐる。上げ米と稱して二割三割と祿を減してゐる。幕府は儉約令を出

してゐる。一方から考へると、武士の收入である米糓は、掛屋とか藏元とかいふもの

によつて押へられてしまつて、米價はだん〱 と町人どもの手で相場を立てるやうに

なり行つてゐる。

 參勤交代であるとかいつて、長い道󠄁中を薙刀を持つとか、槍を何本立てるとか、先

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箱だとか、引馬だとか、お祭の行列のやうなことにして、それを又格式をつけて長の

道󠄁中を押廻󠄀す。それは德川氏が諸大名に金を遣󠄁はせる方法だとも云はれてゐる。さう

いふことを繰返󠄁して居るのみならず、大きな工事は一々大名に對して手傳を命じて、

大名の費用でやらせる。さういふことから大名の手許が苦しくなるばかりでなしに、

米が安くなつて、物價がだん〱 と高くなる。收入が減つて支出が多くなる、といふ

有樣である。これは大名のみではなく、大名に使󠄁はれてゐる武士どもも同じことなら

幕府にしても同じことで、生活費はだん〱 增化󠄁して來る。彼等の祿は昔の軍中の勘

定で定められ、平󠄁時の算盤で給與されてゐない。家庭の無い生活をして居つた。野に

臥し山に伏しといふ有樣で、戰爭ばかりしてゐるので、上下も著流しもあつたものぢ

やない、鎧や兜ばかり身體につけて居つた。食物はといへば、玄米に糠味噌汁、豆で

拵へた味噌の汁を食ふなんていふことは、戰爭の無い時より外には無いのである。寢

るにしたところが、布團だけあるのがいゝ首尾で、夜著なんていふものはありはしな

い。枕も無い、肘枕で寢れば手が痛くなつて、時々目がさめる。その方が用心がいゝ


といつて枕をしない。さういふやうな暮し向で來たのであるから、その算法でどれだ

けの家來を持つものはどれだけ、といふ祿高をきめて來た。それがその當時ならまだ

しも、天下泰平󠄁と相場の極つて了つた寬永も過󠄁ぎ去り、萬治、寬文󠄁、延寶と世の中が

開けるに從つて、豆味噌の汁が御馳走でないやうになる。誰も彼も白米を食ふやうに

なつて來る。舶來織物の著物や帶を女房が喜ぶやうになつて來る。女房ばかりぢやな

い。己れも舶來品を身に纏ふやうになる。日本でこれを模造󠄁したものが供給されもす

る。さういふ風になつて來たから、それが必ずしも奢りとのみも云へない。贅澤なこ

とをしないでも、戰時のやうな生活が戰時でない時に出來るわけのものぢやない。さ

うすれば自然生活費が違󠄂つて來る。況してそれが贅澤をおぼえて來る、とすると財用

が窮迫して來るのは當り前󠄁の話である。


      儉約令を茶にした落書


 諸大名も疲弊して來れば、武士といふ武士は、大小構はずにどれもこれも貧乏する

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といふことは、珍しくもをかしくもない筈である。幕府はそれの足し前󠄁を、家康以來

貯へて來た金銀を貨幣に替へて世間に出し、それによつて財政を維持して來た。先祖

以來金を持つてゐる大名は、それをだん〱 と吐出して來た。それの無い大名は、借

り倒すより外仕方が無い。寬文󠄁になつては、幕府も已に久しい持來りの金が盡きてし

まつた。保科肥後守正之が幕閣の首班に居つて、遂󠄂に儉約令を出さなければならない

といふ有樣になつた。この儉約令に就ては、大分󠄁面白い當時の戱文󠄁があります。落首

などには捧腹絕倒するやうなのがある。その一例をこゝに擧げて置きます。江戶時代

にはどんな悲惨なことがあつても、平󠄁氣な顏をして、氣樂千萬に、いつも落首落書で、

ふざけたやうなことを云つて通󠄁れたのは、例の國民性とか何とかいふことが云へるの

かも知れない。

   儉約之條々

 一日月星の三光、晝夜のまわれる樣の事儉約を相守申さるべし、日は一ヶ月に六さ

  い宛出給ひ、晝は月を出し、夜々は星計にて賄ひ申さるべし、それも大星をば箱



  に入置て、ぬか星計出さるべく候事、野山に見ゆる草木、人間の所󠄁用たらず、牛

  馬等の食物にもならさるたくひは、方寸の地たりと云ふ共、猥に生へ出る事停止

  之事、

 一海川の上幷虛空󠄁を其儘明ヶ置事、誠に國土の費なり、悉く板にて簀子を張、其

  上に厚〱 と肥たる土を置、田畑にちらし、野菜米糓を作るべし、然上は尤三年

  は新田新畑作り取りたるべき事、

 一近󠄁年打續き洪水夥し、自分󠄁以後大龍小龍共、むざとしどなく、べん〱 と長雨

  をふらすべからず、儉約を守、田畑のたすけに計なる樣に時々ふらすべき事、

   附りはたゝ神大だいこを打て、諸人に氣をもませ、女童に抹香をつひやさせ

   やかましく桑原よばはりさせまじき事、

 一萬民過󠄁半󠄁せい高きゆへ、衣類幷家居等に付費多し、自今以後懷胎の女人にかたく

  申付、二尺五寸より高サ生出させ間敷事、尤男も其心得をして種をまくべき事

  但只今迄成人仕來りたる面々は其通󠄁にて一生終るべき事、

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 一或は飢饑或はゑきれい等にて、人並の樣に死、又は食傷喧嘩口論にて非業の死、  @

  扨又頓死したりといふ共、猥に死すべからず、世間を能々聞合まんべんに死べし、

  幷つかへ症氣欝、果てしもなき長病は制禁也、但老病は格別之事、且又少々の煩

  に、むざと人參等用る事無用たるべし、大半󠄁醫師を呼ずして自針を用べき事、

 一死人を火葬にする事、薪の費そくばく也、向後は悉大繩にて網候て軒下に釣べし、

  陰干にして、和の木乃伊に用立可申事、

 右此世界は不ㇾ及ㇾ申、たとへ地獄極樂天上たりといふ共、其時代に生れあひては、

 其政道󠄁を守るべきもの也、

    管略元年 月 日

  なんのかのあれのこれのとこちやのきていやはやらちのあかぬ世の中

 さう云はれた保科の儉約令、それに續いて延寶九年には家綱將軍が薨去されました

ので、堀田筑前󠄁守正俊は、館林の綱吉を擁立して新將軍にした。この堀田の儉約令は、天

和の改革と稱せられて、江戶の四大改革といはれるほどの嚴峻なものでありまして、儉



約を實行する爲に、警察力を加へて勵行しましたから、なか〱 寬文󠄁度のやうなもの

ではなかつた。さすがにこの時は、馬鹿にしややうな落首落書も出てゐない。おかげ

で江戶の市中は火の消󠄁えたやうになりました。寬文󠄁度のは四大改革に比べて、きびし

さが大分󠄁違󠄂ふ、後々の改革のやうなものではなかつたが、兎に角保科の儉約令が出て

來た上に、又堀田が嚴重な改革を行つたのでありますから、不景氣の上に不景氣が重

つて、武士は食はねど高楊枝といふ言葉も、延寶度の言葉でありまして、それから後

にはもう云はなくなつた。

 附火や泥棒は寬文󠄁の末からなか〱 多くあつたが、天和改革の際に於ては、益々そ

れが甚しくなつて來た。隨分󠄁に江戶はむごたらしいものになりかけて來た。從つて日

本全國の不景氣でもありました。それが元祿八年の貨幣改鑄によつて、通󠄁貨が膨脹し

た、我國ではこれほど通󠄁貨が膨脹したこと、それも一時に膨脹したことは、前󠄁後に例

が無いのでありませう。さうしてそれが俄な景氣を生じた。

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      請󠄁負󠄂事業は搾取の根本

 こゝで又思ふことは、寬永九年に增上寺の普請󠄁を入札によつて、伏屋治兵衞、岩屋

甚兵衞といふ二人のものが請󠄁負󠄂を致しました時に、井上喜菴をいふ老醫が大に歎息い

たしました。現在の江戶では、一人で三千兩持つてゐるといふ町人は何程󠄁もあるまい

が、大きな仕事に請󠄁負󠄂といふことが始まつて、請󠄁負󠄂普請󠄁といふことが、世の中に盛󠄁ん

に行はれるやうになれば、一人で三千兩どころではない、一萬兩や二萬兩持つてゐるや

つがいくらも出來て來るであらう。請󠄁負󠄂といふものは、下方のものを搾つて一人で儲

けを取るものである。この仕方といふものは、他にも應用さるべきものであつて、町

人は軈て大きな利益を得ようとしては、諸物價の引上といふやうなことをするに至る

であらう。さうしてそれがいつもうまく行くやうに、だん〱 なつて行く。さうなつ

て行けば、小前󠄁のものは愈々貧窮をして、大前󠄁のものは益々富饒になつて行く。かう

して世間の金銀といふものは、片落になつて行くから、その時は民間ばかりでなく、



士どもまで困窮するやうになる。といつて、金銀の片寄り、片落といふことを、ひ

どく心配されたといふことでありますが、成程󠄁、萬治、寬文󠄁度に、貧乏大名が自分󠄁の

家の寶物などを賣出すといふと、これは大槪町人が買つた。それはどんな譯であるか

といふことを考へて見なければならない。西鶴は貞享に、銀が銀を儲ける世の中だ、

といふことも云つて居ります。だん〱 商が大きくなり、商賣は資本で行くやうにな

つて行く。それを「銀が銀を儲ける」といつたので、如何にもさういふ風になつて來ま

した。さうして井上喜菴の云つた通󠄁り、一人で大儲けをするやうに、物價を引上げて

參りまして、米糓を町人どもの手に握つてしまつた。それが一時に貨幣改鑄によつて

通󠄁貨が殖えて參ります。通󠄁貨の膨脹と共に、片寄り、片落は益々ひどくなつて來る。

成程󠄁、延寶頃から「武士は食はねど高楊枝」とも云つて居られなくなる。急󠄁に食ふのに

追󠄁はれるやうな心持になつて來て、何となく浮足立つて、腰が据らなくなる。それは

改鑄といふことによつて、通󠄁貨が膨脹して參りましたから、如何にも變化󠄁が急󠄁のやう

に見える。又事實急󠄁激でもありました。

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      目立つた秀吉の戦法


 けれどもこゝで又もう一つ考へて見ますと、黄金の威力がだん〱 ひろがつて來る

といふことは、元祿の改鑄といふけたゝましいことを見て、忙しい大きな變化󠄁に出つ

くはしたと思つては間違󠄂ふ。通󠄁貨の改鑄、膨脹といふことは、俄ではありましたけれ

ども、もうそれまでにちやんと道󠄁順が出來てゐて、そこに到著したのであります。戰

國時代にも、兵力でない城攻が行はれてゐた。「靑田をこねる」といつて、植ゑつけたば

かりの田を蹈み躙つてしまふ。或は出來た稻を刈取つしまふ。これは粮食を奪ふので

あります。それから城下に放火をする。これは物質の供給を斷つ方法である。かうい

ふことは城の水の手を斷つ行方と竝んで行はれて居つた。それがなか〱 十字砲火以

上の效力を持つて居つたのであります。秀吉は鳥取の城を攻めます時に、仙石權兵衞

に資金を與へて、商人船に附添はせて、因州の米を買ひ占めた。城の貯米までも、値

段にほだされて、うつかり賣つてしまつたので、兵糧に困つて落城した、といふやう



なことをやつて居ります。これは黄金が兵力よりも先に働いて、大功を奏した一例で

ある。賤ヶ嶽の戰役に、秀吉が美濃路から駈けつけます時に、沿道󠄁の百姓に命じて、

十倍返󠄁しにするから、食物を路傍に陳列して自分󠄁の軍隊に與へよ、と云つて居ります。

これも資金が働いて戰爭をする例であります。軍道󠄁具や軍人の體力で行かずに、金を

遣󠄁つて戰爭するといふことは、秀吉の行き方を調󠄁べましたらば、まだ澤山あることだ

らうと思ひます。


      選󠄁擧の實彈も古い


 それから秀吉は諸將に向つて、金くばりといつて、多くの金銀を與へてゐる。何も

今日の選󠄁擧の實彈といふことが、新しいことではないこともわかる。それですから秀

次が諸大名に頻に金を貸してゐるのを見て、己に叛くものと考へた。金を貸して諸候

の心を固めようとする、と思つたのです。細川越中守忠興は、秀次から二百枚借りて

それに困つてゐたのを、家康が貸してやつた、その恩に感じて細川は德川方になつた

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のである。嶋津義久は家康に七百枚借りて、急󠄁場を救つて貰つたのに、石田に加擔し

たので、恩を知らぬといつて一部から評󠄁判󠄁された。これは買收し損つたのだが、細川

は買收出來たのである。買收といふことは、黄金の力で人間を動かすことなので、そ

れが武門武士の間に顯著な事柄であつた。それから百年たつた後でありますから、金

の世の中だといつて、びつくりするのも異なもので、金が武士を支配するといふこと

も、考へて見ればもう珍しいことではない。金を得る爲には商賣根性になつて、自分󠄁

の命や腹の皮さへも、商ひ物のやうに切るやうにもなつた。さういふ風なことを見て

居れば、成程󠄁武士も人間だ。生きんが爲だ、といふやうになつて行きもしませう。腹

の減るのを心配するやうになつては、利害󠄂の外に立つて働けの、生死の覺悟をせよの

といつたところが、それは野暮な話で、食はぐれの武士や、失職して浪人になつた者

共が、別の屈托もなく食ひ續けたい、腹の減るのは迷󠄁惑だ、といふことになりきつて

ゐる。さうなつて見れば、士といふものも、他の農工商に對して、何の違󠄂つたことも

無い。又心持の上から、己は武士だから彼等とは違󠄂はなければならない、といふこと



を考へるやうなこともなかつたらう。そんな時に意氣がどうとか、義理を立てるのが

どうとかいつたところで、お話にもならない筈であります。


      食ひたい〱が世間並


 それでも元祿の時には、戰場生殘りの古猛者はもう居りませんけれども、その精神

氣魄を受繼いでゐるところの老物は、まだいくらかありました。武士は已に時代おく

れなものになつてゐる。食ひたい〱 といつて心配して居りながらも、その形はもう

慥に時代おくれの形である。が、それよりも古い腹、それよりも古い形を持つた老物

どもがまだゐたのだから、世間の驚く方が當り前󠄁でせう。さうした傳統的の根性を持

合せた人間が働いたので、時代錯誤󠄁の赤穗浪士といふものが、目立つて見えたに違󠄂ひ

ない。さうしてその時代錯誤󠄁の赤穗浪士の中でも、老人が急󠄁進突擊であり、中年のも

のが熟慮熟考であり、壯年少年のものが氣込󠄁んでゐたといふことも、亦考へるほど

のことではない。さういふ時勢に在つて、古武士の姿󠄁、心持、それは利害󠄂などに拘ら

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ずに、義理を立てぬくところにある、と見定めた西鶴などは、別に珍しい發見ではな

いが、まことに要領を得た云ひ方であり、見方である。近󠄁松にしてもそこを云つてゐ

る。勿論彼等としては、その他に世間から眺められるやうな景色を持つてゐなかつた

からでもあるが、そこを押へたのは、西鶴、近󠄁松ともにまことに至當な見解だつたと

思はれる。とはいひながら、利害󠄂の外に立つて義理を立てることは、當時としては人

間でないやうに思はれたかも知れない。それよりは腹の減るのに屈托する方が、人間

だと思はれたかも知れない。この當世風の心持を餘計持つてゐる、少し持つてゐると

いふこの差別は、鼓舞煽動して志を立てさせるといふ方から見ると、大分󠄁大切なこと

であります。若い者は餘計に當世風な筈ではあるが、彼等は元氣のいゝ、氣嵩なもの

であり、申さば空󠄁虛なところも亦多いから、鼓舞激勵も餘計に效能があるだらう。指

導といふか、誘引といふか、それを引張つて行く上では、若い者の方が都合がいゝ。

その代り若い者は煽動が利く代りに、早く冷たくなつてしまふ虞󠄁もある。槪して云へ

ば、一般の世間の有樣から背いて行くのであるから、誰彼なしに先づ手を緩󠄁められな



い。しつかりと鼓舞激勵して行かなければならない。それには無論集團の力が大切な

ので、個々で行くよりも相持にして行く方がいゝ。そこで糾合され、集團されて來る。

さうすれば一つになつて、融通󠄁されて、同じやうに動いて行くのである。


      顏を赤めた矢頭右衞門七


 けれどもその出來上つた集團の氣分󠄁なり働きなりを、さういふものからばかり眺め

て行けば格別、一人々々に選󠄁り分󠄁けて行くと、なか〱 面白いのが出て來る。矢頭右

衞門七などは、十八歳でありましたが、討入の翌󠄁朝󠄁󠄁󠄁、十二月の十五日の朝󠄁󠄁󠄁、泉岳寺へ

引上げた時に、若い者同士が客殿の傍の圍爐裏のある座敷に寄集つてゐると、坊さん

達󠄁が代る〱 何か珍しげに――事實珍しくも思つたでせう。前󠄁夜の首尾をいろ〱 聞

いてゐる。その中の一人が右衞門七の顏をつく〲 見て、これは唐の薛調󠄁ぢやないか

といふと、もう一人が、いや衞玠だらう、と云つた。といふのは、義士の一統が泉岳

寺へ著いた時、義士の中に女がゐるとまで云はれた位の若衆であつた右衞門七、坊主󠄁

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に若衆だから、こいつは堪つたもんちやない。泉岳寺の坊主󠄁どもが、若い人達󠄁のとこ

ろに寄集つて來たといふのは、右衞門七の姿󠄁が美しい爲に集つたのではないかと思ふ。

それだから彼處がいゝの、此處がいゝのといつて、右衞門七の美しいところを賞翫

した。この時代の人間は、誰でも若い者で念者、念友といふことを解せないものは無

いのだから、何を云つてゐるかといふ意味がわからないことは無い。そこで右衞門七

はこの二人の坊主󠄁に向つて、自分󠄁は今まことに耳慣れない、不思議な御言葉を承つた。

夜中冷えてゐたのを、今こゝで焚火にあたつて暖󠄁かになつてゐる。その上に御酒を少

し食べたから、顏がさにぬりのやうになつた。その赤いのを見て、皆さんがお笑ひな

さるのか、何とあついことだ、といつて中の間へ立つて行くと、大勢が又あとからぞ

ろ〱 ついて行つた。といふことがある。右衞門七は自分󠄁の艶かな美しい姿󠄁を見なから

騷がれるのを見て、如何にも恥しいやうな氣持がしたと見える。その稚いやうな、媚

びたやうな心持、嬌羞を隱す樣子といふものは、文󠄁字の上で見ても、まことに娘のや

うである。この人が昨夜吉良の屋敷へ討入つた人か、と疑はれるやうでもある。



 右衞門七は親の長助が亡くなつたあとで、その志を繼いで、四十六人の仲間に入る

といふことを、大石に吿げた時に、內藏助は、他に身寄とても無い右衞門七が敵討に

加はつたら、誰があとで後家になつてゐる母の始末をするのであらう。年の若い今の

身空󠄁だから、それは思ひ止つたらよからう、といつてとめた。その時に右衞門七は、

いや母のことより亡き父の申付けが大切である、主󠄁稅殿をお召連になるならば、私も

お召連を願ひたい。私の方が年も一つ二つは上である、年が若いからといふことは入

らぬことである、といつて、さうして江戶へ出て來たといふけれども、この坊主󠄁ども

に對する應對の、初々しい、なよやかなところを以て見ると、それらのきつぱりした

樣子が疑はれるのみならず、吉良の屋敷へ行つても、少しも太刀打をしなかつたもの

もある、と書いてもある。右衞門七の武藝が何程󠄁あつたといふことも知れて居らず、

何をどうしたといふことも知れてゐない。それらのことは大に考へて見るべきことで、

人は見掛けによらぬもの、漢の張良は婦󠄁女のやうであつたともいふが、集合の力と

いふこと、激勵の效果といふことは、或はこの人などの上に見ることが出來はしまい

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かと思はれる。


      枕拍子に役者の聲色


 それから細川越中守に預けられた十七人、これは芝の下屋敷で、御廣間に添ふた座

敷を二つ與へられて、年取つたものが上の間に居り、若いものが次の間に居つた。覺

書を殘したので有名な堀内傳右衞門は、そこの詰番であつて、御預りの人々の世話を

して居つた。これが又義士崇拜家であつたので、大さう皆を大事にした爲に、とりわ

けてこの人は懇意だつた。二月十三日の夜の四ッ時と申しますから、只今の午後十時

頃でありましたらう。かねて御預り人の處分󠄁がどうなるかわからないで、嶋流しにな

るか、或は御免になるか――御免と申すのは無罪放免のことです――決著がつかずに

居つたのが、恰も此の時上屋敷の方へ幕府から、明日切腹させるといふ內報がありま

したので、それを下屋敷の方に傳へて參りました。その爲に詰番のものゝひけもいつ

もより遲くなつて、まだそこにゐた。そのうちに次の間の坊主󠄁――これは御預り人の



小使󠄁役をつとめる爲に、坊主󠄁がついてゐたと見えます――が來て、今傳右衞門殿の御

聲を方々が聞いて、此方へおいでを願ひたいと云つて居られる、といふことを傳へた。

傳右衞門も匇々に奧に行つて見ると、もう一同は寢て居ります。その中で富森助右衞

門、大石瀨左衞門などといふ若い人々が、いろ〱 な話をして居る。尤も御預りの人

々は、內報があつて明日切腹の命を受けるなどといふことは知らないのでありますが、

傳右衞門に對して、吾々はいつ埓があくかわからないのであるから、御暇乞に藝づく

しをお目にかけたい、と云つた。無論この詰番は一人ではないから、御番の衆に見え

るといけないといふので、枕屛風を立て廻󠄀して、そのかげで堺町の狂言盡の眞似をし

て、大變な騷ぎをしてゐる。その傍には奧田孫太夫、潮田又之亟などといふ連中が、

これは御免なさいといつて、起󠄁きもしないで寢てゐる。その寢床で、然も士の身分󠄁で

當時の事にすれば、身分󠄁の違󠄂ふ役者どもの眞似をする。隨分󠄁惡ふざけである。そこで

潮田又之亟が、どうもとかく皆が騷ぎたがつて困る、いづれ埓はあくであらうが、先

づ明日は內藏助のさういつて、手錠でもおろさせませう、と云つた。よほどの騷ぎだ

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つたと見える。傳右衞門も、相番の長瀨助之丞があとから見るといけないと思つて、

孫太夫殿が御迷󠄁惑だから、もうお休みなさい、と云つたけれども、なか〱 よさない

で、是非もう少し〱 といつて引止めた。あまり夜が更けるから、もう寢た方がいゝ

だらう、といつてそこの座を立つてしまつた。かういふやうなことは、大事に取扱は

れてゐたこともわかるし、又なか〱 調󠄁子づいて、あとのことを考へずに浮󠄁れてゐた

こともわかる。そのうちで若いといつたところで、こゝに預けられた人數を見ると、

大石內藏助が四十五、吉田忠左衞門が六十二、原惣右衞門が五十五、片岡源五右衞門

が六十三、間瀨久太夫が六十一、小野寺十內が六十一、磯貝十郎左衞門が四十四、堀

部彌兵衞が七十四、近󠄁松勘六が三十?。富森助右衞門が三十七、潮田又之亟が三十四、

赤埴源藏が三十一、奧田孫太夫が五十六、矢田五郎左衞門が三十九、大石瀨左衞門が

二十七、早水藤左衞門が三十九、間喜兵衞が六十八といふわけであつて、このうちで

は二十七の大石瀨左衞門が一番若い。あとは若いといつても、皆三十臺である。その

三十臺の人がさういふ馬鹿騷ぎをしてゐる。



 それから長府の毛利甲斐守のところに預けられた連中、これが又處分󠄁を受けるよほ

ど前󠄁から、夜になると急󠄁に上下を著出して、今生のしをさめだといつて、その頃はや

つた枕拍子をとつて騷いでゐる。これは築地の下屋敷で、こゝの若い人はどんなもの

かと見ると、岡嶋八十右衞門が三十七、吉田澤右衞門が二十八、武林唯七が三十一、

倉橋傳助が三十三、村松喜兵衞が六十一、杉野十平󠄁次が二十七、勝󠄁田新左衞門が二十

三、前󠄁原伊助が三十九、間新六が二十三、小野寺幸右衞門が二十七、この十人の中で

二十臺のものが吉田、杉野、勝󠄁田、間、小野寺で、當時のことにすれば、十五で元服󠄁

しますから、二十ではもう立派󠄂な親仁になつてゐる後の諺に「うか〱 三十、きよろ

四十」といふのがあつて、うか〱 してゐるうちに三十になり、きよろ〱 してゐるう

ちに四十になつてしまふことを云つたのですが、天下無類の義士といはれる人達󠄁が、

うか〱 やきよろ〱 してゐる筈は無いと思はれる。若いといつても十九や二十の人

間がゐるわけでもなし、今日の人間でも二十七位になれば、いくらか書生離れのする

時分󠄁である。その人間が間がな透󠄁がな枕拍子をとつてゐるのは變なことだ。枕拍子と

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いふのはどんなものかといふと、これはよほど後まで殘つてゐた。「夜もすがら夢もむ

すばず枕をとり」と「一代男」にある、あれがさうです。南北の書いた芝居で「勝󠄁相撲浮󠄁

名花觸」、あれは身代りお俊の芝居ですが、中幕のお俊のうちのところで、枕拍子が出

て來る。兩方の手に枕を持つて、兩方向ひ合ひになつて、拍子をとつて「どつこい〱 」

といふ囃子がある。古い唄は傳はつて居りませんが、京傳の「仕掛文󠄁庫」の中に、枕拍

子の唄が一つ載つてゐる。洒落本時代ですから、大分󠄁後のものですが、「ワシガヒイキ

ノナアアノ濱村やソシテ瀧野や高麗屋へ、ノコヘソラ笑へ、〱 〱 〱 〱 ノホ、〱 〱 

〱 コホ、〱 〱 〱 」といふので、その形だけは知れる。これだけ唄ふので、唄は

いくつもある。そいつを取替〱 やるので、まことにタワイもないことである。浮󠄁れき

つてゐる話である。かういふことをして、いゝ年配の人達󠄁が、いゝ若いものといはれ

てやつて居つた。これを一般の義士傳では、いづれも命を投出してゐるから、明日の

ことも忘れて子供のやうになつて遊󠄁んでゐる。その樣子はまことに憎らしいほどであ

る、といふ批評󠄁を加へてだいぶ褒め立てゝゐる。併しそれは樂んでゐる方はどうでもよ



ろしいが、老輩がそれらに對しての心遣󠄁ひ、老輩の腹といふものはどんなであつたら

うか。それを思ふと吾々は淚がこぼれる。かういふふざけた人達󠄁の樣子を見ると、老

輩の腹が思ひやられて切なくなつて來る。


      山岡鐵舟の往󠄁き方


 これは新しい目の先の話になりますけれども、文󠄁久二年に維新史の上に名高い寺田

屋騷動といふものがあつて、薩摩󠄁の有馬新七以下の人々が斬殺された事件がある。これ

は有名な話で、人も皆知つてゐる。一體あの事柄といふものは、大嶋へ流されてゐた

西鄕吉之助を許して、鹿兒島へ召還󠄁しました。それでも西鄕の意見は當時に用ゐられ

ない。島津久光は當時兵を率󠄁ゐて上京するといふ勢でありましたけれども、久光の

は公武合體論である。然るに淸川八郎だの、伊牟田尙平󠄁だのといふ人達󠄁がなか〱 急󠄁激

な議論を唱へて居りまして、新七等もそれに同じてやはり急󠄁激な意見を持つてゐる。

さういふものが已にゐるのだから、そこへ久光が兵を率󠄁ゐて上京したら、公武合體論

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の邪魔になつてしまふ。これを鎭撫しなければならんといふので、それには西鄕を以

て鎭撫させた方がいゝ、といふことを大久保市藏が建言して、久光を納󠄁得させて、西

鄕を出してやつた。ところが馬關まで行つて久光を待合せ、且鎭撫をする筈の西鄕が

それに先だつて京阪に出て、然も最も急󠄁激であるといふ連中を盛󠄁んに鼓舞した。殊に

薩摩󠄁屋敷へ、淸川八郎等多數の浪士を引張り込󠄁んだりして、益々氣焰を煽り立てた、

西鄕が何と思つてやつてゐるかは、海江田信義――その頃俊齋といひましたが――あ

たりにはわからない。却つて鎭撫に來た西鄕が、浪士を煽るやうなことをするのは怪

しからんといふので、久光に訴へましたから、それはとんでもない見當違󠄂ひだといふ

ことになつて、急󠄁いで西鄕を退󠄁けた。西鄕は煽りつ放しで、始末をつけずに歸つてし

まつた。それが爲にたうとう久光が命じて、有馬新七等を斬らせなければならぬやう

になつたのであります。

 これだけぢやまだ十分󠄁にわからない。翌󠄁文󠄁久三年に、後に新徵組になりました浪人

の集合體、これは松平󠄁鳩翁󠄂が浪士取扱になり、山岡鐵太郎も浪人取締として、その手



で集めた浪士を預つてゐたのです。その時分󠄁、松岡萬なんていふ連中は、牛込󠄁見附の

所󠄁に大八車が澤山置いてある。それを殘らずお濠へ突落して、手を敲いて喜んでゐる

或は市谷のところに唐物屋がある。そこの店へ入つて、亭主󠄁をたゞ一刀に斬つてしま

ふ。さういふ無法なことをする。この連中が每晩のやうに皆辻斬をする。これを取鎭

める方法が何とかないか、といつたらば、山岡が、それは方法があるから何とかしま

せう、といつて引受けた。それから山岡はどうするかといふと、その元氣のいゝ連中

を、每日暮方から自分󠄁の屋敷に集めて酒盛󠄁をする。眞裸になつて、褌まで取つて、よ

いしよ〱 といつて一廻󠄀り廻󠄀つて一杯飮む。さうして詩吟をやり、歌をうたふ。これ

を豪傑踊と名づけて、夜の明るまで每晩やつた。その間には又元氣を鼓舞するやうな

武勇談をする。さうして續けることが約一箇月、その爲に辻斬に出るものが一人も無

い。無い筈だ。皆豪傑踊をやつてゐる。山岡はこれで幕府の募集した浪士が京都へ上

つて行くまで、それを續けたから、妙に元氣を煽つたやうだが、その間何事も無かつ

た。後に中條金之助がこの話をして、己も馬鹿だつた。すつかり騙󠄀されて山岡の自由

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になつてゐた、といつて笑つたさうですが、欺かれてゐながら知らない。この山岡と

同じ藝當を西鄕がやつてゐたのである。それを海江田なんかはわからないから、あゝ

いふことをしてしまつて、惜いことに有馬新七等を殺さなければならないやうになつ

た。この山岡の豪傑踊から考へると、四箇所󠄁に預けられた赤穗浪士が どういふこと

をしたかはわかる。四箇所󠄁のうちで、熊本と長府のだけがわかるのですが、熊本に預

けられたものが踊の眞似、長府の方が枕拍子で騷いでゐたといふことは、丁度山岡が

豪傑踊で元氣を衰󠄁へさせずに、害󠄂なく月日を送󠄁らせた方法を取つたのに似てゐる。そ

こから考へて老輩の心の中を見ると、目に見えぬ何程󠄁の苦勞があつたか、實に察する

に餘りあることである。元氣作興の爲に、さういふことをして紛らしてゐなければな

らない。糾合せねばならず、集團にせねばならなかつた結果として、一人々々にすれ

ば、あまり結構な事ばかりで埋めてゐるのではない。こゝで元氣を挫かずに、月日を過󠄁*

させたといふことは、愈々切腹に臨んだ時になつて現れて來る。これから切腹の座に

坐つた時の景況を、一通󠄁りしらべて見ませう。





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