粹を通󠄁す內藏助
色子へ暇乞ひ
大石主󠄁稅が松山候へ御預になりました時に、十人の者を入れて置く部屋の見廻󠄀りを
つとめて居ります番頭――といひますから、相應な松山の家來でありました奧平󠄁次郎
太夫に話をしました。その主󠄁稅の話に、自分󠄁の親が申すのには、わしはもう四十餘歲
といふ年齡であつて、世の中のことは何一通󠄁りやらぬといふこともないが、お前󠄁は僅
に十五歲のことで、浮世の歡樂といふことも知らぬ方が多い。間もなく日頃の本意を
達󠄁する時にもなるから、餘命はもう何程󠄁も無い。江戶へ下向する前󠄁に、どういふこと
でも存分󠄁な遊󠄁興をして置くがいゝだらう、と云ひ渡した。それで京都に居る間は處々
方々へ遊󠄁山に出かけて、そのうちに四條河原へ行つて、相山幸之助といふ色子を買つ
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た、さうして度々これを呼んでは遊󠄁んだ。舊冬江戶へ下る時に、もうこれ限りだと思
つて暇乞に呼んで會つたところが、その時に幸之助はいつもとは違󠄂つて、著物を改め
上下姿で出て來て、盃を主󠄁稅にすゝめて、あなたは赤穗の大石內藏助殿の御子息であ
りませう。今度江戶へお下りになるのは、定めて思召寄りがあつてのことでせうから
これがもう一生の御暇乞になるのでありませう、まことに御名殘惜しいことである、
と云つた。主󠄁稅は一體今まで自分󠄁の名を告げたこともなし、何も話したことが無いの
に、大石內藏助の子供であることを先方が知つてゐるのさへ、心の中では驚いたが、
それよりも驚いたのは、何の爲に江戶に行くのかといふことも推量して居るのに餘計
驚かされた。けれども打明けていふべきことではないから、如何にも自分󠄁は大石の子
供に相違󠄂無い。併し今度親と共に江戶へ下るのは、さういつまでも浪々の身では居ら
れないから、然るべき主󠄁人取をして行末の榮をはからなければならない。その爲に東
へ下るのであるから、首尾よく主󠄁人を取濟ました上は、重ねて又對面することもあら
う、決してこの他に何も所󠄁存があるわけではない、と云つた。さうすると幸之助は、
いや〱 決してさうぢやありますまい、私もお馴染み申した上からは、決して他言抔致
すやうなことは無い。私の心持も御存じの筈であるから、そんなにお隱しになること
はまことにお恨みである、といつて、自分󠄁のさして居る小刀で小指を切つて、盃の中
へ注ぎ、主󠄁稅にも又小指を切らせて盃の中へ注がせて、その血を共に啜つて、かうお
誓ひ申す上は、もうお隱しになることは入りますまい、まことに御名殘惜しく思ひま
すので、旣にかういふものまで用意致して居りまする、といつて、袱紗に包んだ小さ
い位牌を出した。それには自筆で大石主󠄁稅と書いてあつた。さあこれでもお隱しにな
りますか、と云はれたので、實はその時この幸之助といふ者に、本意を語つて聞かせ
ました、といふ話をした。御預中每日のやうに見廻󠄀りに行くのですから、奧平󠄁といふ
人は、主󠄁稅のみならず、松山へ御預けの人達󠄁とは懇意になつてゐる。懇意だからかう
いふ內證の話もしたのである。それから奧平󠄁は、そのお話を承つたら、幸之助もあ
なたが本望を遂󠄂げられたのであるから、さぞ喜ぶことであらう、私から內分󠄁で先方へ
云つてやりませう、といつて、手紙を京都へ出しましたが、その返󠄁事が來ないうちに
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二月四日が來てしまつて、遂󠄂に主󠄁稅は人々と共に切腹してしまひました。その後にこ
の幸之助は出家を致しました。泉岳寺で法要を致します頃に、十七八の若い出家がそ
こに參詣して居るのを見かけて、あれが幸之助ではないか、といつて注意する人もあ
りましたが、どこへも知らせずに、そのまゝ又京都へ歸つてしまつたらしく、たゞ位
牌は四條通󠄁にある黑谷の末寺の大龍寺といふのに納󠄁つてゐるさうであります。
この幸之助のことは、これ以上に傳はつて居りません。が、この男色についての模
樣、男色の義理から幸之助が出家してしまつたなどゝいふことは、「男色大鑑」のやう
なものに、如何にもありさうな話であるやうに思はれます。內藏助は伜に對して妙に
粹を通󠄁したところが、如何にも由良さんであると思ふ。又この場合に、若いものに浮
世の歡樂を盡させたいといふ心持、これは大に味はなければならないことではありま
すが、まだ十五にしかなつてゐない伜に、陰間を買はせた內藏助の心持といふものは
どんなものか。自分󠄁が放蕩であつた內藏助からは、如何にもさうであつたかも知れな
いが、それを何と思つたかは、如何なる義士傳にもそのことが省かれてゐるといふの
でもわかつて居りませう。かういふ風に、浮世の歡樂を盡せ、今の間だ、といふやう
な仕向をされ、さうして浮世の歡樂を盡す。少年俳優の賣色が大流行であつた其の頃
のことだけに、今日から想察も困難だが、當時は芝居町での享樂、沈溺が珍しくなか
つた。十五歲の主󠄁稅が十七八歲の幸之助を買ふ、斯うした年齡での斯ういふ享樂も、
元祿寶永に例が乏しくない。だがそれでも間違󠄂がなかつたといふことは、親に內藏助
を持つた仕合でありませう。
何といつてもまだ年の若い人でありますから、かういふ仕向は身を誤󠄁り事を誤󠄁るに
近󠄁い。萱野三平󠄁の如きは、十三歲といふ貞享三年から、元祿十四年まで十六ヶ年間長
矩に仕へて、二十八歲になつて居る。これは親の仕向が惡かつた爲に、義理を主󠄁人に
缺かなければならぬやうになり行きましたので、自害を致しました。十七になる矢頭
衞門七は、父親の長助が死にまして、自分󠄁は僅に長矩に御目見をしただけであります
のに、母親に勵まされて四十六人の中に入りました。親の爲に勵まされもすれば、親
の爲に誤󠄁られようとしたものもある。主󠄁稅が由良さんを親に持つたのは、まことに仕
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合であつて、歡樂も盡させて貰ふし、事も誤󠄁らない。けれどもさういふ風にうまく行
くことは、誰にも望むことは出來ない。だが今歡樂を盡さなければ、もう浮世の春に
逢はれないやうな心持がして來るのは、內藏助のみならず、主󠄁稅のみならず、誰でも
かうした場合に得て起󠄁り易いものであります。森有禮を刺した西野文󠄁太郎、大隈重信
を襲つた來島常喜などの人々も事前󠄁の一夜を吉原で過󠄁して居るのが思ひ出される。
蜆川心中
そこで元祿十五年の七月十五日に、橋本平󠄁左衞門が心中をして居ります。これは茂
左衞門といふ者の子供でありまして、矢頭衞門七よりは年も多かつたやうであります
が、この平󠄁左衞門の死んだことを、大槪の義士傳には、萱野三平󠄁と同樣に、一味の連
判󠄁をして居る同志が、事に先立つて死んだものとして書いてあります。けれどもこれ
は萱野などとはまるで違󠄂つた話で、大阪の新地蜆川、そこの淡路屋はつといふ茶屋女
と、十五日の夜の七ッ時分󠄁に情󠄁死をしたのであります。當時の大阪で新地と申します
れば、蜆川か、新中町筋かでありまして、元祿十六年、おはつ德兵衞の心中で名高い
あの天滿屋は、新中町筋でありました。淡路屋おはつの方は蜆川で、蜆川といふのは
紙治でよく人におぼえられて居ります。あの邊は皆私娼でありまして、新地新茶屋と
いつて、當時の大阪ではなか〱 の流行物でありました。これは從來は茶屋一軒に女
が一人で、若し五人三人もお客がありますと、鬮取で一人づゝ床入をする。それを茶
屋念佛講といつて、ふざけたものにされて居りましたが、元祿のはじめからは、だん
〱 茶屋女も多くなりまして、客一人に女一人、相方をきめるやうになつて參りまし
た。元祿十四五年の頃には、蜆川に二十一軒ほどの茶屋がありまして、いづれも私娼
が居りました。こゝの女どもは三匁の女で、新町の太夫になりますと六十二匁である
これが大阪の賣女で一番高い。新町にも五分󠄁取り、一匁取りといふやうな安い女も居
りましたが、短く切遊󠄁びなどを致す、手輕に安い女で、小器用に遊󠄁べますので、新地
新茶屋が大さうはやりました。そこへ平󠄁左衞門がはまり込󠄁みまして、遂󠄂に情󠄁死すると
ころまで持つて行つてしまひました。
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大阪の心中は此前󠄁からありましたけれども、元祿八年十二月七日に、三勝󠄁半󠄁七が千
日で心中を致しました。それ以來殆ど流行の有樣をなして、寶永、正德、享保のはじ
めまで、なか〱 心中沙汰が多うございました。併し是迄の茶屋女の情󠄁死することは
まだありません。元祿十五年の四月三日に千日の火屋の前󠄁で、阿波座橋の綷屋伊兵衞
棚香具屋小兵衞の伜小三郎(二十四)といふ者が、新町車屋忠右衞門抱田村(二十一)と心
中を致しました。これは公娼であります。私娼の方で心中をやつたのは、おはつが名
高い。その天滿屋おはつは元祿十六年、それに先だつて平󠄁左衞門と淡路屋おはつが心
中をしたので、近󠄁松は淨瑠璃に書きませんでしたが、茶屋女心中では、德兵衞よりも
赤穗浪人の平󠄁左衞門の方が一年早い。事を誤󠄁り身を誤󠄁つたのみならず、君公の御名ま
で出して、大恥をかいて平󠄁左衞門は死んでゐる。この心持は――たゞもう死ぬんだか
ら今のうちに樂しんで置かう。といふことから起󠄁つて、遂󠄂にこの不始末をやつた。こ
の心持は、內藏助が伜に陰間を買はせた心持、自分󠄁が放蕩をした心持と、何等變つた
ことは無い。たゞつかまへてゐるものを放すか放さないかゞ問題であらうと思ひます
茶屋女を買つたり、陰間を買つたりすることが決していゝわけではない。けれども
肝腎のつかんでゐるものを放さなければ、目的を失はないに違󠄂ひない。平󠄁左衞門のや
うなものになつてしまへば、どこに本意があるのか、同じ死ぬのであつても、それが
わからなくなつてしまふ。從つて又平󠄁左衞門のやつたことがよろしくないと思へばこ
そ、どの義士傳も、同志の爲にその事蹟を隱して、同志一體の上を綺麗にしようとし
て何も書かずに置くけれども、その心持をいへば、平󠄁左衞門の心持も、內藏助の心持
も違󠄂ひは無い。それだから內藏助の方も放蕩に理由をつけて書く。何もそんなにどこ
までも無理に立派󠄂に仕立てないでもよさゝうなものである。私が從來の義士傳といふ
ものは、四十六人の人々を偶像のやうに扱つて居るといふのはこゝのことで、惡いと
ころは惡い。いゝところはいゝ、と明白にして、その差引勘定を眺めるやうにした方
が、正直でいゝぢやないかと思ふ。八百屋お七がジヤンコ面であつたといふのに、色
女であるといつて、むやみにそれを美人にする。さうしなければ似合しくないといふ
やうな心持は、芝居とか小說とかいふものゝ上に於ては、據ないかも知れないが、四十
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六人の事蹟を傳へる上に於ては、芝居や小說で八百屋お七を扱ふやうにするには及ば
ない。別段に違󠄂つた人間でなくても、忠義も出來れば親孝行も出來る。義理立も出來る。
人間のすることであるから、誰にでも出來ることでなければならない。それだのに誰
も忠義や親孝行や義理立をしないといふことが、却つて怪しいといふことになります。
全を求むる弊
併し義士傳を書くものが、惡いところを隱していゝところだけ出す、といふことを
するばかりでなしに、四十六人の人々自身も亦、いゝが上にもよく、落なく洩なく、
つとめて完全にしようとする風がある。それは前󠄁の放蕩をしたり、させたりする心持
のやうな惡いものではないけれども、あまりに全くしようとする爲に、無理も出來る
し、或は誤󠄁解を惹起󠄁すこともある。その一例をいへば、四十六人の人々は松坂町へ夜
討をして、その場で自殺をするつもりで居つた。これは敵を討ち得なかつたことを豫
想し、又上野介の首を獲ても、他から妨げられてそこを立退󠄁くことが出來ないか、と
いふ懸念もあつたから、その場を去らず切腹といふ心持であつたのに、回向院の前󠄁ま
で引取ることが出來た。回向院へ入らうとして入れなかつたけれども、何の障害も受
けなかつたから、これでは主󠄁君の墓前󠄁に敵の首を供へて、本懷を達󠄁した喜びをなすこ
とが出來ると思つて、泉岳寺へ引上げようとした。泉岳寺へ引上げて墓前󠄁報告迄の時
間を安全にしたいから、大目付仙石伯耆守へ一部始終を訴へて、幕府の命を待つことに
した。それは大目付へ訴へ出れば、その事柄は幕府の公事である。幕府の公事になつ
て居れば、何者もそれに手を出すことは出來ない。上杉家からの追󠄁手が出ても、それ
にかゝることは出來ない。かうして置けば、障害を受けずに敵の首を主󠄁君の墓前󠄁に供へ
ることが出來る、と考へてしたのである。これは豫定の通󠄁りに行けた。さうすると首
を墓前󠄁に供へてしまつたからといつて、直に腹を切ることは出來ない。今度は幕府の
命を待たなければ、自分󠄁の身勝󠄁手に處分󠄁することは出來ない。それから四軒の大名に
分󠄁けて御預になる、といふ運󠄁びになつて來た。さういふことをせずとも、最初の豫定
の通󠄁りに、その場所󠄁を去らずに切腹するなり、回向院で切腹するなりしてしまへばよ
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かつたのであるが、その上にも〱 とよく行屆いた仕方にしようとする爲に、遂󠄂に大
目付に訴へるやうなことをした。それ故に四十六人の者は、萬一を僥倖して何等かの
恩典を得たい爲に、自殺をせずにゐたのである、といふ誤󠄁解を受けることにもなる。
神崎與五郎の上にも――これは義士全體のことではなく一人の神崎だけのことにな
りますが、神崎は盟約して逃󠄂げた者や、討入の準備の槪要を認󠄁めた書類を三通󠄁も拵へて
方々にそれを殘した、殊にその一通󠄁の如きは、最も懇意な町人の何某といふもに賴ん
でどういふ方法なり取つて出版して貰ふ筈で、版の代金まで添へて預けた、かういふ風
になると、賣名に近󠄁いと思はれても仕方の無い遣󠄁方で、それほどまでにしなくてもいゝ
筈である。あまり完全に、行屆いたことをしようとするとさういふ行き過󠄁ぎが出來る。
內藏助の放蕩の如きも、妙な庇護を用ゐるには及ばない。あれだけの疵のあつた人
であると打明けた方が、却つて大石の人柄が見えていゝと思ふ。大石の放蕩といふも
のは吉良から廻󠄀してある隱密、探偵といふものゝ眼を避ける爲に、存分󠄁な遊󠄁蕩をした
といふことになつてゐる。それはどの義士傳にも書いてないのはない。然るに突込󠄁ん
で詮議して見ると、堀部安兵衛が大石良雄へ送󠄁つた書面の中に、横目、隱密がだんだ
ん入込󠄁んで來てゐる、といふことを報じて居る。これは赤穗の城渡し前󠄁後のことであ
つて、その後には、隱し目付の、隱密のといふことは一つも書いてない。其後は四十
六人の書いたものゝうちに一向に見かけないのみならず、吉良の方の書類を見ても、
赤穗の浪人どもに對して、隱密や探偵を放つて注意して居つた、などゝいふ形迹を認󠄁
めることが出來ない。それなら上杉の方はどうかといふと、これもさういふ形迹は認󠄁
められない。只だ山科へ探偵に往󠄁つたといふ猿橋八右衞門が一人ある。此の八右衞門
は如何にも米澤の家來に相違󠄂ない、與板組の者だが、慥に當時京都に居ました。それ
は內藏助等の動靜を知るために、態々上京したのかといふと、元祿十三年から往󠄁つ
て居たので、此の八右衞門は與板組であつても、金剛流の能役者なのだ、それ故に猿
橋では一代一度づゝ、習󠄁ひ事の傳授のため、家元へ三年詰めるのが例でありました、
八右衞門が當時京都に居つたのは此の常例のためで、恰も其の最後の年が大石の山科
閑居の時だつたのです。上杉の方では探偵を出して注意するほどに、赤穗浪人を氣に
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掛けては居なかつた。從つてどの義士傳でも吉良邸は嚴重な警戒があつて、大分󠄁な加
勢の人數が上杉から來てゐた、などゝいふことを書いて居るが、當時の吉良の屋敷は
普請󠄁中であつたので、塀の外から長屋の灯が見える。玄關口も透見が出來るといふ構
であり、殊に毛利小平󠄁太が化󠄁込󠄁んで偵察したのによつても、別段に要害もしてなく、
人配りをしたことの無いこともわかつてゐる。これは已に江戶に居つた赤穗浪士は、
大槪その邊のことを知つてゐるので、上方に居る人々が、嚴重であらう、用心して居
るだらう、といふ推量をしたに過󠄁ぎない。實際そんな形迹は無いのである。それだか
ら堀部彌兵衞親子は、速に事を擧げろ、急󠄁げ、といふことを再三大石に向つて云つて
ゐる。殊に當人の吉良などは、市中を出步いて――隱居の身分󠄁であるから、多勢の供
を連れてゐるでもなく、茶會にも出て來れば、時折は俳人などを訪問しても居る。別
段な警戒をしてゐなかつたことはこれでわかります。
それは何故かといふと、當時の浪人といふものは、食ふか食はないかゞ大問題で、
早くいゝ旦那取をしたいといふのが、例になつて居つたからでもあるし、一般の武士
が流れ渡りの奉公で、今日の旦那は明日の旦那と違󠄂つてゐる、といふ風になつて居つ
た。殊に當時の武士は隨分󠄁脆弱󠄁󠄁なもので、義士が松山候へ御預になる場合に、朝󠄁󠄁󠄁から
晝過まで――晝飯を一度食はずに、朝󠄁󠄁󠄁早く寒い風に當つて、晝過󠄁まで引渡しを待つて
ゐる。この間にひもじいのと草臥とでぐた〱 になつた、といふことを波賀淸太夫が
書いて居りますが、それほど脆弱󠄁󠄁になつてゐる時でもあつたし、その上に所󠄁謂敵討な
るものとは筋道󠄁が違󠄂つて居るので、上杉家の方でも、吉良の方でも、赤穗の浪人がぶ
ち込󠄁んで來ようなどとは、一つも思つて居らなかつた。それだから上杉から附人をし
たといふのは、跡形も無いことで、上杉から來て居つたのは、義央の養󠄁子左兵衞、こ
れの附人が三人あつた。その一人の新貝彌七郎は、當夜斬死をしてしまつた。山吉新
八は大怪我をした。卑怯だといつて笑はれた村上五左衞門、これが無疵だつた。この
左兵衞に上杉から三人つけてあつたのは、吉良の長男三之助が上杉の養󠄁子になつてし
まつたので、相續人がない。此の三之助は上杉綱憲になつた人で、その人の二男春千
代が吉良の方を相續することになつて、是が左兵衞である。米澤の藩士は、殿樣の二男
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が吉良の相續人になつたのであるから、この關係で附人として三人來て居つた。吉良
の夫人といふものは、上杉綱勝󠄁の妹であつたので、この人の爲にも附人があつたので
すが、これは吉良邸の普請󠄁が出來上らない爲に、上杉の白銀の屋敷の方に居られて、
本所󠄁にはゐなかつた。それ故に打入の當夜には、女といふものは一人も吉良邸にゐな
い。長屋の方の吉良の家來達󠄁の方にはゐたけれども、義央のまはりには一人も女がゐ
なかつた。左兵衞はまだ獨身であつたから、召仕どもまで女はゐない。從つて吉良の
奧方についてゐる米澤の家來も、白銀の方に詰めてゐて、本所󠄁にはゐない。上杉の附
人はゐないことはないが、左兵衞についてゐる僅に三人だけである。この三人といふ
ものは、左兵衞について居るのであつて、別段赤穗浪士が飛込󠄁んで來るだらうと思つ
て、防備する爲のものではさら〱 ない。それをよく說明するものに、矢尾板三印の
手紙があります。この矢尾板三印といふのは、米澤の藩醫で、當時日比谷の上屋敷に
つとめて居つた。この人から鄕里へ宛てゝ出した手紙がありますが、それを見ますと
討入の翌󠄁日本所󠄁へ出張つて、その實況を見て鄕里へ報じたもので、その中に、昨夜は
赤穗浪人が不慮に本所󠄁樣へ亂入に及んだ、若しかねて心構へて、二三十人の人をだし
て置きさへしたならば、斯樣なことも無かつたのであらう。討入に參つたのは人數も
わづか四十餘人と承るから、大したことはなくとも、少し用心して居つたならば、案
外な出來事は無かつた筈である。まことに殘念なことだ、といふことが書いてある。
この外に二三通󠄁、當時の上杉の上屋敷から、鄕里へ報じた手紙を見ましたが、文󠄁言に
多少の相違󠄂はあるけれども、いづれも人を配つてゐなかつたのが大なる落度で、かう
いふ不慮のことが起󠄁つたのは、如何にも主󠄁家の不面目である、殘念千萬だ、といふこ
とが書いてある。これらから考へても、決して赤穗浪人が討入をするだらうといつて、
用心して居つたのでもなく、手許さへこの有樣であるから、とても京や山科まで、大
變な人數などを出して、その動靜をしらべることがある筈は無く。いくら搜しても何
の形迹をも認󠄁め得られないのは當然のことであります。さうして見ますと、內藏助の
放蕩は、何か理由があつてしたことではない。敵を欺くはかりごと、などといふことで
はない。主󠄁稅に陰間を買はせた心持が、自分󠄁も放蕩をする心持だつたのであります。
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撞木町の白魚大臣
さて內藏助が放蕩をしたその中で、一番噂されて居るのは、伏見の撞木町、こゝへ
通󠄁ふ人を白魚大臣といふ。この撞木町といふところには、いゝ遊󠄁女は居ないので、太
夫だの天神だのといふ上等の遊󠄁女はゐない。鹿戀といつて十八匁の女、それも半󠄁夜と
いつて賣り分󠄁けますから、一晩九匁である。もつと惡い一匁とか、五分󠄁とかいふ女も
ゐます。惡い方はあるが、いゝ方は無い。京の大佛前󠄁から駕籠に乘つて、撞木町まで
來るのに駕籠賃が五匁二分󠄁かゝる。九匁の女を買ふのに、五匁二分󠄁の駕籠賃がかゝる。
駕籠が高い。白魚の竹籃と同じやうだといふので、撞木町へ通󠄁ふ大臣のことを「白魚
大臣」といつた。伏見は夜船の出るところで、ちよつと賑はしい。そればかりでなく、
四季折々のの眺めもあるし、所󠄁替れば品易るで、新町や島原で遊󠄁ぶのとは又違󠄂つた趣が
ある、といつて、京からばかりでなく、大阪からさへ來た。その上に女が安い女であ
るだけに、入用が少い。京都で遣󠄁ひ過󠄁した大臣や、中から下の人の遊󠄁び場所󠄁にまこと
にいゝといふので、元祿七年頃からはなか〱 こゝが繁昌した。撞木町といふのは、
大分󠄁古くからあつたところではありますが、こゝが最も繁昌するやうになつたのは、
元祿七年頃からで、寬政時分󠄁にはもう淋れて跡形も無いやうになつて了ひました。撞
木町のはやつたことを考へると、天明の江戶で內藤新宿がはやつたり、嘉永、安政の
江戶で小塚原がはやつたりしたやうなもので、却つて吉原で遊󠄁ぶよりも、爰の方が乙
であるとか、洒落てゐるとかいつて皆通󠄁つた。ごく上等な人はそんなことは云ひませ
んが、あまりたんと錢を遣󠄁はない方で、ひねつた遊󠄁びをする人が、わざ〲 內藤新宿
だの小塚原だのといふところを選んで出かけたのである。さういふ心持は、京で撞木
町がはやつたのと同じやうなあもので、さういふ風でありますから、由良之助のうきさ
んも、うき大臣とは受取れない。大臣といふのは、廓の一番いゝ遊󠄁女を買ふ、太夫を買
ふものが大臣である。大臣と云ふ言葉は、能舞臺の右に大臣柱があり、左にシテ柱が
あつて、シテをまはせるといふところから出てゐるので、シテは申すまでもなく諸流
の太夫、そこから來て大臣といふ言葉が廓でも行はれるのである。然るに內藏助は決
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して太夫を買つてゐない。それだから大臣ではありません。
內藏助が山科に住ふようになりましたのは、元祿十四年の七月からで、さうして翌󠄁
年の十月七日まで居つた。その間に十四年の九月に江戶へ行つて、十一月の末に又歸
つて來てゐる。それから二度目の東下りといふことになります。丁度この時分󠄁の模樣
を見るのにいゝ撞木町の名寄――元祿十五年の名寄がありますが、それを見ると、こゝ
には娼家が七軒、揚屋が五軒あります。如何にもその揚屋の中に、笹屋といふのもあ
ります。こゝで馴染んだ遊󠄁女は、夕霧といふのであるともいひますし、浮橋といふの
であるともいひます。一人は一文󠄁字屋の夕霧で、一人は升屋の浮橋であるといつてゐ
ます。それを名寄で見ますと、升屋といふ內はありますが、浮橋といふのが無い。一
文󠄁字屋の方には、これは撞木町では一番大きい娼家でありまして、女が十一人ゐる。
そこには夕霧と浮橋とどつちの名も見えて居ります。それから島原へ行つて馴染んだ
のは、仲之町一文󠄁字屋の浮橋といふのだといはれて居ります。いやさうではない、浮
舟であるともいつて居る。これも名寄で見ますと、一文󠄁字屋の浮橋はある。そこに浮
舟といふ女はゐない。が、上ノ町の桔梗屋といふのに浮舟はゐる。この浮橋も浮舟も
天神といつて、太夫の次の遊󠄁女で、揚代でいへば三十匁、一兩に二つの女である。當
時の島原に致しましては、三十幾人といふ太夫がゐるのであります。撞木町では大臣
になりたくつても、太夫がゐないのだから致し方は無いが、島原は太夫があるので、
それを買ひさうなものだのに買はない。これはどういふものであつたか、やはり內藏
助は女郎買の糠味噌汁であつたかも知れない。それから島原ではどういふ揚屋であつ
たか、それがわかつて居りません。一力といふのは新しい家で、お芝居の方で取込󠄁ん
だのではありますけれども、當時の事としては一向ものになつてゐない。
內藏助の買つた遊󠄁女といふものは、先づそんな風でありますが、こゝに一つ、「藏鋒
軒隨筆」といふものがありまして、その中に
大石內藏助追󠄁悼 遊󠄁女金山
戀しなんわが後のよをとはであれな迷󠄁ふをせめてかたみとも見ん
といふ歌があります。この歌を見ると、御馴染であつたやうに見えますが、この女は
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どこの女かわからない。又、內藏助の妾であつたお輕、あれは已に誰にも知られてゐ
る通󠄁り、二條寺町、一文󠄁字屋次郎左衞門の娘、これは遊󠄁女ではない、京都名物の月極
の女でせう。
比丘尼買ひ
かう見て參りますと、內藏助はもつときはどい放蕩をしてゐる。それは二度目に江
戶へ下りまして、然ももう討入の差迫つて參りました元祿十五年の十月の下旬、赤坂
裏傳馬町の比丘尼、十八になる山城屋一學といふものに通󠄁つて居ります。それはメツ
タ町と申しますから、今の多町、彼處に比丘尼がどつさりゐまして、彼處から赤坂へ
出ます。當時の江戶に比丘尼で名高い町が七八箇所󠄁あつた中で、赤坂が一番繁昌した
らしうございますが、天和以來、殊に貞享度から賑はしくなつて、揚屋のやうなもの
が二軒あつた。比丘尼といふものは、最初は地獄の繪圖を持つて步いて、悲しい聲をし
て物語をしてゐた。それが萬治の頃から、美しい、哀れつぽい聲を惡用して、歌など
をうたふやうになり、遂󠄂に賣淫に陷つたのである。この頃では比丘尼といふものは、
遊󠄁女と同じやうになつてしまつて、丸太などといつて、坊主󠄁頭の遊󠄁女、よほど變つた
ものだ。その圖は「好色訓蒙圖彙」などにも出てゐるが、その珍しい、今から考へれば
實にをかしなものであるけれども、當時江戶では「比丘好」といふ言葉さへあつて、坊
主󠄁頭の私娼が非常に持囃されたのである。元祿度に有名でありました林鳳岡、これは
林家の當主󠄁でありまして、なか〱 有名な學者でありますが、この人が平󠄁生大變尊󠄁重
されてゐる大名に招かれて行つた時に、大名でもお弟子でありますから、謹んで取持
つた上、何か爲になることを一言云つていたゞきたい、と申しましたところが、鳳岡
が「比丘をつゝしめ」と云つて敎へた、といふことであります。比丘尼のことを比丘と
いつたので、坊主󠄁頭を氣をつけろ、といふ意味である。さういふことが、大名衆のや
うな人にさへ云つてわかる。「女をつゝしめ」といふほどの意味でもありましたらうか
この鳳岡の言葉だけでも、當時の江戶に何程󠄁比丘尼がはやつてゐたかゞわかる。甲州
の方玄でも、女のことを比丘といひます。これは柳澤が甲州に封ぜられて、家來をつ
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れて甲府に移つた。その時に何も彼も江戶の風を持込󠄁んだので、その當時の江戶の流
行をうつしたのと見えまして、今日の方言で女のことを比丘といふのも、その時分󠄁の
名残だらうと思ひます。いづれにも元祿の江戶に比丘尼がはやつてゐた一の證據には
なる。猶比丘尼については、その時分󠄁の浮世草子にもいろ〱 な記載がありまして、
隨分󠄁坊主󠄁の私娼の行はれたことはわかります。
內藏助は島原のやうなところでも天神を買ひ、殊に撞木町などへ行つては安い女を
買ひ、江戶へ來ては、當時はやりではあつたでせうが、比丘尼を買つてゐる。豪快と
か、豪興とかいふ遊󠄁びではなくて、面白いもの好み、變つたもの好みで、本當の放蕩
を盡してゐることがよくわかる。それ故に堀部彌兵衞が大石に與へた手紙に、あなた
の近󠄁頃なさることは、一つも自分󠄁としては感心しない。おとめ申すのは知つてゐるけ
れども、私共が云つたところが、詮もないことだと思つてゐるから云はないのである。
吾々ども同志は飢に迫つて居るから、ぐづ〱 して居れば皆飢死んでしまふ。自分󠄁ど
もなどは歳を取つてゐるから、飢ゑなくつても何時死ぬかわからない。いづれにも緩
々としてゐる場合ではないのに、どうしてそんなにゆつくりしておいでになるのか、
といつて詰問してゐる手紙があります。若し敵を欺く計略であつたとすれば、決して緩
々としてゐるのでないから、堀部彌兵衞もそんなことを云つてはゐなからうと思ひま
す。併し內藏助は好色な人でありましても、その方から申せば遺憾なところがある男
だけれども、それでも又他に動かすべからざる肝玉を持つて居れば、瑕の無い珠では
なくても、幾久しく立派󠄂に光つて行ける。又それほどに放蕩であつても、己れを押へ
てゐるものを放すほどには決してならない。惑溺することは無い。これが又さして大
したことでないやうであるが、大に考へて見なければなるまいと思ふ。溺れ易いもの
に觸れずに溺れないよりも、溺れ易いところに立つて溺れないといふことは、大に考
へなければならないことだと思ひます。さういふところから考へると、大石が本當に
好色であり、本當に放蕩であつたことが、敵を欺く爲に好色であり、敵を欺く爲に放
蕩であつたといふよりも、平󠄁凡ではあつても、人を考へさせることは多いやうに思は
れます。
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