當世風な殿樣
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赤 穗 城 取 立
淺野の分󠄁家、赤穗の殿樣でありました內匠頭長矩の家は、弾正少弼長政の三男で、
これは大分󠄁親からも愛せられて居つた人らしうござゐます。長政は早くから德川氏に
加擔して居りまして、德川に味方する豐臣取立の大名といふものは少いのであります
から、淺野家は大事にされたわけでもあります。采女正長重は慶長五年から江戶の秀
忠の手許に來て居りまして、その時は十三でありました。翌󠄁六年に野州の眞岡に封ぜ
られて、二萬石を賜りまして、松平󠄁玄蕃守家淸の女を家康公の娘分󠄁にして妻に下され
ました。慶長十六年に父の長政が江戶で卒去いたしましたので、隱居料として幕府か
ら賜つて居りました常陸眞壁五萬石、江州愛智川の五千石、それを相續することにな
りました。その子供が內匠頭長直といひまして、それは家康公の孫分󠄁といふわけであ
りますから、諸大名の間にも重く扱はれて居りました。この家は長重以來、外樣の大
名の分󠄁れではありますけれども、譜代大名のやうな扱を受けてゐる。秀忠、家光の眷
顧を受けて居りますから、まるで三河以來の家筋と同じやうに扱はれてゐる。そこで
二代、三代將軍の御贔屓ぶりで、上方の方へ領地を替へてくれることになりました。
關東よりも上方筋の方が、大槪內高が多いのでありますから、割のいゝ上方へ振替へ
てくれた。それは正保元年のことで、赤穗郡と、それから加古、東西作用兩郡のうち
で、五萬三千五百石を賜りました。その外に鹽田が五千石ほどある。この鹽田などの
收穫は表向の祿高の方に入りませんから、同じ五萬三千石と申しましても、餘程󠄁の增
封になるわけであります。赤穗の城といふものは、この長重が取立てたのでありまし
て、從來は城といふものが無かつたのを、特に願つて幕府の許可を得て、新しい城を
取立てたのです。これも家康の孫分󠄁であるといふことが最も效目があつて、特に許さ
れたのでありませう。三年ほどかゝつて赤穗城が出來ました。築城計畫は小幡勘兵
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衞の高弟で、山鹿素行などと同門の近󠄁藤三郎右衞門といふ人が立てました。この近󠄁藤
三郎右衞門の子に源八といふものがあつて、後に敵討の連盟に入りながら、途󠄁中で約
を變じて不義者と云はれるやうになつた。不義者の親仁ではあるが、この人は學問を
以て長重が召出した人で、なか〱 學者でもあり、人物もさうつまらん人ではなかつ
たらしうござゐます。
その外に苅屋川の架橋をやりましたり、鹽田もこの人が大變ひろげて居ります。そ
の上にまだ寬文󠄁の二年には、禁裏の御造󠄁營もつとめて居りますが、これなどもよほど
金の入ることであります。築城は勿論のことです。さうして當時の淺野家には、士分󠄁
以上のものが二百十餘人あつたといひます。これは皆一疋一本の士のことで、幕府が
定めた軍役では、五萬石だと七十騎持つて居ればいゝわけでありますのに、長直は殆
ど三倍するほどの兵力を持つて居つた。よほどこの人は心がけのいゝ人であつたと見
えまして、いろ〱 金を遣󠄁ふことの多い中で、これだけ大勢の家來を持ちこたへて居
つた。それのみならずこの人は、長男の采女正長友に五萬石を讓り、二男の長澄に二
千五百石を讓りまして、三男の長恒に新田三千石を讓つて居ります。それで赤穗候は
五萬石といふことになりました。二男の長澄に與へた三千五百石は、五萬三千五百石
貰つたうちの三千五百石をやつたのでありますが、三男にやつた三千石といふものは
自分󠄁の丹精で打出した新田なのであります。橋を架けたり、鹽濱を拵へたりする外に
三千石の神殿を拵え出した。本家の方から相當に金も貰へて、淺野家は小身ではあつ
たが富裕だと當時云はれて居りましたが、淺野家の家風は、先代の長重から已に非常
に質素な家でありまして、これだけの事業をしても、やりくつて行けるだけ、儉約が
上手だつたのであります。その子が采女正長友、長友の子が內匠頭長矩で、この時に
は時勢がだん〱 太平󠄁になつて來まして、風俗も奢侈になり、大名も我儘をする時が
參りました、けれども赤穗の家風としては、非常に儉約な、鹽つ辛い家風であつたの
に、さういふ中に生れて來たせゐかも知れませんが、內匠頭長矩は非常に鄙吝な人で
ありました。長矩は書もよく書き、茶道󠄁も嗜みが深く、いろ〱 藝能があつたやうに
傳へられて居ります。器用な人ではあつたやうです。
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意趣の知れぬが先例
さてその長矩、諸侯のうちと申しても、赤穗などは小大名でありますが、小大名の
仲間としては、赤穗は有福な藩だつたのであります。この長矩が事件を拵へた。即ち
吉良を斬りましたことに就ては、當時御目付が一應取調󠄁べたのでありますが、內匠頭
の口上書といふものがあつて、それに意趣の次第柄は委しく書いてある、といふので
すけれども、口上書そのものは殘つて居りませんから、どういふ事柄で吉良を斬らな
ければならぬわけがあつたか、一向知れて居りません。勿論これは柳營のうちで刃傷
のありましたことは、寬永四年十一月の猶村孫九郎の一件から、文󠄁政六年四月の松平󠄁
外記の一件まで、前󠄁後九度ござゐますが、それがどれも〱 、刃傷に及んだわけはど
ういふことであるか、その次第が傳はつて居るのは一つもありません。內匠頭のこと
だけが理由がわからないのではなく、皆わからないのでありますから、これは殊更に
幕府が外間に洩らぬやうにしたのであらうと思ひます。それ故に吉良を斬つた理由に
就ては、種々樣々な想像が起󠄁つて居ります。どれがどれだかさつぱりわからない。そ
の中で――いづれにしてもわからないのであるから、皆信じがたいものではあるが、一
般に吉良に賄賂を遣󠄁はなかつたから、それが爲に吉良が意地の惡いことをした。それ
に腹を立てゝ刃傷をしたのである、といふ風になつてゐる。世間でもそれを信じて居
るやうであります。
二度目の御馳走役
これは室鳩巢が「義人錄」に最初にさう書いたから、それが出處になりました。
鳩巢は、內匠頭長矩は勅使󠄁の應待その他、儀式のことに就ても慣れて居ないから、御
師匠番として、高家の肝煎である吉良を賴んだ、といふことを書いてゐる。併し內匠
頭が儀式その他に慣れて居らなかつた、といふことは無い筈である。といひますのは
天和三年の二月に勅使󠄁が下りました時に、御馳走役をつとめて居りますから、元祿十
四年につとめましたのは二度目であります。お公家さんが勅使󠄁として江戶へ下ります
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のは、將軍宣下、官位の昇進、さうでなければ法要、これらは臨時とでも申しますか
特別の場合で、毎年の年頭に勅使󠄁の下りますのは常例でありまして、幕府の年中行事の
一になつて居ります。その下つておいでになる時日も、以前󠄁は一定して居りませんが
元祿七八年頃からは略々きまつて居りました。そこで天和三年につとめましたのも、
年頭の勅使󠄁に就ての御馳走役であり、元祿十四年の時も、同じく年頭の勅使󠄁に對する
御馳走役で、ちつとも變つたことは無い。慣れないといへば天和三年の時が慣れない
ので、今度は二度目であるから、慣れないといふことは無い筈であります。
そこで高家と申すものは、幕府の式部官のやうなものでありますから、勅使󠄁などの
おいでになります場合には、御馳走役の大名はいろ〱 打合したり、指圖を受けたり
する。御世話をかけるといふので、大槪金馬代一枚、金一枚づつ附屆をする例になつ
て居ります。この附屆といふものは、幕府時代には賄賂でも何でもないので、普通󠄁に
授受されたものでありまして、金高も僅に金一枚、些少なものであります。けれども
これは禮儀でありますから、御世話をかけまするといふ挨拶に持つて行くのである。
この附屆のことにつきましては、諸大名が江戶に入りますと、いろ〱 町方のことで
世話をかけるといふので、留守居役の者が乗馬で、油單をかけて國土產、それに金子
を添へて町奉行の玄關に持込󠄁む。それは國の產物を將軍家に獻じた殘りであるが差上
る、といふことになつて居りますが、金子がついてゐる。獻上の殘りで「獻殘」と申
しました。又與力、同心、さういふやうな人には「役中賴み」といふのと、「賴みつけ」
といふのがあります。「役中賴み」といふのは、町廻󠄀りとか、臨時廻󠄀りとかいふやうな
警察事務を扱ひますもので、その役をつとめて居ります間だけは、どの大名でも附屆
をする。只今參府いたしたと云つては附屆を持つて行き、只今歸國いたすと云つては
附屆を持つて來る。「賴みつけ」の方は、何某の家は誰、何某の家は誰、といつて、
與力、同心に對して、その家代々賴んである人がある。何か事があればそれに賴むやう
になつてゐる。それにも町奉行所󠄁の玄關から附屆を持込󠄁んで、與力や同心もそれを貰
ふのみならず、受取まで出す。附屆はかういふものですから、賄賂ぢやない、挨拶な
のであります。江戶時代には大名でなくても、手ぶらで人の家に行くものぢやない、
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といつて、下々の者まで僅なものでも持つて行く習󠄁慣がありました。附屆が賄賂でな
いといふことは、この町奉行所󠄁の例でよくわかると思ひます。
「秋の田面」といふ本がありますが、これには長矩のことを「惣じて毎年公家衆參向
の節、御馳走御用仰付られ候大名、いづれも世話燒として上野介方へ馬代金一枚宛、
早速附屆いたし候事、並の格と成來候也、然るに內匠頭、其うまれつき至極短慮にして
すぐれて吝嗇强くして、人の云ふ事を少しも聞入れぬ性質なり」と書いてある。それに
續いて、家老安井彦右衞門、藤井又右衞門の兩人を呼出して長矩がいふには、これま
では世話燒の吉良へ金一枚遣󠄁つてあつたさうであるが、それは御用が相濟んで後、祝
儀として遣󠄁つてよろしいだらう、先へ持つて行くには及ぶまい、といふことであつた。
その時二人の家老は「主󠄁人心底、兼󠄁て加樣に金銀出しぎたなき事を存居候間、いか
にも左樣に遊󠄁され然るべく候」、さういふ返󠄁答をした、それだから最初に附屆を持つて
行かなかつた。最初に內匠頭が挨拶に行かれた時でも、相役である伊達󠄁左京亮の方で
は、世間並に挨拶附屆をしてゐるのですから、吉良の扱ひも自然それとは違󠄂つて來る
つまりあの大騷動は、內匠頭の根性の穢いのから起󠄁つたのである、といふことが書い
てある、吉良といふものは四千五百石の身上でありますから、小さいものではありま
すが、さう貧乏なわけでもなかつたので、金一枚の爲に、それが欲しさにどうする、
といふやうなことは無い。もつと人間が强情󠄁に、もつと手强く出來てゐる。この人は
その當時木連川の御所󠄁、德川の本家の家筋といふので、お大名扱ひにされて居つた
木連川、それによつて大名に取立てゝ貰ふ運󠄁動をしてゐた位でありまして、家柄も足
利の筋目で、京都の足利將軍に代るべきものは、駿州の今川か、今川に人が無ければ
吉良から繼ぐ、と云囃された家柄に生れ、さうでなくとも、高家のものは系圖がいゝ
ので尊󠄁大な人が多いのに、殊に吉良は德川とは親戚の間柄になつて居りますから、猶
々以て威張る人だつたに相違󠄂ありません。そこへ他の大名はいづれも仕來り通󠄁り丁寧
に挨拶に行くのに、何だか己れを粗略にするやうに感じて、淺野に當りが惡かつたと
いふことは、おおきに思ひやられることであります。
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五百兩の删減
又小宮山南梁翁󠄂はかういふことを云つて居られる。內匠頭が今度御馳走役を申付け
られます時に、近󠄁來何事も年々に華美になつて行く。公家の御馳走役の如きも、だん
〱 費用が多くなるやうで、それが前󠄁例になつてはならないから、今度は前󠄁年よりも
あまり高くならないやうに、質素に相つとめるやうに、といふことを云渡した。長矩
は十九年前󠄁につとめたことを考へて見ますと、天和三年には四百兩かゝつてゐる、そ
れから元祿十年につとめた伊東出雲守の費用を聞合せて見ると、千二百兩つかつてゐ
る。そこで自分󠄁はその中を取つて、七百兩位に見積ればいゝだらうと考へた。それで
高家の月番の畠山民部大輔に、自分󠄁で拵へた豫算を見せて打合せる。畠山はそれを以
て、肝煎の吉良に相談に及んだ。吉良はそれはいけない。朝󠄁󠄁󠄁廷󠄁からの御使󠄁であるし、
それに御馳走役といふものは、そんなに度々つとめるものぢやない。大名一代に一度
か二度しかつとめるものぢやないから、さう儉約するに及ばない。淺野の見積りはい
かん。前󠄁年、前󠄁々年の例もあるから、格別に減しちやいかん。かういつて聞かない。
吉良は云ひ出したらあとへ引かない。淺野は何といつても聞かないで、すべての設備
を七百兩で仕向けましたから、吉良のいふところとは、すべてのことが行違󠄂つて來る
お公家さんも前󠄁年、前󠄁々年の例を知つてゐて、そのつもりだから、愈々行違󠄂ひになつ
て來る。さういふことから、遂󠄂に淺野が癇癪を起󠄁して、刃傷沙汰を引起󠄁すやうになつ
たので、その原因は饗應費用の儉約から生じてゐる。長矩といふ人は賢君ではない、
ものゝわからん人だ。と南梁翁󠄂は云つて居られます。
大槪お公家樣が勅使󠄁として下られます時分󠄁は、到著されると老中が御使󠄁でそこへ來
る。それから休息の時間を取つて、柳營へ行つて勅使󠄁を傳へる。それから幾日か經つ
て、今度は勅使󠄁の役は果しましたから、公家としての暇乞に行く。それから歸つて行
かれるのですが、時によつては日光に行くこともあり、隅田川遊󠄁覽をやつたこともあ
る。常例の御能見物の外に、さういふことがありますから、日取はきまつて居りませ
んが、先づ十日ほどの間である。その間は龍の口の堀通󠄁の角に傳奏屋敷といふものが
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あつて、お公家樣はそこに泊つて居られる。御馳走役の大名は、殿樣はじめ家老以下
そこへ詰切つて世話をする。先づこれが一日百兩づつとすれば、十日で千兩、伊東
などの例でいへば、一日百二十兩に當る。淺野が前󠄁にやつた時は、四百兩といひます
けれども、その頃は慶長小判󠄁だつたし、元祿八年以後は、例の惡貨といはれる小判󠄁に
なつて居りますから、前󠄁後で物價が大變違󠄂ひます。四百兩のものなら、八百兩位かゝ
るのは不思議で無い。伊東が千二百兩つかつたのは、非常に多いやうだが、實際はさ
まで多いわけぢやない。七百兩では前󠄁の四百兩よりもまだお粗末なので、これは無理
な話です。成程󠄁、いづれも想像でありまして、慥な證據はありませんが、小宮山翁󠄂の
說は無稽なことでもなからうと思ひます。かういふことも亦人の性分󠄁でありまして、
むやみにものゝ吝いといふことも、人によつてよくあることであります。
淺野家退󠄁轉の祝ひ
私は先年赤穗へ參りまして、いろ〱 話も聞きましたし、物も見せて貰ひましたが
赤穗の淺野家が退󠄁散して、彼處を引拂ふ時分󠄁に、領民はひどく喜んでお祝をした。殊
に鹽濱の者は幾日か續けてお祝ひをした、といふ話を聞きました。さういふことは殆
ど何の本にも書いてない。赤穗で聞く話としては、ちよつと變つた話でありまして、
大抵は義士を自分󠄁のところの名產のやうに心得て、何でも彼でも褒め立てる。何でも
義士に緣故をつけて珍重がつてゐるところであるのに、さういふ話をぽつりと聞くと
もそんなことは無い。だが誰も知つてゐる本の中に、その事實が書いてありました。
それも私が歸つて直ぐ見つけたのではなく、暫くたつて偶然見つけたのです。その一
つは菅茶山の「筆のすさび」の中に「亡國弊政」といふ題で書かれたもので、赤穗の淺
野家が潰れる前󠄁方は、大野某が執政であつて、大石などは度々しくじつて、閉門だの
逼塞だのを毎年食つてゐた。淺野家が潰れて、ところの者は却つて惡政がやんだと云
つて喜んだ、といふことが書いてある。もう一つは伴󠄁蒿溪の「閑田次筆」それにも、
赤穗の政務は大野氏が上席で、萬事を取はからつて居つたので、民は聚歛に堪へない
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で弱󠄁󠄁つてゐた、家が潰れたので、人民は大喜びで、餅を搗いて賑はした、と書いてあ
る。さうして見ると、赤穗の人の話もいゝ加減な傳說ではなくて、實際當時さういふ
有樣であつたといふことがわかります。
淨瑠璃の斧九太夫が、御金配分󠄁のところで大に正體を顯して、頭割にするか、祿割
にするかなどといふ綺麗なところを丸出しにしてゐるところがある。大に長矩に用ゐ
られた大野九郎兵衞は算盤の人間で、その面目が如何にもよくこゝに現れてゐる。算
盤の人間だから勘定高い。穢い綺麗は云ふに及ばない。さういふ人間が赤穗では重く
用ゐられて居つた。何にしても配分󠄁を爭つた金、五萬石の大名で二三萬兩お納󠄁戶金が
あつたといひます。そんな餘裕のある大名なんていふものは、多くあるもので無い。
かういふ金があるのを思つても、大野九郎兵衞のやうな人物が、重く用ゐられるわけ
はわかります。最初に長直が人を多く持つて、財用にも差支へぬやうにしたといふこ
とは、すべてが軍陣仕立でありましたから、さういふ風に行けたので、從つて下に對
する當りが强い。取立が嚴重である。けれどもそれは戰國風で、時勢が時勢ですから
それで故障を見ない。却つて人はその心がけの厚いことを感じてゐたかも知れないが
當時としては或はそれが至當だつたかも知れませんけれども、太平󠄁の世の中になつて
戰爭仕立の野陣のやうな工合でやつて來たら、それこそたゞの儉約ではなく、苛酷な
吝いものになつて、從つて算盤の人間ばかりを重く用ゐることになる。大勢の人間を
持つて、少しの金で濟ませる。さういふことになると、本當の武備は疑はしくなつて
來る。太平󠄁の世ではどうしてもさうなる。赤穗の武備も、長直の時はそれでよかつた
でせうが、時勢が違󠄂つたらどんなものか。藩主󠄁の心がけとしても、戰爭を心がけるの
と違󠄂つて、算盤の方に片寄つたら、どんなものになつて行くか。遂󠄂に長矩が癇癪を起󠄁
して、小サ刀で吉良を斬る時に、無抵抗である吉良を斬ることが出來ないで、討損じ
てしまつた。當時場所󠄁柄を心得ない、短慮であるといふ非難の外に、不覺者であると
いふ嘲りを受けた。落首といふものは、いつも惡口ばかりのものであるから、それを
取立ていふわけには行きませんが、
初てはつき二度目はなどか切らざらん石見がゑぐる穴を見ながら
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これは長矩が武士としても嗜みが無いことを嘲つたやうに見えます。
稻葉石見守の刄傷
この落首は貞享元年八月二十八日、式日登城のありました日に、大老の堀田筑前󠄁
守正俊を、若年寄の稻葉石見守正休が殺しました。そのことをいつたのであります。
この時は御用部屋で刄傷したので、御用部屋と申すのは、閣老の詰所󠄁のことで、老中
がずつと居並んで着席してゐます。正俊は大老ですから、一番上のところに坐つて居
つた。今將軍が御出座になるといふことでありましたので、正俊が立たうと思つて片
膝上げたところへ、稻葉が參りました。若年寄の席は別の部屋にあるので、そこから
この御用部屋へ來た。先づ慇懃に禮をして、ものをいふのでありますが、御用の筋が
ござりますと云つたので、正俊は立てかけた膝を下へつけると、それを合圖に小刀を
拔いて、左の脇腹を突きゑぐつた。たゞ一刀で殺したので、正俊は「石見亂心」と一
聲云つただけで死んだ。まことに手際よく見事にやつたので、これは長矩の刄傷から
見ますと、十七年前󠄁の話である。さういふ適󠄁例があるのに、どうして長矩は斬つたら
うか、突きさうなものであるのに、といつて居るのであります。
取押へられる覺悟
いづれも殿中で刄傷いたします場合は、大刀はありませんで、小刀で斬る。それで
すから天明四年の三月二十四日に、新御番の佐野善左衞門が若年寄の田沼山城守意知
を桔梗の間で切ります時などは、刀を脇差に拵へてさして居りました。一竿子吉廣の
二尺三寸五分󠄁ある刀で、小刀は大槪一尺八寸にきまつて居りますから、刄傷する爲に
特に刀を脇差に拵へて、長いのを持つて居つた。稻葉のは虎徹の打ちました一尺六寸
の脇差でしたけれども、これは刄傷するつもりで、殊に切味のいゝ虎徹の刀を別段に
拵へて、それをさして出かけた。さうしてこれは突いたのです。佐野の初太刀は肩先
を長さ三寸、深さ七分󠄁ほど斬りましたが、返󠄁す刀では腹を突きました、腹と見て突い
たのが突けませんで、兩股かけて三寸五六分󠄁切りました。こゝの出血が多かつた爲に
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その場では死にませんでしたが、屋敷へ歸つてから死にました。それから享保十年七
月二十八日に、信州松本の殿樣、水野隼人正忠恒が、長府府中の毛利讃岐守匡廣を大
廊下で斬りました。これは突かなかつたので、疵が癒つてしまいました。又延享四年八
月十五日に、熊本候細川越中守宗孝を、寄合の板倉修理が大廣間の小便所󠄁で斬つた。
これは突きませんでしたが、十五六箇所󠄁も斬つて、たうとう斬殺してしまひました。
どうしても小刀だけの業でありますから、格別いゝ場合でなければ多く斬ることは出
來ず、さもなければ突かなくては駄目なのは、前󠄁後の例でよくわかつて居ります。は
じめから刄傷の覺悟があれば、相手を倒すだけの手段方法を考へて置かなければなら
ない。それに大槪刄傷をするものは、前󠄁からその支度をして、その覺悟を持つてする
それはその筈です。命を捨て、食祿を捨て、家は無論絕えてしまふ。さういふ非常な
ことをするのだから、格段な用意をするのは當り前󠄁で、こゝに擧げました稻葉といひ
水野といひ、佐野といひ、板倉といひ、皆刄傷いたしましたのは、式日登城の時――
殿中にも人の多い時で、從つて又取押へられることを覺悟して居らなければなりませ
んから、すばやくその事を行ふ覺悟をして居らなければならない。
押測られた意趣
こゝでちよつと云つて置かなければならないことは、殿中の刄傷といふものゝ意趣
は、いつでもわからなくなつてゐるといふことを、前󠄁にも云ひましたが、稻葉が堀田
を斬りましたのは、自分󠄁が主󠄁任となつてやつて居りました淀川の改修工事を、幕府の
財政上の都合で急󠄁に停止することになつた爲に、稻葉は自分󠄁がいろ〱 命令を出して
ゐるので、一分󠄁が廢るといふのに憤慨して、再應堀田の話したけれども聞き入れませ
ん。それで遂󠄂に自分󠄁の面目を重んじて、堀田を斬つたのであります。板倉修理は亂心
だといはれて居りますが、これも發狂したのではないらしいので、板倉の屋敷は細川
の下屋敷とくつゝいて居りまして、細川の方が高地で、板倉の方が地面が低い。細川
の方の下水が板倉の庭の先へ流れ込󠄁むので、その下水のことを再應交渉しましたけれ
ども、何分󠄁六千石の寄合と、五十四萬石の大々名とのことですから、一向相手にしな
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い。いくら話を進めても、向うが話に乘つて來ない。あまり人を馬鹿にしてゐるので
癇癪を起󠄁した、此の癇癪玉が破裂して刄傷沙汰を惹起󠄁したのである。佐野の刄傷は自
分󠄁が役替をして貰ふ爲に、いろ〱 進物をした、さうして田沼の家來どもからいゝや
うに操られて居つて、何年たつも自分󠄁の願意が採用されない、といふことから憤激し
て、遂󠄂にこの刄傷に及んだのであります。水野の刄傷はどういふことであつたか、私
はまだ聞いて居りません。が、大凡何々の事件で、それがどういふ風にさし縺れたか
知れないが、事柄の起󠄁りが何であるか位なことは知れる。知れてもそれを意趣はわか
らないといふことにして置くことは幕府の例で、先例がさうなつて居りますから、長
矩の刄傷に及んだ意趣もわからないといふことは、先例の上から見て少しも不思議は
無いことで、いづれにしてもわからないと云つてしまふ。又本當のことも長矩の分󠄁は
わかつて居りますまい。それはこのことが如何にも咄嗟に起󠄁つたことであつて、その
場で端的に腹が立つて、直に刄傷をしたのであつて、決して支度などをした形迹は無
い。全く突然の出來事だつたと思はれます。
長矩の輕擧
この刄傷については、いろ〱 な說もあり、いろ〱 なこともありますが、どうと
いつて取纏まつたものは、今日が日まで一つもありません。梶川與三兵衛が桂昌院の
爲に、勅答の儀式の終る時間を聞合せに來た。それに長矩が、相濟み次第お知らせ致
さう、といつたのを吉良が横取して、彼等が何を存じて居りませう。その邊のお尋󠄁ね
ならば、自分󠄁の方へお尋󠄁ね下さい、と云つた、それを怒つて直に斬りつけた、といふ
のが何か正しいやうに傳へられて居ります。けれどもこれはあまり淺薄な行き方で、
さうして一箇の傳說に過󠄁ぎないので、別にそれを證據立てるものも無いのであります
それはそれとして、吉良の或る言葉が無禮であるから、直に斬りつけたとしても、そ
れだけのことで直ぐ憤激して斬りつけるといふやうなことはどうであらうか。斬らな
いでも他に方法がいくらもありさうに思はれる。如何に長矩を褒め立てるばかりにつ
とめて居る義士傳のいろ〱 な書類にも、短慮な御方であつたといふことは皆書いて
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ある。若しかういふ一つの行違󠄂ひに憤激して、あとさきを考へずに素刄拔をして斬り
つける。さういふ人であつたならば、愈々以て短慮輕率な人であることがわかつて來
る。それは慥によろしいと、この傳說に加擔することは致しませんが、いづれにも急󠄁
に思ひ立つての刄傷であることは無論認󠄁められる。從つて何の證據らしいものゝ殘ら
ないといふことは勿論のことで、癇癪に障るや否や斬つて掛るといふのは、如何にも
粗暴な話で、又そんなに急󠄁に腹を立てる人だから、不覺を取りさうな話でもあります
慌てた仕方
こゝで長矩を押へた梶川與三兵衛、これが矢庭に押へつけてしまつた。吉良の疵が
後疵であつたといふことは、慥なことでありますから、うしろから斬つたに違󠄂ひない
最初は烏帽子に引かへつて切れず、二の太刀も肩先を少し切つただけである。二刀も
斬つて人が斬れない。よほど慌てゝ居つたことがわかる。それを梶川が抱きとめた。
稻葉の時には若年寄の堀田對馬守が抱きとめた。押へつけて置いて、秋元但馬守と共
に稻葉を斬つてしまつた。けれども相手方を斬つてから抱きとめたのです。佐野の時
は大目付の松平󠄁對馬守が抱きとめたのですが、これも存分󠄁斬らしてから組みとめた。
そこで梶川の評󠄁判󠄁が馬鹿に惡い。一國一城の主󠄁が、家も命も投出しての刄傷を、本意
を遂󠄂げさせずに押へたといふのは、如何にも武士の情󠄁を知らない。このおかげで又松
平󠄁對馬守が、佐野の時に十分󠄁に斬らしてから組みとめたといふので、それが評󠄁判󠄁がよ
かつた。さういふことは早くから思はれてゐたと見えて、淨瑠璃の忠臣藏では「本藏
が首進上申す」といつて、由良之助のところへ行つて、殺される筋まで拵へてゐる。こ
の吉良が、長矩に對して當りがよくなかつたとか、喧嘩を賣つたとかいふやうなこと
は、いろ〱 なものに書いてあるが、それは必ずしもどうであつたか、何ともいへな
くなつて來る。
義央の人物
吉良の人柄が惡いことに就ては、種々樣々な惡口が云つてあるけれども、しつかり
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したものには何も無い。加古川本藏、淨瑠璃に出て來るあの賢い家老のことは、龜井
隱岐守の家臣で角頭大學といふ人がある。その人が吉良へ賄ひを遣󠄁つて、石州津和野
城主󠄁龜井茲親がはじめて御馳走役になつた貞享三年に、無事に役をつとめることが出
來た、といふことが傳へられてゐる。又戶澤下野守政康が、その先代の上總介政職が
賄賂を吉良に贈つた話、吉良の意地の惡い話、さういふ先例を以て長矩に警告して、
吉良の相手になるにはよほど注意しなければならん、といふことを注意した傳說があ
る。この後の方になりますと、戶澤上總介は元祿十三年の四月、家光公の御法要のあ
りました時、はじめて御馳走役をつとめたので、その時は已に長矩が天和につとめた
後ですから、當役については長矩が先輩であるのに、こゝで後輩の政職が警告するこ
とはをかしい。そのことなら長矩の方が知つて居らなければならん筈であります。現
に天和三年に長矩がはじめて御馳走役をつとめた時に、吉良は高家肝煎として、その
職に當つて居るのでありますから、こゝで政職などから吉良の行き方の說明を受けた
り、警告されたりすることはをかしな話で、疾うにそんなことは知つてゐる筈である
或は加藤遠江守泰恒が吉良に困らせられた。さういふことから長矩に警告を與へた
といふ話もある。これは元祿九年に日光で家綱將軍の法事があつた時に御馳走役をつ
とめたので、何れも長矩の最初に任命されたよりあとの話である。何だか元祿十四年
にはじめて吉良に接觸する長矩であるやうになつて居るけれども、決してさうではな
いので、この時は二度目で、二度とも吉良が高家肝煎で、御師匠番だから、よく〱
その邊のことは知つてゐる筈である。芝居でする加古川本藏の話は、龜井の家だけの
話で、その方は調󠄁べて見ないから、何とも云はれませんが、戶澤、加藤の警告したと
いふ話は、いづれも長矩が一度つとめた後の話だから、今更らしく話すといふのは、
どうもをかしく思はれます。吉良との喧嘩の種は、どうしても吾々の考へるところに
よると、饗應についての儉約、これから起󠄁つてゐるので、小宮山南梁翁󠄂の云はれたこ
とが一番よささうに思はれる。さうして「秋の田面」に載つてゐる禮物の金一枚、大判󠄁
一枚といふものは、小判󠄁に致せば十兩で、それをさきに持つて行くことをよせ、あ
とで持つて行けばいゝ、といつたのは、先ず賴みに行く時に一枚贈り、事が濟んでそ
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の禮に一枚贈る、都合二枚になるので、はじめに贈らなくつていゝと云つたので、つ
まるところで金一枚、十兩のカスリを取る指圖を長矩がした。小大名ではあつても、
とにかく赤穗城の主󠄁人である人が、家來達󠄁に任してあるべき筈なのを、大判󠄁一枚の出
入さへも自ら指圖される。如何にもこまかい。そのこまかいことに氣がつくのが、お
大名としては利口な方で、馬鹿な人なら氣がつきやしない、こまかいことを知つてゐ
るのが、往󠄁々にして殿樣の御自慢になる。それは殿樣氣質ではあるが、さういふこと
をするのが、殿樣としてあるべきことか、さうでないかも考へて見なければならない
けれどもとにかく長矩が馬鹿でなかつたことを證明するわけにはなります。
勘定高いのが大名並
又さういふ風が元祿の世間並の殿樣でもあつたので、一體に勘定高くなつて來てゐ
る。サンカンといつて、算勘の字を書く。それから前󠄁には算の字と竿の字を書いてサ
ンカンといつた。これは地方の勘定から來た言葉で、收稅に精しくなつて來たのだ、
それを算勘と書き替へて用ゐたのです。それから今度はリカンといつて、利勘の字
を書く。更にカンリヤクといつて、勘略の字を書くやうになつた。言葉が四通󠄁り變つ
てゐる。さうしてだん〱 錢を遣󠄁はないやうに、だん〱 狡猾になつて行く。それも
亦無理もない話で、もう萬治、寬文󠄁度になりますと、大名といふ大名で苦しくないも
のはありません。皆苦しい。その苦しいことは、元祿頃まで一押になつてゐる。京都
の金持が大名貸を多くする、その爲に元祿前󠄁後のところに至つて皆潰れて居ります。
元祿のはじめまでは、少し纏まつた金は運󠄁用の方法が無い。大口に貸しつけてその利
息を取るより仕方が無かつたから、大名貸といふものが大變にはやつて、富豪といふ
富豪は皆大名に金を貸して居つた。ところがなか〱 大名は拂はない。借金を拂はな
いどころではない、利息も渡さない。この頃の大名は、買物をした代金さへ拂はなか
つた。加州候が御買物の代金を御下げにならないので、江戶の三文󠄁字屋といふ大きな
商家が潰れた。吉川惟足が神道󠄁者になつたのも、この人は肴御用をつとめて諸家へ賣
込󠄁んでゐたので、その代金が取れない爲に家が潰れて、あゝいふわけになつたのです
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そんなのを拾つて見ると隨分󠄁澤山ある。買掛りを拂はない位ですから、借金には容易
に手がつかない。そこで京都の金持が潰れてしまつたので、これ以後は京都のみなら
ず、大きな資本は皆商賣元手になる傾向になつて居ります。
さういふ時でありますから、世並に金銭勘定が銳くなつて來たに違󠄂ひない。兵糧奉
行が太平󠄁になつては勘定奉行になるので、その勢力も大變に違󠄂つて來た。太閤樣の檢
地で有名になつた長束大藏大輔や增田右衛門尉長盛󠄁といふやうな人は、これといふほ
どの戰功は無いが、とにかく大名になつてゐる。これらは皆算竿によつて出世したので
あります。慶長度に京極若狭守の家來で相田與兵衞といふ人が居りました。この人が
算勘の名人で、大阪兩御陣の御入用、御普請󠄁御入用の總勘定を仕上げるものが無いと
いつて、幕府はわざ〲 與兵衞を召寄せて、此淸算を濟まさしたことがあります。萬治、
寬文󠄁度になつては、本田美濃守忠政は、利勘第一の人だといつて、世間に知られて居り
先代萩の芝居の鶴千代さん、即ち伊達󠄁陸奧守綱村、この人なども勘定が得意で、お客
をするたびに自分󠄁で入費の算用をされたといふ、さういふお大名が出て來た。元祿度
に姫路の本多家に三浦忠右衞門といふ家老がありましたが、これが經濟の名人で、三
浦があることを諸大名が羨んだ、といふことが傳へられて居ります。
御代官出身
諸大名の方では算勘の人間が大事にされてゐる。德川家の方はどうかといひますと
一體家康が算勘の名人で、いつでも自分󠄁の指を折つて勘定してゐるが、それで算數に
誤󠄁りが無かつた、といふことであります。その家康の下だから、なか〱 えらい人が
幾人も居る。關東御繩入、家康が關八州の領主󠄁になつて、算勘の最も上手であつたと
ころの伊奈備前󠄁守が現れて來た。この伊奈の手から出て御代官になつた大河內金兵衞
その子供で長澤松平󠄁の養󠄁子になつた右衞門太夫正綱、これが二代將軍のお小姓になつ
た。この人も經濟に賢かつた人であります。あの有名な松平󠄁伊豆守信綱は、この金兵
衞の二男で、正綱の弟になります。信綱がまだ八歲で、三十郎といつてゐた時に、御
代官筋であつては、どうも君側へつとめるやうなわけに行くまいから、どうぞあなた
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の養󠄁子にしてくれろ、と云つた。兄貴がお小姓になつてゐますから、松平󠄁三十郎とな
つて、三代將軍のお小姓になりました。御代官の筋目からお小姓に拔けることは、こ
の正綱から――二代將軍の時からであります。信綱が子供心でさへ、御代官筋では表
役になれないといふ位、世間では算勘を卑しんで、陰の御奉公、或は日蔭者とさへ云
つた。それは一方に武功を尊󠄁ぶからのことだつたのです。然るに信綱はお小姓どころ
でなく、老中になつて幕府の權勢を握るやうになりましたから、幕府の政治も算勘で
行はれる。勘定づくになりました。これから以後は戰爭がありませんし、どうといふ
ことなしに立身出世するものが續々出たのは、皆算勘の上手な爲であります。
新しい算勘役人
元祿のはじめから回顧して、五六十年前󠄁のことを考へて見ると、昔とは大變樣子が
變つてゐる。こゝに比較して云つたのは、萬治、寬文󠄁あたり――寬永以後のところに
なりませう。士の道󠄁を心がけてゐるものは、角らしき男、一徹者、ヤツコ風だといつ
て擯斥される風なので、士といふ士が皆町人風だと云つて、戶田茂睡などは非常に嘆
息して居ります。それも尤なわけではあるが、世の中の樣から行くと、算盤づく、勘
定づく、金銀の動きといふことが世の中の大勢であるから、自然にさういふ風に移り
變つて行くのである。この昔風の士と、新しい算勘の士とをよく書現してあるものに
「
是源太兵衞、貴殿と某よからぬ中、參る筈はなけれ共、又御用の筋は各別申そふお
きゝやれ、此度御用金八百兩御家老より仰付、村々へわり付取あつむる所󠄁、貴殿の
支配幾田村水損を云立割金を納󠄁めず、きつと云付やうは樣々なれ共、高が算盤にか
ゝる事、金さへ出せば云分󠄁ない。きつと出す樣に云付召れといはせも立ず、なりま
せぬ存もよらぬ事、此源太兵衞此年迄算用知らず秤目知らず、百姓をいため金を取
事猶存ぜぬ、金銀の才覺肝煎は貴殿が云立の奉公、素町人が侍に成上り、さし付ぬ刀
を横たへ、算盤勘略の役義を勤る。
――これが最もよくその有樣を現して居ります。
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さういう風でありますから、大體に於て世の中が勘定づくになつて來てゐる時、大
局を見ず、目の先の勘定から行けば、その方が德用でもあり、都合もいゝことは、さ
ら〲 疑ひないことのやうに思はれる。長矩も忠臣藏にあるやうに、當世やうの長羽
織を着るだけでなく、家風で鹽辛いのみならず、それが當世風でもあつたから、金錢
にこだはることが多かつたのも、亦已むを得ないかも知れません。五萬石ではあつて
も、とにかく大名であり、赤穗城の主󠄁人であるといふことから眺めると、さうではあ
るまいとしか思はれないが、時勢から云へば又仕方の無いことだつたかも知れない。
長矩は武士として見れば不覺悟な、輕率な人であるし、殿樣としては局量の無い變な
ものゝやうでもあるが、當世の働きとしては、なか〱 働けた人らしいのです。
火消󠄁しの名人
その一の例として云へば、昔の江戶には大名火消󠄁といつて――又方角火消󠄁ともいひ
ますが、大名が十人位づゝ、いつも增上寺とか、上野とか、聖堂とか、曲輪內とかい
ふ場所󠄁の火消󠄁を引受けて居りました。その外に火事が起󠄁つて、臨時に大名火消󠄁の加勢
を云付けることもあつて、それを奉書火消󠄁といひました。淺野內匠頭はこの奉書火消󠄁
によく出ることがある。それはなか〱 評󠄁判󠄁なもので、淺野が出たからもう火事が消󠄁
えるだらう、といつて信賴されるほど、火消󠄁が上手だつた。延寶八年二月朔日に赤坂
邊に火事があつたことがありますが、その時に例の奉書で急󠄁に長矩に對して火消󠄁を命
じた。丁度その火事は本家の藝州候の屋敷の邊まで燃えひろがつて來た。さうすると
長矩はその長屋へ吹きつけるひどい燄の中を、自分󠄁の人數をさし向けて、大勢を長屋
の屋根に上げて、屋根を壞し、梁を切つてしまつた。さうしてどうしても防げぬこと
になると、忽ちそれを引倒してその火事をとめました。それからその構のうちの本家
の方に人數を上げて、自分󠄁もその屋根に上つて構へ込󠄁んで居つた。たうとうそれで火
事を消󠄁しとめてしまふと、今度はその尻火が側の方へついた。これは壞しても何でも
ないから、引倒すわけに行かないので、自分󠄁でその火の中へ飛込󠄁んだ。殿樣が飛込󠄁ん
だから、家來も引續いて飛込󠄁みまして、大勢の力でたうとうたてきつて、火事をもの
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にしなかつた。尋󠄁常なものにはとてもあれだけの働きは出來まいと云つて、それを見
て居られた加州の松雲公が感心して、後々までも話されたといふことであります。さ
ういふ風に奉書火消󠄁を云付けられるたびに、長矩は手際を現す位ですから、いつでも
消󠄁防の演習󠄁をする。その場合、長矩は號令するのに薙刀の拔身を持つて、一つ間違󠄂へ
ば手討にでもしさうな樣子であつた。不斷からさういふ風に仕立てゝあるので、火事
の時に、功を奏するので、さういふ當世のことに就ては、役に立つ働きをする人なの
であります。けれども愈々といふ時になると、かういふ尻尾を出す。前󠄁後の分󠄁別も無
く、然も勅使󠄁の饗應の場合、朝󠄁󠄁󠄁廷󠄁に對しては御無禮であり、主󠄁家の失態になることを
顧みず、一分󠄁の怒に乘じて刄傷をする。かういふことは、今の人として考へても、味ひ
のあることだと思ひます。
昔の諺に「利口で馬鹿の剝身賣」といふのがありますが、利口なのか、馬鹿なのか
馬鹿なのか利口なのか、わからないやうな人間、平󠄁素氣の利いたやうな人間がいつで
もある。金錢ばありではない、何も彼も小器用に、算盤で行けるだけ行かうとするの
で、それだから內藏助はしよつちゆう閉門や譴責ばかり喰つてゐる。大野はずん〱
用ゐられる、といふやうなことも出來て來る。人柄とか心行とかいふものを構はずに
たゞその人の才能を取る。この節でいへば、藝術の人は人格の人でないといふやうな
ことで、特別な許し方をする、算盤の人は器用だから、その人物を問はないといつた
やうな風が、江戶の眞中頃にあつたので、大野九郎兵衞のやうな人が任用されるわけ
であります。あゝいふ人間は武藝は無いし、命は惜しいし、それでも人間だから、義
理を知らないことは無い。知つてはゐるが、根性が無いから、それを立てることは出
來ない。あゝいふ場合になると、逃󠄂げるより外に道󠄁が無い。これは武士ではない。文󠄁
臣でありますから、君の御馬前󠄁で討死するといふことには、全く御無沙汰に出来上つ
てゐる。つまり人間の柄行が違󠄂ふのであります。
算盤の大野九郎兵衞
それですから彼は深く隱れてしまつて、どこで死んだのかわからない。彼の墳墓は
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奧州にあるといひ、上州にあるといひ、甲府にあるともいつてゐる。彼は手習󠄁師匠を
して居つた。といふやうなことを云はれて、手本などが殘つてゐるところもある。殊
に甲府のが傳へは一番委しくつて、甲府の市內に定林山能成寺といふ寺があつて、そ
こに一人の老人が住つてゐた。どこから來た人だかわからないが、齢をとつてそこへ
來たので、額の廣い、十河額で、眉鬚は眞白で長く、年寄ではあつたが實に立派󠄂な人
で、平󠄁素ろくにものを云はない。碁ばかり打つて暮して居た。その人の辭世に「死す
る期は白黑とてもわからねどかの岸にてはうたん渡り手」と書殘して死んだ。尤も一
人者であるのだから、世話をするものも無いので、その寺に葬つた。それから一月ば
かりたつと、一人の侍が訪れて來て、布施を寺へ納󠄁めたり、石碑を建てゝ、その辭世
を彫つたりすることを取りはからつた。その侍がいふのには、今になつては裹むこと
も入らぬが、これは赤穗の家老大野九郎兵衞といふ者であつたが、世間を憚つて深く
隱れたのである。さういふことを申置いて、その侍は行つてしまつた。そのあとにこ
の辭世の石碑が殘つてゐる、といふのですが、上州のは原市町の梁瀬で手習󠄁師匠をし
て居たといひ、磯部停車場から十五丁の距離にある磯岸村松岩寺に慈望遊󠄁謙墓といふ
のがある。此處では寶曆元年九月まで九郎兵衞が生存して居たといふ。さうなら打入
の後、四十七年存命だつたのであります。又陸奧東津輕郡今別村の本覺寺に數年寄食
して居たと傳へられて居ります。孰れにも大同小異で、どれがいゝのが惡いのか、殆
どわかりません。この大野のみならず、敵討に干與しなかつた人間や、盟約を變へた
人間にも、憫むべき事情󠄁が無いともいへない。が、淺野長矩としては、大野のやうな
人間を重く用ゐて居つたといふことは、何よりもよくその人柄を說明してゐるやうに
思はれる。さうしてそれが世間並のわけだつたらうと思ひます。
さうした世間に於て、武士の道󠄁をよく守る、義理立の堅い四十六人といふものが、
その頃の人間としても、實に不思議なやうに眺められる。私はよく知人にも話すので
すが、乃木將軍の逝去された時に、世人は何と批評󠄁していゝかわからない。とんでも
ない或批評󠄁を書いた人があつて、世間から擯斥されたこともあつたが、世間が定評󠄁を
下すまでには、大分󠄁時間があつた。それだけ時勢とは懸隔してゐたやうに思はれる。
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さういふことは丁度元祿の時勢に、內藏助以下四十六人の人間が出て來た時と同じや
うであつて、あとになればなるほど、敬慕することが多くなり、それに感動する人間
も多くなつて來る。それが又一方には、馬鹿に感心し過󠄁ぎて、餘計な附加へをして、
却つてをかしなものをも拵へてゐる。ともかく淺野長矩は、義理堅い家來を持つてゐ
た爲に、それまで月並な殿樣であつたものが、賢君、明君であつたものゝやうに眺め
られる。先づ〱 仕合なものといつてよろしい。それと共に恐れ入るべき主󠄁人らしく
ない人にでも、一遍主󠄁人とした以上は、それがどうであつても、飽くまでも家來たる
べき義理を盡さなければ人間でないと考へること、それが即ち武士道󠄁なのであります
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