四十六人偶像化󠄁

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横から赤穗義士

見 た


   四十六人偶像化󠄁


        義士とは誰が云出したか


 あか浪人らうにん四十六にん義士ぎししたのはたれであつたか。元祿げんろく十五ねんぐわつ十四に、大石おほいしよしが一どう切腹せつぷくするやいなや、ばく儒者じゆしやでありました林大學頭はやしだいがくのかみ信篤のぶあつこのひと鳳岡はうかう先生せんせいといひまして、道󠄁だうしゆんからは四だいひとで、このひとときに、これまで

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元祿げんろく十五ねんぐわつ十四

 切腹は元禄16年2月4日。討入は元禄15年12月14日。共に旧暦。両者を混同したか。


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りん學問所󠄁がくもんじよでありましたものを幕府ばくふおさめて、江戶えど大學だいがくとでもまをしますか、さういふものにしたひとで、綱吉つなよし將軍しやうぐんからもおもられてり、當代たうだいける學者がくしや親玉おやだまとして、尊󠄁崇そんそうされてつたひとであります。そのひとが「復讎論ふくしふろん」といふものをきまして、かれちう盛󠄁さかんとなへました。室鳩巢むろきうさうの「じんろく」の出來できましたのは、そのとし冬ふゆでありまして、林鳳岡はやしはうかうよりもおくれて居ります。

 あか浪人らうにんして義士ぎしとし、かれかうりつ派󠄂なものである、といふことをまをしたひとは、林大學頭はやしだいがくのかみが一ばんさきであるやうになつてりますが、それよりもはやうへみやさま大明院だいめうゐん公辨こうべん法親王はふしんのうが、元祿げんろく十五ねんの一ぐわつに、につくわうでおつくりになつたますと、

    去歲きよさいみづのえうま臘月らふげつ十四日夜かよあさ長矩ながのりしん四十六にん入₂吉良義央館きらよしひさやかたにいり復ㇾ讎あだをむくひ祭₂其首於長矩墓前󠄁そのくびをながのりのぼぜんにまつる故句ゆえにく及ㇾ之これにおよぶ

   世悅忠貞義よはよろこぶちうていのぎ我栽富貴花󠄁われはふうきのはなをうゆ同承₂太平󠄁化󠄁おなじくたいへいのくわをうけ₁、各自賞₂年華₁かくじねんくわをしようす

とあります。「ふう花󠄁はな」といふのはたんのことで、宮樣みやさまはこの前󠄁々年ぜん〳〵ねんから、うへへお

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後れて居ります

 居に振り仮名なし。脱字か。

祭₂其首於長矩墓前󠄁

 祭₂其首於長矩墓前󠄁₁ か。

我栽富貴花

 我栽₂富貴花₁ か。


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はなばたけこしらへられて、たんをいろ〳〵おあつめになつたことがありますので、たんはなわうともまをしますので、かれを「忠貞ちうてい」といつておめになり、それにたぐへて、たんのはでやかなことを比擬ひぎしてられます。これはたれよりもさきあか浪人らうにんをおめになつたのでありまして、勿論もちろんぐわつのことでありますから、まだ義士ぎし處分󠄁しよぶんはきまつてらない。てん學者がくしやとか、識者しきしやとかいふひとも、まだかれについてなんともつてらぬうちに、宮樣みやさまさきだつてかれ賞美しやうびになつたのであります。


 さてこの宮樣みやさまについて、義士ぎし處分󠄁しよぶん解決かいけつされた、といふ傳說でんせつがあります。このでんせつはいろ〳〵なものにいてつたはつてゐるばかりでなしに、ばくみづかえらんだ「じつ」――將軍代々しやうぐんだい〳〵のことをきましたものゝなかにも、この傳說でんせついてあります。このみやさま輪王りんのう宮樣みやさま代々だい〳〵うちで、一ばん將軍しやうぐんこん意󠄁でありました。うへ柳營りうえいとのあひだ往󠄁復わうふくも、いつの宮樣みやさまよりも一ばんおほうございまして、綱吉つなよしれい經書けいしよこうしやくをおかせする。宮樣みやさままたけうこうしやくをして、將軍しやうぐんにおかせになる。柳澤やなぎさはともこん意󠄁でありまして、つくつてお遣󠄁つかはしになつたり、柳澤やなぎさはからもたてまつてります。柳澤やなぎさわ

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たてまつて

 現在では「たてまつって」と使うが、古文では「たてまって」も見かけた様な……


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しきには、かみしきなかしきしもしきと、幾度いくたびいでがありました。


      柳營最初の上﨟年寄


 この宮樣みやさま西院せいゐん天皇てんのうだいわうで、輪王りんのうの五だいでおいでになります。輪王りんのうだいだいをん壽院じゆゐん公海こうかい法親王はうしんのうていにおなりになつた、おみやでありました。このみやせいは六でう局藤󠄁原定子つぼねふじはらさだこといひまして、むめこうごんぢう納󠄁ごん定矩さだのりむすめとう柳營りうえいおくは、綱吉つなよしじんまをすのがたかつかさ關白くわんぱく房輔ふさすけむすめ、これについてりました上﨟じやうらふむめこう、このむめこうといふのは、みやせい姉妹けうだいで、やはりむめこう定矩さだのりむすめであります。そのほかに、はじめは御上﨟おじやうらふでありまして、のち綱吉つなよし將軍しやうぐんおもものになりました大典侍おほすけつぼねきたまる殿どのまをしました。このひと淸閑せいかんごんだい納󠄁ごん凞房ひろふさむすめで、凞房ひろふさといふひとむめこう定矩さだのりをひになるひとであります。もう一人ひとり御上﨟おじやうらふから御寵女ごちようじよになりました右衞門佐もんのすけつぼね、この三にんは、綱吉つなよしじん靈元れいげん天皇てんのう中宮ちうぐうでありました新上しんじやう西門院せいもんゐん御妹おいもうとでありましたので、才藝さいげいのすぐれたをんな關東くわんとう遣󠄁つかはされたい、といふしん

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なされまして、むめこう大典侍おほすけ右衞門佐もんのすけ、この三にんが、新上しんじやう西門院せいもんゐんえらみによつて關東くわんとうくだつたのであります。そのなかでもむめこうは一ばん年嵩としかさでありまして、みな西院せいゐん靈元れいげんの三てい御仕おつかへしたひとで、それがおく切盛󠄁きりもりをする。ばくおくに、上﨟じやうらふ年寄としよりといふものが出來できまして、御上﨟おじやうらふばんとりはからひをするやうになつたのは、このときがはじめてゞあります。大奧おほおく女中じよちううへで一ばんひかかがやいてりますむめこうあらた御寵ごちやうあいになつてときめいてります大典侍おほすけ、かういふひとみなみや由緖ゆいしよひとでありましたので、こと綱吉つなよしとの御間柄おあひだがらといふものが、御懇ごねんごろになつたものらしい。下世話げせわことまうすと、おくゑんのあることを、おくりといひます。おくりのあるひとでないと、むかしはなか〳〵はたらけない。老中らうぢうでさへも、おくひと提携ていけいすることがだい分󠄁必要ひつえうだつたくらゐであります。みやはうぐわい分󠄁ぶんですから、もとめてさういふことをなさるわけではないが、偶然ぐうぜんなわけで、奧向おくむきはうとも交󠄁渉かうせうおほかつた。奧向おくむき交󠄁渉かうせうがあるといふと、侫人ねいじんとか、奸人かんじんとかいふものばかりのやうにおもはれやすいが、けつしてそんなことばかりはいのであります。

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 かふいうことからみや綱吉つなよしとおしたしうおなりになりまして、寬永寺くわんえいじ請󠄁しんごときもたいさうりつ派󠄂なものが出來できた。淺草あさくさ淺草せんさう規模きぼで、あれよりりつ派󠄂なものを造󠄁つくらなければならない、とつて綱吉つなよしほねつたので、この總奉行そうぶぎやううけたまつたのが柳澤吉保やなぎさはよしやすであります。本堂ほんだう出來でき翌󠄁年よくねん勅額火事ちよくがくくわじといふくわがありまして、だい分󠄁そばまでけて危󠄁あやふかつたときに、綱吉つなよしが、あれほどのものならば、ければまたいくつでも建󠄁てゝさしげてよろしい、とまうしてります。そのにもいろ〳〵將軍しやうぐんたいしてもとめられたことやなにかゞありますが、家宣いへのぶ將軍しやうぐんじん(近󠄁衞關白このえくわんぱく基凞もとひろむすめ)のにふ輿などは主󠄁しゆとして、このみやさま御世話おせわであつたやうであります。隨分󠄁ずゐぶんいろ〳〵なことを、宮樣みやさまから綱吉つなよしもとめられると、大槪たいがいなことは綱吉つなよし承知しやうちする。ごくなかよしといふ有樣ありさまでありました。


      綱吉將軍の謎


 それでありますから、義士ぎし處分󠄁しよぶんなどについて、宮樣みやさまにおはなしのあつたといふこともまことにありさうなはなしで、傳說でんせつとして別段べつだんにこれといふほどのせうのこしてりませ

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うけたまつた

 うけたまはつた の脱字か。


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んけれども、まことにきゝてがたいことのやうにおもはれます。このことは二ぐわつの一にちねん登城とじやうときに、饗應けうわうがあり、のうがありまして、そののちにまだ雜談ざうだんがありましたので、いつものとし違󠄂ちがつて、暮近󠄁くれちか還󠄁御くわんぎよになりました。そのとき將軍しやうぐんのおはなしに、てんせいるのも、まことにらうおほい、わづらはしいもので、このたびあか浪人らうにんの一けんなどは、後世こうせいにもめづらしいちうなものであるから、一めいのところはたすけてやりたいとおもふけれども、何分󠄁なにぶんにも切腹せつぷく申付まうしつけなければ政道󠄁せいどうたない、まことになんともいやなものである、といふことをはれた。そのとき宮樣みやさまは、なん挨拶あいさつもなく退󠄁出たいしゆつになつてしまひました。

 綱吉つなよし將軍しやうぐんなんとかつてくださるだらうとおもつて、なぞをかけたのですが宮樣みやさまはそのなぞをおきにならずに、退󠄁たいしゆつになつてしまつたから、よるになつてそばものない意󠄁で、凌雲院れううんゐん大僧正義道󠄁だいさうじやうぎだうといふもののところへ遣󠄁つかはしになつて、それとなしに先刻せんこくのおはなしについて、みやからなに御沙汰ごさたはないか、といふことを聞合きゝあはせました。宮樣みやさま御命乞おいのちごひといふことは、大抵たいていばく打合うちあはせて御申立おもうしたてになるといふのが、ほとんどいつものれいのやうにな

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つてりますので、綱吉つなよし將軍しやうぐんは、どうか宮樣みやさまから義士ぎし四十六にん助命じよめい御申立おもうしたてくださるやうに、といふつもりであつたらしいのです。さういふ內々ない〳〵使󠄁つかひましたから、道󠄁だう早速󠄁さつそく宮樣みやさまのところへまいりました。宮樣みやさまたすけてやれとおつしやれば、明日あすにもくわんえい表役おもてやく執當しつたうといふものから老中らうぢう申立もうしたてる。さういふ順序じゆんじよのものでありますが柳營りうえいから御使󠄁おつかひのあつたことを申上もうしあげて、將軍しやうぐんのおはなし如何いかゞ思召おぼしめされたか、ぎよ意󠄁傳達󠄁でんたついたしたい、と道󠄁だう申上もうしあげますと、宮樣みやさまは、かれは一生懸命しやうけんめいなが間苦勞あひだくらうし、ほねつて、今日こんにちはそのこゝろざし達󠄁たつして、主󠄁しゆうあだつてしまつたので、いまはこのおもくことはうへである。それだからかれも、はふ通󠄁どほりの處分󠄁しよぶん仰付あふせつけられるやうにといつて、うつたてゐる。いのちたすけてやつたところで、かれがこれからまた主󠄁人しゆじんつてくらはづもあるまいし、もう一ぺう主󠄁取しゆうどりをしなければ、あたらちう者共ものども飢死うゑじにさせるよりほかい。それよりもはふ通󠄁どほ武士ぶし道󠄁だうてさせて、切腹せつぷくさせるはうがよろしからう、それがまたこく政道󠄁せいだうたゞしうおこなはれてくことである、とおつしやつた。それから道󠄁だうはこのことを御使󠄁おつかひこたへまして、したがつて寛永寺くわんえいじからはなん手續てつゞきもしないこと

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けつしました。さうして二ぐわつ切腹せつぷくめいつたへられたのであります。

 このみや綱吉つなよしとのなぞはなしは、切腹せつぷくめいつたへる三ほど前󠄁まへはなしで、このとき幕閣ばくかく評󠄁へうけつちやくしてつた。切腹せつぷくといふことにきまつてつたのであります。それをなんとかして助命じよめいしたい、といふので、さうきまつたものをうごかすちからほかいところから宮樣みやさま御命乞おいのちごひよりかたいとおもつてなぞをかけたのですが、宮樣みやさまなぞかれなかつたので、むを切腹せつぷくめいつたへたのでありました。


      極つて極らぬ將軍の腹


 幕閣ばくかくはうではまた討入うちいりのありました翌󠄁日よくじつに、老中らうぢう笠原がさはら渡守どのかみが、これは如何いかにも武士ぶしらしいことで、まことに武士ぶし心持こゝろもちとしてはしかあるべきことである。かういふ武士ぶしるといふことは、まことにおめでたいことでございます、といふしふごんじやうしてゐるといふつたへがあり、十二ぐわつの二十三にちには、評󠄁定所󠄁へうじやうしよのものから、ぞんじ寄書よりがきさししてります。これは將軍しやうぐんめいによつてさししたので、評󠄁定所󠄁へうでうしよまうすのは

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御祀儀

 御祝儀(御祝儀)の誤字か。慣用かは不明。


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ばく高等かうとう法院はふゐんでありまして、そこには老中らうぢうまいりますが、しやげうまちけう勘定かんでうげうおほつけ、これらのものが評󠄁定裁決へうでうさいけつするのであります。その評󠄁定所󠄁へうでうしよ意󠄁けんしよには、內匠頭たくみのかみらいどものかたといふものは、只今ただいま評󠄁へうするところによれば兩樣りやうやうになつてゐる。亡主ばうしゆこゝろざしいで、一めいてゝ上野かうづけのすけたくうちつたといふことは、しんじつちうである。條目でうもくなかいてある

  一忠孝ちうかうをはげまし、ふう兄弟けうだい諸親類しよしんるゐにむつまじく、召仕之者めしつかひのものいたまで

   憐愍れんみんくはふべし、もしちうかうものあらば可爲重罪事じうざいたるべきこと

といふ御定おさだめ適󠄁當てきたうしてゐることである。しか大勢おほぜい申合まうしあはせて、武器ぶきたづさへて横行わうかうしたのは狼藉らうぜきばんだいである、といふことのなんがある。それで膝元ひざもとさはがせるといふことは、ゆるしがたいことであるが、それをはゞかつてゐてはほん意󠄁達󠄁たつすることが出來できないのだから、それはまことに據なよんどころいことであつたらう。もう一つ條目でうもくに、たうむすんで誓約せいやくすることを差留さしとめになつてゐる。內匠頭たくみのかみらいたう心持こゝろもちがあつたならば、城しろわたしのとき如何いかやうなことでもしさうなものであるのに、一かうさういふことがかつた

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たうかみそむくものであるのに、かれにはけつしてさういふ意󠄁思いしい。このたび內匠たくみのかみらいどもだけ申合まうしあはせて討入うちいりしたのであるから、所󠄁謂いはゆるたうとは違󠄂ちがつてゐるやうにおもふ。たうはつにはそむいてるが、さりながらそれをみなむをないものとて、意󠄁おいばくそむいたところはすこしもいものとして四十六にん者共ものどもなが御預おあづけといふことにしたら、どんなものであらうか、といふことになつてります。

 この高等かうとう法院はふゐん意󠄁けんといふものは、ばくとしてはろん尊󠄁重そんてうする所󠄁ところでありますから、このはうまいりますと、切腹せつぷくさせずにみさうであります。して笠原がさはら渡守どのかみのやうに、しうまでごんじやうするといふほど、四十六にんのしたことに滿足まんぞくしてゐるひとがある。老中らうぢうなかでも、もう一人ひとりいな丹波守たんばのかみごときは、意󠄁味いみ滿足まんぞくすべき意󠄁味いみであるが、しか今日こんにちになつてかれたすけてやつたところで、かれよろこぶものではない。それよりもかれいのちてゝ、めい後世こうせいのこはうかれためであらう、といふ主󠄁張しゆてうをしてります。たう幕閣ばくかくは、かれちうであることは充分󠄁じうぶん認󠄁みとめてりますが、しか評󠄁定所󠄁へうでうしよ意󠄁けんのやうに、永預ながのあづけといふことでなしに、やはり處分󠄁しよぶんはしたはうがいゝ、といふせつ

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いなのやうなひとつたのであります。

 そこで柳澤吉保やなぎさはよしやすは、けんつたはつてりますらいの「りつ」、あれは柳澤やなぎさはねんためらいもんしたこたへである、とはれてりますが、それには、なんにしてもあさ長矩ながのり殿中でんちうはゞからずにあゝいふことをして、切腹せつぷく仰付あふせつけられたのである。そのとき御咎おとがめのなかつた吉良きらあだとして、今日こんにちごとさはぎをしたのであるから、條目でうもくたいし四十六にんものつみひ、處分󠄁しよぶんはしなければならぬが、其處そこくまでも武士ぶし待遇󠄁たいぐうもつせつぷくさせたらよからう、さうすればはふやぶらず、かれちうであることも禮遇󠄁れいぐうによつてわかるから、これならよからう、といふのであります。柳澤やなぎさははその通󠄁とほりの主󠄁張しゆてうをしましたので、こゝで幕閣ばくかくろんは、ばく條目えうもくおもんじて、それをおかしたつみはあつても、かれ精神せいしんたいして、武士ぶし待遇󠄁たいぐうもつ切腹せつぷくさせるといふふうけつしたのであります。武士ぶしつみおかしたあひは、大名だいめう御預おあづけになるといふことは、ばく直參ぢきさんのものはさういふれいでありますが、又者またものすなはばくらい大名だいめうの、またそのらいである大石おほいし四十六にんたいしては、取扱とりあつかひ違󠄂ちがつてります。またらいとりあつかれいでなしに、直參ぢきさん

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ものをとりあつかかただつたといふことは、罪人ざいにんとりあつかかたでもよほどの優遇󠄁いうぐうだつたのであります。


      鶴姫樣の御緣故


 しかしこれについては、側面そくめん運󠄁動うんどうのあつたことも、ろんのがすことは出來できません。この側面そくめん運󠄁動うんどうといふものは、しう綱敎卿つなのりけう、この綱敎卿つなのりけうのところへにふ輿されました、鶴姬つるひめといひますのは、綱吉つなよし將軍しやうぐんむすめであります。綱吉つなよし相續人さうぞくにんであります德松とくまつといふおかたは、はやくなられましたので、たいさうこの鶴姬つるひめあいしてられた。それゆえしう綱敎つなのり迎󠄁むかへて六だい將軍しやうぐんにしたい、といふぼうつてられました。それほどたうしうは、家筋いへすぢといひ、こと將軍しやうぐんとのつゞがらがさういふだいでありましたから、綱敎つなのり柳澤やなぎさはたいし、鶴姬つるひめ將軍しやうぐんせいである桂昌院けいしやうゐんたいして、四十六にんはどうかころしてもらひたい、かれゆるすならば、上杉うへすぎ彈正だんじやう面目めんもくといふものは丸潰まるつぶれになるから、ともかれ處分󠄁しよぶんしてもらひたい、ならうことなら、上杉うへすぎ引渡ひきわたしてもらひたい、とい

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御申出おもうしいでがありました。といひますのは、上杉うへすぎ綱勝󠄁つなかつ養󠄁よう綱憲つなのりといふ當代たうだい米澤よねざはこうは、吉良きら義央よしひさ長男ちやうなんで、養󠄁ようになつたものであります。吉良きら奥方おくがたといふものは、うへすぎ綱勝󠄁つなかついもうとでありました、そのあひだ出來でき長男ちやうなんを、綱勝󠄁つなかつにわかなれたために、急󠄁きふ養󠄁やうにして上杉うへすぎ遣󠄁つかはしたのであります。このとき上杉うへすぎが三十萬石まんごくから十五萬石まんごくつた騷動さうどうがあつたのですが、その綱憲つなのり奧方おくがたといふのは、しう光貞卿みつさだけうむすめで、綱敎卿つなのりけうあねさんであつた。しう上杉うへすぎとはさういふ關係くわんけいがありましたので、綱敎つなのり勿論もちろん鶴姬つるひめおほい側面そくめんから運󠄁動うんどうされたのであります。

 をぎらいの「りつ」のなかにも、かれ切腹せつぷくをさせれば、上杉うへすぎねがひ空󠄁むなしくならない、といふことがいてあります。かういふ側面運󠄁動そくめんうんどうがありましたのに、綱吉つなよしといふひと德川とくがは十五だいのうちでの法律はふりつ將軍しやうぐんで、一ばん法律はふりつおほこしらしてゐる程󠄁ほどひとでありますしか經學けいがくぺん人物じんぶつで、おこなひからへば、經書けいしよいてあるやうな、ただしい眞直まつすぐなことは出來できない、隨分󠄁ずゐぶん我儘わがまゝなことのあつたひとでありますが、ものゝすぢ習󠄁ならつたほんかれますから、眞直まつすぐきたいといふのがくせになつてゐる。一たいじんといふもの

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は、おも込󠄁むとどこまでも一すぢに、我儘わがまゝ半󠄁分󠄁はんぶんくはゝつてつのるものであります。綱吉つなよしなどはおもひざめのはなはだしいひとでありまして、ときにはまるででも違󠄂ちがつてゐるんぢやないか、とおもはれるやうなことのおほ將軍しやうぐんでありました。が、なににしてもくつおほひとだけに、ちうなものをころすといふことはどうもこまる。さういふところへかゝつた。さりとてまた所󠄁謂いはゆる條目でうもくばくはつといふものをやぶるとか、をかすとかいふことを、のがすことも出來できない、それからまた分󠄁ぶんむすめから嘆願たんぐわんされるといふこと、あい婿むこつなのりせつ申出まうしでること、これを聞流きゝながすことも出來できない、こゝで綱吉つなよしはらなか混雜こんざつしてて、どうしたらいゝか、まつこまつた。たすけたいもするし、たすけてもこまるし、こゝからまうしますと、幕閣ばくかく役人達󠄁やくにんたちはなしをすれば、表向おもてむきの四かくいことになつてしまふ。どこへどうも分󠄁ぶんはらうちけてもちすことが出來できない。そこで平󠄁へいこん意󠄁でありますから、分󠄁ぶんはらおちくやうにしたいとおもつて、宮樣みやさまなぞをかけたのであります。ちうなものをころすに忍󠄁しのびないから、といふはうが、すぢ通󠄁とほ安心あんしんでいゝが、きつとそれが綱吉つなよしはらなのかといふと、たすけたいにも、たすけたくないにも、はらなかでごつちやに

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なつてしまつて、わからなくなつたとはうがよからうとおもひます。


      賴もしい切腹論


 こゝで一ばんたのもしいとおもひますのは、かれちうさむらひとして十分󠄁ぶん認󠄁みとめてることのつよひとが、切腹論せつぷくろんとなへたことで、これはおほい滿足まんぞくすべきことだとおもひます。げんみやごときは、奧向おくむきとの關係くわんけいもありましたけれども、十分󠄁ぶんかれかいし、たれよりもさき義士ぎしとしてお認󠄁みとめになつた宮樣みやさまが、綱吉つなよしのかけたなぞをおきにならないで――いな、おきにならなかつたのではない、おきになつて前󠄁まへのやうな返󠄁へんがあつた。これは一ばんりつ派󠄂な、いゝろんでありまして、もつともいゝしよとして切腹せつぷくさせることにおむけになつたのは、大變結構たいへんけつかうなことだと思ひます。けんわるはれる柳澤やなぎさはも――あるひはこれもおく關係くわんけいから、切腹せつぷくはうひつりつけた、といはれないこともありませんが、このさい切腹論せつぷくろん主󠄁張しゆてうしたことは非常ひじやうによろしい、いな同樣どうやうであります。

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      江戸ツ子の鼻ツ張


 けんではまたこれについて、なんともしつかりしたかんがへはありません。そこで面白おもしろいのは「元正間記げんしやうかんき」といふほんいてあることでありまして、これは義士ぎしのことをいたほんなかには、往󠄁々わう〳〵にして採󠄁もちひられてります。大石おほいしよし四十六にん愈々いよいよ切腹せつぷくめいぜられたといふことが、江戶えどぢうたちまちあひだ評󠄁判󠄁へうばんされるやうになつて、その命令めいれいたうといひますから、二ぐわつのことです。ほんばし制札せいさつ、そこには板看板いたかんばんのやうになつて、れい條目でうもくいたのがかゝつてります。その條目でうもく

 一忠孝ちうかふをはげまし、夫婦󠄁兄弟ふうふきやうだい諸親類しよしんるゐむつましく、召仕之者めしつかひのものいたまで

  憐愍れんみんくはふべし、もしちうかふものあらば可爲重罪等ぢうざいたるべきこと

といふだいでうに、すみ黑々くろ〴〵つてある。制札せいさつ墨塗すみぬりです。これはようならぬことだといふので、まちげうきびしくせんしましたが、たれがやつたかわかりません。かたいからあたらしい制札せいさつかゝげたところが、そのばんまたおなじところへどろをどつさりとりつ

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けた、それからまたせんきびしかつたが、やつぱり犯人はんにんれない。あまりきたなよごれたので、またふだをかけへると、こんなかに、そのふだ引外ひつぱづして、ほんばしかはたゝ込󠄁んでしまつた。それがほんばしだけではなくて、新宿しんじゆく品川しながは、その江戶えど入口いりくちにあります制札せいさつふだがどれも〳〵墨塗すみぬりになつた。ばく役人やくにんがいくらせんしても、このいたづらがやみませんので、文󠄁もんあらためたらよからう、といふことになつた、其處そこ條目でうもくへることになり、「忠孝ちうかうはげみ」といふ文󠄁もんのぞいて、「親子兄弟おやこきやうだいふう婦󠄁はじしよ親類しんるゐにしたしく、にん至迄いたるまでこれをあわれむべし、主󠄁人有しゆじんあるやからおの〳〵奉公ほうこうせいすべき事」とした。さうしたらば制札せいさつよごすものがくなつた。かういふ惡戲いたづらをするのは、忠孝ちうかうはげんでも一かうめられないで、四十六にん切腹せつぷくあふせつけられた。忠孝ちうかうはげむのはつまらんことだと、義士ぎしおきあざけつてやつたので、いづれ下々しも〴〵もので、命知いのちしらずのとびものとか、ようものとかゞしたんだらうといてあります。

 これほどひどくいたものは、このほかにはありませんが、江戶えど町々まち〳〵下々しも〴〵のものまでも、彼等かれら忠義ちうぎ立派󠄂りつぱさむらひであるから、こんほうでももらやしないか、どう

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違󠄂ちがつても切腹せつぷくなどになることはあるまい。なににしてもかれ仕合しあはせになるであらう、といふふうにとり〴〵うわさをしてつた。かういふことが從來じうらい義士ぎしのことをいたほんに、かけることであります。しかしながらこれらは大間違󠄂おほまちがひ大譃おほうそであつて、とうみん達󠄁たちが、ばくせいむきなどにたいして、どうあらう、かうあらうといふやうな考かんがへつてゐたものはありません。してこれを判󠄁はんしようといふものは、とても民間みんかんにありはしない。ことよう人足にんそくや、とびものなどに、そんなことがわかるはづがありません。元祿げんろくむかしにしても、あるひはそれからのちでも、そんなことのわかるやうな江戶えどではない。制札せいさつよごしたり、それをもちしてかはたゝ込󠄁むといふのは大變たいへんつみで、しさういふことをしたものがありましたら、ろんくびなんぞがあることぢやない。それほどおもひきつたことをするだけの人間にんげんは、なんとかかんがへなければ出來できげいぢやないが、たう江戶えど住民ぢうみんどもが、そんなトテツもないことをする氣遣󠄁きづかひはありません。まつた義士ぎし處分󠄁しよぶんなどには空󠄁々くう〳〵寂々じやく〳〵で、えらいおほきなさわぎで、あか浪人らうにん吉良きらしききり込󠄁んださうだ、とんでもないはなしだ、といふくらゐのところで、それにたいする評󠄁へうのやうなこと

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は、ろんあつたものではない。「元正間記げんしやうかんき」の大間違󠄂おほまちがひであることは、すみ消󠄁したといふだいでうの「忠孝ちうかうはげみ」云々うんぬんといふのは、てんねんの五ぐわつあらためられた制札せいさつであります。それがあらためられて、忠孝ちうかうをはげますといふ最初さいしよの一がなくなつて

  一おや兄弟けうだいふう婦󠄁はじめ、諸親類しよしんるゐにしたしく、にんとう至迄いたるまで

   これをあわれむべし、主󠄁人有しゆじんあるともがらおの〳〵其奉公そのほうこうせいすべきこと

となつたのは、しやうとくぐ元年わんねんぐわつはなしですから、義士ぎし切腹せつぷくして十ねんつたのちはなしである。それは家宣いへのぶ將軍しやうぐんが、先代せんだい(綱吉つなよし)とは、なにかと面白おもしろくないことがあつたので、いろ〳〵な事柄ことがらいて、先代せんだいのしたことを殊更󠄁ことさらなほしたがるやうがありました。この制札せいさつごときも、それであらためられたのであります。十ねんたつてあらためられたのでありますから、義士ぎし處分󠄁しよぶんがあつて、それに感激かんげきして制札せいさつよごして、そのためあらためたのだなんていふのがうそつぱちであることは、これだけでもりつしやうされることゝおもひます。


      三百年間の大出來

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 義士ぎし處分󠄁しよぶんといふことは、まことにりつ派󠄂名處分󠄁めいしよぶんでありまして、前󠄁ぜん三百ねんわたつて、これほどりつ派󠄂によくととのつた判󠄁決はんけついとおもひます。寶暦ほうれき年間ねんかん山縣やまがただい勤王きんのうせつとなへて處分󠄁しよぶんけました。そのとき戶城どじやうして、攻守こうしゆ狀況じやうけう硏究けんきうしたそれがばくたいするだいけいつみであるといふことで、だい處分󠄁しよぶんしました。勤王きんのう云々うんぬんといふことは、そのなかに一ことれてゐない。ばくはん逆󠄁ぎやくくはだてたといふことも一つもいてない。ばくたいするだいけいといふことでつみだんじたのは、もつとたいたことで、だい精神せいしんからしましても、ばくとして勤王きんのうといふことを罪科ざいくわにするわけにはかない。そこで勤王きんのうつみにせずに、ばくげんおかしたといふことにして處分󠄁しよぶんしたのは、だいとしてもかんいことであり、ばくとしてもたうかただとおもひますが、それにならべて結構けつかう判󠄁決はんけつであるとおもひます。この處分󠄁しよぶん、四十六にん打揃うちそろつてはらつた、はらつてかれんだといふことをて、みなめたやうになつて、かれいのちがけで主󠄁人しゆじんためはたらいたのである、武士ぶしはさういふものか、といつて、はじめてみんかんものまでめた。四十六にんのものも、志を こゝろざし遂󠄂げてきみじゆんじたのであるから、これ

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また大滿足おほまんぞくであつた。かれゆるされて――なかにはとしわかいものもあり、いろ〳〵な人間にんげんりましたから、ボロでもしてわらぐさになるやうなことがあつたら、どんなことになるか。たう諸大名しよだいめうから、大變たいへん祿ろく抱󠄁かかへられでもしたら、まうごとかたきうちをしたやうにも成なりきませう。それでも敵討かたきうちをするとき心持こゝろもちは、ただしい、いゝ心持こゝろもちであつたにしたところが、あとからぶちこはしてつたら、かたいことになりませう。ひとかずからいへば、わづか四十六にんでありますが、四十六にんは四十六しゆであるから、どのやうな成行なりゆきになるかもれない。そのへんからかんがへても、㓗く いさぎよ こゝろざし遂󠄂げたとききみじゆんぜしめるのは、いゝ終󠄁をはりあたへたやうにおもひます。さうしてまたこの處分󠄁しよぶんは、ろんもあり、運󠄁動うんどうもあり、いろ〳〵ありましたが、それゆえひつからまつて、のび〳〵になつたわけではない。ばく恒例こうれいとして、しやうぐわつ十四まではしきそののことでつぶれますから、評󠄁定所󠄁へうでうしよは十四からでなければはじまらないので、それから二ぐわつの四までに結了けつれうしたのをれば、別段べつだんひつからまつて、のび〳〵になつたといふのでもありますまい。

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      儒者が入亂れての論戰


 さて處分󠄁しよぶんんで、ことはきまつたやうですが、かれ義士ぎしであるかどうかといふことについては、なか〳〵ろんがある。それはたうばかりではない、かなりひさしくけつちやくしないほどの混雜こんざつがあつたのであります。今日こんにちは一ごんもなくたゞち義士ぎしといふことで、といへばあか浪人らうにんのことになつてりますけれども、當初たうしよはさうはかなかつた。學者がくしやとか、識者しきしやとかいふ人達󠄁ひとたちが、いろ〳〵ろんしてります。といふのは、ほん所󠄁じよううちをしましたのを、仇討かたきうちといつてりますが、あか浪人らうにんあひのは敵討かたきうちでない。敵討かたきうちといふものは、したものうへたれて、そのあだ返󠄁かへす、くん父󠄁とか、あにあねとかいふうへたれたあひをいふので、江戶えどだい分󠄁わかつてります敵討かたきうちは、前󠄁ぜん三百けん內外ないがいもありませうが、それはいづれもうへものころされたのを、したもの敵討かたきうちかけたので、あか浪人らうにんのやうなのを敵討かたきうちといつたれいい。敵討かたきうちといふものは武士ぶしのするもので、これについては國法こくはふがありまして、國法こくはふうへから認󠄁みとめられてるのでありま

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す。吉良きらかたきでないといふことは、あさ長矩ながのりつたのでもなければ、ころしたのでもない、喧曄けんくわをしたのでもない。かへつて長矩ながのりはうからりかけたので、長矩ながのりんだのは國法こくはふめいずるところであつて、吉良きらころしたのではない。一體いつたいあさなにはらつことがあるにしましても、所󠄁しよがらわきまへないはなしである。吉良きらゆるすことが出來できないでかれるにしましても、ほか所󠄁しよもあり、方法はふはふもありましたらう。さういふしり吉良きらつてくのは違󠄂ちがつてゐる。あるひ喧嘩けんくわ兩成敗りやうせいばいといふことは、德川とくがははつにしてりますが、もつと前󠄁まへ――戰國せんこくだいからのきたりで、喧嘩けんくわであれば兩成敗りやうせいばいで、兩方りやうはう成敗せいばいされる。ひてへば、喧嘩けんくわ長矩ながのりはうがはじめたのである。義央よしひさはうはそれをはなかつたので、喧嘩けんくわにはなつてゐない。喧嘩けんくわ兩成敗論りやうせいばいろんもこゝにはあたらないのです。綱吉つなよし勤王きんのう事柄ことがらまうすものは、いろ〳〵ありますが、帝室ていしつ御料ごりやうを一まん五千石ごく增進󠄁ざうしんいたしましたことが、一ばんはやわかりのするれいおもひます。れい學問がくもんずきから、講釋かうしやくきおぼえた通󠄁とほ眞直まつすぐに、朝󠄁󠄁󠄁廷󠄁てうていたふといことをよくつてりまして、つね尊󠄁敬そんけいおこたるやうなことはありませんでした。その勅使󠄁ちよくしたいする饗應けうわうあひ殿中でんちうさわがし

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ながすといふやうなことは、綱吉つなよし心持こゝろもちではとてもゆるすことは出來できない。なにほどいかるべきことが長矩ながのりにあるにしても、勅使󠄁ちよくし饗應けうわうするあひおいて、殿中でんちう狼藉らうぜきはたらくのは、朝󠄁󠄁󠄁廷󠄁てうていたいしておそることである。それゆえ長矩ながのり處分󠄁しよぶんたゞち決行けつかうしたのであつて、これは朝󠄁󠄁󠄁廷󠄁てうてい尊󠄁崇そんそうするはう意󠄁味いみからつて、まことにたう事柄ことがらであるとおもひます。

 さういふだいでありますから、おぎらいざい春臺しゆんだい藤󠄁とう直方なほかた、三あけ尙齋せうさいなどといふたう儒者じゆしやのすぐれた人達󠄁ひとたちあひだに、いろ〳〵ろんがありました。かれの志こゝろざし賞揚しやうようすることにもつぱらであつて、そのほとんわすれたかのやうであるものは、林信篤はやしのぶあつ室鳩巢むろきうさう連中れんちうで、かれせきとらへて論難ろんなんしてまぬものに、ざい藤󠄁とうがある。儒者じゆしやあひだ論爭ろんさうはなか〳〵盛󠄁さかんなものでありまして、それが寬政かんせいころまでもつゞいてります。こと目立めだつてえたのは、りんらい派󠄂朱學しゆがくがくとで對抗たいかうして、ろんつてゐる。朱學しゆがくはうからつても、おな山崎やまざき闇齋あんさい學統がくとうであります藤󠄁とうゆるさぬはうで、三やけあさ綗齋けいさいおほい義士ぎし賞揚しやうようしてゐる。さうかとおもふと、鳩巢きうさう朱學者しゆがくしやでありますけれども、木下きのした順菴じゆんあんもんで、りんとは違󠄂ちがつてゐる。けれども鳩巢きうさう信篤のぶあつおなじや

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うに盛󠄁さかんめるので、切腹論せつぷくろんなどはゆめにもとなへない連中れんちうであります。


      淺見綗齋の論斷


 ところでこのなかで、わたくしどもが一ばんきごたへのある評󠄁論へうろんをしたのは、あさ綗齋けいさい先生せんせいであらうとおもひます。綗齋けいさいはかういふことをつてゐる。義士ぎしのことをつたへたものには、くはしいものもあり、りやくしたものもあり、いろ〳〵あるが、つまるところは四十六にんちうであることにまぎれはない。分󠄁ぶんきみなりおやなりがひとそんじて、そのためいのちてた、さうしてあひはぬけ〳〵としてきてるといふあひに、なにがどうあつたところが、そのらいたり、あるひであるものが、私どわたくしもの主󠄁人しゆじんおや調󠄁法てうばふであつたから、あゝいふ事になつたのでござゐます、といつてながめてられるものではない。さういふものは、らいらしいらいではなく、らしいでもない。つまるところで、平󠄁生へいぜい君臣くんしんといふことのぎんただしうないから、いろ〳〵なろんるのであつて、そのほかのことはふにおよばない。平󠄁生へいぜい君臣くんしんぎんがどうあるか、これだけのこ

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あゝいふ事になつたのでござゐます:事に振り仮名無し


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とだとつてゐる。ひととなり、ひとらいとなつて、そのきみ、そのおやになりきつてらぬといふことは、如何いかにもよろしくないことで、綗齋けいさい先生せんせいはれることは、まことに結構けつかうであるとおもひます。これについてはなになんでも、きみなりおやなりになりきつてらないのは、ひとひとらいといふものではない。こゝのところは今日こんにちひと戀愛れんあいとなると、かへりみずに、それになりきつてゐるらしい。なになんでもこのこひ遂󠄂げねばならぬ、といふもちはある。大石おほいしがあゝやつつけたのは、やらなければならないのではない、やらずにはゐられないのである。敵討かたきうちであらうが、敵討かたきうちであるまいがそんなことはらんことである。かういふふうかんがへてる。綗齋けいさい先生せんせいなどのせつは、儒者じゆしやろんであるが、儒者じゆしやはなれてかれる。儒者じゆしや人間にんげんであるから、なかからはなれるはづはない。學者がくしやなかには往󠄁々わう〳〵にして、おれ學者がくしやだといつて、違󠄂ちがつた人種じんしゆでゞもあるやうに心得こゝろえてゐるひとがある。さふふのがいま學者がくしやおほい、むかし儒者じゆしやにもさういふひとがありますれども、そんなはづはどうしてもい。

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已は學者だと:己の誤字であろうか。


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      眞先に人口論を味ふ


 浪人らうにんになればふたゝ祿ろくられない。ふにこまる。元祿げんろく前󠄁ぜんのところでは、武士ぶししう職難しよくなん隨分󠄁ずゐぶんはなはだしかつたので、浪人らうにんになつたらなんともかたい。人口じんこうろん武士ぶしからはじまつてります。自分󠄁じぶん階級かいきう人間にんげんかずおほいことが、一ばんさき迷󠄁惑めいわくになつたのが武士ぶしである。大阪おほさか落城直後にらくじやうちよくご》に敵對てきたいした浪人らうにんども奉公ほうこう勝󠄁かつだいたるべしと宣言せんげんして、しつげふ救濟きうさいわすれなかつた。家康いへやすこうてんられたときに、ながいことしやけうをつとめて相當さうとうこうもあつたたか主󠄁水もんど內藤󠄁ないとうらうもん、この兩人りやうにんたいして家康いへやすこうは、各々おの〳〵かん忍󠄁にんしろ、かういふやうにてんらうともおもはなかつた。てんつたら百まんごくづゝもくれるつもりだつたが、今になつてはなんともいたかたい。せうねがうやうに念佛ねんぶつりやうをやつてくから、それで堪忍󠄁かんにんせよ、とかた引導いんだうわたしてられる。戰爭せんさうんで、太平󠄁たいへいなかになりかけるといふと、永年ながねんせんぢやう往󠄁來わうらいしてこう建󠄁てたらい達󠄁たちではありますけれども、その人數にんずうがあまりおほいので、それに分󠄁あたへるだけのけう

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い。そこでこまるから念佛ねんぶつりやうなんていふことをはれたので、截兵さいへい問題もんだいがむづかしいのは、支那しなはなしばかりぢやない。寬永かんえいごろになりましては、まつた戰爭せんさうくなつたのでありますから、しよ大勢おほぜい養󠄁やしなつていた戰闘せんたうゐんまつこまつて、追󠄁々おい〳〵それにひましてります。浪人らうにん問題もんだいといふものは、そのころ大變たいへん問題もんだいだつたので、由比ゆひ正雪せうせつなどはなし

あるし、熊澤くまざは蕃山ばんざんはなしも、いけ截兵さいへい問題もんだいしつで、あんなことが出來できたのです。截兵さいへい問題もんだいだけはかなりにおしつけたあとになつても、まだ分󠄁ぶんもといたらい達󠄁たちどもえるので、どうすることも出來できない。水戶みと光圀みつくになども、永年ながねんつかへてゐるらいのことをかんがへてるのに、持高もちだかがきまつてゐるうへに、らいどもはずん〳〵えてるので、なんともあてやうい、とつて嘆息たんそくしてります。元祿げんろく前󠄁ぜんがひどいといつても、まだあとくらべればいゝやうなものでありますが、浪人らうにんといふものは、なか〳〵しよくにありつけない。そこでいのちがけの一六勝󠄁負󠄂しやうぶちうふりまはしてやつてたらといふので、失業しつげふむれから分󠄁別ふんべつから、あか浪人らうにんうちつたのではないか、といふろんをしたがる儒者じゆしや先生せんせいもある。これらが人間にんげんらしいろんといふか、けんなみ

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截兵(さいへい):截兵という言葉は見つけられなかった。

 その意味を幾つか考えてみたいと思う。

 ①「截兵」という単語がある、或いは造語である。

  この場合は正確を期しても叶わないが、推測はしてみたい。

  截という漢字について大漢語林(平成4)で調べた

  読み:セツ、ゼチ、きる、断つ

  Ⅰ切る、断つ

  Ⅱ(切り揃えた様に)整う、整える

  Ⅲ治める

  Ⅳ盛ん/口先が上手い

  そもそも「截」は「さい」と読まない事がわかった。

  「截断」を「さいだん」と読む諸兄もあるかもしれない。

  併しそれは誤読の慣用化であり正しくは「せつだん」と読むようである。

  挙げられていた意味の中ではⅢが適当であるように思われる。

 ②「さい兵」という単語があり、「截」は誤字或いは代字である。

  候補は一つ。

  嘬兵(さいへい):兵力を以て収奪する事。

  意味から考えて之は不適であろう。

 ③「截」が誤字若しくは代字であるが、読みが「さい」ではない。

  「〇兵」の様な兵で終わる単語で、截に近しい漢字を用いるものを探してみた。

  候補は一つ。

  戢兵(しゅうへい):兵器をしまう事。戦争を止める事。

  「截兵問題」を終戦に付随する問題と捉えると戢兵は適っている様に思える。

 ④「せつ兵」「せっ兵」「ぜチ兵」「ぜっ兵」という単語がある。

  「截」は誤字若しくは代字である。

  候補は一つ。

  接兵(せつへい):切り合いに及ぶ事。

  意味から明らかに不適である。

 以上まとめると、

 截兵問題とは

  ①戢兵の誤りであり、終戦に付随する問題である。

  ②兵を治める上で発生する問題であり、

   特に平時に於ける兵の扱いに関する問題を指す可能性がある。

 の二通りが適当であるように思われる。



由比正雪:「慶安の変」或いは「由比正雪の乱」の首謀者の一人。

     軍学者であり、幕府からの仕官の勧誘を断って塾を開いていた。

     塾生には浪人が多かったと云う。

     当時大量に発生していた浪人を糾合し幕府の転覆を図った。    


熊澤蕃山:幕府の政策を批判した、尊王思想の源流の一人。

     土木技術の指導を能く行った。

     截兵問題に関してという事であれば兵農分離批判であろうか。

     有識者の助言を乞う。


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ろんといふか、そのろんなかに、とうけんやうがよくります。


      敵討の新しい解釋


 敵討も生きんが爲のかせぎと見る、かういふ解釋の仕方は、今の人には定めて氣に

入るだらう。然もかういふ解釋は、何も江戶時代の元祿頃がお初尾のわけではない。

江戶時代より前󠄁に出來た幸若の「十番切」の中に、曾我兄弟について、「二人が中に一人

召出され、懸命の地の片はしに安堵をなしてたぶならば、たとへ祐經討ちたくとも、

本領が惜しさに思かへ、慰みても置きぬべし」とある。これは足利時代の武士の根性

を丸出しにした話で、曾我兄弟も知行についてゐたら、敵討はしなかつたらう。彼等

は生きてゐられないから敵討をしたんだ、といふ解釋であります。それと共に、いつ

の世だつても、人間は食ふことばつかりぢやない。深山の奧のその奧の、竹の柱に茅

の屋根といふ、氣持の人間はいつも居る。食へさへすればといふ人間がゐると同時に

食へる食へないを超越して、戀愛で押通󠄁して行く人間、これは慥にいつでも居ります



飮食男女の慾といふものは、動物と共通󠄁なもので、時代や人柄に拘らず、誰でも持つ @

てゐる。併しながら形が違󠄂ふと共に、猿は猿らしく、牛は牛らしく、人間は人間らし

くなければならん。人間の味、人間味といふことも、この節の人のいふやうでは、何

だか動物味といふことであるやうだ。動物と同じやうならば、それは人間味ぢやない

それ〳〵の動物とは形が違󠄂ふ通󠄁り、人間は人間らしくつて、そこにはじめて味ひがあ @

る。そこに氣がついて居るか、居らないか、人間の格づけといふもの、即ち人格とい

ふものもそこから來る。今日の人は人間味と動物味がよくわからんやうであるが、今

日の人ばかりではない、江戶時代の人もやはりさうです。人間は生れる時に、何の目

的、何の方針といふものを、背負󠄂つたり、持つたりして來たわけぢやないから、それ

は如何にも自由にきめることが出來る。このきめ方が直に人格といふものになつて來

るので、又それに等級もつくわけであります。

 そこでもう一つ綗齋先生の言葉を見ると、大抵君に仕へてゐるもの、即ち武士は一

藩、同藩は大勢の人であるが、それは別に親類合といふのでもない。渡り奉公といつ

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て、そつちにもこつちにも次から次へと旦那がある、といふ心持で行く者には、その

時に利益であるから、主󠄁人なので、主󠄁人に仕へるのでなく、利益のために働いて居る

のだ。旦那といふのは利益なのだから、さう云ふ人間には主󠄁人の仇といつても、見當

違󠄂ひなので見れば、自分󠄁の身にぴつしりと感じない。それはどういふものかといふと

君臣はどういふものかといふことを、しつかりと腹にこたへてゐないからである。「太

平󠄁記」以來。日本國中、東西南北ともに戰亂の世の中でありましたから、武勇である

とか、智謀の人であるとかいふことが先になつて、忠臣義士を詮議することは甚だ少

い。それはどういふものか。主󠄁人の祿を貰つて奉公するから家來だ、といふやうなの

では甚だ心許ない。祿を貰ふから君臣主󠄁從なのではない。君臣主󠄁從だから祿をくれ、

祿を貰ふのである。主󠄁人の祿を貰つて、給金で働くやうな心持でゐるから、君臣主󠄁從

の沙汰が無いのである。戰國時代は智謀勇敢の人を用ゐるに急󠄁で、忠臣義士の方は後

廻󠄀しになつてゐる。これは當り前󠄁のことで、それだから亂世なのでありますが、それ

ほど取締の無い亂世の合戰の中に、後にいふ武士道󠄁も生れて居ります。「武士道󠄁」とい



ふ名は、元祿前󠄁後あたりから見えてゐるやうですが、古くは「男の道󠄁」或は「武道󠄁」、

といふ名をつけてゐる。これは學問仕立のものではありません。その時分󠄁に本などを

讀んでゐる隙は無い。それでも自然と武士道󠄁が生れて、後に太平󠄁の世になつてから武

士をぴか〳〵光らせるやうになつて來ました。


      義理の徹底


 それでは、その武士道󠄁とはどういふものかといふと、義理一遍のものである。君臣、

父󠄁子、夫婦󠄁、兄弟、朋友、そのすべてを義理と見る。五倫といふものを悉く義理と見

るのであります。今日の外國には、アメリカにせよ、フランスにせよ、ドイツにせよ

そんなやうな國には、君臣といふものが無い。だからこれは五倫に一倫足りなくて四

倫である。併しその名は無くても。義理といふものゝ方から見て、義理合を立てゝ行

く日になれば、その實を存することが出來る。五倫がそつくりあつても、これを義理

と見ないで、給金を貰ふから君臣であり、生んで育てゝくれたから親子である。飯を

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食はして養󠄁つてくれるから夫婦󠄁である、といふ調󠄁子に見て行つたならば、五倫はある

とは云はれません。勿論武士道󠄁ではない。若し五倫を義理と見ることが出來たならば

その名は無くとも武士道󠄁はある。或はヨーロツパにも武士道󠄁があるかも知れない。

 この義理一遍といふことが武士道󠄁である、武士道󠄁は義理一遍のものである。といふ

ことは、西鶴が早く「武道󠄁傳來記」を書き、「武家義理物語」のやうなものを書き出し

て居ります。それが武士の取得はどこにある。彼等の生命はこゝだ。と認󠄁めたのによ

ることで、近󠄁松の淨瑠璃でも同樣、武士の義理といふことを取立てゝ居ります。つい

近󠄁い頃までも、義太夫といふものは悲しいもので、泣きながら聞くものにしてあつた

それは近󠄁松以後の作物でありまして、いづれも時代物であります。時代物でない時、

即ち世話物の中でも、武士といへば時代に取做して、しつかりと義理といふことを取

分󠄁けてよく現して居る。他の農商工といふやうな人間にしても、無論義理立といふこ

とはあるが、その中で武士の義理が一番濃厚であり、一番力强い。五倫を悉く義理と

解する。さういふことは他の三民にはない。武士に限つたころであります。殊に近󠄁松



以後の淨瑠璃といふものは、大時代の武士でなしに、戰國時代の武士の義理合を取つ

て來て脚色したのでありますから、一層それが悲しくなつて聞かれたのである。江

戶文󠄁學の上に筋立つて武士道󠄁の消󠄁長が見え、武士道󠄁が現れてゐるのでありますが、こ

れは西鶴が系統立てた、それを順々傳へて、その後の文󠄁学が繼承してゐるといふわ

けではなく、よく眺めて行けば、自然そこでなければならなかつたからであらうと思

ひます。西鶴が最初に武士の義理といふことを捉へ出した。それも空󠄁中に描き出した

櫻閣でもなければ、彼が冥想して得た知識でもない。時勢のさまとでも申していゝか、

世間でもそれに心をつけるものが他にもあつたのであります。


      寬文󠄁以來三世の學問


 その著しいものとしては、「鍋島論語」と稱せられて居る「葉隱」といふ本がありま

すが、これは寬文󠄁度から享保度に及んで、石田一鼎といふ人に始まつて、山本常朝󠄁󠄁󠄁、

田代陳基と傳へて來た學問でありまして、これは學問と申しても、古學とか、朱學とか

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いふ儒者めかしいものと違󠄂つて、武士道󠄁といふものを武士の上から講究しようとする

本の中から持つて來るのではなく、人間の中から吟味するといふ遣󠄁方で、さうしてそ

れは義理に落着した。義理の高遠な講究とでも云つたらいゝのでせう。その時代から

申しますと、丁度西鶴から近󠄁松、並木宗輔あたりへ引かけての時代と、「葉隱」三人の

時代とが當嵌つてゐる。時を同じうしてゐる。その「葉隱」の中に、或時、鍋島の藩祖

直茂の云はれた言葉として、自分󠄁の緣戚の少し遠いものになつて來ると、その事柄に

ついては著しく情󠄁を動かすやうなことは無い。緣戚であつても少し遠くなつて來れば

その位疎遠であるのに、五十年、百年前󠄁の見も知りもせぬ人の事柄でも、それに感じ

て淚が出ることがある。これはどうしたわけだといふと、その義理に詰つて感動する

のである。義理ほど詰つたものは無い、それだから義理の詰つたものが武士道󠄁である

かういふことを云はれたとか書いてありますが、義太夫が悲しいもの、泣かなければ

義太夫を聞いたやうでない、といふほどまでになつて參りますのは、直茂の云はれた

言葉に丁度當嵌ることで、義理に泣くのであります。



      加藤󠄁淸正の感歎


 ところで一方には儒學がだん〳〵開けて參りまして、學問と申せば儒學にきまつて

來たやうな時勢になつた。加藤󠄁淸正が論語を讀んだといふ話は、誰でも知つて居りま

すが、その加藤󠄁淸正がかういふことを云つてゐる。近󠄁年淺野但馬守などは、惺窩先生

の敎を受けて、論語を明暮讀んでゐる。それから考へて見るに、今日この世の中に生

れて、かういふ本を注󠄁意󠄁して讀まないものは、時折過󠄁つて不義に陷ることがある。か

ういふ本を讀まなければ、正しい人間にはなれない。前󠄁田利家の如きも、不學な人で

あつたが、儒佛王覇といふ議論になると、自分󠄁には大分󠄁合點の行かぬところがある、

と云つて居られた。今自分󠄁が論語を讀みながら考へて見ると、利家も今日まで存命し

て居られたら、學問の效驗があるやうになれれたであらうに惜いことをした、と云つ

て嘆息してゐる。この頃の人間達󠄁は、知識を得るといふことを以て、學問の效驗とし

ては居りませんが、學問の效驗といふことは、よく信じて居つたやうであります。そ

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の方がだん〳〵ひろがつて參りますと、机の上で本を讀んで、知識として知つて居る

といふことでなく、もう少し向ふへ出ることになる。それ故に聰明な大名は競つて學

問をして居りますが、その中で保科正之の如きは、義理の筋の通󠄁らないのは學問をし

ないからだと云つてゐる。武士は義理を立てることを知つてゐるわけだが、その筋の

立たぬことをしてしまふのは、學問の效驗によらなければならない。こゝらは後來の

學者のする學問とは、大分󠄁覘ひどころが違󠄂つて居ります。

 元祿度になりますと、所󠄁謂御儒者の數が多くなつて參ります。さうして一體に學問

の效驗――淸正や正之の云つた覘ひどころを持つて居りますから、これらの儒者から

申せば、或は及ばないかも知れませんが、さういふ覘ひどころは慥に持つて居つた。

そこで室鳩巢は、やはり學問の效驗が欲しい。机の上のものだけにしたんではいけな

い。學問をしてその效驗がかうある。あゝあるといふことを慥にしたい、その標本が

欲しいが、何かお手本は無いか、と考へてゐた。併し學者は飽くまでも學者で、英雄

豪傑の士のやうには參りませんけれども、さういふ心がけのあるだけでも、無いもの



よりは立ちまさつてゐる。そこに大儒と小人儒の差別があるのでせうが。


      義士を偶像にする


 鳩巢は学問の效驗の爲に、忠孝といふことの標本を求めてゐる。元祿の世柄につい

ては前󠄁にも後にも便宜に述べるつもりですが、とにかく當世に於て、この赤穗浪人の

行き方といふものは、忠義といふものゝ手本になると考へた。それを学問の效驗の最

もいゝ例證にしたいと考へましたので、盛󠄁にその人を褒め、その事柄をたゝへて「義

人錄」を拵へたのであります。たゞ忠義の人の傳記を書く、といふ意󠄁味のものではな

いので、それより外に出て、學問の效驗といふことを見せようとしたので、一方から

申せば、まことに深切な仕方でもありましたらう。學問といふものが机の上だけのも

のでないといふことを、しつかりと摑ませようとしたのですから、惡いことではない

結構なことではありますが、併しあの「義人錄」といふものによつて、赤穗浪士四十

六人といふものは、殆ど偶像化󠄁されてしまつた。如何にも完全な人で、一分󠄁一厘の瑕

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瑾もない。完全なものといふやうに仕立てゝしまつた。すべての面白くないことや、

まづいやうなことはすつかり隱してしまつて、隨分󠄁痘痕を笑靨と見たやうな行方さへ

もしてゐる。それが又義士傳といふものを誤󠄁らせないともいへない。これからあとで

痘痕か笑靨かといふ吟味を少ししたいと思ひます。

 殊に四十六人の忠義を立派󠄂にすることの爲に、遂󠄂に淺野長矩をも馬鹿々々しく立派󠄂

なものに仕立てゝしまつた。かう申したらば、云ひ過󠄁ぎとか、ぶちこはしとかいふ風

に見られるかも知れませんけれども、若し淺野長矩といふ人がよくない人で、立派󠄂で

ない人で、無理なことをする人であつたと致しましても、その家來たる者共が、飽く

までも忠義の心を失いませんで、人の家來たるべき道󠄁を盡したと致しましたならば、

却つて君臣といふ間柄、その義理を立てゝ參る上から申せば、益々立派󠄂になることで

あらうと思ひます。又四十六人の一人々々が、揃ひも揃つて皆立派󠄂な人柄でなければ

君臣の義理は立てられないのか、或は立派󠄂でない人であつても、義理は義理であるか

ら、そこへ力を入れて行けば、缺點のある人間でも義理は立てられる。あんなやつで



も武士であるから、ちやんと武士の道󠄁を立てた。といふほどであつたならば、却つて

よくはないかとさへ思はれる。それに人間から離れて武士道󠄁があるわけではない。人

間には完全な人といふものは、先ず無いといつていゝほどであります。四十六人のうち

でも、淫亂放逸なやつもあり、亂暴狼藉なやつもあり、醉拂ひの手のつけられないの

もあり、武藝の嗜みの無いのもあり、いろ〳〵なのがありますが、如何なる人材も、

その盡さなければならぬことに至つては、少しの假借も無く、大好物な女のことも、

酒の味も抛り出して、命を捨てゝ働く。武藝の嗜みの無い人間でも、敵を恐れずに忠

義の働きをする。命を捨てゝかゝるから、出來もしましたらう。そこに又大なる味ひ

を感じなければなるまいと思ひます。




親:立の一画目が横棒 *参考「音󠄁」

又:二画目が乀 *参考「交󠄁」

遠:之繞が二点之繞 *参考「近󠄁」

殊:朱の縦棒が撥ねる *参考「亅」

饗:郷の真ん中が皀

狼:四画目が横棒

紀:己が巳

記:己が巳

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