四十六人偶像化󠄁
横から赤穗義士
見 た
四十六人偶像化󠄁
義士とは誰が云出したか
に、
この
17
*切腹は元禄16年2月4日。討入は元禄15年12月14日。共に旧暦。両者を混同したか。
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いふものにした
して、
りまして、
すと、
とあります。「
後れて居ります:居に振り仮名なし。脱字か。
祭₂其首於長矩墓前󠄁:祭₂其首於長矩墓前󠄁₁ か。
我栽富貴花:我栽₂富貴花₁ か。
めになつたのでありまして、
きまつて
つて
さてこの
――
の
かせする。
りまして、
19
20
柳營最初の上﨟年寄
この
この
であります。その
ました
といふ
した
の
なされまして、
て
といふものが
で、
すと、
か〱
す。
なわけで、
あります。
21
22
かふいうことから
ればならない、と
ります。
て
げてよろしい、と
や
れると、
綱吉將軍の謎
それでありますから、
まことにありさうな
んけれども、まことに
の
りましたので、いつもの
に、
りたいと
とも
をお
ついて、
ふことは、
23
24
つて
やうに、といふつもりであつたらしいのです。さういふ
を
にといつて、
を
させるより
しからう、それが
から
に
この
かして
たので、
極つて極らぬ將軍の腹
も
ふ
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御祀儀:御祝儀(御祝儀)の誤字か。慣用かは不明。
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には、
つてゐる。
一
べし、
といふ
は
とは、
だから、それはまことに
ふ。
ふことにしたら、どんなものであらうか、といふことになつて
この
この
に、
し
ます。
27
28
そこで
かつた
の
てわかるから、これならよからう、といふのであります。
ましたので、こゝで
も、
す。
さういふ
四十六
ものを
であります。
鶴姫樣の御緣故
の
お
て
29
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ふ
は、
にして
た
の
といふことが
なことは
に
は、
などは
か、と
けに、
りとて
すことも
ゝから
どこへどうも
すから、
が
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なつてしまつて、わからなくなつたと
賴もしい切腹論
こゝで一
の
一
なつたのは、
も
江戸ツ子の鼻ツ張
「
られたといふことが、
やうになつて、
一
といふ
といふので、
いから
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けた、それから
ので、
でしまつた。それが
ます
を
べき
はつまらんことだと、
ずの
これほどひどく
までも、
いふ
を
にありはしない。
せん。
はない。
しさういふ
ど
の
ださうだ、とんでもない
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は、
いふ
ます。それが
一
となつたのは、
ある。それは
ろ〱 な
から、
ていふのが
三百年間の大出來
て、これほど
それが
といふことは、その
も
で、
かない。そこで
は、
それに
た、
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も
な
なことになるか。
であつたにしたところが、あとからぶちこはして
せう。
ら、どのやうな
に
なつたわけではない。
れますから、
に
まい。
儒者が入亂れての論戰
さて
とに
ないほどの
をしましたのを、
いふものは、
もありませうが、それはいづれも
たので、
もので、これについては
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す。
ない、
は
ことがあるにしましても、
へ
れを
です。
で
るやうなことはありませんでした。その
きことが
これは
さういふ
ふ
ることに
の
る。
三
すけれども、
41
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うに
淺見綗齋の論斷
ところでこの
であらうと思ひます。綗齋はかういふことを云つてゐる。義士のことを書き傳へたも
のには、委しいものもあり、略したものもあり、いろ〱 あるが、つまるところは四
十六人が忠義であることに紛れはない。自分󠄁の君なり親なりが人を討ち損じて、その
爲に命を捨てた、さうして相手はぬけ〱 として生きて居るといふ場合に、何がどう
あつたところが、その家來たり、或は子であるものが、私どもの主󠄁人や親は無調󠄁法で
あつたから、あゝいふ事になつたのでござゐます、といつて眺めて居られるものでは
ない。さういふものは、家來らしい家來ではなく、子らしい子でもない。つまるところ
で、平󠄁生君臣といふことの吟味が正しうないから、いろ〱 な議論が出て來るのであ
つて、その他のことは云ふに及ばない。平󠄁生君臣の吟味がどうあるか、これだけのこ
とだと云つてゐる。人の子となり、人の家來となつて、その君、その親になりきつて
居らぬといふことは、如何にもよろしくないことで、綗齋先生の云はれることは、ま
ことに結構であると思ひます。これについては何が何でも、君なり親なりになりきつ
て居らないのは、人の子、人の家來といふものではない。こゝのところは今日の人も
戀愛となると、他を顧みずに、それになりきつてゐるらしい。何が何でもこの戀遂󠄂げ
ねばならぬ、といふ氣持はある。大石等があゝやつつけたのは、やらなければならな
いのではない、やらずにはゐられないのである。敵討であらうが、敵討であるまいが
そんなことは入らんことである。かういふ風に考へて來る。綗齋先生などの說は、儒
者の議論であるが、儒者を離れて聞かれる。儒者も人間であるから、世の中から離れ
る筈はない。學者の中には往󠄁々にして、已は學者だといつて、違󠄂つた人種でゞもある
やうに心得てゐる人がある。さふ云ふのが今の學者に多い、昔の學者にもさういふ人
がありますれども、そんな筈はどうしても無い。
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眞先に人口論を味ふ
浪人になれば再び祿は得られない。食ふに困る。元祿前󠄁後のところでは、武士の就
職難は隨分󠄁甚しかつたので、浪人になつたら何とも仕方が無い。人口論は武士から
始まつて居ります。自分󠄁の階級に人間の數の多いことが、一番先に迷󠄁惑になつたのが
武士である。大阪落城直後に敵對した浪人共に奉公勝󠄁手次第たるべしと宣言して、失
業救濟を忘れなかつた。家康公が天下を取られた時に、永いこと武者奉行をつとめて
相當武功もあつた高木主󠄁水、內藤󠄁四郎左衞門、この兩人に對して家康公は、各々は堪
忍󠄁しろ、かういふやうに天下を取らうとも思はなかつた。天下を取つたら百萬石づゝ
もくれるつもりだつたが、今になつては何とも致し方が無い。後生を願うやうに念佛
料をやつて置くから、それで堪忍󠄁せよ、と味方に引導を渡して居られる。戰爭が濟ん
で、太平󠄁の世の中になりかけるといふと、永年戰場に往󠄁來して武功を建󠄁てた家來達󠄁で
はありますけれども、その人數があまり多いので、それに分󠄁け與へるだけの知行が無
い。そこで困るから念佛料なんていふことを云はれたので、截兵問題がむづかしいの
は、支那の話ばかりぢやない。寬永頃になりましては、全く戰爭が無くなつたのであ
りますから、諸家が大勢養󠄁つて置いた戰闘員の始末に困つて、追󠄁々それに暇を出して
居ります。浪人問題といふものは、その頃大變な問題だつたので、由比正雪等の話も
あるし、熊澤蕃山の話も、池田家の截兵問題の尻尾で、あんなことが出來たのです。
截兵問題だけはかなりに押つけた後になつても、まだ自分󠄁の手許に置いた家來達󠄁の子
供が殖えるので、どうすることも出來ない。水戶の光圀なども、永年仕へてゐる家來
のことを考へて見るのに、持高がきまつてゐる上に、家來の子供はずん〱 殖えて來
るので、何とも手當の仕樣が無い、と云つて嘆息して居ります。元祿前󠄁後がひどいと
いつても、まだ其の後に比べればいゝやうなものでありますが、浪人といふものは、
なか〱 職にありつけない。そこで命がけの一六勝󠄁負󠄂、忠義を振廻󠄀してやつて見たら
といふので、失業の群から脱け出る分󠄁別から、赤穗浪人が討入つたのではないか、と
いふ議論をしたがる儒者先生もある。これらが人間らしい議論といふか、世間並の議
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論といふか、その議論の中に、當時の世間の樣子がよく出て居ります。
敵討の新しい解釋
敵討も生きんが爲のかせぎと見る、かういふ解釋の仕方は、今の人には定めて氣に
入るだらう。然もかういふ解釋は、何も江戶時代の元祿頃がお初尾のわけではない。
江戶時代より前󠄁に出來た幸若の「十番切」の中に、曾我兄弟について、「二人が中に一人
召出され、懸命の地の片はしに安堵をなしてたぶならば、たとへ祐經討ちたくとも、
本領が惜しさに思かへ、慰みても置きぬべし」とある。これは足利時代の武士の根性
を丸出しにした話で、曾我兄弟も知行についてゐたら、敵討はしなかつたらう。彼等
は生きてゐられないから敵討をしたんだ、といふ解釋であります。それと共に、いつ
の世だつても、人間は食ふことばつかりぢやない。深山の奧のその奧の、竹の柱に茅
の屋根といふ、氣持の人間はいつも居る。食へさへすればといふ人間がゐると同時に
食へる食へないを超越して、戀愛で押通󠄁して行く人間、これは慥にいつでも居ります
飮食男女の慾といふものは、動物と共通󠄁なもので、時代や人柄に拘らず、誰でも持つ @
てゐる。併しながら形が違󠄂ふと共に、猿は猿らしく、牛は牛らしく、人間は人間らし
くなければならん。人間の味、人間味といふことも、この節の人のいふやうでは、何
だか動物味といふことであるやうだ。動物と同じやうならば、それは人間味ぢやない
それ〱 の動物とは形が違󠄂ふ通󠄁り、人間は人間らしくつて、そこにはじめて味ひがあ @
る。そこに氣がついて居るか、居らないか、人間の格づけといふもの、即ち人格とい
ふものもそこから來る。今日の人は人間味と動物味がよくわからんやうであるが、今
日の人ばかりではない、江戶時代の人もやはりさうです。人間は生れる時に、何の目
的、何の方針といふものを、背負󠄂つたり、持つたりして來たわけぢやないから、それ
は如何にも自由にきめることが出來る。このきめ方が直に人格といふものになつて來
るので、又それに等級もつくわけであります。
そこでもう一つ綗齋先生の言葉を見ると、大抵君に仕へてゐるもの、即ち武士は一
藩、同藩は大勢の人であるが、それは別に親類合といふのでもない。渡り奉公といつ
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て、そつちにもこつちにも次から次へと旦那がある、といふ心持で行く者には、その
時に利益であるから、主󠄁人なので、主󠄁人に仕へるのでなく、利益のために働いて居る
のだ。旦那といふのは利益なのだから、さう云ふ人間には主󠄁人の仇といつても、見當
違󠄂ひなので見れば、自分󠄁の身にぴつしりと感じない。それはどういふものかといふと
君臣はどういふものかといふことを、しつかりと腹にこたへてゐないからである。「太
平󠄁記」以來。日本國中、東西南北ともに戰亂の世の中でありましたから、武勇である
とか、智謀の人であるとかいふことが先になつて、忠臣義士を詮議することは甚だ少
い。それはどういふものか。主󠄁人の祿を貰つて奉公するから家來だ、といふやうなの
では甚だ心許ない。祿を貰ふから君臣主󠄁從なのではない。君臣主󠄁從だから祿をくれ、
祿を貰ふのである。主󠄁人の祿を貰つて、給金で働くやうな心持でゐるから、君臣主󠄁從
の沙汰が無いのである。戰國時代は智謀勇敢の人を用ゐるに急󠄁で、忠臣義士の方は後
廻󠄀しになつてゐる。これは當り前󠄁のことで、それだから亂世なのでありますが、それ
ほど取締の無い亂世の合戰の中に、後にいふ武士道󠄁も生れて居ります。「武士道󠄁」とい
ふ名は、元祿前󠄁後あたりから見えてゐるやうですが、古くは「男の道󠄁」或は「武道󠄁」、
といふ名をつけてゐる。これは學問仕立のものではありません。その時分󠄁に本などを
讀んでゐる隙は無い。それでも自然と武士道󠄁が生れて、後に太平󠄁の世になつてから武
士をぴか〱 光らせるやうになつて來ました。
義理の徹底
それでは、その武士道󠄁とはどういふものかといふと、義理一遍のものである。君臣、
父󠄁子、夫婦󠄁、兄弟、朋友、そのすべてを義理と見る。五倫といふものを悉く義理と見
るのであります。今日の外國には、アメリカにせよ、フランスにせよ、ドイツにせよ
そんなやうな國には、君臣といふものが無い。だからこれは五倫に一倫足りなくて四
倫である。併しその名は無くても。義理といふものゝ方から見て、義理合を立てゝ行
く日になれば、その實を存することが出來る。五倫がそつくりあつても、これを義理
と見ないで、給金を貰ふから君臣であり、生んで育てゝくれたから親子である。飯を
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食はして養󠄁つてくれるから夫婦󠄁である、といふ調󠄁子に見て行つたならば、五倫はある
とは云はれません。勿論武士道󠄁ではない。若し五倫を義理と見ることが出來たならば
その名は無くとも武士道󠄁はある。或はヨーロツパにも武士道󠄁があるかも知れない。
この義理一遍といふことが武士道󠄁である、武士道󠄁は義理一遍のものである。といふ
ことは、西鶴が早く「武道󠄁傳來記」を書き、「武家義理物語」のやうなものを書き出し
て居ります。それが武士の取得はどこにある。彼等の生命はこゝだ。と認󠄁めたのによ
ることで、近󠄁松の淨瑠璃でも同樣、武士の義理といふことを取立てゝ居ります。つい
近󠄁い頃までも、義太夫といふものは悲しいもので、泣きながら聞くものにしてあつた
それは近󠄁松以後の作物でありまして、いづれも時代物であります。時代物でない時、
即ち世話物の中でも、武士といへば時代に取做して、しつかりと義理といふことを取
分󠄁けてよく現して居る。他の農商工といふやうな人間にしても、無論義理立といふこ
とはあるが、その中で武士の義理が一番濃厚であり、一番力强い。五倫を悉く義理と
解する。さういふことは他の三民にはない。武士に限つたころであります。殊に近󠄁松
以後の淨瑠璃といふものは、大時代の武士でなしに、戰國時代の武士の義理合を取つ
て來て脚色したのでありますから、一層それが悲しくなつて聞かれたのである。江
戶文󠄁學の上に筋立つて武士道󠄁の消󠄁長が見え、武士道󠄁が現れてゐるのでありますが、こ
れは西鶴が系統立てた、それを順々傳へて、その後の文󠄁学が繼承してゐるといふわ
けではなく、よく眺めて行けば、自然そこでなければならなかつたからであらうと思
ひます。西鶴が最初に武士の義理といふことを捉へ出した。それも空󠄁中に描き出した
櫻閣でもなければ、彼が冥想して得た知識でもない。時勢のさまとでも申していゝか、
世間でもそれに心をつけるものが他にもあつたのであります。
寬文󠄁以來三世の學問
その著しいものとしては、「鍋島論語」と稱せられて居る「葉隱」といふ本がありま
すが、これは寬文󠄁度から享保度に及んで、石田一鼎といふ人に始まつて、山本常朝󠄁󠄁󠄁、
田代陳基と傳へて來た學問でありまして、これは學問と申しても、古學とか、朱學とか
51
52
いふ儒者めかしいものと違󠄂つて、武士道󠄁といふものを武士の上から講究しようとする
本の中から持つて來るのではなく、人間の中から吟味するといふ遣󠄁方で、さうしてそ
れは義理に落着した。義理の高遠な講究とでも云つたらいゝのでせう。その時代から
申しますと、丁度西鶴から近󠄁松、並木宗輔あたりへ引かけての時代と、「葉隱」三人の
時代とが當嵌つてゐる。時を同じうしてゐる。その「葉隱」の中に、或時、鍋島の藩祖
直茂の云はれた言葉として、自分󠄁の緣戚の少し遠いものになつて來ると、その事柄に
ついては著しく情󠄁を動かすやうなことは無い。緣戚であつても少し遠くなつて來れば
その位疎遠であるのに、五十年、百年前󠄁の見も知りもせぬ人の事柄でも、それに感じ
て淚が出ることがある。これはどうしたわけだといふと、その義理に詰つて感動する
のである。義理ほど詰つたものは無い、それだから義理の詰つたものが武士道󠄁である
かういふことを云はれたとか書いてありますが、義太夫が悲しいもの、泣かなければ
義太夫を聞いたやうでない、といふほどまでになつて參りますのは、直茂の云はれた
言葉に丁度當嵌ることで、義理に泣くのであります。
加藤󠄁淸正の感歎
ところで一方には儒學がだん〱 開けて參りまして、學問と申せば儒學にきまつて
來たやうな時勢になつた。加藤󠄁淸正が論語を讀んだといふ話は、誰でも知つて居りま
すが、その加藤󠄁淸正がかういふことを云つてゐる。近󠄁年淺野但馬守などは、惺窩先生
の敎を受けて、論語を明暮讀んでゐる。それから考へて見るに、今日この世の中に生
れて、かういふ本を注󠄁意󠄁して讀まないものは、時折過󠄁つて不義に陷ることがある。か
ういふ本を讀まなければ、正しい人間にはなれない。前󠄁田利家の如きも、不學な人で
あつたが、儒佛王覇といふ議論になると、自分󠄁には大分󠄁合點の行かぬところがある、
と云つて居られた。今自分󠄁が論語を讀みながら考へて見ると、利家も今日まで存命し
て居られたら、學問の效驗があるやうになれれたであらうに惜いことをした、と云つ
て嘆息してゐる。この頃の人間達󠄁は、知識を得るといふことを以て、學問の效驗とし
ては居りませんが、學問の效驗といふことは、よく信じて居つたやうであります。そ
53
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の方がだん〱 ひろがつて參りますと、机の上で本を讀んで、知識として知つて居る
といふことでなく、もう少し向ふへ出ることになる。それ故に聰明な大名は競つて學
問をして居りますが、その中で保科正之の如きは、義理の筋の通󠄁らないのは學問をし
ないからだと云つてゐる。武士は義理を立てることを知つてゐるわけだが、その筋の
立たぬことをしてしまふのは、學問の效驗によらなければならない。こゝらは後來の
學者のする學問とは、大分󠄁覘ひどころが違󠄂つて居ります。
元祿度になりますと、所󠄁謂御儒者の數が多くなつて參ります。さうしえ一體に學問
の效驗――淸正や正之の云つた覘ひどころを持つて居りますから、これらの儒者から
申せば、或は及ばないかも知れませんが、さういふ覘ひどころは慥に持つて居つた。
そこで室鳩巢は、やはり學問の效驗が欲しい。机の上のものだけにしたんではいけな
い。學問をしてその效驗がかうある。あゝあるといふことを慥にしたい、その標本が
欲しいが、何かお手本は無いか、と考へてゐた。併し學者は飽くまでも學者で、英雄
豪傑の士のやうには參りませんけれども、さういふ心がけのあるだけでも、無いもの
よりは立ちまさつてゐる。そこに大儒と小人儒の差別があるのでせうが。
義士を偶像にする
鳩巢は学問の效驗の爲に、忠孝といふことの標本を求めてゐる。元祿の世柄につい
ては前󠄁にも後にも便宜に述べるつもりですが、とにかく當世に於て、この赤穗浪人の
行き方といふものは、忠義といふものゝ手本になると考へた。それを学問の效驗の最
もいゝ例證にしたいと考へましたので、盛󠄁にその人を褒め、その事柄をたゝへて「義
人錄」を拵へたのであります。たゞ忠義の人の傳記を書く、といふ意󠄁味のものではな
いので、それより外に出て、學問の效驗といふことを見せようとしたので、一方から
申せば、まことに深切な仕方でもありましたらう。學問といふものが机の上だけのも
のでないといふことを、しつかりと摑ませようとしたのですから、惡いことではない
結構なことではありますが、併しあの「義人錄」といふものによつて、赤穗浪士四十
六人といふものは、殆ど偶像化󠄁されてしまつた。如何にも完全な人で、一分󠄁一厘の瑕
55
56
瑾もない。完全なものといふやうに仕立てゝしまつた。すべての面白くないことや、
まづいやうなことはすつかり隱してしまつて、隨分󠄁痘痕を笑靨と見たやうな行方さへ
もしてゐる。それが又義士傳といふものを誤󠄁らせないともいへない。これからあとで
痘痕か笑靨かといふ吟味を少ししたいと思ひます。
殊に四十六人の忠義を立派󠄂にすることの爲に、遂󠄂に淺野長矩をも馬鹿々々しく立派󠄂
なものに仕立てゝしまつた。かう申したらば、云ひ過󠄁ぎとか、ぶちこはしとかいふ風
に見られるかも知れませんけれども、若し淺野長矩といふ人がよくない人で、立派󠄂で
ない人で、無理なことをする人であつたと致しましても、その家來たる者共が、飽く
までも忠義の心を失いませんで、人の家來たるべき道󠄁を盡したと致しましたならば、
却つて君臣といふ間柄、その義理を立てゝ參る上から申せば、益々立派󠄂になることで
あらうと思ひます。又四十六人の一人々々が、揃ひも揃つて皆立派󠄂な人柄でなければ
君臣の義理は立てられないのか、或は立派󠄂でない人であつても、義理は義理であるか
ら、そこへ力を入れて行けば、缺點のある人間でも義理は立てられる。あんなやつで
も武士であるから、ちやんと武士の道󠄁を立てた。といふほどであつたならば、却つて
よくはないかとさへ思はれる。それに人間から離れて武士道󠄁があるわけではない。人
間には完全な人といふものは、先ず無いといつていゝほどであります。四十六人のうち
でも、淫亂放逸なやつもあり、亂暴狼藉なやつもあり、醉拂ひの手のつけられないの
もあり、武藝の嗜みの無いのもあり、いろ〱 なのがありますが、如何なる人材も、
その盡さなければならぬことに至つては、少しの假借も無く、大好物な女のことも、
酒の味も抛り出して、命を捨てゝ働く。武藝の嗜みの無い人間でも、敵を恐れずに忠
義の働きをする。命を捨てゝかゝるから、出來もしましたらう。そこに又大なる味ひ
を感じなければなるまいと思ひます。
親:立の一画目が横棒 *参考「音󠄁」
又:二画目が乀 *参考「交󠄁」
遠:之繞が二点之繞 *参考「近󠄁」
殊:朱の縦棒が撥ねる *参考「亅」
饗:郷の真ん中が皀
狼:四画目が横棒
紀:己が巳
記:己が巳
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