18-2 葬送 B

「皆、身を隠しなさい」

 隊長が指示すると魔人達は外套を被り、瓦礫の内へ身を潜めた。悪魔との決戦は生憎の悪天候だった。穢れ血を纏った雨に触れれば汚染の可能性は高まる。鎧に身を固めた騎士と魔人部隊ならば最悪血に接触しても多少は平気だが、気化した血を吸い続ける環境は身体を蝕みかねない。

 皆が気配を消す中、僕はただ一人中央広場へと戻り、悪魔が現れるのを待った。潜伏した魔人部隊は後々僕のいる場所へ合流し援護をする。その間、僕はたった一人であの恐ろしい悪魔と対峙しなければならない。それに全員無事で帰るためにはあまり時間を掛けられなかった。僕はそのための囮だ。

 逆風と大雨が、外套を深く被った僕の頭を叩きつける。その風に黒碧の色彩が宿り、おどろおどろしい気流の筋を描いた。忌色の気流は僕の頭上の中空に集まり、空に穴が開くように球形を作り上げる。その鉛弾はいきなり僕の方へ急降下した。

 間一髪で避け、足元に氷を張る。気弾は地面に激突し、その衝撃で穢れ血が飛び散った。あの時のささくれ立った氷華のように広がった墨色は、間もなくヘドロのように地面に纏わり付いた。その中心に、名状しがたい形の何かが立ち尽くす。それは僕より二回りほど大きく、威圧感に満ちていた。

 ゆらゆらと揺れながら、異形は触手のように長く伸びた腕を掲げる。先端の五つに分かれた指を見て、元は人間だということが嫌でも分かった。彼は紛れもなくクィキリだった。異形の頭部には吐泥に塗れた彼の無表情な顔がついていた。あれほど嘲りと苛立ちに吠えていたかつてのクィキリは、もう見る陰もなかった。

 魂を貰い受けた悪魔は、僕とクィキリに今一度対話する機会を与えなかった。クィキリは運命というものに言葉を奪われた、そんな気さえした。竜神もも、この末路さえ人間というのだろうか。もしそうなら――ダメな感情なのは分かってるけど――悲しい。

 翡翠の眼球が僕の姿を捉えると、悪魔は口角を歪ませて咆哮した。喜びの方へ振り切れたように感じさせるほどの憎悪の叫びだった。彼は大きく力を込めると、墨色の風の杭を生み出して放った。回避した僕は、その攻撃を避けるのに少し余裕が持てたことに違和感を持った。足元の血を凍らせながら着地してクィキリの目を確認すると、彼の目は別の方向に向いていた。

 そしてクィキリは、僕を見向きせずに左腕で空気を掬い上げるように振った。動きに応じて廃屋が吹き飛ぶ。その残骸に混じって、三つの人影が誘われるようにクィキリの足元へ吹き飛ばされた。

 悪魔に見下ろされた三人の人影は、クラプスとラプラ、そしてツチノヤだった。三人の元へすぐに駆け寄ったが、油断した所を風圧で阻まれてしまう。ツチノヤが僕の方を向いて名を叫び、クラプスは敵意の眼差しを悪魔に向ける。頭巾の外れた二人の顔には暗清色の青緑が付着していた。もう一方のラプラはクラプスが腕に抱えており、血に触れた様子は見られなかった。

 悪魔の顔に怒りが滲み、呻きながらまた腕を振り上げる。三人は風圧によって空中に浮かされ、途中で静止させられた。彼らを追い詰めるように黒い筋が飛び交う。クラプス達は気流によって作り出された球体の空間に閉じ込められ、その周囲には凶風の渦がじりじりと迫っていた。

 その『脅し』は、否が応でも僕を焦らした。風圧の壁に再び挑みかからなければ、みんな見殺しになってしまう。そんなのは誰だって望んでいない。何より僕自身が一番許さない。

 二人を助けたい一心は『怒り』と形容できるほどの強い感情だった。雄叫びを上げながら風の壁に拳を叩きつけ、冷気を解放した。風圧にめり込んだ拳が嫌な音を立て、少しくすんだ赤い血が滲む。だが冷気の強さによって風は着実に凍結していく。そして自分の身体一つほどの大きさの氷壁が出来上がると、勢いよくそれに突進した。氷の壁はけたたましい破裂音を鳴らしながら、呆気なく壊れた。

 風圧の壁が無意味と悟ったクィキリはすぐに風を止めたが、それでも三人は閉じ込められたまま、黒い風刃が近づいていた。あと少しで切り刻まれてしまう――そう思うが早いか、僕はクィキリに氷の刃をぶつけた。

 透明な冷刃は呆気なく掴まれた。それを武器にクィキリは僕に向けて猛攻を始めた。自ら作り出した武器が他ならぬ自身に降りかかる。それを避けながら、蛟のように噛みついてくる黒い風にも対処しなければならなかった。目の前の危険を矢継ぎ早に掻い潜る必要性と、目の前の仲間が追い詰められていく焦燥。加えて悪魔の血を浴びたことにより、僕はいつもより数倍早く消耗していく。疲弊も敵意も隠しきれず、もはやクィキリが過去、自分の『トモダチ』であったことすら忘れかけそうになる。

 まだ許すことができるはずだった。あと少しだった。それでもクィキリは悪魔の道に進み、言葉を奪われた。それでよかったのだろうか。

「クィキリ……どうして君は、自分の悪意に向き合うことを諦めてしまったんだ!」

 込み上げる感情を抑えられない叫びが、嵐の廃墟にこだました。拒絶するように絶叫したクィキリが、僕を掴もうと長い腕を振りかざした。

 回避するのが少し遅かった。悪魔の手に掴まれた僕は、三人と目を合わせた。クィキリとラプラは共に悪魔の方を向き、最後まで屈しないという意志を示していた。隣にいるツチノヤは僕と目が合い、そして悪魔に顔を向けて、やがて両目をつぶった。

 翡翠の目玉が僕を睨む。クィキリの手に纏わり付いた血が僕の全身を染めてきて、意識が徐々に遠のいていく。諦めたりはしない。僕らとクィキリ、どちらかが終わるまで――。

 クィキリのもう片方の手から、うごめくように吹き荒れる風の刃が生み出される。その風の渦で僕を木っ端微塵に切り刻み尽くすのなら、そうするといい。もう僕らに言葉はいらない。できることなら、最後に謝りたかったけれど。

 入り乱れる風の鋸が僕に襲いかかる。最後の最後まで、僕は覚悟の感情を留めた。


 顔を歪めたくなるくらいに生々しい、何かが潰れる音がした。

 音の方向を見てみると、彼の目の周りに青緑の血が弾けたように広がっている。そして、僕を切り裂こうとした片手が顔を覆っていた。よく見ると、指の間にあるはずの碧玉の瞳が、その形を失っていることに気づいた。

 両目を潰され、うろたえるクィキリは、三人の魔人を封じていた風の牢を解いた。ヘドロを浴びるすんでのところで僕は地面を凍らせ、汚さないように凌いだ。

 それでも悪魔は僕を掴んでいたが――その悪魔の腕の上には、鋼鉄の斧を手にした鬣の騎士が乗っていた。彼女は僕の方を向いて無事を確認すると、すぐに飛び去った。

 激情を迸らせたクィキリの怒りは最高潮となった。先程僕に引導を渡そうとした片腕に乱気流を纏わせ、僕を粉々にしようとする。だがその動きは読み取られていた。黒碧の乱気流はすぐに蒼炎を纏い、彼の腕を焼き尽くした。今度はルーベ隊長の加勢だ。焦熱への苦しみで、僕を握り締めていた手の力が弱まる。その隙を見計らって身をよじり、脱出した。着地して間もなく、僕はラプラとクラプスの名を叫んで合図した。覚悟に満ちた二人の相槌が返ってきた。

 怒り狂うクィキリは素早く腕を伸ばして僕を再び掴もうとしたが、体勢が崩れているので今更見切るのは余裕だ。僕はフェイフォンがしたように腕に飛び乗って、それを蹴落とすように跳躍した。僕を見上げたクィキリの更に頭上の空が、より暗くなる。そして暗雲を縫うような紫電が瞬く。

 雷霆が来る。だがそれを察した時にはもう遅かった。ラプラの放った業火が彼を火達磨にする。大雨に打たれ、煙と蒸発音が弾けるが、それでも眩い灼熱は消えたりしない。しかしクィキリはここに来て風の渦を作り上げた。

「火炎旋風で道連れにする気だ‼︎」

 ツチノヤが悪魔の悪あがきを察して皆に喚起した。ラプラの炎に巻き込まれれば、僕らだってひとたまりもない。彼の催促に皆が集まると、さっきの脱出路に向かって一目散に逃げた。

 逃げ遅れた人はいない。一先ずみんな無事だ――束の間の安堵を断ち切るように、雷鳴は轟いた。耳を聾するほどの爆音に晒されながら、脱出地点までひたすら走った。

「よし、ここまで来れば――」

 そう言うと、まだ任務が終わっていないにも拘らず、ツチノヤは全身の力を抜いて路上に転がった。僕は少し呆れるような目つきで彼を見やると、その視線を悪魔の方へ戻した。

 雨は上がっていた。僕らを閉じ込める豪雨と狂飆の騒音も、もはや聞こえない。暗雲の隙間から光芒が差し込み、ついさっきまで戦っていた広場を照らす、光は無造作に転がった悪魔の亡骸の断片を、無情なほど優しく照らしていた。

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