16-1 血風 A
尊大に待ち受ける城門の内側には、誰一人として民の姿はいなかった。
まず寂寥が募る。次いで、国を捨てざるを得ないほど、安寧の跡を残して放棄された城下町に我が身の罪深さを恥じる。最後に残った感情は安堵だった。これで戦いが終わるということはもちろん、無辜の命が犠牲にならずに済んだという老婆心もある。ここは既に舞台上だ。戦士たちが自らを掛けて、生々しい命の応酬を演じる場所。そこに余計な命はいらないのだ。
ああ、よ。これがあなたの望むものか。空の向こうでほくそ笑んでいるのは、手を汚さずして世界を思い通りにできるからなのか。それが異界で許されるというのなら――。
そこまで黙して語った後、僕は人間としての自分から、としての自分に心を切り替えた。矢の雨が来る。これ以上の独白はいらない。
頭上の空気を繋ぎ止め、冷気を氷壁へと変える。虚しい抵抗の礫は、冷徹な防壁によって凍りつきながら勢いを鈍らせる。大通りを進軍する自軍の目前で、氷に包まれた矢弾は地表に落ちるや呆気なく砕け散った。前方の中央階段、左右に聳える高台で斉射した敵軍の弓兵たちは、どよめいて一気に統率を失った。
戦術の摂理を歪ませる者の参戦により、辛うじて保っていたデムセイル軍の士気は、対するハーフブルスの威勢に圧倒された。
怒涛の如く押し寄せる自軍に先行し、僕は自らの脚を宙に投げた。忽ち空気の一点が冷却され、不可視の足場が出来上がる。さながら空を駆け上がるように、見上げた弓兵の方へ距離を詰めていく。再び降る矢の雨は氷の傘で対処し、その奥で動き出した絡繰による巨石の投擲は、弾道を予測して身を翻す。
腕を振り上げ、敵に飛び掛かる。氷を纏った腕の甲から、極北の
胸をつくような不快感がする。転がった骸に拒絶を覚えた。竜髄を蓄えた卵の覚醒作用は、もはや自分を惑わさなかった。理性が悲鳴を上げるのを、また別の理性をもって塞いだ。少年ではなく兵士として、そうしなければならなかった。
僕は休む間もなく、中央の大階段の向こうにいる残りの弓兵に向けて吹雪を放った。激しい雪風だが、これ以上の犠牲を減らすべく威力は抑えた。怯え凍えた兵士たちは大階段の奥へ駆け上がり、主を失った絡繰を除いて皆姿を消した。見せしめの為に奪った足元の命の抜け殻、そのうちの一人が真っ黒になった瞳孔をこちらに向けている。
高台の柵越しに、ハーフブルスの軍が敗走した兵士の方へ駆け上がっていくのを確認して、僕は他の戦線の様子を確認するために移動を始めた。柵から身を投げた後、空気を凍らせて宙を疾走していく。
僕が派遣された首都攻略作戦の先駆けは、アプ・マジマから更に西へと行軍して、国と同じ名を持つ首都・デムセイルで交戦を開始した。先鋒の交戦から味方本隊が押し寄せるまでのわずかな時間に、敵陣を荒らして優勢を確保するためだ。
のための聖戦とは名ばかりで、実際は薄汚い戦術によって勝利を掴む。もっとも、この戦いやアプ・マジマ砦攻略作戦のようなやり口は、ハーフブルスはもちろん他の多くの国もやってきたことだ。それを『聖戦』として扱う例が稀有なだけだろう。
空を駆け、城壁を忙しなく走る敵の背後へ奇襲。目の前の敵を氷の鉤爪で貫きながら、氷柱の雨を向こうの標的目掛けて落としていく。確実に仕留めることは考慮しない。相手の止めを刺せれば敵戦力は低下するし、生きていれば彼らは戦後、兵士から解放される――だが、怪我人は死人よりも苦しむということを以前クィキリが言っていたのを思い出して、僕は舌打ちをする。
今は無心に兵士として振る舞うしかできない。だが、戦いに未だ迷う自分の心は捨てようとは思わない。その責任を清算するのは戦いが終わった後か? まさか、後にも先にもないだろう。僕らだって戦いに巻き込まれたんだ。しかも、こんなに幼いのに。
城壁の敵軍をあらかた無力化した後はそこから飛び降り、空中を滑るように氷を張って地上へ降りていく。南の内門の奥、兵士達が並ぶ広場を視界に捉えると、僕は大きく息を吸い込んだ。
広場の足元にいる兵士達が足元の違和感に気づいた。突然摩擦を失った地面に、敵部隊は正体を察する前に動揺した。災害に直面した時の無力な呆然のように立ち尽くす彼らは、やがて足が動かないことを悟る。膝下から太股へと氷が侵食する。困惑と冷たい恐怖が蝕む。強引に氷から抜け出そうとした華奢な敵兵士の足首が無残に折れる。
僕は内門広場背後の物陰から手を突き出して、絶対零度の陣を展開していた。乱れた陣列の兵士の隙間を氷の塊が埋め合わせ、その体積を増加させる。魔法の締めくくりに僕は突き出した手のひらを握り締める。それを合図に氷塊は冷気を取り込んで巨大化し、広場にいる全ての敵を氷漬けにした。氷柱や氷片が放射状に広がり、その真ん中に大きく氷山が聳える。凍てつく白銀の大氷華がデムセイル城の中央に咲き誇った。
氷華を飛び越えて、中央内門前方の城壁に着地する。眼下にはがらんどうの城下町が広がっていた。それを遮る南の大門の向こうに、覇軍の軍旗が見えた。縦長の旗を九つの四角に切り分け、中央と四隅に紺色、その隙間に白が据えられた旗――異界で『イチマツ模様』と呼ばれる図柄と合致する――が、迫りくる軍勢の頭上に翻る。
僕は腰に提げていた骨笛を手にかけ、口元にやった。先鋒の奇襲が成り、東方面からの攻撃が遂行されたことの合図を知らせる笛だ。
静まり返った虚空に甲高い響きがこだまする。終わりの始まりの音だった。デムセイルだけではなく、僕の戦いも終わろうとしている。その点に限っては、わずかな希望が含まれているのだろうか。
旗が一層高く上がる。任務を終えたことを確認して、僕は城壁から空虚の街へと降り立った。商店の並ぶ目抜き通りを抜けて、街の真ん中にある噴水の広場で足を止め、援軍の到着を待った。
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