15-2 彼我 B


「おい、なにメソメソして――」

 揶揄う声と共に顔を出す小さな人影と目が合った――ツチノヤ!

 だが見つかったところで、思い止まるものか。逡巡を捨て、短刀を一気に突き刺す――その寸前で蒼く光る蝶が、僕の手に向かってきた。あわや血管を断ち切るその寸前、蝶は刹那のうちに氷刃を溶かしてしまった。思わず火傷したように手を離したが、蝶は器用に氷だけを狙い、僕の手には痕一つなかった。

「愚の骨頂ですね、ヘルク」

 明らかに怒気を声に宿らせたルーベ隊長が、重い足音で現れた。その後ろにはクラプスもいた。ツチノヤは隊長を一瞥した後、僕から目を逸らしてわざとらしいほどの溜息をついた。

「バカか?」

 単刀直入に、ツチノヤは僕のしようとしたことを言い表した。咳払いをして、隊長は強い口調で言う。

「いいですかヘルク、自死は許されません。あなたを戦いの道具として惜しむのではなく、私は――」

「未来なんて知らない! 僕は奪いすぎた」爆ぜた感情が剥き出しになった。「諦めさせてくれよ。こんな命として生きたくないんだ」

「生きることが苦しくとも、生きなさい」ルーベ隊長が反論した。

「罪悪も何も、自死で贖えるものですか。その罪悪が争いから来るものなら尚更です。戦争に纏わる全てに命を捧げるべきではないはずです。例えそれが覇國にとっての『散華』だとしても、あってはならない」

 ルーベ隊長は強い声色で僕を叱りつけた。あの鉄面皮のような顔に、無数の皺が刻まれていた。

「あなたが心優しいのは知っています。そのために自分を諦めたくなったのでしょう」

 その顔色のまま、静かな口調になって語りかける。僕が優しいかどうかなんてどうでもいい。だが、多くの命を奪ったことを悔やむことが優しさなら、確かにそれが重荷だった。視線を下ろし、先程まで凶刃を突き立てようとした手の平を見つめた。

「そしてヘルク、あなたが軍に対して、相当な嫌悪を持っているのも分かっています。クラプスを変貌させた上官への恨みも。ですが、それを忘れたまま己に殉じては、結局上官達の思う壺です。既にあなたの戦功は国中に知れ渡っているでしょう。あなたがその優しさゆえに生きることを諦めれば、あなたの生きた証はどうなりますか」

 そこではっとした。問い詰めるような隊長の問いかけが、忘れていた本心を思い出させた。そうだ、僕は僕じゃなくなることが耐えられなかったんだ。移送中に見たあの娘が何をしていたかを鮮明に思い出してみろと、今一度自分自身に問いかける。ここで死のうが生きようが、兵士である以上は己の存在も軍のものだ。兵士として人生を終わらせれば、その後は生きている人々が望むままに書き換えられる。

 そんなのは嫌だ。僕はまだ、僕として生きたい。

 目を瞑り、空を掴んでいた手の平の感覚を思い起こすように握りしめた。肌にわずかに食い込む爪や、折り重なる指の感覚を自分に味合わせるように拳を固く閉じ、瞼と共に再び開く。視界の焦点を隊長に絞り、次いでツチノヤ、そしてクラプスに絞る。目が合った彼は少し戸惑いを見せながらも、重い一歩で僕に近寄り、口を開いた。

「ヘルク、顔合わせた時に俺が言ったこと覚えてるか?」

 口角をわずかに上げたクラプスの問いに、僕は乾いた笑いで応じた。そんなことも忘れていた自分に呆れながら。

「ごめん。今思い出したよ」

「なんだよ、ぼんやりして。『お互い生きような』って言ったろ?」

 深く頷いて、その約束を確かに記憶していることを伝えた。隊長はふっと微笑んで、ツチノヤの肩をぽんと叩く。

「まったく、言いたいこと全部言ってくれましたね、隊長」

 いつも通りの含み笑いで文句めいた冗談を言うと、目つきだけを真面目にして僕に問いかけた。

「じゃあ、もうこんなことはしないよな? ケリ、つけられるか?」

「うん。もう迷わないよ」

 決心した僕の声は小さかったが、確かな覚悟に満ちていた。

 ケリをつける、か。僕にとってそれは、この争いを終わらせる――そのためにあの悪魔になってしまった『トモダチ』を倒す――ことを意味する。僕が『まとも』からかけ離れてしまったことにこの先どれだけ後悔しても、僕は前に進まなくちゃならない。僕や仲間たちや、街の人達みんなを狂わせたこの戦いを終結させるために。

 全てを巻き込み狂わせていく混沌なんかに呑まれてたまるか。クラプスやラプラたちと過ごして得たこの温もりは、悪魔の冷酷な詭弁になんか絶対に明け渡すものじゃない。彼はもう誰かにとっての迷惑ではなく、冒涜になってしまったんだから。

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