15-1 彼我 A

 逃避行の途中で、救護兵に肩を借りながら歩くラプラの姿を見た。魔人兵用の紺の数箇所は所々に血痕が点在し、それが自分の魔法による煤汚れが雨と血みどろで消えないほどに染み込んでいた。僕らの気配を察知して振り向くと、わなわなと震えた目に涙を浮かべながら、辛うじて微笑みを返してくれた。しかし怯えを拭えない顔にも傷が見られ、額から目を通って今もポトポトと血が流れ落ちている。

 初戦の惨劇を乗り越えたとはいえ、肩で息をしながら身体の痛みと卵の離脱症状に苦しむラプラの姿は、僕らの心を深く抉った。特にクラプスは、自分の憧れがここまで傷ついた様子に愕然としていた。

「ちくしょう……こんなの、もう沢山だ」

 ラプラの痛みが自分自身にも伝わってしまうのだろう、クラプスは崩れ落ちて慟哭し、どうしようもない感情を地面にぶつけた。憐れむような目つきで彼を見やった後、いつもの冷徹な眼差しに戻ったルーベ隊長が、駐屯地の方角を仰ぎ見る。

「あと数里ほど行けば、補給拠点へ向かえます。辛い気持ちは理解できますが、今は堪えなさい。次の作戦まで時間はあるでしょう」

 こんな状況ですから、と吐き捨てるように言った後、隊長は先導するように歩き始めた。諦めがついたような嘆息をして、クラプスは涙を拭いながら立ち上がる。ラプラはそんな彼に、ぎこちない口調で「ありがとう」と囁いた。やり場のない怒りに苛まれるクラプスの耳には届いていないことに、ツチノヤが目を逸らして鼻を鳴らした。

 陽が傾き始めた頃に拠点が見えてきた。門前の険しい坂を越えたところで、僕らの帰還にどよめく後方部隊が見えた。上官の喝破で人混みが散り散りになり、道が開いた。

 仲間達が兵士に医療所へ案内されるが、同行する前に、あの竜巻の姿が気になって仕方がなかった。だが、遠方の砦にはもう旋風の姿はなかった。厚い雲が太陽だけを覆う、虚しさを覚える晴天だった。

 這々の体で砦から抜け出した後に見たあの竜巻は、鮮明に頭にこびりついて離れない。時折視界を乗っ取られるかのように、あの空を吸い呑むような大嵐の光景が蘇ってくる。

 吹き飛ばされるかつての人の営み、傷だらけの人々。文明の残骸は、悪魔に堕ちた魔人の手足のように大旋風の中で入り乱れていた。強い気圧の衝撃と飛び交う破片が、巻き込まれた人々を次々と揉み刻んでいった。撒き散らされる血飛沫は瞬く間に掻き消していく、蒼緑の乱気流だった。

 悪魔以外の全てを否定する混沌は、他の生命の存在すら許さない。だから僕には、あの時揺るぎない決意が宿った。もう引き返せないことを受け入れると。

 隊長達の後を追いかけて医療所へ入る。仕切り壁に隔てられた一番奥の病床に手引きされ、兵士が去るのを待った。彼の姿が見えなくなった時、僕はこれまでずっと抑えていた感情を溢れさせた。

 悔恨と憐憫の詰まった涙が膝を濡らした。助けられなかった。奪ってしまった。戦いを終わらせるという目的の為に、本来罪のなかった人にまで手をかけた。竜髄の覚醒作用に精神を呑まれ、嬉々として命を奪った。そしてあの魔人を――クィキリを倒せなかった。再会が不可抗力だとしても、あの時彼を拒絶したことが無数の犠牲に繋がった。

 あいつはもうだ。でも、僕だってそうなんじゃないのか。偽善の悪魔。己が悪魔であることを知らずに最悪の事態を振り撒いていく、そんなやつは人だろうが悪魔だろうが居場所なんてない。一番惨めだ。

 後悔は尽きず、嗚咽が零れ落ちる。僕はもう耐えられない。異界が持ち出した愚かな戦いだけじゃなく、その異界に憧れていた自分の無知も。そして、無力よりも酷い禍いをもたらした自身の業罪にも。結局、全てを諦めてあいつに従えばよかった。そうすれば、こんな命一つがなくなるだけで済んだのに。

 ――そうだ。

 おまえはもう、何もするな。この世から諦めてしまえばいい。

 (諦める……?)

 僕はそこで、ぴたりと泣き止んだ。思考や感情といったものが、泡沫のように弾けたのを感じた。茫然自失が頭を埋め尽くし、頭の中が綺麗さっぱりに澄み渡るような空っぽに満ちた。

 そうだ。なぜ今まで考えてなかったんだろう。こんな力をもって生まれたこと自体が何かの間違いだったんだ。こんな状況で生きてたって、どこにも居場所はないんだから。逃げ続けて野垂れ死ぬか、戦ってくたばるかの違いでしかない。生まれた時点で全てが決まっている。

 なら、今まで散々誰かを打ちのめしてきた霰の弾や氷の刃も、ある意味では必然だったのかもしれない。無数の犠牲を開き直るつもりではない。そうやって多くの罪を重ねてきた自分自身に引導を渡すために、僕の魔法はあるんだ。

 魔法を顕す意思を脳裏に宿し、全身に冷気を充満させ、掌の中へ凝縮させていく。少しずつ真っ直ぐに伸びていく、硝子細工のように透き通った氷の刀。美しい装飾は脆く壊れやすい。この短刀も、ただの一刺しで折れてしまうだろう。だが、その刃は迷いなく命を終わらせる為に、悪意を持った形を表していた。命を穿つ為の針のような切先と、鋸のように細かく波打つ刃。それだけの『覚悟』を、この一振りに宿らせた。

 自身の喉元に、その刃先をあてがう。価値のない命を終わらせる。ただそれだけのことに、僕は心臓を掴まれるような恐怖を覚える。一つの命が消えるだけなのに、どうして戸惑うのか。戦功など誇るものじゃない。あれは罪状だ。重い罪を犯したのだから、己の命で報いて当然なのだ。それも自ら命を絶つという、死後も金輪際救われない方法でなければならない。永遠の孤独に身をやつす覚悟はできている。後はそれを実践すればいい。そして、今がその時だ。

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