14-2 狂飆 B

 突如、激しい轟音が、僕の意識を地獄から引き上げた。

 視界に映る薄紫の一面を空と認識した瞬間、僕は身を上げた。隣には隊長が片膝をついて見守っていた。

「無事でよかった。今は動かず、声を出すのも控えて」

 僕の顔を見た隊長の顔が晴れた。しかしすぐに表情を戻し、目線を前方に向けて言い放つ。

「が先んじて貴方を助けたのです。私も今しがた到着し、あなたの窮状を目の当たりにしました」

 差し迫った声を聞いた――クラプスは、舌打ちをしながら飛びずさった。僕を目覚めさせた轟音の主は彼だった。想定外の事態に苛立って、クィキリはがなり声を上げる。

「ああ、邪魔者が多い! こいつらも魔人のくせして偽善者気取りか」

「偽善者か悪魔か知らないが、味方を傷つけるなら容赦しない」

 クラプスの威勢のいい返答に、クィキリは呆れ果てたような溜息をつき、クラプスを睨み返す。その眼差しは余裕のある風だった。

「今更気づくなんて馬鹿だよな。オレの瞳の色が、全部物語っているのによ」

「青緑だからなんだ? 人間とが交わるはずないだろう」

 その言葉に、クィキリはいよいよ高笑いを抑えきれなくなった。明らかに只者ではない反応に、クラプスも僕ら二人も身じろぐ。一しきり笑った後でクィキリは片手を長布の裾に添えた。ルーベ隊長の息を呑む声が聞こえる。僕の背後にも恐怖が背筋を伝い、クラプスはさらに後ずさる。

「見てろよ。今のオレを証明してやる」

 クィキリが顔を覆い隠していた長布を剥がすと、彼の顔面がさらけ出された。刺青のような青緑の筋が、顔中に巻きつく荊のように刻まれていて、それが脈動するようにほのかに明滅を繰り返している。長布を外した腕はにわかにうごめき、膨張する黒腕を突き破るように棘を生やす。その棘や、より長大に伸びた鉤爪の色彩も、穢れに染められたような緑青色をしていた。

 あまりにも恐ろしく、おぞましい存在だった。目の前にいる異形と成り果てた青年の――僕にとっては旧友でもあった――変貌ぶりに、多くの命を奪った魔人たちですら驚愕に言葉を失った。

「やはり……かねての予測通りというわけか」確信を無理矢理呑み込むように、ルーベ隊長は静かに沈黙を破った。「、そして。あれから直ちに離れなさい。あれはです」

 その言葉に、僕とクラプスはルーベ隊長の方を向いた。彼女の瞳もまた、恐るべき存在に慄いていた。

「人為的に造られた、穢れの化身――この世に適(かな)わざる者です」


 竜の神話は、混沌の悪魔を討伐するところから始まる。

 数多の竜が、という虚しき玉座を求め血で血を洗う以前の上古より、 は『この世に適わざる者』『最初に忌むべきもの』として常に恐れられた。黒く禍々しい躰と、あらゆる生物が備える血の赤とは全く異なる、青の混じった濃緑の血液を巡らせ、どんな畜生よりも飢餓と獣欲を滾らせる。

 それはまさしく穢者(ケガレモノ)だった。竜の神話の創始よりも前に、この世に生み出された原初の混沌。生命を拒絶する不毛の種族にして、『唯一の悪』。

 変わり果てた肉体から溢れ出る憎悪とえずくような狂気は、あらゆる光明を投げ捨てたクィキリの冷酷な言動と合わさり、原始的な禁忌を生み出していた。竜神戦争後のワタリビトが由来という『性悪説』に則るなら、彼はもはや人として自らの本性に抗うという、最も譲るべきではないものすら諦めた。

 ニタニタと笑うクィキリの顔に、僕も最初は恐れを抱いた。だけど今はためらわずに直視していた。

 クラプスもルーベ隊長も、きっと彼を悪魔として認めてしまったのだろう。だからこそ恐怖を抱いている。僕だってそうだ。だけどそれだけじゃない。

 『哀しい』。僕を許したはずの『トモダチ』が、人よりも悪魔として生きることを選んだことが、どうしようもなく哀しいんだ。

「……分かりました隊長、逃げます。も逃げるぞ。……?」

 僕はよろけざまに立ち上がった。ああ、何なんだろうこの燃え上がるような感情は。哀しみも怒りも確かに渦巻いている。だけどもう一つ何か強い確信が、二つの感情の中心に佇んでいる。

「クィキリ」旧友の名を呼ぶ自分の声で、改めて自分の本心に気づく。

 僕は足を踏み出し、応戦の構えを見せるクラプスを通り越して、クィキリの前に立つ。

「戻れないのか、その姿から」

「戻れないどころか、戻りたくないね」揚々と喉を震わせるクィキリの言葉には、彼のへの強い憧憬すら感じた。

「オレはになったことで、やっとすべてを諦めることができた。今までずっと窮屈だったんだよ。騎士からも、あの村の連中からも逃げて、今日生きるためのパン一つすら奪って必死に生きてきた。生まれつき不条理を追ってきたんだ。それなのに何で、人間らしく生きることを押し付けられなきゃならないんだって、になるまでずっと思ってきた」

 ああそうだ。クィキリを初めて目にしたのは、こいつが風で他人を押し退けたからだ。そうやって人を困らせるのは、同じ魔人である僕にとって『冒涜』だった。彼の瞳に悪魔を見出したこともあった。でもそれは差別だった。因習に呑まれていた。間違いだったんだ。

「クィキリが逃げてきた理由をあの時察していれば、こんなことにはならなかった」

 気丈だった本心がすくみ、僕はそっと視線を落とした――それを同情と見るや、貶すようにクィキリは言う。

「はいいぞ、ヘルク。お前が今抱えてるその『同情』っていう偽善、悪魔になれば全部なくなる。お前だって、魔人としてしゃらくさい徳を積み上げてくことに迷ってたんだろ? 村人どもがお前のことを感謝してないこと、気づいてたんだろ? どこにも居場所がなくたって、の存在が全部許すさ。悪魔は混沌だからな、全部を承認する。受け入れてくれるんだよ」

「……?」

 なんだ、こいつ。

 ここに来て、僕はこいつの言葉が分からなくなった。目を丸くして、僕は驚いている。クィキリはますます顔を歪めて、声を上げる。

「偽善なんて捨てちまえよヘルク! 悪魔は全部許すんだ! おせっかいな心さえ、迷わず捨ててくれればな! 悪魔の力は無限大だぞ。それにここは戦場だ。例えお前みたいな『人間』が全てを諦めたところで、奪える命はせいぜい片手で数えられるほどだ。だけど人間を捨てられるなら――『悪魔』なら、より多く奪える。数え切れないほどに」

 ああ、そうか。

 戻れないんだな。おまえ。

「……、どうしたのです?」

「ヘルク、どうすんだよ!」

 肩の力を抜いた。そして振り返り――最大限の決意と失望を得た面持ちで、二人に返答した。

「撤退命令をお願いします」

 クィキリに背中を向け、クラプスに目で合図する。その時、耳を聾するほどの憤怒の叫びと共に、狂飆が吹き荒れた。

「ヤバっ、ヘルク!」

 クラプスがすんでのところで僕の肩を掴み、凄まじい衝撃に堪えた。同時に身じろぎ一つすらしない僕の身体に、思わず困惑の声を漏らす。僕は依然として背後の魔人に顔を向けず、先ほどの表情を貫いた。

「だったら思い知らせてやるよ。ここにいる残兵全て、オレが穢してやる」

 ドス黒い感情を吐き捨てたような怒声だ。彼は暴風を掻き集めるように身に纏う。硬い肉を裂く音が耳に入ると、流石に嫌な予感が声を詰まらせる。

「おいおい、一体どうなってやがる⁉︎」

 遠くから聞き慣れた声がする。その方角を見ると、ツチノヤが駆け寄ってきた。クィキリの姿を見て目が飛び出たが、すぐに小憎らしい笑みを浮かべて片腕を振る。

 風の隙間を塗ってツチノヤの腐毒がクィキリに触れると、彼は唖然とし、数瞬の間風の勢いが鈍った。

「今です、逃げなさい!」

 ルーベ隊長の方へ三人の少年が駆け寄ると、彼女は殿を務め撤退を促した。

「なんだよ、テメェも穢れが嫌なんじゃねえか!」

「ツチノヤ、早く逃げて!」

 次いで、風の主が罵声を撒き散らしながら、より激しい勢いで嵐を巻き起こす。彼の下に収束する逆風に抗いながら、僕らは瓦礫を掻い潜り、へし折れ朽ち飛ぶ残骸を避けて東の門へ駆けていく。目の端に映るのは、異常事態に焦りを隠せぬ兵士たちの群れ。隊長やツチノヤらが声を張り上げても、きっと間に合わない。門扉が閉じかかっている。

 門が閉まり、逃げ惑う人波に押し潰される――その寸前で、門の隙間に飛びかかり、その領域から脱した。

 一瞬の間を置いて、雷鳴をも凌駕する音量の爆音が、城塞の内に響き渡った。

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