14-1 狂飆 A

 嵐を呼んだ後の停滞した虚空を、一筋の風が通り過ぎる。

 その風が僕の頬を撫でた。風は次第に強くなり、僕の髪を乱してくる。でもどうしてか、強風は兵士どもの帷子や、魔人兵の軍服の裾を揺らしたりはしない。むしろ器用にそれを避けて、僕だけを煽ってくる。わざとらしい風だ。

 そう、その風は不自然だった。誰かが僕に吹き付けていて、僕はその正体を直感した。それを裏づけるかのように、風ははたと止み、間を置いて再び頬を撫でる。さっきまで泣き叫んだ僕の涙の痕を思い出させるように。ひどく気障で、野蛮にすら思える風の一筋――

「ここにいたのか。でかいんだなァ、泣き声」

 聞き覚えのある声だ。そうだ、お前しかいない。そんな風に涙の痕を辿ることができるやつは、過去にそうやって慰められた者だけだ。

 背後から聞こえたその声の主を、振り返り改めて目に映す。力なく伏せていた僕の目は、腐れ縁の旧友との再会でわずかに見開いた。

「お前なら分かるだろう? オレの名前。言ってみろ。言ってみせろ」

 名前を呼ぶことも、思うことも拒絶していた僕の心を見透かすように、彼は語気を強めた。口を開くと僕の全身は強張り、心の奥底から恐れをなす。

「……クィキリ」

「小せえな。よく聞こえねえ」

「クィキリ。お前の、名前だ」

 震えた声でそう答えると、彼は鼻を鳴らした。

「そんなに怖いか? 相変わらず男に向いてない肝だよな」

 膝をつく僕に近づいて見下ろされると、その圧で身じろいだ。浅い灰色の外套。銀色の長い前髪からちらつく、膿んだように輝く青緑の瞳。頭は頭巾、顔は長布で覆い隠され、両目の下に瞳と同じ色の刺青が施されている。外套は腰の辺りまでを包み、その下に着用している軍服は、本来忌色であるはずの強い青緑。まるで自分を怨霊や悪鬼だと認め、成り果ててしまったような姿だった。

「オレもお前も魔人兵か。良かったぜ、ちゃんと生きててよ」

 嘲笑混じりに言いながら、腰を下ろして目線を合わせてくる。穢れた緑青のような眼にたじろぐと、恐れを増幅させるようにいきなり首を掴んでくる。袖の先からおおよそ人とは思えないほど黒く染まった腕が伸び、凍えるような冷たさの手が、頸動脈を塞ぐように強く握られる。

「お前を逃がした後のオレの辛さが分かるか? たっぷりお仕置きされ、奉仕させられた。主のいないあの村には野猿しかいなかったからな。飽きるまでやられて、デムセイルの商人に売り飛ばされた。オレの目を見た途端、奴は触るのも嫌がった。風魔人として軍に売られてこのザマだよ」

 握る手が強くなり、首の一点に鋭い痛みが走る。鋭い爪が首筋に食い込んでいた。

「ごめん……確かにあの時、僕は逃げた。仕方ないなんて、少しも思っていない」

「よく口が回るよな、偽善者だから。やっぱりお前を恨まないと気が済まねえよ、ヘルク。地元の英雄気取りのお前には、オレが天罰を下してやるんだ。お前は小さな偽善しか積んでないのに、のうのうと生きやがって。自分の欺瞞にも気づけないから軍が怯えるほど屍を積んだんだろ? それが善いことだと思ってやってんだろ?」

「違う……!」

「違うものか! 善人を演じて死人を増やす、悪魔の所業だなあ! あの時逃げなきゃ自分の間違いに気づけたろうに、まだ分からないからこんな状況になってんだろうが、ああ? 兵士になったところで自分から死ねばよかったじゃねえか。テメェさえいなければいいことが『最善』なんだからな、魔人は。オレも魔人だが善人じゃない、だからこうして開き直れる。なのにお前はこの期に及んで偽善者だ。ハーフブルスと同じさ。自分の正義を主張して、悪になったことに気づかない。デムセイルもオレを実験台にしたが、逃げなければお前がそうなってた。オレはようやく死ぬことができたのに」

「……っ!」

 言葉が出ない。指の先が皮膚を貫いて、じわりと血が流れる。何も言えない、言わせないほどに首を気道まで絞められている。

「苦しいか? どれだけ持つかなあ。長く持っててくれよ、オレは愉しみたいんだ。ああ、それだよ。もっと苦しめよ、『人でなし』」

 これだけ強い力で圧迫しているのに、腕には青筋一つ浮かない。彼もまたクラプスのように『実験』されて凄まじい力を手に入れたはずだが、わざと頸椎を折らないように加減している。僕が苦しむのを、一秒でも長く堪能したいんだ。このまま彼に苦しまれる悔しさと諦めの顔を、こいつは求めている。苦悶は感情を増幅させるが、卵の効力切れによる全身の無力感と戦いへの絶望が、魔力を拒絶している。身体に宿す冷気も、闘志も、生き残る意思すら残っていない。

 彼の言葉は間違っていない。確かに僕は戦いを終わらせるために最大限力を振るった。魔人兵として、できる限りの力を尽くした。その結果がこのおぞましい地獄と言うのならば、僕は何も言うことはない。そうだ、僕は自分のために誰かの命を奪い過ぎた。怒りに満ちた形相で僕を追い詰める、目の前のクィキリすら救えなかった。そしてエルナの人助けも、誰も求めてなんかいなかった。

「まだだ、まだ地獄へ行くなよ。もっとその間抜け面を見せろよ」

 憤怒と興奮の混在した表情が、僕の全てを見下すように近づいてくる。嫌悪と諦念が僕の目を閉ざす。同時に命綱が切れたように、意識は暗転へ向かった。

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