10-2 緋鬼 B

 後方にいる隊長が声を荒らげた。兵士になって日が浅い僕はその意味が分からなかったが、現状の危うさは理解できる。だが身体中を駆け巡るブレスが撤退を拒むかのように脈動を続けている。敵を討つのなら今だと叫んでいる。

「<ヨー>!」

 本能に負けて、僕はツチノヤの方に手を向けた。無色の冷水が不定形をなして肥大化していく。視線だけを彼に向けると、正気を疑うように瞳がぎょっと小さく萎んだ。だが巨大なシャボン玉のように膨らむ水を見て彼は僕のやることを察せたらしい。

 ツチノヤが作った腐毒の玉を水泡が受け止めると、たちまち濁った濃緑色が透明の領域を侵していく。そいつを細く長い形に濃縮し、冷気で固めれば、猛毒を蓄えた腐食の剣が現れる。

「これでいいんだよな? な⁉︎」

 やることをやりきった小心者がする満足げな笑顔をして、ツチノヤは一目散に逃げ去った。彼の予想通りの動きに呼応して、騎士の方を向いたまま叫ぶ。「隊長を連れて逃げて! こいつは僕がやる!」

「<ヨー>、これは命令です!」

「時間稼ぎってことっすよ、そら逃げた逃げた!」

 威勢のいい声が遠ざかり、戦場には僕と斧の騎士、それから僕を取り囲む敵軍だけになった。後方に味方はいない。前方には鉄仮面が率いる兵卒の群れ。奴らの更に奥には、蹄の音と共に押し寄せる騎馬隊の群れが近づいている。

 時間はない。それは相手も承知していた。斧の騎士――緋鬼は片腕を斜めに伸ばして部下を制止した。思惑は違っても、一騎打ちで方をつけることは語らずとも一致していた。

 だから僕は剣を構えた。相手も同時に戦闘態勢に入る。腰を深く落として集中する僕とは裏腹に、奴は砂漠の聖柱のように真っ直ぐとそびえ立ち、あらゆる攻撃を待ち受けようとしていた。見上げると、奴の背丈がいやに高く見える。高潔な狩人に極限まで殺気立った山犬や狼の類。彼女にとって僕は所詮その程度の獣。

 それでも――立ち向かうか。

 お互いの意志がついにぶつかっていく。奴の懐めがけて僕は毒の氷剣を振りかぶり、地を蹴って襲いかかった。

 ――くそっ、やっぱりだ! 緋鬼はやはり僕を受け止めた。しなやかな片腕が僕の剣を封じ、そのまま蹴りを入れてくる。だけど僕の足もちょうど地に着いている。間一髪で脚をバネのように曲げ伸ばし、こちらの懐がやられる寸前に頭上へ飛び上がる。宙返りしながら背中を斬りかかろうとしたが、それも相手のお見通しで、円舞のようにくるりと回って斧の一撃で払いのける。その一撃は細腕からは想像もつかないほど重く、頭を地に向けたまま跳ね返された。

 何とか受身を取れた僕は、呼吸を整えながら剣の状態を確認する。ひびは入っていなかったので安堵した。腐毒に触れさせる必要がある以上、構造が心配だったんだ。氷の刃は隅から隅まで毒が混ざり、より効率的な毒の浸透のために内部には液体の毒素が縦に貫いている。切りつけても、貫いても、折れてしまったとしても、毒が触れればこちらにとって一気に戦況が変わる。だがもし折れた場合、その毒は自分にも降りかかる可能性がある。形通りの『諸刃の剣』というわけだ。自分の魔力は卵で増幅されているし、ツチノヤの魔法にも全幅の信頼を置いている。だからここで折れるわけにはいかない。

 もちろん、無理は承知している。だが無理を通せば勝てることもある――雄叫びを上げて、僕は飛びかかった。武器と武器の強い衝撃で、剣を振り下ろしたまま全身が数秒浮いた。より力を込めると、みしみしと不吉な音がする。それなら、一か八か!

 着地した足で地を踏み締め、更に両腕に力を込める。そして相手の斧を利用して、剣刃をへし折った。地面に刺さった刃の根元とは反対方向に切先が跳ね上がり、濃緑の腐毒が迸る。

 激しい勢いで毒を撒き散らせば、相手の鎧を弱体化できると踏んだ。硬質の無機材でなくとも、革鎧の腐食は行えるはず。

 とはいえ、自分も至近距離で腐毒を利用した身だ。覆面を着用しているとはいえ、やはり毒の影響から免れることはできない。これはある種捨て身の行為だ。でも、いざという時の兵士とはそういうものだろう。

 後方に飛びずさり、相手と距離を取る。思いの外息が上がっている。ツチノヤの魔法は改めて危険な代物だ。しかし、相手はあれほどの重装にも拘らず、消耗の素振りを全く見せない。奴は右腕を上げ、斧を投げようとしてくる。それなら、打ち返してやるまでだ。空いた片腕に冷気を宿し、仏杵に模した刃を投げ放つ。同時に斧が振り下ろされ、鈍い音が二人の間に響いた。その隙を狙い、空いた腕の方の半身にこいつを突き刺せば、やれる。

 咄嗟に駆け出したその瞬間、僕は驚愕に目を見開いた。濃緑の炸裂。

 目を腕で覆い隠したまま、飛沫の中に飛び込む。途端に息が苦しくなり、全身を激痛と虚脱感が襲う。うずくまって見上げた先には、双斧の騎士がこちらを見据えていた。奴は斧を投げたんじゃない。宙を舞った氷剣が落ちていくのを見計らい、斧で弾き返したんだ。さより脆くなったそれと僕の氷杵がぶつかり合った結果、剣が割れ、毒が炸裂した。その結果がこのザマ。

 愚かな自分を省みて目を閉じたと同時、更に背中に痛みが走る。皮膚と肉を裂く一撃に、僕は再び目を見開いた。騎士の双斧は片手にまとめられ、代わりに何かを僕に突き刺したようだった。それが伝えられることはなく、ついに奴は無言のまま背中を向けた。合図を送り、包囲していた兵士と、今しがた到着した騎兵部隊も踵を揃えて去っていく。

 制止の声を上げることすら叶わないまま、そいつらの背を睨みつける。だがその眼差しさえやがて力を失っていく。身体の怠さと痛みが増していく感覚に、卵の効力が切れたことを悟った。

「!」

 閉じた瞼の裏、真っ暗な視界の中で、芯のある低い女性の声がした。ルーベ隊長だ。

「ひでえ、服が所々溶けてる。皮膚も少し爛れてるぞ。どんな無茶な戦い方したんだ」

「ともかく、衛生兵に手当てを。私達も同行しましょう」

「なあ、これなんだ?」

 二人がかりで身体を持ち上げられ、担架に運ばれていく。

「なあ、ところで背中のアレは――」

 ツチノヤが背中に刺さっていた何かに気づく。ルーベ隊長が反応した。

「これは……陶片でしょうか。何か書いてあります」

「陶片? 今の時代になんで。古代人被れか?」

 身体が宙に浮いたような、不思議な感覚がする。僕の身体は担架の上か。運ぼうとする衛生兵を一旦止め、ツチノヤが陶片に刻まれた字の内容を確認する。

「魔人よ、命が惜しくないのか」

 そう呟いた途端、二人が息を呑んだ。そこからは覚えていない。

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