9-2 初陣 B
拠点から戦場へ駆り出された魔人兵達は、夜明け前に各自持ち場へ向かった。無情の殺意が作り上げたような凍える空気。なるべく土の露出する場所を通ってはいるが、それでも冷笑するように騒めく雪の音がもどかしい。
色のない世界だ。川や海の水が蒸発してできた分厚い雲が、音もなく雪片を落とす。あの雲はどこからできたかの想像は今はしない。張り詰めた空気は喉を刺すような温度で、呼吸を整える猶予すら与えない。
この緊張感は初めてだ。義憤に駆られた時と恐れを抱いた時、その両方の緊張が混ざり、濁り合っているような空気だった。認められない敵に対する強い苛立ち。いつ命を奪われるか分からない焦り。それらが両の手になって、心を撫でてくる。
弱る必要はない。倒せばいい。
ツチノヤの言っていたことを思い出す。腐毒を大地にもたらしたデムセイル。彼らのおかげで食べ物に困る人が増えていた。多くの人々にひもじい思いをさせた彼らの行いは許せない。エルナでそんな人達の余裕のなさを見て、食堂でお腹いっぱいになって喜んでる人の笑顔を見た。我が君なんて分からないけど、僕の気持ちとツチノヤが見せた怒りの方向が同じであれば、僕はそれに応えたい。もっとも僕の行動を喜ぶやつのほとんどは、あの時街道にいた野次馬どもなんだろうけど。
夜明け前に魔人達は白雪の森の端にぽっかりと刻まれた空堀に入り、持ち場につく。堀の前、敵のいる方向にはわずかに嵩上げした雪の壁があり、死角を演出している。何もないはずの雪原で横から魔法を使って奇襲し、一気に殲滅するという流れだ。空堀の左右は杉林が迫っていて、そこから少数の機動部隊が挟み撃ちによって畳み掛けるためには、敵軍に気づかれずに機を見て魔法を仕掛ける必要がある。
問題は僕以外の兵が素直に魔法を撃てるかどうかだ。仕方がないとはいえ、未だに他人を手にかけなければならない現実――僕から言わせれば、そんなのは現実じゃなく『悪夢』だろう――を受け入れられない人がいる。仮に理解ができたとしても、訓練の成果を本番通りにやれるかどうかは未知数だ。初めての経験には先達が欲しいものだが、なぜ上官らは実戦で手本を見せないのだろうか。
だが、怯える彼らを背後で眺めるツチノヤを目の端に捉えると、その理由がすぐに分かった。推測だが、彼らはあえて予行を介さずに実戦に仕向けている。そうすることで不安がますます募るからだ。現にツチノヤは苛立ちを見せず、ほくそ笑んですらいる。僕らが間違った時、分からないままやり過ごしてきた時に、彼らは脅迫をもって恐れの力を奮わせる。
考え方を変えるなら、どれだけの失態を起こそうと全て彼らの脚本通りということだ。そして恐れをあまり抱かずに魔法を使いこなせた、つまるところ、単純に強い戦力である僕は、その脚本の外にある異端児というわけか。いずれにせよ今は幕開けの時間を待つしかないが、いざとなれば魔法を行使できる。そのためには、『没入』が不可欠だ。
あの時のように自分に恐れを抱かせる。それが魔法を強くするのならと、未練がましく信じていた。その恐怖心が、自分の後方に漂う空気の変化にいつもより敏に察知した。水と冷気を普段から扱う身であるにも拘らず、この極寒の中でかえって鋭敏に気づく。
その空気は肌では高い温度を感じたが、精神にはより冷たく感じられた。無闇に振り返ると叱られると思い尻目に見やると、隊長の前方辺りの視界が歪んでいるように感じられた。いや、歪ませているんだ。この温度、きっと陽炎によるものだろう。うだるような日射しに照らされた地面が作り出す虚像。それを凝縮させたような高音の空気を送っている。僕はその行先が気になって目線を動かす。そこで思わず息を呑んだ。
火の魔女たる隊長が放つ陽炎の対象は、他ならぬ自分の部下にだった。
「気づいたか」
僕の右隣、数人分の距離を置いて佇む<ミイ>の魔人、ツチノヤがしたり顔で呟いた。
「そんなに僕らの恐怖を利用するの?」
「なんだ、お前も怖いのか?」
その時はじめて、僕は自分の中にありのままの恐怖が確かにあるのだと思い知らされた。植え付けられたわけではないその感情を、つぐんだ唇の裏側で言語化しようとした。
「……そこまでして平気な君達が、怖いんだ」
「俺も怖いよ」
驚いて顔を上げた。戦線を見据えるツチノヤのしたり顔には、冷たく乾ききっていない感情が曇っていた。
「前を見ろ。俺達も焦がされる」
我に返って、僕はいつもの殺気を敵の方へ突き刺した。だが、それでも胸の奥の方でざわつく疑問がある。
(泥國は『毒蜘蛛』さ。勝手に巣を吐いて毒牙を突き立てる害物。許される必要があると思うか?)
あの時の言葉、どれだけ本気だったんだろう。
敵の姿が見える。奴らが毒蜘蛛。向こうの森林と挟まれた林道を、向かって左の方から兵士が行軍する。デムセイル軍もまた先鋒に竜人兵を採用していた。彼らはあらゆる意味で『人間』にとって都合がいい。屈強な肉体、効率に優れた持久力、そしてあらゆる生活の源になる卵の生みの親――だが、それにしては細い。
「『蜥蜴』か」
距離を隔てた先でツチノヤの声がする。間もなく指令だ。一呼吸置いた直後、身体にまとわりつく空気が一瞬にして温度を増した。目の前の雪壁の体積がわずかに小さくなる。攻撃は一斉に行われる。外気温が三拍子で移り変わるのを僕らは肌で感知して、三度目の気温上昇で魔法が一斉に放たれるはずだった。
だが、三つ数えても僕らの息は合わなかった。銀雪のすぐ下で上げた腕は既に霜で染めているにも拘らず、後の魔人達は誰も続かなかった。代わりに彼らが上げたのは、激しく息を急ぐ呼吸の音。恐怖と苦痛が溢れ出た、助けを求めるような息遣いだった。
つまり、僕ら以外の魔人には覚悟が足りなかった。未だに戸惑っていたんだ。
その恐れと苦悶に満ちた喘ぎが、運悪く敵の竜人の耳に止まり、奴等は雄叫びを上げて此方へ向かった。
「何だよ、『効いて』ないのか。<ナナ>はどうした?」
怒気を隠せない声でツチノヤが怒鳴った。彼が睨む方を向きながら、僕も同じように冷たい眼差しを向けた。卵という存在が予想通りだったことを恨むつもりは今はない。それよりも、この切羽詰まった状況でまだ自分の心に正直であろうとする、おおよそ芯が強いとは言い切れない彼らのその自我に苛立っていた。その怒りが、命令無視でより熱を高めた隊長の陽炎によってますます強くなっていく。指先に凍りついた極低温の冷気の粒子の凝固が、うねりを伴って暴れ出す熱気と擦れる。
それを合図に、静寂を裂くような音をもって、ついに銀の刃は放たれた。
「ひっ……!」
そいつを放った先は、奴からすれば予想だにしなかった対象だろう。なぜなら僕は、唸るような怒りの矛先を敵だけでなく――味方にも向けていたからだ。
胸が空いた。本当に嫌いな奴を、人間扱いする必要はない。あいつは確かにそう言っていた。
「う………うあああああっ‼︎」
僕から二つ先の位置にいる坂の上、霜の矢を頬に掠めた少年は情けない大声をあげて風の渦を起こした。彼と同時に奇声を上げた竜人の一体が、氷雪を巻き上げて飛ばされたその衝撃に吹き飛ぶ。そいつの身体には、少女の腕のように細長く鋭い氷の刃が突き刺さっていた。
氷風の空気爆弾が直撃すると、拡散した空気が霰を撒き散らし、他の竜人を傷つけていく。か細くやつれた彼らの鱗ではその飛散した撒菱にすら耐えられず、くすんだ赤血が無彩色の風景をきつく染め上げる。
僕が投げた氷の刃が戦いの火蓋を切った。こけおどしと呼ぶのもはばかられる鱗の方陣が、極彩色の超自然の応酬に成す術もなくやられていく。雹が飛び、それが大風で吹き荒れ、地下からは岩林が飛び出す。少年少女が繰り出す夢のない天変地異。その幕引きのように紅色の小さな火の玉が蛍のように揺らぐと、たちまち爆ぜて敵味方を問わず吹き飛ばした。更に周囲の気温が上がり、視界が次第に揺らめく。隊長が広げた青白くたなびく熱の奔流、その高熱が絶えず吹き荒れる強風で煽られて、爆炎を広げていく。白銀の上で二色の火炎が激しく舞い踊り、異形の怪物を炙り尽くしていくその光景は、ここが戦場ではなく、祝祭の絢爛たる風景に見えるほど煌めいていた。
これだけの炎で奴らを焼き尽くした奴は誰だろう。僕は半ば憧れるような眼差しで着火した魔人に目を向けた。その人影を認知したと同時に、僕は自分の体表よりずっと凍てついた悪寒を見に覚えた。
目の前にいるのは、信じられないような形相で瞳を震わせるラプラだった。黒く焦げていく敵の方へ掲げられた腕は恐怖で凍えているようで、もう一方の片腕で掴んでも抑えることができていなかった。
直後、自分の心臓が一瞬急激に膨らむ感触がした。まるで何かを忘れた、あるいは気づいてしまったかのように――間一髪で放散しようとする冷気を抑え込むと、自分の身体が誰かに揺さぶられていて、振り向くとツチノヤが、
「おい、締めのアレやるぞ」
と、まるで行楽地の友人のような口調で話しかけてきた。込み上げてくる吐き気を抑えながら「アレって何?」とがなると、彼は笑顔を滲ませて言葉を返す。
「合わせ技で屠るんだよ! 確実に仕留めるぞ。お前の水と俺の土で!」
水と土――。
考える余裕はなかった。温度差が生み出す霧の中から、ボロボロに焼かれた黒い輪郭がそのままの色で詳らかになっていく。脆い鱗が黒い雪のように剥がれ落ちる。身体はまるで生気がないが、奴らのぎょろりとした目と零れるように垂らした舌からは、ありありとした殺意が満ちていた。此方を明確に捉えた瞳の主が、欠けた牙の大口を広げて飛び出す。
まだ生きているのなら倒すしかない。合わせ技が何なのかは分からないけど、きっと強い技なんだろう。強ければ強いほど、竜人たちは苦しむ時間を減らせるはず。頷いて僕らはそれぞれ魔法を放った。僕が放つのは激しい水飛沫。そしてツチノヤが放ったのは、
「――っ! 待て、ツチノヤ!」
――そいつを放っちゃいけない!
くそ、なんで気づけなかったんだ。たとえ意識が朦朧としていても、これくらい分かるはずだろうが!
「……ヘヘッ!」
激流を放った手をすぐさま彼に突き出して制止したが、堀から身を乗り出し、歪んだにやついた顔から小鬼のような笑い声が漏れた時、僕は言葉を失った。
横から聞こえてくるのは、ばたりと巨体が地に伏せる音だった。瞬く間に枯れ果てていく声。最期まで自由を奪われてしまう身体はじわじわと動きが鈍り、それでも剥げた爪と開いた腕、血涙を湛えた赤い目からは、底知れない憎悪を感じる。
ひたすらに彼らの絶望を直視した。不安、恐怖、嗚咽、憤怒、無念、悲痛、渇望。息絶えていく彼らの苦しみが、ありのまま、視覚と聴覚に直に伝わる。
脈打つ鼓動は全てを拒絶した。勝利の実感すら許さなかった。蠕く腸が心に巣食う穢れを迫り上げ、逃避に喘ぐ息を僕は必死に塞いだ。でも、こんなのに耐えられるわけがなかった。
足元に落とした視線から、黄色い泥水が流れ落ちる。それが自分の吐瀉物だと気づくのに、一秒もいらなかった。
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