8-2 道化 B
まぶたを開く。視線の先には胸から斜めに寸断された木像がある。
「よく出来たな、小僧。『負荷』を与えてないのに大したものだ」
平常心の成果とは思えないほどの魔法の威力に、指導官は声音を変えずに感心していた。訓練場には僕と同じ年頃の魔人兵達が、かすり傷程度しかつけられなかった的を睨んで並んでいる。彼らの背後にいる兵士が止めの合図を叫び、さらに一言強い口調で彼らを叱る。柔な心を擦り減らすことで魔法の威力を上げる寸法だ。
このやり方は正しくない。彼らの心を虐め抜くことが第一の間違い。もう一つは、すり減った心はいずれ無くなるということだ。
手のひらから氷の棘を生成し、僕はそれを眺めた。僕の心はもうすり切れているのだろうか。ならばなぜ、彼らに壊せなかったこの標的を使い物にならなくできたのだろう。自分が人とは違う仕組みを持っているみたいで、少し吐き気を覚える。
「その氷刃、練度は上げられるな?」
僕の手の中にある氷を覗き込みながら、男は言う。頷くと、肩を叩いて励ましてくる。
「その意気だ。より鋭く、より多くそれを放つようになればいい。刈り取る命は多い方がいい。この戦いは我らの優勢、そこに貴様達がいれば鬼に金棒だ。戦争の後に芽生えうる新たな争いの種。貴様はそれを誰よりも多く排除できるだろう」
男の顔が少し歪む。光の宿らない瞳は、僕をおもちゃか生体兵器か何かだと勘違いしているような眼差しだった。都合を一方的に押しつけられる人間がよくする笑顔だ。不純な脂が滲むよう。
昨日と同様に、また木造の的を破壊した褒美として休みの時間が与えられる。その休憩には長い旅や食堂の下働きで得た心地よい疲労を伴わない。ただただ暇な時間だ。魔人兵には、戦うことと心身が傷つく以外のやることはないらしい。
僕らは一昼夜の移動の果てに、敵国にほど近い前線拠点へと到着した。彩度をほとんど失った紅葉と、童心に申し訳程度に作用するほどの薄い霜が張っただけの寂れた土地だった。周囲も崖が多く、ここに来るまでにうねるような坂道も上ってきた。恐らく補給もままならない。換えが効きづらい魔人兵でありながら、使い捨てを視野に入れているような采配だ。着いて早々上官からのありがたい言葉を貰い、ついでにその夜だけ相部屋の簡易ベッドの上で自由になる権利を与えられ、翌日以降は今のような訓練の日々だ。
怒号を聞きながら僕は練兵場を出る。兵舎の一角の書庫で地理学の本を借りた後、読書のために食堂へ向かった。糧食は口にしたので、出された濾過水で喉を潤すだけにした。冷気の魔法は水の体系だが、それでも喉は渇く。しかし魔人達の施設である以上、無害な水であるのかは怪しいところだ。
僕は水を飲みながら、先程借りた本を読んでいた。地理についての知識と、多くの遠方の景色が描かれた書物だ。ライラックやマギと別れた今、自分から知識を得ることで分からない物事や言葉を理解しようとしていた。
「地元の腐った水が恋しいか、タロウ?」
急に聞き慣れない声が背後からして、コップを手に持ったまま振り向く。縁からこぼれる水が音を弾かせて床に散った。
「はは、うっかりしてんね」
また声がした方向を向くと、自分の腰ほどの高さに大きな頭をした小柄の若者を見つけた。少年のような無垢な顔つき、まさしくドワーフだ。十二の僕でも愛らしいあどけなさを感じる目の前の彼も、数年経てば地面につきそうなほどの髭と厳しい眉を生やすのだから驚きである。
「ああ、ごめん。まさかドワーフがいたとは思わなくて」
「『鍛人』な」
小さな男は僕の発言を訂正し、本を閉じるように指図した。
「しかし森人も知らねえとは。教養の伸び代があるな」
「知ってるよ。ただこの目で見たことがないだけさ。特に君みたいな」
「そうかい。ま、近づかないのが身のためさ、ハナコ」
「……僕はタロウでもハナコでもない、ヘルクだよ」
「そっか。そうだな、このおふざけは止めにしよう」
僕は訝しんだ。このドワーフ……鍛人は、まだ大人じゃないのに言動がうさんくさくて、あんまり近づきたくないと思ってしまう。
「ところでお前、第三部隊の魔人だろ? ここにいるってことは訓練でも免除されたのか?」
にやにやしながら、彼は僕の素性を探ってくる。魔人部隊は八つあり、確かに僕は第三部隊の魔人だ。ここに僕がいるだけで所属を察せるなんて、洞察力というよりは何らかの情報を掴んでいるのだろう。
「そうだけど。君は?」
「俺は『遊撃隊』ってところかな。駒だけど、自由に動ける。魔人だけどね」
「魔人部隊以外にも魔人はいるの?」
「いるよ。それなりに実力を積めば、俺みたいなウラナリでも何とかなる。ただし俺も魔人部隊上がりなんで信用はされちゃいない。今の俺は言わば使いっ走りの駒、遊撃の遊撃。偏見に満ちてるが、『派遣』と言い換えてもいい」
流暢に独特な言葉遣いを使いこなす彼の言葉に、少し理解が追いつかなくなる。要は信用されてないから、彼は何でもこなさなきゃならない大変な役回りを演じているのだろう。
「大変なのは分かるよ」
「ああそうさ。実績がなけりゃこうはいかない。気軽にセンパイと読んでくれて構わんよ。ああ、自己紹介がまだだった。俺はツチノヤだよ」
「ツチノヤ……森人らしい名前だね」
「はっは、見た目と名前が一致してなきゃおかしいってか。頭ダチョウかよ」
こいつは言うな、と思った。猜疑心が湧く一方で、そういえば『タロウ』も『ハナコ』も近年森人で流行りつつある名前であることを思い出した。
「僕を馬鹿にする気なら相手しないよ」
「おいおい、その頑固頭もう少しやわらかくしてくれよ。ほら、何のための水だ?」
そう言われて確かに手元の水の存在を忘れていたことに気づいた。それを一気に飲んで頭を冷やす。
「ツチノヤセンパイは何か聞きたいことでも?」
「おお可愛いね。そうだ、思い出した。可愛い後輩に敵のことを教えてやろうと思ってたんだ。これも派遣のお仕事の一つさ」
ツチノヤは自信満々に答え、まるで聞いてほしいと言わんばかりに腕を組んでにやついてくる。敵の情報を知るには僕にとっても都合がいい。
「さすがセンパイだね。ぜひ聞かせていただきたいな」
「いいね、その態度。まず、敵国の<デムセイル>って名前からおさらいしておこうか。ああ、横文字だが気にすんなよ、固有名詞だから。それか、『泥國』とでも言っておこうか。そいつはうちの国である<ハーフブルス>、通称『覇國』の西端、<エルナ>の山地でちょうど睨み合ってる。そこは言わば分水嶺といえるな」
「ハーフブルス……聞いたことあるような」
「ヘルクは地図を読む機会はなかったのか? 俺らみたいな大人――に近い奴なら、泥國の失態はみんな知ってるぞ。数十年前の旱魃を早く解決させるために、地魔法を使って山林の養分を増やしたんだ。下流の農地に豊かな水を供給するためにな。一時は良くなったが、地魔法の誤算で水源近くがダメになって、結果的に水不足だ」
「なるほど。栄養を増やしすぎて腐ったってことか」
「そうだな。おまけに小国の首都に流れる水源だから替えが効かない。だからなのか、あいつらは自分の落とし前をつけずにこっちに侵攻してきた。しかも奴ら、水源を奪うどころか、こっちにまで腐毒を撒いてきやがっただろう? とんでもなく愚かな連中だと思わないか?」
ツチノヤの笑みが少しずつ拡がっていく。僕はその時の彼の変化に気づけなかったのだろう、夢中で彼の話を聞いていた。戦争が起こした腐毒の事件が僕を旅人にさせ、兵士にさせた。そう思うと、心の中に黒い感情が渦巻いてくる。今の今まで過ぎ去った人生とその言葉が、確かに結びつき始めていた。
「ひどいと思う。そんなことがなければ、僕はここに立っていなかった」
「だろう? お前がここに立ってるのはそいつらに人生むちゃくちゃにされたからなんだよ。泥國は『毒蜘蛛』さ。勝手に巣を吐いて毒牙を突き立てる害物さ。許される必要があると思うか?」
――許される必要がある?
「……いや、ないと思う」
しばしの沈黙の後、出した結論はこれだった。違和感がある。この間、僕は何か考えていただろうか。答えを言った直後に見たツチノヤの顔に、上向きの黒い三日月が二つ歪んでいた。真っ暗闇の夜に鉢合わせする悪魔のような不気味な笑みだった。
まるで『悪魔』のようだと思い、すぐにその差別意識を振り払った。いずれにせよ、僕は彼の口車に乗せられていたのだ。
その一瞬の戸惑いを見て、ツチノヤの瞳に宿った黒い月が即座に満ちた。僕はまた恐怖に凍りつく。ここで正気に戻るのか、おもしろくないやつ。限りなく無邪気に近い邪気が光の映らない瞳を染めて、どす黒い目線が失望を僕に突き刺す。疑うべきか信じ込むべきか、その迷いすら与えない脅迫に囚われてしまっていた。
鐘の音が一回鳴った。正式な休憩の時間を告げていた。再び彼は余裕たっぷりの笑顔を見せて、別れを告げる。
「悪いね、お前の時間を奪っちゃって。でも、対価としては申し分ないだろ?」
ツチノヤはにっこりと顔を崩して笑い、手を振って去っていった。後ろ姿を眺めて立ちすくむ僕は、彼にあの青年と同じ影を感じて、懐かしい気分に浸った。僕がツチノヤのことを案外悪くない奴と考えるのも、色々とあいつのことを思い出したからだろう。白黒はっきりできないこの複雑な心持ちが、あいつをまだ見捨てきれてないことの何よりの証左だった。
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