6-3 団欒 C


 朝日の眩しい頃に目覚めたのはいつぶりだろう。こんなに遅くまで寝てたことはない。

 ラプラの声かけで起きた僕は、そのまま厨房へ下りる。この食堂は昼前に始まるらしく、僕の生活観ではなかなかいい加減だった。一日の始まりはいつも夜明け前で、小一時間瞼が重いままなことも多い。それに比べると今日は何と清々しい寝覚めだろう。肌寒い外ではなく、これほど身の危険のない場所で長く眠ることに、何とも言えない喜びを感じているのが自分でも分かった。

「ずいぶん遅い時間に開けますね」

 その喜びをおばさんに打ち明けると、竹を割るような声で笑った。

「ははは、朝の忙しい時間帯にうちに来る時間なんて無いでしょ! 良いんだよこの時間で。うちがくつろいでればお客さんも気を休めるんだ」

 とはいえ、火起こしや下ごしらえなどで朝早くに起きるのは仕方ないね、とも呟いていた。それを聞きながら、世の中にはこういう考えの人もいるのかという関心が生まれる。自分の仕事を始めるのは殆どが朝で、ごく一部の人間だけが夜に働くものだと思っていた。だが、所が変われば人の生き方も変わるらしい。

「さあ、朝飯を食べよう。うちでは仕込みに一番時間をかけるから、朝にたらふく食べるんだ。舞台役者は稽古が不可欠だろう、それと同じさ。器と舌の上で輝かせるためにしっかり育てる、育てるためにはこっちも食わなきゃ」

「出た、叔母さんの殺し文句。えっと、意味は分かる?」

「大丈夫、何となく分かる。僕の――家族は、劇が好きだから」

「へえ、そうかい! 良い趣味だね。おっと、これ以上話すと飯が冷めちまうね。それじゃあ食べよう!」

 朝から威勢の良い口調で話すおばさんの作ったご飯を口に運ぶ。とてもあたたかくて美味しい。弾力のある麦ご飯と滋味の染み込んだ漬物、魚の練り身。どれも器が大きかった。それらは森林集落でよく食べられているものだけど、あまり食べたことのない味でも不思議な懐かしさがあった。慣れない箸にしどろもどろしていても二人は何も言わずに笑ってくれた。このあたたかさに加え、船旅の食生活があまりに質素だったことも食事を美味しくしてくれた。

 朝食を済ませると、二人は準備に取り掛かる。

「何か手伝えることは?」

 と、二人の姿を見て僕は自然に声を発した。

「まだ旅の疲れが癒えてないんじゃないのかい? まだくつろいでいいんだよ」

「そう? せっかくやる気があるんだし、どうせなら手伝わせない?」

「そうだねえ。見たところ筋力はありそうだし、料理運びをしてくれるかい?」

 料理運び。それを聞いて少し迷う。

「簡単な仕事だよ?」

「それはそうだけど、食べ物を運ぶの?」

 すると口に出せない心配を察したか、おばさんが爆笑する。

「はははっ! 運ぶ料理に目がくれるのかい? そんなの気にしすぎだよ。見境なく食い漁るほどガキじゃないだろ?」

「ガキは『餓鬼ガキ』でしょ」

「そういう意味じゃないさ。教義の勉強してりゃわかるよ、坊や」

「……」

「あはは、拗ねてる」

 おばさんには頭が上がらない。おまけに二度も膨れた僕をラプラが笑ってくる。マギ相手ならこんなことにはならないのに。そういう意味では、彼女よりずっと強い二人だ。

 結局僕は料理運びを手伝うことになる。お昼前にやってきた人々は、疲労にうなだれながら席に着く男と、そんな彼らに引けを取らない雰囲気を持つ女の人だった。この空間の少し汗臭く、気怠げな空気をあえて弁えないことを選んだような凛とした佇まいが一目で分かった。

 彼らに料理を運んでいる時、基本的に誰も僕を見向かなかった。関心が無いんだろう。しかし昼下がり、袖を捲り昼間からジョッキを煽る男がおばさんに野次を飛ばした。酒のつんとした匂いがする。

「ヘイ、女将! また新しい『しもべ』を雇ったのかい?」

 しもべ。他になぞらえる言葉もあるだろうに。

「ああ雇ったさ。コイツはできる。うちの直感をナメんじゃないよ」

「子供に労働なんてさせたら上方かみがたが怒るぞ〜?」

「ハハッ、知れたこと! コイツは死にかけてたんだ。お上に黙って従うほど情が冷めてないんでね」

「叔母さん! 喋りすぎ!」

 笑いながら熱くなるおかみをラプラがなだめた。

 手伝うことは『給仕』に加えて皿洗いもあったが、これが悩みの種だった。これ自体は何てことないものの、魔法が使えないというのはなかなか面倒くさい。自分の水で洗える時期はそうしていたのだけれど、今は人目を気にして効率的なことができないからだ。それに今朝食べた魚のこともあるし、昼には割と濃いめの味つけの賄いも食べた。あれはとても美味しかったが、これを毎日食べていくならさすがにもう自分の水は使えないだろう。

 こう思って僕は初めて、自分が『普通の人』の側についたことを感じた。改めて魔法が使えないことの普遍さを、今更ながら思い知る。それににしても普通の人って、魔法が使いたくなるほど面倒なことをしていながら、まるでそう思っていないように日々を過ごしているように見える。あるいは魔人という存在は、そんな想像の余地すら与えられないほど『忌むべき』という感情の中に入れ込んでしまっているのか。

 そういう意味では、あいつは大分稀な人だったのかもしれない――そう、稀な『人』。僕はそんな人にはなりたくない。この二人も、ちゃんと普通の人であることを願うだけだ。

 すっかり夕日の暮れた時間、僕は晩ご飯を待ちつつ皿洗いをしながら、初めての仕事が終わったことを受け入れた。


 数日経った夜明け前の朝、僕は雷の音で目が覚めた。雨がしきりに壁を叩きつけている。これ以上眠ろうとしても雷が邪魔をしてくると考えた僕は、仕方なく部屋から出て厨房へ足を向けた。鍋の煮立つ音と例えがたいほどに美味しそうな匂いがする。固められた土の床には埃一つすらなく、煌々と揺らめくかまどの火を明らかにする。その鍋の前にラプラが立っていた。

「あ、おはよ……今日はずいぶん早いね」

「雷が怖かったから」

 苦笑いを浮かべて打ち明けると、彼女は吹き出しそうになった。咳払いして手元の手拭いを使うと、また視線を鍋に向ける。

「おばさんも起きてるの?」

「今日は寝てる。代わりばんこで朝の下拵えをするんだ」

 話す途中、料理の邪魔をするのもいけないなと思って、僕は厨房の見えるカウンターの椅子に座った。ぐつぐつと煮込まれる鍋の音を聞きながら、頭を覆う布から垂れる赤みを帯びた栗色の尾髪に目が留まる。光に撫でられるように反射するそれは、マギのように言うなら『艶やかな』ものだ。あまり見たことがなくて、どんな風にしてそんな綺麗な髪になったのかを聞きたいけど、ここにマギかライラックがいればからかわれるのがオチ。だから黙っていた。

 ラプラは鍋とかまどの火を交互に確認していた。消え入りそうなほどに弱く揺らめくのは、そうすることで美味しい料理が作れるからだ。だが、この日に限ってはどうもいつもより弱々しい。外の湿気がここまで滲んできているからか。

「あ……」

 やがて彼女が驚きを小さく漏らすと、そこにはもう何の揺らぎもなかった。火に当てられた無彩色の炭が名残を照らすだけだった。この時ラプラはいつになく湿っぽいため息をついた。それから「仕方ないか」と言い、僕の方を振り向く。

「ねえ、一旦目を閉じてもらってもいいかな?」

 冴えない声色で僕に協力を求めた。何となく彼女の考えが予想できて、僕は言葉を選ぶ必要があった。

「……外に出て待つよ」

「いいよ、だって大雨でしょ」

「なら上に行くから」

「ダメ、叔母さんが起きたら一大事なの」

 一連の問答で確信した。こう言う時に、僕を見出したライラックを呪いたくなる。

「……わかった」

 これ以上続けたらそれこそ後の祭りだ。お望み通り少しだけ目を瞑る。かすかに聞こえてくる空気が破けるような音。ほんの少しだけ一点が明るくなる瞼の裏側。

 こんな時、耳も塞ぐよう言っておけば良かったのに。

「……うん、いいよ」

 目を開くと、ラプラの隣に細い炎が蘇っていた。

「魔法みたいでしょう?」

 そう言われて乾いた笑いを隠しきれなかった。まるで強がりだと思った。彼女は無邪気に戸惑う。

「うん」

 殆ど何も言わずに僕は受け入れた。そして、彼女に僕の素性を伝える手段と時期を見定めるようにしようと誓った。これ以上悩ませるわけにもいかないだろう。

 その時はすぐにやってきた。開店間際に雷雨が去り、次第に客が増えていく食堂を三人で切り盛りした夜、くたくたになった僕をよそに新しい献立を考えるラプラの姿があった。

「どうしたの? 考え事?」

「ああ、うん。あれ、ヘルクは疲れてないの?」

「それとこれとは別。悩みなら聞くよ」

 ここで働いてまだ数日の僕が言える台詞ではないが、そう思う前に口を開いていた。ラプラは僕の反応に対して何ら屈託なく口角を上げた後、悩みを打ち明ける。

「うちの献立って、結構こってりしてたり、腹持ちが良いものが多いんだけど、そういうのばっかだと胃がもたれちゃうじゃない? だから何というか……食後の甘味みたいなものが欲しいな、って」

 甘味……

「それってどんなの? 食材は?」

「使うものは牛乳と鶏卵、あと干したナツメヤシの『顆粒』かな」

 分からない言葉の説明を含めて、より詳しい話を聞いた。ナツメヤシ以外は全て新鮮なものを使うのは料理の大前提。卵と顆粒をかき混ぜた後、これまたひたすら溶いた牛乳を火にかけ、少しずつ甘い卵の液体を入れていく。そうすることで甘くとろけるような味わいの飲料が出来る――だが、それでは足りないというのが彼女の見解だった。この時点でも飲み込むべき涎が出てくる話だが、驚くべきはその話の内容が、過去にマギに連れられて観た劇で出てきた甘味の作り方と途中まで一致していることだった!

 僕は一つ欲が出てきた。これを現実のものにしたいって。それにこれは僕の素性を明かせる一番の機会だった。『一石二鳥』のまたとない好機が巡り合ったわけだ。

「分かった。それ、僕が何とかしてみせるよ」

「本当? 夢のまた夢みたいな話だよ?」

「知ってる。でも、その夢みたいなことを現実でするんだよ。僕にはできるから」

「あははっ、ひょっとして食べたいから言ってる? さすが、食いしん坊だね!」

 そう言われて少しむっとしたが、すぐに平静を取り戻した。その時の自分も少し口角が上がっていたと思う。

「もちろん。でも時間をくれないかな? 一週間から十日ほどでいい。ちゃんと仕上げたいんだ」

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