6-2 団欒 B
その店に入ってくるなり、僕はより強烈な空腹を覚えた。
花の匂いよりも深く鼻腔をくすぐるスープの匂い、熱した鉄鍋が弾く油の音。カウンターの席に座る女性が琥珀色のスープをすすり、その隣の男が焼きナスをタレに潜らせて頬張っている。
「へへ、私の叔母さんの食堂へようこそ。って、あれ?」
今の状況において、この平穏な食事風景は想像を絶する光景だった。
「……ん?」
「あはは、大分お腹減ってんだね。ずっと固まってたよ」
肩を叩かれた気がする。そうか。自分を抑えられないくらいにお腹が減っているんだ。いや、食べ物に執着しているといっていい。
「ただいま、叔母さん」
「ああ、戻ったかい。おっ、初めましてだね坊や。とりあえず上へ上がんな、お客さんがいるからね」
「叔母さん」の言葉で我に帰った僕は、彼女が上がった階段を見、それから叔母さんの催促を確認してからそそくさと厨房沿いの階段を駆け上がった。今の自分は見るだけで客の食欲を失せさせる。僕が客なら耐えられない事態だ。
二階に上がると女の子がこっちこっち、と部屋を指を差すので、僕は部屋に入って荷物と腰を下ろす。身体が耐えられなかったのだろう、思わず深いため息をつく。脚を組んで何も考えないようにしていると、間もなく彼女は部屋に入ってきた。
「とりあえずコレ食べて、お腹を落ち着かせて」
彼女は机に粥が入ったお椀を置いた。一目で米粥だと分かるくらい白かった。麦とはまた違う種類のほのかに甘い香りが漂う。わずかに働く理性と記憶が結びつき、ここは森人料理の店なのだと理解する。
「どうしたの、凄い顔だよ。そんなに疲れてたの?」
呆けていた自分を指摘され、僕はゆっくり顔を上げた。
「これから休むとこだったんだよ」
「え? 入ってからもう十分くらい経ってるよ」
それを聞いて少しうなだれた。僕ってそんなに疲れてたの。
「疲れてるんだし、食べたら休みなよ。起きたら私を呼んで。風呂場の入場料と道具を用意するから」
じゃあ、私は厨房に戻るね、という元気な声を置いて女の子は立ち去ってしまった。まだ名前も聞いてない。
差し出された粥をすすり、匙を使ってふやけた穀物を口に運ぶ。わずか塩気と甘さ以外ははっきりとした味がしなかったが、あまりにもこの温度が僕には心地よくて、またため息をついた。
「おい坊や、まだ寝てんのかい?」
坊やだって? そう言われると、飛び起きざるを得ない。
「なんだ、元気になってるじゃないか。ラプラの皿洗い中にせがまれたから来たんだよ」
なんだ、そういうことか。僕は手懐けられているようだ。にしてもあの子、ラプラって言うんだな。
「ありがとう、ございます。えっと――」
「あたしはタルラン。ま、おばさんと呼んでくれて構わないよ。ほら、風呂道具。入った入った」
こうして半ば追い出されるように部屋から出た。
ドタドタと急ぎ足の僕に反応したラプラはくすっと笑った。
「おはよう、お風呂の場所は分かる? 案内するから待ってて」
まだ桶の隣に皿が何枚か積まれている。臭いが店にこびりつかないよう外で待った。いつの間に陽は暮れていて、人の姿もあんまり。僕を気にする人はあまりいないはず。
「お待たせ、じゃあ行こうか」
少しして、同じく布やら何やらを持ったラプラがやってきて、僕を案内した。
先を歩く彼女と二、三人分の距離を置いて通りを歩く。「水臭いなあ」と彼女が言うので、「だって気にするでしょ」と言い返す。
「君が気にしてる分には気にしないよ」
間伸びした口調の声が彼女の返答だった。同時に何かに気がついた彼女がこちらに振り向く。
「ああそういえば、私名前言ってなかったよね?」
先んじて名前を言うのは避ける。黙って頷いた。
「私、ラプラって言うんだ。君はなんて名前?」
「僕はヘルク。お互い簡単な名前だね」
「そうかな? でも最近、異界風の小洒落た名前がまた流行ってるみたいだよ。『森人舞踊』って知ってる? あそこの人の芸名、苗字と名前が組み合わさってるんだ」
「へえ、知らなかった。森人って、エルフとかドワーフとか?」
「そうそう。派閥によって芸名の形式は変わるみたいだけど、苗字と名前の形式なのはどっちも一緒だよ」
ラプラは一通り森人舞踊の説明をした所で一呼吸を置くと、今度は少し感心した口調で喋る。
「にしてもエルフとドワーフかぁ。君って、そういうの気にする方?」
ドワーフは<鍛人>、エルフは<妖人>。どちらも前者の方が、この世界で元々使われていた呼び名だ。人々の中には、かつての名前を取り戻そうとする動きもあるらしい。
「自然とそう言ってるんだ? 君の親って心が大きいんだね」
「別に大きくない。僕らをとは呼ばなかったから、それだけ」
マギのことになるとまだ少し捻くれたいと思った僕は、ややトゲのある答えを返す。
「それは別に謙虚じゃないよ。へりくだりすぎだと思う」
その答えもどうなのかな。言い淀んでいると、通りより明るい光の集まりにふと目が止まる。ここが風呂場か。
「よし、じゃあ中に入ったらお別れだね。一応言っとくけど、身体から先に洗うんだよ」
ラプラは先に行ってしまった。道行く人のうち、男たちがこぞって向かっていく方に入っていく。男と女で部屋を分けることについてはさすがに分かっている。無知を言い訳に馬鹿をするほど自分の悪だくみに従順なわけはない。
更衣室で服を脱ぎ、まず洗い場へ向かう。彼女から借りた麻布や風呂灰を使い、身体の汚れを擦り落とす。それから温水をたたえた手水に湯桶を入れ、垢を流す。
そして大人達がくつろぐ湯船に浸かってみる。粗い布を擦って敏感になった末端の肌に、熱い湯水が染み込んだ。ゆっくり入ってみると、少しずつひりつくような痛みが、水面下に沈む身体の隅々に渡っていく。そして全身を熱水に浸けると、痛みの引いた身体はなすがままにその快楽を受け入れた。身体中にゆっくりと巡る甘く温かい感覚は、水面から漂う湯気の香りに乗せて豊かになっていく。
僕はその間一言も声を発さず、ただ表情もだらしなく変わるなんてことはなかった。でも肩まで水に入るとさすがにため息を我慢できなかった。周りの大人は妙に疲れ切っているが、僕は疲れごとすべての感情を忘れ、半ば抜け殻になっていた。
これは……『贅沢』だ。マギが避けたのも頷ける。確かに身体を洗うのは重要なことだが、毎日これを利用するのは確かに違う。冷たく、ともすれば汚れた水に入って汚れをやり過ごす日々を送っていた者としては、この気持ち良さは計り知れない。だからあまり利用したくはない。お金の話を抜きにしても。
一しきり身体を癒した後、門の前でラプラと合流した。
「おかえり。ああ、いい匂いだね。この距離でも分かるよ」
「いい匂い……?」
「うん。ここの温泉、茉莉花の匂いの元を風呂場に広げてるんだって。だからとてもいい匂いがするの。あっ、『茉莉花』って分かる? ジャスミンとも言うんだけど」
「花の名前なのは分かるよ。でも、男湯にも広げてるのは不思議に感じる。いや、男だから……かな?」
「うーん、そういうのは気にしなくてもいいんじゃない。ヘルクはまだ早いかもだけど、すれ違い様にふわって花の香りがする人ってお洒落でしょ?」
「……どうだろ。分かんないや。でも、さっきまでの僕よりはマシだと思う」
他愛もないことを喋りながら、いつの間にか食堂の前についた。僕の一日が、流浪が終わろうとしている。
「じゃあおやすみ。これからよろしくね、ヘルク」
二つ先の部屋に入ったラプラを見送って、僕も床につく。窓から差す街灯の光が少し眩しくて、僕は窓のすだれを閉め切った。木造の少し素朴なしつらえとは対照的な、涼しげな黄緑の畳の上に座り、長布を掛けて横になる。
……これも『贅沢』だ。こんなに心地いいものなのか? 少し軽いけど、妙にふわふわして柔らかい。綿の感触だ。千年以上も前に彼岸から伝来したものらしいけれど、僕らにとっては贅沢品だったものだ。それが今、こうして僕の身体を包み込んでいる。
みんなこういう風に暮らしているのか、と改めて思う。同時に、自分がこれまでしてきた旅の意義にもわずかな疑問が生まれる。いや、今考えても仕方ないか。
僕は疲れた。今夜はもう休もう。休んだ後に考えればいいし、思い出せないならばそれで構わない。
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