6-1 団欒 A
また朝が来た。
朝になると現れる太陽の光。それは僕の手足を明らかにして、水面に今の様子を描かせる。川の流れ。確かに僕は流されている。激しい流れだ。脚の半分ほど浸かっただけで動けなくなるほどの強い流れの上に、何とか顔を出すような感覚で生きていた。
刺さった矢は包帯を巻きつけてそのままにしていたが、肉に食い込んだ時の痛みに耐えられず結局抜き捨てた。幸い返しはなかった。自分の水に浸した薬草で拭き、再び包帯を巻いたら幾分か楽になった。薬草の使い方は教えられていなかった。そのまま枯らすのもおっくうなので、当分はその処方を繰り返すことにした。
一番の悩みはやはり食糧だった。狩りは獲物の存在と舞台、それと人の不在の条件が備わっていなければ出来ず、それ自体が半ば賭けのようなものだった。それに比べれば釣りはまだ安定するが、釣った一尾の丸焼きを一口かじった後の心地悪さが気に食わず、ちぎって鳥の餌にした。生きるために必然のことを避けた結果、保存食すら底が見えた。
この旅の終わり際は正直相当堪えた。少しずつすり減っていく精神は、次第に僕を弱気にした。だが、そうなって初めて思い当たった感情もあった。あいつのことだ――もう名前を呼べない、呼びたくないけど、それでも彼へのわだかまりが別れの中でおき火のように熱くなり、日に日にその温度にうなされる。忘れたいけれど、そうすることは許されない。
なぜなら、『悪魔』だと思った彼は紛れもなく『弱者』でもあったから。彼はあの炎の男に、他の奴隷と共に身を捧げていたのだろう。そうでもしなければ、リーダーの取り巻きにまで生臭い言葉は浸透しない。僕らはあの時、社会の外側から外れるように、逃げるように川の流れを辿った。けれどその途上で僕らは、『社会の外側の強者』に叩きのめされた。這々の体で僕は逃げたけど、あいつの行方はどうなんだ? あいつは結局、強者どもの縄張りから逃げるように追い出されるのだろうか?
もしそうなら――まるで僕らは人間寓話の追体験をしているみたいだ。竜人も悪魔も、人間から遠ざけられていく。それと同じように、僕らも人間から離れていくんだ。
先の逃避行から十日くらい経った日の沈む頃、桟橋の近くにあった街への看板を見つけた。行先を目で辿った先の街灯の光と、かすかに香る焼けた小麦の匂いに辛抱たまらなくなった僕は、半分導かれるように接岸し、ぬかるんだ小道を駆けていった。
薄いオレンジに塗られた茶色の石畳、焚きつけられたような木材のほのかな匂い。それはこれまで訪れた集落と同じところがありながら、明らかに違う何かを感じさせた。
僕はそれに気づくと、胸にどきりとした感覚が宿った。だが一瞬のうちにそれは、完全に大人しくなったようだった。本能はいったい何に恐れていたのか――それはすぐに分かった。
(これは……温もりだ)
(あたたかい)
いつの間にか怖くなくなっていたようだ。それに反発する感じもほとんどない。これは諦めなのか、それかもしかして、何かを悟ったのだろうか?
いずれにせよこの街がもたらす温もりは、空腹の僕すら元気にする実感を与えてくれた。だが、そう思うくらいには疲れているのかもしれない。
そうか、今は冷静さを欠いてるんだろう。緊張は休めてはならない。今まさに、僕を追う者がいるかもしれないんだ。それはあの奴隷賊徒どもか、あるいは噂を聞きつけた騎士か。何にせよここで捕まるわけにはいかない。
ボロい服と汗の臭いを気にしつつ人の疎らな通りを歩くと、目抜き通りに突き当たる丁字路にさしかかった。その両側に人混み達が騒ぎ声を上げて集まっている。その奥に隠れつつ、なぜ彼らが集まっているのかが気になった。
一分ほど経った頃、その答えが現れた。革鎧の兵士が列を率いてやって来て、僕はより人混みに身を潜めた。色んな声がごちゃ混ぜになっているが、隣の人の言葉やその周囲の語気から陰湿な怒りと喜びを感じられた。その男が引き連れていたのは<竜人>だったからだ。
竜人は『竜卵』を産むことで、街を地下から回す。卵の宿す高密度の『ブレス』――僕が使う魔法の源のようなもの――それを使って街を豊かにしていくんだ。だからこの街には高い灯火があり、その地下にブレスを運ぶ管があるはずだ。これはライラックから聞いた。振り返れば、とても面白そうに話していた。ドヤ顔で雑学を話す彼の姿を思い出すと、少し顔がほころんでしまう。
もう一つ思い出した。マギに教わった話によれば、竜人は旧文明の主流人種だった。文明の歴史が塗り変わると同時に、彼らは他の人種たちにとって『都合の良いサンドバッグ』となった。理由は旧い先祖の自業自得。そのツケを今彼らが支払っているということだ。
しかし、血統は同じでも、命としてはそれぞれ違うもの。それをマギに言うと、
「でも、竜人がいつまでも上にいたら、私達はまず生まれてこられなかったでしょ? 生まれてきたとしても、間違いなく幸せじゃなかった。今私達がこうして生きているのは、未来を変えたご先祖様のおかげよ」
と答えた。
色んな疑問が上手く言語化出来ずに霧隠れしていく。未来を変えることで今の僕があるのかどうかは分からない。だが分かったことは二つある。一つは未来を変えたところで、誰もが幸せになるわけではないこと。もう一つは――これから知ることだが――未来を変えたことで、幸せに生きている人が増えたということだ。そう思えば、確かにライラックやマギに会えたのは良かったし、それだけで十分幸せかもしれない。だがあの奴隷や、ましてここにいる竜人たちは――
いや、これ以上はよそう。少なくとも彼らのおかげで、彼らは今以上に伸びやかに過ごせるんだ。竜人がまだ健在なら、僕らはひたすら効率的な『道具』にされて……いやこの考えも……
「ねえ……ねえ!」
僕を呼ぶ声?
反射的に振り向くと、女の子がきょとんとしていた。焦茶色の髪に栗色の丸い瞳、ほんのり熱を帯びたような肌の色で、この街の温かさを人の形にしたようだった。
「さっきからよく首振ってるけど……」
「ああ、ちょっと考え事。別に気にするもんじゃないよ」
「そうかな? 真剣そうな顔してたよ」
「全然! ほら、竜人のこと考えてただけさ。ちょっと目に留まって……」
その時、急に腹から大きな音が鳴った。
「……」
けたたましい騒ぎの中、腹の虫を聞いたのは僕ら二人だけだった。
「お腹減ってる?」
僕はとりあえず目を逸らした。いや、こういう時は何か言わないと気まずくなる。マギがそういう人だった。
「……減ってる」
もう一度目を合わせると、何かを察するように頷いていた。疑問の顔を崩さないまま、彼女は質問を続ける。
「そういえば荷物は? もしかして家出?」
「家出……そう言われればそう」
「そう、ずいぶん頑張ったんだね。服がボロボロだよ」
「えっと……今、臭ってる?」
「えっ? 全然……」
「正直に言ってくれると助かる」
「うーん……確かに、少し臭うかな」
僕は落胆を隠せなかった。身体は清潔にしとかないと誰かの力になれないから。
「綺麗好き? 割と珍しいね、君ぐらいの歳にしちゃ」
「それは、その」
ここで口をつぐむ。「僕は普通じゃないから」と言うと、途端に怪しまれてしまう可能性があるからだ。
「まあ、とりあえず体を洗いたいってわけかぁ……」
彼女の納得の早さに助かった。たぶん僕が曖昧なことしか話せないからだろうけど。少しだけ黙った後、彼女は口を開いた。
「そうだな……育て親が許すなら一晩泊めたげるけど、その前に君の家はどこ?」
「家っ?」
束の間の安心に浮ついてた気分が急転直下した。
家なんて知らない。忘れかけてたけど常に流浪の身だった。当たり前のように聞いてくる彼女の顔が少しずつ疑いを増していく気がする。
焦って堂々巡りになるその手前、僕に良い考えが浮かんだ。
「家なんてないよ。だからこんなボロボロなんだ」
正直に認めてしまえばいいだけの話。その理屈も経験が教えてくれた。女の子は納得し、それから気まずい表情をした。
「ごめん、確かにそうだよね。じゃ、この話はおしまい」
そう言うが早いか、僕は彼女に手を引っ張られてどこかへ連れられた。群衆は誰も僕らに気づいていなかった。そこには何の感情も湧かない。僕も彼女の考えていることがよく分からなかったから。
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