5-1 風雲 A

「俺はこれで満足だ。後はお前達が好きに食え」

 男はそれだけ告げると、食べ終えた骨を拭いて側に置いた。

 少食なのは予想していたが、たった一かけら口にして終わりだなんて、もったいなさすぎる。これ位の大きさなら腐らないうちに食べ切れるとはいえ、これでは彼にもてなした意味が薄い。

 思わず「もう食べないの?」と聞くと、彼は

「体が食い物を拒むんだ。もう長いことコレだ」

 と言い、袖をまくり腕を見せた。枯れ枝の端のような腕だった。

「これでもか?」

 横からぬっと出てきたクィキリが、骨つき肉をぶら下げて催眠術のように揺らす。彼の目線はわずかに揺れたが、すぐにかぶりを振った。

「欲求は頭の底から湧き起こる。だが直ぐに締め付けられる。豚に真珠と分からせられているような感覚だ」

「それで、体が拒むと?」

 まるでもう一人の自分と問答しているような物言いだが、ともかく食べられないことは分かった。

「僕たちでさっさと食べようよ。正直、まだ食べ足りないんだ」

 それもそうだな、とクィキリは言った。魔人は魔法を使う分体も疲れるし、すぐにお腹もすく。食べる量も必然的に多くなる。風を狩りと追い風に用いた彼ならなおさら空腹だろう。僕もいつも腹を空かせている。だから、食べよう。

 炙られた肉に手を伸ばしたとき、

「よく食えるな」

 と、老人が急になじってきた。そこで僕は肉を掴むのをやめた。

 そう言われればそうだと、僕は言葉の意味を悟った。この獣はあの汚い色の川水を飲んだはずだ。こんなものは食べられない。

「どうした? 手が震えてるぞ」

 隣には、川面と同じ色をした瞳の少年が、生焼けの肉片をかじりながら丸い目をしている。その瞳に、僕は改めて恐れを抱いた。

「いや、何でもないよ」

 言うが早いか、僕は肉にがっついた。にじむ滋味に感じ入る間もなく、噛みちぎっては飲み込んでいた。それは彼に対する無意識の服従行動だった。

 ふと老人と目が合う。一連の行動の真相を見透かされているかのような、冷たく感情の無い目だった。彼はクィキリに視線を写すと、ややほほ笑んで言った。

「クィキリ……だったか? その色の肉は危うい。よく焼いて食うといい」

 その言葉は僕への皮肉が込められていると察したが、一番の皮肉はクィキリが真意をくみ取れていないことだった。言葉を受け取った彼の瞳は、その色彩とは正反対の無垢さに染まっている。

「肉は生焼けが旨いんじゃないの?」

「いや、そうじゃなくて」

「腐毒が消せてない? 別に何ともねぇよ。いつものことだ」

 実際それ以降、身体の不調は特に無かった。僕は自分の信じていたことはある種の勘違いだったのではないかと思い、急に恥ずかしくなった。

 お願いと腹ごなしを同時に終えた後、僕らは老人が何故ここにいるかを一しきり聞いてみたが、どれだけ経っても分からず仕舞いだった。これでは日が暮れてしまう。ここに長いこと止まるのも良いことじゃないだろう。何せいつ僕らが見つかるか分からないのだから。

 同じことを彼も考えていたらしく、僕以上に苛立ちを募らせていた。老人は僕らの質問を丁寧にかわし続けた。まるでわざと時間稼ぎをして、僕らの焦りを楽しんでいるかのように。だが僕が街で見た劇の話をした瞬間、ふっと老人の笑みが消え、

「もう一つお願いをしてもいいか?」

 と頼んできた。

 その結果、船には僕とクィキリと老人の三人が乗っている。

「荷物が増えた。しかも『食えない』荷物だ」

 クィキリが口を尖らせてグチをこぼした。

 船は予想ほど沈まず、相変わらず悲鳴を上げながら僕らを運んでくれている。老人の体重はこの頼りない船体に影響を及ぼさないほど軽いのだろう。彼は船首の左側に腰かけ、僕は反対側に座った。老人はひたすら前を向いているが、まるで目線はうわの空、どこを見ているのか分からない。結局見張りをこなすのは僕一人ということだ。老人の身体が少しばかり死角になっている。

「全くイラつくね。コイツを乗せなきゃいけない事実にも、それを認めたしたオレにも」

「嫌なら置いてもよかったものを」

「オレ達を見つけた以上、こうするより他ないんでね。碌な奴じゃないと判断したらすぐに下ろすぞ」

「別にいい。水泡でも花火にでも、好きにしてくれればいい」

「花火?」

 並べられた言葉への疑問に僕は思わず口走り、我に返って咳払いした。老人が鼻で笑った気がする。

 船は相変わらず、代わり映えのしない三つの青の中にいる。空の青と大地の青、それらが混ざって出来たような気味の悪い青。落ち着き過ぎて縮こまりそうな色彩の景色を、どんな色ともつかない地味さの船と三人が滑っていく。その中で一際目立つのが、自然で目立たない薄い黄色の肌で悪目立ちする、クィキリの瞳だ。

 聞き飽きたせせらぎに石を投げるように、僕は彼に尋ねた。

「ねえ、本当にこのまま海まで行くの?」

「もちろん」

 彼はしかめっ面を崩さずに即答した。

「どの道オレたちに行くあてなんかねぇ。ならどこまでも行ってやろうじゃねえか」

「青臭い情熱だな」

 枯れ果てた声がすかさず皮肉を突っ込んだ。その通りだと思う。今は青いものは十分。明日をも知れない状況で夢を語るのは勝手だが、少なくとも僕は明日の飯を探したい。

 だがその日からなかなか狩りの成果がぱっとしない。開けた場所や街道沿いでは狩りなどにかまけてはいられず、人の目を避けるために早く移動する。狩場へ行っても、目ぼしい獲物がいなかったり、人影を察したり――僕ら以外の狩人の中には上方かみがたの人間がいる可能性があるから、目につく真似はできない――途中で木々が枯れてたり切り開かれたりして、食糧の残りだけが減る毎日だった。味も大したことない。

 クィキリはこの不調を「『ブツメツ』が三日もあるみたいな『不条理』だ」と嘆いていた。マギやライラック以上に難しい言葉を使うクセは、正直言ってもう慣れた。ちゃんと教えてくれる人がいない以上、何となく聞き流していた。

 幸か不幸か、この現状を良くする手段はあった。老人は懐に銭袋を隠していて、ある日陸に上がった時に彼がつまずくと、金属の擦れた音がした。しっかりと聞いていたのだろう、クィキリはとっさに悪巧みきった笑顔をした。

「何だよ、金があるなら最初から言ってくれればいいじゃんかよ」

「ダメだよ」

 止めた瞬間、鋭い眼光と舌打ちが口角を上げたままの顔で飛んできて、僕は身じろいだ。やっぱりこいつには素直な言葉をかけるべきじゃない。

「よし、風向きが変わった。飯食い終わったらさっさと行くぞ。飯も干し魚のサンドでいい。嫌なら魚を抜けよ、その方が効率的だからな」

 それから先の彼は追い風の化身のように僕らの背中を無理やり押す言動を取った。パンと色のあせた魚を押しつけ、彼もそれを口に押し込む。僕は少し冷めたそれを頬張り、喉の辺りに湧かせた水で流し込みやすくした。日に日に食欲がなくなってきていた。えずきかけたことも一度だけある。こういう時に魔法が使えるのはいい。清水は自分にしか生み出せないから。

 船はひたすら風に押され、あまりの速さに時折座礁しかけるが、目的地に着いたところで逆風が僕らを押しとどめた。

「どうしたの?」

 目まぐるしい風向きの変化に目が回りそうな僕に、クィキリはそっぽを向いて

「今さっき明かりが見えた。村がある」

 と答えた。

「飯でも買うのか?」

 老人が尋ねると、彼はそのままうなずく。

「ああ。テメェの金で飯でも買うよ」

 まるで悪びれもしない返答だった。自分の発言を気にもかけず、彼は岸に沿った船から身を乗り出す。だがひょいと跳ね降りた後にしばし立ち尽くし、僕の方を振り向く。

「ヘルク、出番だ。お前が行ってこい」

「えっ?」

 どうして僕に行かせるんだ?

「オレはこの老いぼれがどうも信用ならねえ。だからここで待つよ」

 そうか、この男は。こいつと長くいればいるほど――。

「断るなら構わないが、その分仕事が増えるな、コイツとは別に」

 そう言って彼は老人に眼光を飛ばし、片手で武器の入った鞄をさする。

「……分かった。すぐ戻ってくる」

 言外の意味をすぐに理解し、僕は集落へ向かった。その途上で、僕は今から向かう場所がとても危険だと自分に言い聞かせた。クィキリの様子がいつもよりも変だったからだ。それでもわざわざそこへ行かせる辺り、背に腹は代えられないのだろう。あるいは、もっと別の理由もある。

 何故ならクィキリはよく分かっている。風で殺気は消せないことを。

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