4-3 碧水 C
「ふあ〜。ん、お前もう起きてんの? 朝に強くていいなあ」
洗顔をしている時にクィキリが起きた。緊張感をまるで感じられないだらしない声だった。
早朝。空の半分は垢抜けたように白く、もう半分は未練がましく夜を引きずっている。川の流れる方角、両岸の森の間を狙って昇り出した太陽が、水面にも光の竜を現していく。太陽へと泳いでいく彼の姿は、見ている分には、少し触るくらいには問題なさそうだった。
寝ぼけ眼のクィキリが布切れを差し出す。受け取った僕はそれを握り、手の平から湧き出した水で湿らせていく。少し重くなった布を彼の元に返すと、彼は少し眉を潜めて、それからがばっと顔に布を当てつけ、思いっきり擦っていく。一通り洗った後、彼はしばらくぶりに水中から顔を出したような呼吸をして、
「ああ、気持ち悪い。綺麗なのに汚いんだ。お前の水ってだけでヘドが出る」
と吐き捨て、僕に使用済みの布を投げつけた。
「しっかり絞っとけよ。その後天日で乾かす」
「風で乾かせばいいと思うけど」
「嫌だね。大人しく指図されろよ」
何気ない一言にも彼は張り詰めた言い方で返す。悠々とした旅のようで、余裕がない。彼にも、僕にも。
軽い朝食を済ませて僕らは再び船を浮かせ、川を滑る。
「ねえ、そういえばどこまで行くつもりなの?」
揺れる船を案じながら、僕は単純な疑問を彼にぶつけた。彼は眉一つ変えないまま答えた。
「どこへ行くあても無えよ。海にでも行ければいいんじゃねえかな」
「そんな遠い所まで行けるの? エルナから数百里もあるよ」
「別にいいだろ。とりあえず、こんな男の船旅にしばらくお前も付き合ってくれよ」
しばらく、か。海の話は恐らくデタラメだろう。でも、行ってみたい所でもあった。エルナを抱える大陸の西側は、『彼岸』と呼ばれる世界が広がっているらしい。それはマギやライラックがたびたび話す話題で、僕も興味があった。彼岸の世界は、僕らの想像次第でどんな景色にもなるという伝説がある、不思議な場所と言われている。ライラックは未開の大陸という現実的な予想を踏んだ。対してマギはマギらしく、彼岸とは異界に繋がる世界の果てだと想いを募らせた。
船は進み続ける。取り戻せない過去を再現するような背後の景色には二度と振り向かず、僕はひたすら目の前の退屈な景色を眺めた。水と風の輪唱も三日とかからずに飽きた。昼間に食べる機会は二回あるが、湿ったパンと生臭い小魚をかじるのは気が引ける。こんな日が毎日続くのか。こんなにみすぼらしい旅は初めてだ。
「おーい、気ぃ抜くな。前方に何かあるか?」
クィキリに注意されて僕は少し気を張る。その時突然、猛禽の鳴き声のような甲高い音が鳴った。
「なんだ⁉︎」
クィキリの尖った耳が揺れ、音の方を指差した。
「前に進むぞ!」
薄暗い中、蛇行した川の流れを器用に追い風で進んでいくと、曲がりの内側にある河原に、ぽつんと人影が見えた。
一目注視するなり、僕はクィキリに声をかけた。
「そこの岸辺で止まって」
そいつは確かに、僕らよりみすぼらしい男だった。膝を曲げて背中を丸め、ボロボロの外套にすら覆い被されているように見えるほどの、頼りない身体の老人だった。見ているだけで哀れみが込み上げてくるその男を見て、僕は声をかけずにいられなかった。
呼びかけられたクィキリが櫂を漕ぐ手を止め、後ろを振り向く。そして、「ああ、わかった」と返答すると、彼は器用に船を河原の方へと接岸させた。
陸に上がり、僕らはその老人を今一度まじまじと見つめた。視覚より先に嗅覚が刺激された。隣にいたクィキリがたまらず舌打ちをする。僕も意図せず顔をしかめてしまう。視覚からの情報を遮るような強い異臭に耐えながら、僕はその老人の姿を確認した。
あせた薄い茶色以外にほとんど無色の外套に身が包まれ、どのような姿かはあまり判別できない。今判断できるのは、頭巾から覗く頬から相当な年寄りだということと、折り曲げた脚を抱き込んだ両手が骨と皮だけしかないくらいにしわ枯れていることだけだ。
「おい、どうした? こんなとこでうずくまって。笛を鳴らしたのはお前だよな?」
クィキリがそう確信していたのは、あの音には猛禽の声のような揺らぎがなかったからだという。力なく俯いている老人に彼はみっともない口調で尋ねたものの、返答はなかった。
僕は彼の無言を許容と捉え、もう少し近づいて顔を覗き込んだ。顎に短いひげを生やし、頬はひどく垂れ下がりしわが刻まれている。鋭い峰のように尖った鼻先の左右には、黒くくぼんだ隈があった。もう少し視線を下げる。
そこで老人と僕は目が合ってしまった。深く陥没した穴のように淀み沈みきった黒い瞳は、その縁にある白より遥かに大きかった。まるで生きながら死んでいるような目、地底の奥まで貫く底無し穴よりも暗い深淵。色が失せたような肌に空いた二つの黒い光に、僕は目を離すことができなかった。
たじろいだままの僕を、老人はただじっと見つめていた。それから、歪なひげに囲まれた
小さな口を開き、枯れた湖底の染みのような声を滲ませた。
「……子供か」
僕に向けられた彼の一言は、どれだけ察してもなんてことなかった。だが、老人が視線をクィキリの方に向けると、二つの闇をはめたまぶたが一瞬大きく開き、そしてしわだらけの顔により多くの線が刻まれた。
そして言葉が噴き上がった。
「……ゴブリンめ」
右半身の陰で煽るような衣擦れの音がした。目の端に拳を振り上げようとするクィキリの姿が見えて、立ちどころに僕は彼の腕を掴んだ。
動きを止められた彼は意外にもすぐに大人しくなったが、すぐにそれが僕の誤解だと分かったのは、彼が吠え立てるように口汚い言葉を吐きまくってからだった。
「ボケ老人が。そこまで醜くなるほど生きて、まだそんな偏見持ってんだな!」
それは毒を塗りたくった刃物で背中側の臓器を突き刺すような、悪意に満ちた言葉だった。だが、老人は眉を変えず、むしろその反応に一種の愛らしさを覚えるように、笑みを浮かべて答えた。
「それの何が悪い?」
「ああ悪いね! そんな偏見を長いこと残してきたお前の頭に虫唾が走る。その頭で何でのうのうと生きてんだ、お前は!」
売り言葉を一秒と待たずに買ってのけたクィキリは、純粋すぎる獣のようだった。きゃんきゃん吠えるような小物のそれではなく、悪意の応酬の中で仕留める機会をうかがう野良犬――こんな事態に呑気に物事を考えるべきではないけれど、彼にふさわしい『犬』は何者なのだろう。
とにかく、彼はとても激しやすい人だった。ある種の発作のよう。医者でもない人間が病気とのたまうのもある種の病気だとマギは言っていたが――その場合マギはどうなのだろう――いきなり侮辱されたとはいえ、すぐ血気にはやる彼を見ているとそう思えてしまうんだ。
僕は顔をしかめる自分自身を把握し、聞こえない舌打ちを咳払いでごまかした。それから彼を一旦引きはがし、船の方へ連れて行く。
「いきなりなんてこと言うんだよ。あのおじいさんがかわいそうだろ」
「オレに歯向かうつもりか?」
言い終える前に彼は僕にも牙を剥いた。少し肝が冷えたが、呼吸を置いて反論する。
「だとしても、今のクィキリには落ち着きが無いよ」
面と向かって言い返すと、彼の瞳に僕の顔が写っているような気がした。その目はますます大きく開き、彼の腕は懐の凶器に手をかけていた。
彼の瞳を、そこにわずかに写る自分の顔を見て、眉一つ変えないように踏ん張る。ここで弱みを見せれば、老人と共倒れになりそうな気がした。そのためには、彼の怒りを抑える程の表情で脅し返さなければならない。
「「……」」
僕らはしばらく睨み合っていたが、結果としてクィキリが折れる形となった。謝りにいくよと告げ、二人で老人の元へ向かう。
老人はニタニタしながら僕らの様子を見ていたようで、
「……愛らしいな」
と静かに呟いた。
「どういう意味?」
と思わず僕が聞くと、彼は鼻で笑った後、
「若道崩れの醍醐味だ」と、訳の分からない言葉を返してきた。僕はそれを聞き流し、改めて老人に話をもちかけた。
「おじいさんは、どうしてここにいるの?」
老人は顔を上げ、不気味な微笑みを保ちながら口を開いた。
「なんてことはない。漂っているだけだ。俺はここに来た時から全てを諦めてきた」
話を聞きながら、僕は老人の声に少し違和感を覚えた。辛うじて喋っている言葉が分かるくらいの小さくしゃがれた声だが、年齢の割に高めの音が微かに混じっている。それなら何でこの男はこんなにもやつれている? 確かに処刑直前の人や、長い間劣勢の戦いを強いられてきた軍人は見違えるほどに見た目が老いるという話は聞いたことがある。けれど流石に目の前の光景を見てそうだとは言い切るには情報量が少なすぎる。
「漂っているって何なんだよ。もっと具体的に教えろ」
クィキリがイライラした様子で答えた。老人らしき男は鼻で笑うと、
「そうカッカするな。ただ悪いが、俺は過去は話したくないんだ。俺自身、未だにここが何処なのかさえ分かっていない」
男は苦みを混ぜた微笑みで言葉を返した。彼の言葉は謎だらけだ。話せば話すほど、核心を覆う霧が深くなる。
「よく分からないって顔してるね、あんたがた。俺もこれ以上お前の疑念を増やしたくないよ。ただ、ここで会ったのも何かの縁だ。一つ願いを聞いちゃくれないか?」
彼は咳き込むような笑い声を出して、僕に顔を向けた。泥が染みたような瞳だった。身を乗り出すクィキリを制止し、僕は願いの内容を聞いた。
「出来ることであれば協力するよ」
「そう難しいものではないさ。ただ好きな物が食べたい」
「好きな食べ物って?」
そこまで尋ねると彼は少し言いよどみ、それから口を開いた。
「何でもいい。例えば故郷で食ったような魚の塩焼き。あれは『贅沢品』だった」
「そいつは無理だ」
僕の顔色が変わると同時に、クィキリがばっさりと断った。
「腐毒の川に住んでることは知らないわけじゃないだろ」
「知っている。だがもうそれ程深刻ではないだろう。お前達は川下りが出来ているじゃないか」
「そりゃ少し位浴びても大したこと無いけど、年がら年中腐れ水に浸かってる生物の肉食いたいか?」
彼がそう言うと、老人は少し顔を下げた。この返答は僕にとって幸運といえた。最近魚しか食べていなかった気がするからだ。
やがて、老人がまたこちらの方を向いた。
「狩りは出来るか?」
その問いにクィキリがもちろん、と即答すると、
「だろうな。子供は最も純粋に命を奪うことが出来る」
と老人は持論を述べた。たまらずクィキリが鋭い言葉を返す。
「はぁ? 偏見だらけの理屈、よく真面目に言えるな」
「俺がその証人だからだよ。もっとも、そうしていた頃の俺は――俺達は、少し『大人』に近づきすぎていたがな」
「……またふわついたことを言うんだね」
僕は思わず呆れを漏らした。これ以上心を惑わすのは止めてほしかったから、僕は言葉を続けた。
「仕方ないから僕は行くよ」
振り向き様に歩き出すとクィキリが舌打ち混じりにがなって、待てよと僕の後についた。彼の心も乱したのなら申し訳ないが、しばらく歩くと急に彼がポンポンと肩を叩き出して、
「いやぁ、お前も案外イラつくんだな。もっとのんびりした奴かと思ってたよ」
と笑っていた。僕がとりわけ呑気なわけじゃない。君が少し気難しいだけだろ。
船に戻り、猟具と血拭きの布、包丁などを持って狩場へ向かう。とは言っても、右も左も分からない土地だから、まずはどのような場所か確認しなきゃいけない。岸辺に座る老人の背後にある高台の方へ上がる。林の向こうに街道があり、どうやらここは狩場に適さないらしい。元いた所に戻って船を近くの対岸に浮かべ、縄で木に固定。陸へ上がり、見渡してみると一面が青ざめた深緑で、少し気後れした。だがここなら獣の一匹は捕まえられるだろう。誰かに見られませんように。
森の中に入ると、都合良く猪の群れが休息をしている。瓜坊の一匹でも狩れば十分か。草木に隠れて息を殺し、あらかじめ凶器を手に持ったクィキリが遠方から風の矢で一息に仕留める。親猪と兄弟の瓜坊は、驚きに駆られてどこかへ逃げ出した。彼らが遠くへ行ったのを見計らって、僕は瓜坊の体を抱えて帰る。その間、猪の家族について考えていた。
確かに『残酷だ』。今は冷静ではいられないから逃げているのだろうが、襲われた場所へ戻ってきた頃には子供の遺体すら拝めないんだ。その時彼らの怒りはどこへ向かうのだろう。
「待てよヘルク。お前そのまま川を渡るのかよ」
うわっ、危ない。そのまま水に浸かる所だった。
「ごめん、ありがとう」
彼に頭を下げると、不満そうにブツブツ何か言っている。ああ見えて世話焼きなのか、そうじゃないのか。
川の幅を目で測り、このくらいなら氷渡りをしても何の問題も無いと判断する。元よりクィキリには見られているし、あの老人も、多分僕らに関心はないはず。
「先に行ってる。魔法を使ってね」
「え? あ、ああ」
戸惑う彼の姿が妙だったが、僕はそれほど気にせず荷物を抱えて川の上を進んだ。この程度の重さなら、いつもの厚さで割れる心配もない――いや、クィキリの船が進めるように水場を増やしておかないと。一歩一歩、軽々と飛び上がるように走り、着氷の面積を少し狭めて渡り抜いた。初めての応用だが、身体を動かすだけなら何ともない。
対岸に到着して彼を待つついでに休息を取る。森の緑とよく似た川の曖昧な色が、僕に改めて不安を抱かせる。こんな水の上を今まで渡ってきたのか。これが綺麗な川の色だと言う人もいるらしいけど、信じられない。あれは悪魔の血の色だ。その流れが穢れてないわけがない。
そんな風に物思いにふけっていたころ、ふと直感が働いて視線を上げると、クィキリが氷をすり抜けながら船を漕いでいた。川の水と同じ色の瞳が、険しい表情の奥で輝いていた。彼は接岸してすぐに息を上げながら、
「はぁ、やっぱお前ずるいな。それがあれば移動がメチャクチャ自由だろ」
とうらやましそうに口を尖らせる。別にそんなことは考えてなかったけど――なるほど、これが普通の人の感覚か――いや、彼は普通じゃなかった。
「相変わらず呆けてんな。行こうぜ。新鮮なうちにさ」
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