4-2 碧水 B

 僕ら二人を乗せた船は、今にも沈みそうなほどに軋んだ音を立てながら、それでも辛抱強く川を緩やかに下り続けている。街の水路を抜け出して森へ入ると、小船がやっと一隻通れそうなほどだった川幅は少しずつ広がり、日が暮れて夜に移り変わる頃には大きな石橋を潜り抜ける必要があるほどになっていた。やがて色の無い月光が夜を照らす時間になると、僕らは木々と川の間にある岸辺に小船を止め、野宿の準備をした。

「しっかり川に浸かっておけよ、こう見えてオレは綺麗好きだからな」

 川。確かに彼の事情は察せるが、気が迷う。

 彼は僕の様子を気にせずそっぽを向くと、岸に上げた船から道具と食物を取り出して調理の準備を始めた。物音を立てながら、「さっさと行ってこいよ。オレは男の裸を見るのも見られるのも趣味じゃねえんだ」と付け加える。

 僕はその場から離れる前に、彼に桶のような物は無いか尋ねた。すると彼はフッと笑い声をこぼし、

「そうだった。お前は自分の水で身体を洗えるんだったな」

 と言って、僕の能力を改めて認識した。

「生憎だが、そんなかさばる物は持ってないよ」

 一方で期待していた返答は得られなかった。そこで要求を変え、

「布切れを二枚ほど貰える?」

 と尋ねた。彼は少し目を丸くしたが、すぐに僕の言葉を理解して少し小さめの布二枚を放り投げた。

「身体を洗う用と拭く用だな。早く行け。休む時間が無くなるぞ」

 これさえあれば一応満足なので、僕はそそくさと彼から離れた。

 服を脱ぎ、手に持った布切れを自分の水で湿らせて、身体に擦り付ける。川の水には腐毒はもちろん、生活排水も混ざっているからなるべく使わないようにとマギから釘を刺されていた。下水道である程度処理されているはずだが、それでも身体を洗うにはそれだけ清潔であればならないとマギは思っていた。だがそれ以上に、僕はこの川を使わない理由がある。

 目の前の青みがかった川を睨む。あの頃とはまるで違わぬ様相で川は流れている。いつから旅人の間で沐浴がはばかられるようになったか、その具体的な時期はもう忘れた。何歳ぐらいだっただろう。ライラックは年月を振り返らない人だった。マギも最近は日付を気にしなくなった気がした。今日が何日で何曜日なんて分からない。それを自覚させてくれる季節が、エルナにはしばらく存在していないんだ。

 物思いにふけりながら身体を洗い、服を着てクィキリの所に戻ると、彼は焚火の傍で炙られている串焼きを眺めながら頬杖をついていた。

 僕の足音に気づくと手を振り、

「おう、そろそろ呼ぼうと思ってたんだ」と声を張った。

 彼とは真向かいに座ると、僕は辺りを注視した。幅の大きい川の向こう岸もこちら側も、深い森に囲まれている。恐らくこの火に気づくことは無いだろう。それから僕は串焼きを指差して、

「これ、食べられるの?」

 と恐る恐る尋ねた。すると彼はにこりと笑い、

「ああ、もちろん。干物屋からくすねてきたから。品質には問題ねえよ」

 と、相変わらずの様子で答えた。思わずため息が出そうになる。こんな奴と旅をするのが少し心細くなって、僕は黙ったまま揺らめく炎を眺めることにした。

 あたたかい火だ、と僕は思った。昨日までのことを不意に思い出してしまい、またため息で焚火を煽ってしまいそうになる。

 あたたかい、か。

 そうか、僕はこの温もりに懐かしさを感じているのか。だが、炎の向こう側にちらつく男の眼差しは、あの二人とは真反対の冷たさだった。そこで僕は彼らの温もりに感じていた言い表せない危うさとは似て非なる、『恐怖』の感情を抱いている。

「そろそろだな。こいつはパンと一緒に食うとうまいんだ」

 脂の滴り落ちる魚の切り身が刺さった串を取り上げると、彼は切れ目を入れたパンを開き、その間に魚肉を詰め込んで僕に差し出した。僕の好きな食べ方だ。まさか知っているわけでは無いだろうし、単に僕らの好みが似通っているだけかもしれない。

 魚を挟んだパンを受け取るとほんのり熱を感じ、魚のこんがりした皮と脂の匂いに混じって小麦の香りも感じられる。袋に詰め込まれて湿ったパンを、熱く乾いた炎で温め直したのだろう。

 しぶしぶ口に運んでみる。サクサクと音を立てて崩れるパンの皮からふんわりとした生地が歯を包み、やがて魚肉の旨味と香ばしさがほぐれた身から滲み出てくる。よく噛んで味わうと、小麦の甘い香りと魚のじんわりした香味が溶け合い、河川の水脈が大地に力を与えるような味わいが身体中に染み渡っていく。

 焦げた生地の砕ける軽やかな音が焚火の反対から聞こえてきて、顔を上げると同じサンドを頬張るクィキリの笑顔が見えた。目を細めて微笑むクィキリの表情は不思議とほっとする。きっとあの青緑が一瞬だけ隠れてくれるからだろう。それは紛れもなく純粋な笑顔だった。怖がる必要はない。

 夕食を終えて、寝る前に歯の掃除。クィキリが持つ木片のうち、少し先の尖った物を使って歯や歯の間を掃除する。食後に水を含んで洗う方法は以前もしてきたが、こうやって細かい所にまで気を遣うやり方は初めてだった。ただ、僕は口の中に尖った物を入れることをためらい、クィキリは僕の水で口を洗うのを嫌がった。

 厚手の布を敷いたら、陸に上がった船上で僕は見張りにつく。早々に彼は寝入ってしまったので、僕はただ静かに空を見ていた。街の灯りも松明の火も無いが、ふと見上げた先にはまず黒い夜空があり、そこに舞い上がりながら飛ぶ瞬間を切り取られた白い大蛇のような天の川が、一つ一つの鱗を煌めかせながら流れている。

 改めて思った。空が綺麗だ。そう思うのは、最近は洞穴や村の宿泊所といった、なるべく安全で閉じこもった所で夜を凌いでいたから。

 夜風が木の葉を揺らす音、川のせせらぎ。穏やかに鳴っているから、こんな今の僕でもまどろんでくる。今日は刺激の多い体験ばかりで、その興奮と不安が収まらないと思っていた。けれど、この何も無い黒い夜は迷いを覆い隠し、絶えず流れる心地よい音色が心細い思いを撫でてくれる。だからきっと眠ることができる。もし途中で起きても、僕らならきっと大丈夫だろう。僕には魔法がある。そして、僕よりもっと強くて恐ろしいクィキリがいる……

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