4-1 碧水 A

 隠し扉の先の暗い通路を通り抜けると、城壁の裏に出た。狭い岸辺には小船が数隻と、その群れに一際目立つ帆船があった。

「もしかして、相棒ってあれ?」

 僕が指差すと、彼は二つ頷いて口を開いた。

「ああ。頼りなさそうに見えるだろ? でもオレはこれでいくつも街を渡ってきたんだぜ」

 帆を張った船は二人をギリギリ乗せられそうなくらいの細さで、その脇に食べ物や道具の入っていそうな籠が紐で縛られている。なんというか、これで一人放浪するのはだいぶ勇気があるなと思った。第一、腐毒の件もあるし、それに食べ物が水にさらされているのは大問題だ。

「これで川を下るの?」

 しかし彼は話も聞かず、前に並んだ小船をひょひょいと渡り、自らの相棒に腰をつける。僕は慎重に船に踏み入れたが、揺れる船体にもてあそばれながら何とかそこに到着した。二人が乗ると、軋んだ音で胸騒ぎがする。背負った荷物でやけに船体も沈んでいるような。

 僕は不安でそこに突っ立ったまましばらく動けなかった。様子を察した彼だが、それでも眉をひそめた。

「置いてきた仲間と別れるのは寂しいか?」

 仲間。自分の不注意でライラックやマギと別れてしまうことになるとは、なんて浅はかな奴なんだ、自分は。それならここで彼を置いて元いた場所に引き返すかとも思ったが、彼の言った通り、魔人を探す騎士が二人に会う前に僕を見つけてどこかへ連れて行くのだろう。

 仮に二人の元へ戻れたところで、僕はもう昨日までの自分ではないんだ。自分のやりたいことが人の為ではなく、ただただ僕のためであることを教えられてしまったから。

 彼の言葉には何故か確かな説得力があった。脅されていたからではなく、真っ向から否定することが出来なかったんだ。彼はあれだけ怒りに震えた目をしていた。その怒りには、きっとそうならざるを得なかった悲しい理由が、暗い海溝のようにどこまでも深く満ちているからなのだろう。それを否定することなんてできない。

「早く座れよ。バレたらどうする」

 苛立ちを募らせた彼の――クィキリの声に気づいて、僕はようやく腰を下ろせた。軋む音が少しだけ、しかし確実に大きくなっている。

「ったくお前、オレと同じ男ならもっと果断になれよ。いちいち迷うな」

 彼の叱声を聞くと、そうしなければならないという気持ちが胸を押してくる。ただ、どうも僕にはそれが苦手だ。そう思うこともダメだろうか。

 目を下ろしていたらまたからかわれるだろうな。ライラックと似たようなものだ、と自分に言い聞かせ、視線を上げた。そしてまた聞き慣れない言葉について質問した。

「男って、みんなカダンなの?」

 当の言葉の発音がぎこちなかったからか、彼は少し鼻で笑った。それから、

「オレの周りはみんなそうだった。そうでなきゃいけないしきたりがあんだよ」

 と答えた。

 これから向かうのだろうと川下を見やりながら、僕はそれに言い表せないもやもやを感じていた。『カダン』という言葉が、何を意味しているのか分からないことも含めて。

 遠くをぼーっと眺めている僕を気にせず、クィキリは脇に傾けてあった櫂を手に取り、岸辺から船を離し始めた。不安を感じさせる音に反し、船体は滑らかに岸から遠ざかっていく。

 城壁を伝うように流れる水路の上を通る船から、僕はライラックとマギのいる方角に目を向けた。留まる僕の気持ちを無視して船を進ませ続ける彼に、初めて言いようのない怒りを感じ、それ以上に自分の浅い正義感で二人と別れてしまったことに溢れんばかりの悲しみが湧いた。涙は流せなかったけど、その分無性に謝りたくなった。

 ごめん。急にいなくなってからとても困ってるよな。必死に探して、諦めて、途方に暮れる。そんなことをこれから二人に思わせなければならないのが辛い。僕以外の魔人が大体悪い奴だからって、何も言わずにこらしめに行くのは間違ってた。せめて伝えればよかった。

 ――悪い奴、か。こんなことを引き起こした僕も、悪い魔人だ。

「おーい。感傷に浸るのも分かるけど、顔上げてくれよ。前方の確認をしてくれないか」

 クィキリの声に応じて僕は前を向き、異常は無いことを告げた。目の前の景色に何も変わったことが無くても、今までの旅路がおかしくなかったわけじゃない。特に今日の旅路には自信がなかった。

 不安を煽るようなオレンジがかった空が、僕の胸を締めつける。その寂しさをまるで意に介さないように、自分の腹が鳴った。

「今日は何も食べてないのか?」

 僕がうなずくと、クィキリは城壁が見えなくなるまで待てと言ったので、実際にそこまで待つことにした。川を曲がり、木々が両岸に見え始めた所で彼は一端櫂を漕ぐ手を止め、脇の籠の蓋を開けてパンを一個出し、僕に差し出した。受け取ると、微妙に湿った感触がする。

「これ、本当に食べられる?」

 僕が恐る恐る確認すると、彼はにっと笑って、

「もちろん、さっき盗んできたばっかだからな」

 と悪びれもせずに言い放った。困惑と恐れが僕の中に漂ってくる。まじまじと小麦色の塊を眺めた。

「こんなもの……」

 にじみ出た不快感が喉を震わせた。漏れ出た言葉を自覚したのは彼の目線に気がついた後だった。

「嫌か?」

 僕の言葉に傷ついたのかは分からないが、彼は笑みを絶やさなかった。かすかに震えた僕の手が、なだめる理性をあざ笑うようにパンを握り潰そうとしていた。あるいは、腕がそれの存在を拒むように川の方へ投げ出そうとした。僕は必死にこらえた。どちらの選択を取っても川に投げ捨てられるのは自分だと確信した。

 目の前の悪魔のような青年が、冷たい月光のような眼差しを向けながら笑っている。その奥に怒りをたたえながら――僕を試している。彼と出会ってから一時間も経っていないはずなのに、既に数え切れないほどの人生を賭けた選択を繰り返しているようだ。どの選択でも、間違えたら終わることは予感していた。まるで目の前にそびえ立つ二つの扉のうち、悪魔が襲う方の扉を避けつつ開けては進むのを繰り返しているようだった。

 まぶたを閉じて少し心を止める。僕の次の選択。それは――。

 僕は意を決して、握っていたパンにかじりついた。表面の歯応えを犬歯で突き破り、前歯で裂き刻むと、少し湿気を帯びた味の無い空白が唾液と歯で分解されていった。

「あっはっは! 濡れて腐ったパンを食べるなんてな!」

 それは彼に対する決意の現れだった。目の前にいる青緑の瞳を宿した、悪魔のような男への。大声を吐き出すのをこらえ切れず、震えて笑っている。それが静まると、歪んだ口がゆっくり裂け開く。牙のような犬歯を尖らせた口から、彼は悪意に満ちた言葉を告げた。

「これでお前も共犯者だ」

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