3-3 悪魔 C

「来た」

 暗闇に飛び込んだ僕を迎えたのは、少し幼さの残る掠れた声だった。

 壁に空いた穴から差し込んだ光が、そいつの姿をほのかに映し出していた。銀色の髪が頬の輪郭を伝うように頭巾からこぼれている――そう、頭巾。

 胸に風穴を開けるような動揺が突き出ると同時に、彼は頭巾を脱いだ。ボサボサの銀髪。そして尖った鼻と耳。妖人エルフだ。彼をエルフたらしめる耳は先の方が少し欠けていた。だがそれ以上に目を奪われるのは、青緑という忌色を宿した二つの瞳だった。

「あの時の……」

 無意識に湧き出た一言の後、僕は衝撃から沈黙を解けずにいた。

「驚いただろ? お前が噂の魔人だよな」

 にっと笑ったその男は僕よりいくらか年上に見えた。いや、エルフなのだから想像より大分上なのは当たり前だ。だがその割には口調に無邪気ささえ感じる。

 値踏みするような表情の彼に、僕はまず名を名乗らせた。

「君は何者なの」

「オレはクィキリ。お前の敵でも味方でもない。一応はね」

 クィキリと名乗る青年は、差し伸べた手の平に青葉を乗せていた。それをごく小さなつむじ風で舞い上がらせてみせる。細やかな手品が出来るあたり、彼も魔人としての戦闘経歴はそれなりにあるのだろう。

 風が止まり、ふわりと浮いた葉がそっと手の平に戻るのを見守った後、僕は先の話に戻った。

「噂って何のこと?」

「さあな。お前は何だと思う?」

 質問を質問で返される。僕は少し考えて、ややぎこちない口調で答えた。

「エルナの村落を助けて回ってること……」

「へえ、初耳だな」

 彼の反応に少しがっかりした。もう少し評判を得ていると思っていた。あるいは、彼はここの人ではないのだろうか。

「オレが聞いた噂は、お前が神出鬼没のお助け魔人ってことだな」

 続けて出た彼の言葉に、僕は耳を疑う。

「何それ? じゃあ村を助けてること知ってるじゃないか」

「違う違う。オレが言いたいのはそれじゃない。具体的に言うと、お前は魔人を仕留める魔人ってことで話題になってる。この間も、火の魔人を水で撹乱して捕まえたんだって?」

「あのこと? 迷惑な魔人がいることに耐えられなかったからやったまでだよ」

「そうだそうだ。魔人にとって一番の『迷惑』、決め台詞として広がってるぜ。訂正するなら、迷惑じゃなくて『冒涜』だな」

 そんなこと言ってたかは分からないが、彼は僕の返答に手を叩いて笑った。決め台詞か。どの道覚えてないから勝手に広まってくれればいい。

 そんな僕のやったことににこやかに反応していた彼だが、少しして頭を掻き、笑顔をにわかに止めた。青緑の瞳をまぶたで隠し、一呼吸置いて再び目を開ける。その瞳は、さっきまでの鬼火のように輝いていたものと違い、わずかだが確かに淀みを感じさせるものだった。

「……どうしたの」

 悪人がするような弓張り月の瞳の光に、僕は恐怖を漏らした。

 クィキリの口がそっと開く。

「くだらねえ」

 吐いて捨てるように言い放った彼の表情に、僕は戸惑いと怯えで息を詰まらせた。見え隠れした鋭い牙が、その一言の攻撃性を強調した。

「オレにはお前の『善意』が分からないんだ。オレの周りには、そんな奴いなかったから」

 冷えた夜の空気のような鋭い口調だった。まるで僕を怨むような瞳の揺らぎに、僕は隠していた心の気持ち――彼が悪魔かもしれない、という恐れが湧き上がる。

「だからくだらねえんだ。お前の中にある善意って奴が。お前は誰かの為に働くことに喜びを感じているんだろう? でもそれは誰かに感謝されてもらえて気持ちよくなってるだけじゃないのか?」

 誰かの為に働けて喜んでいる自分? そんな想像はしたことない。でも、彼の言葉を完全に理解できないでいる自信もなかった。思い詰めて視線が下がる。

「分からない……でも、人を助けると、無意識に心が温かくなる」

「その鼻につく態度が気に入らねえって言ってるんだよ」

 視線を正面に合わせると、彼の目つきは更に悪くなっていた。手にはささくれた木片が握られている。

「ちょっと待って。何を苛立っているの?」

「そうだな、誘いにまんまと乗ったお前の頭の足りなさかな。だがそれよりも、そんな頭で抱えてる『思いやり』とやらに呆れてんだ」

 彼の声の怒気がより鋭くなる。僕が言葉を返す間もなく彼は口を開いた。

「誰かを助けると心が温かくなる? そんな感情がてめぇに宿ってる時点でお前の助力は純粋じゃない。ただの『偽善』だ。純潔な善意でも義務感でも無い。お前は他人の喜びに満足することでその味を知ってしまって忘れられない、だから偽善を繰り返す程飢えてるんだよ。お前の善意は無邪気じゃない、ただの独りよがりだ」

 まくしたてられる言葉が感情への推進力になるかのように語気が強まり、その頂点として彼は手に持っていた切れ端を僕に向けて投げた――それに気づいたのと全く同じ瞬間に、風が空を切る感触と音が耳をつんざいた。身体の奥底を痛めつけるような言葉の最後に襲いかかる凶器は、感情の暴風が一箇所にまとまって僕にぶつけられるかのようだった。

 放たれた全ての言葉は、僕のしてきたことを一切否定するものだった。さっきの木片のような言葉が嵐に巻き込まれ、その中で身体の奥をズタズタに引き裂かれたような感覚だった。

「まだ怯えてるのか」

 鋭い語気の言葉がまた発せられ、身体がすくむ。

「怖いか? ここにあるもの全部、風に乗せてお前にぶつけてもいいんだぞ」

 そう言って彼は、机の上に置かれた道具箱を開け、無数の凶器をちらつかせる。足元にある木箱にも何かが入っているかもしれない。食べ物だろうが何だろうが、形あるものであれば何でも風に乗せて僕を殴ろうとしてくるだろう。

 箱から木片を数本取り上げ、僕に向けてそれを突きつける。その仕草の途中で小さく石が擦れるような音がした。音の出た場所は彼が腰につけた小さな袋だった。気づいた彼の口元が少しだけほころぶ。

「これも、お前にぶつけるべき苛立ちが形になったものだな。ま、ただの石ころだけど。安心しろよ、傷つけても命までは奪わねえから。次は目かな?」

 不気味な色の瞳が大きく見開かれる。殺意とほぼ変わらない感情に、僕は身体がひどく震えるのを感じた。

 急いでここから逃げなければ。だが扉を開けた先には恐らく野次馬を追ってきた騎士がいる。川面の異常を聞きつけて僕の元へ戻ってきているはずだ。それに、今不用意に動けば彼が何をするか分からない。魔法を使ったとて同じことだ。水と魔法の流れが目や肌で感じ取れる以上、どの道抵抗手段が無い。

 それでも抗わなきゃ。でもどうして、身体が動かない。風の魔人と見くびっていた僕が馬鹿だったのか。目の前には悪い魔人がいる。僕はそいつをこらしめることができると今まで思っていた。だけど、ここに来て無力を悟ることになるとは思わなかった。思いたくもなかった。

 自分の弱さを自覚した僕は、うなだれたまま目を閉じた。

「〜♪」

 すると彼は突然口笛を吹いた。呆気にとられてまぶたを開くと、そこにはご満悦そうに微笑む彼の姿があった。

「その表情を待ってたんだよ。怖かっただろ?」

 ペンのように針を指で回し、それからまた僕に突きつける。

「他人を支配するには恐怖が一番効率が良いんだ。オレは過去にそれを痛感したからね。やっぱり痛みと恐怖を想像させれば人は簡単に屈服する」

 そう言って構えを解き、手に持っていた凶器を戻した。まだ頭にこびりつく恐怖の隣に、彼の言葉に対する疑問が現れた。

 彼は過去何かあって、このような性格になったのだろう。

「それにしても、魔法も使わずに痛みを受け入れようとするなんて、お前もおかしい奴だな。それが出来ないくらい怖かったのか? それでも男かよ」

 僕を小心者となじる彼の言葉に、僕の中で火花が弾ける音がした。とっさに口を開き、「そういうわけじゃない」と言い訳すると、「じゃあなんだよ」と彼がまた投げかける。

 僕は少し間を置いて、

「どの道逃げられないんだ。ここから離れようと、君を倒そうと」

 と答え、ほんの少しだけ睨みつけた。彼の眉間にしわが刻まれ、また亡骸のように冷たい眼光が僕を突き刺してくる。

「それって、喧嘩売ってる?」

 しまった、言葉が悪かった。そんなつもりは無い、と答えても無駄なのだろう。張り詰めた空気が再び恐怖を増大させる。

 だが次の瞬間、彼はため息の後にあのにやけ顔になり、道具箱を鞄に入れながら明るい口調で独りごちた。

「まあいっか。さっきの恐怖を覚えてんなら、次は無いって分かってるよな」

 僕はその言葉を聞いて落ち着かない安心を覚えた。加えて彼は自分の実力に相当自信があるのだろうと推測した。

 風の魔法は文字通り空気の流れを思いのままに操る力だ。けれど他の魔法に比べると基本やや低く扱われる。炎、水や氷、地変または腐毒のように、強さや恐ろしさ、あるいは自然の恵みへの連想がしづらいのだ。言い換えれば、形がないから強さが分からないと言える。だが、形が無いなら他から形を持ってくれば良い。強い風が吹き荒んでも比較的被害は少ないが、その風が別の形を巻き込んでいるなら話は別だ。形を含んだ風はあらゆる物を切り裂き、打ち壊す災害になる。彼が放った木片は、その小さな例だ。

「それで、逃げられないってどういうことだ?」

 机の前に置かれた椅子に座り込みながら、彼は僕に問いかける。

「怪我さえすりゃ、逃げる時間はいくらでもあったろうに」

 頬杖をついて眉を潜める彼の顔を見て、僕は少し気恥ずかしくなりながら外の方を指差した。

「川の方を見てほしい」

 それを聞いて、「答えになってないね」とうそぶきながら彼は椅子から立ち上がると、日の光が差す小さな窓を覗いた。そこで彼は目を丸くした。

「凄ぇ。川が凍ってる」

 魔法の技術に素直に驚いているようだった。だが間もなく彼の口角が吊り上がり、しまいには笑いをこらえきれず吹き出した。

「ハハハ〜馬鹿だねえ! そりゃこんなことしてたら大騒ぎになるさ。迂闊すぎる!」

 窓と僕を交互に見ながら彼はしばらく笑っていた。恥ずかしさが徐々に高まり、慣れない熱さが顔中に膨れ上がった。

「はぁ、久々に笑ったよ。わざわざこんな所までご苦労さんだ」

 一分ほどだろうか、抑えきれない笑いを深呼吸で強引に終わらせた彼が、また何かを含むような笑顔を見せた。

「あんまり大声出されるとここがバレるよ」

 彼の笑い声に目をそらしつつ、僕はすねた言い回しで忠告した。すると彼は僕の方に近づいて肩を叩いた。馴れ馴れしい。

「まあまあ落ち着け。言っただろ? お前がここに来るってことも、そして逃げられないことも分かってた。人通りの多い場所で迷惑かけたら、正義感の強いお前はすかさずオレを追ってくる。単純なんだよ。オレの策に嵌まるくらいにはね」

 返す言葉も見つからず、僕は目を伏せた。

 単純。そう言われて、僕の心の水面にまた石を投げられた気がした。さっき彼に言われたあの矢弾のような言葉が、今も僕の心を揺るがせている。僕が今までやってきたことは正しくなかったのか? 『正義』という言葉では括れないものなのか? 今までやってきたことに意味はあったのだろうか。

 独りよがり――他人の感謝に喜びを感じることって、もしかして悪いことなのか?

「もしもし? 聞こえてる?――はぁ、お前って『愚鈍』な奴だな」

 顔を見上げると、彼は背中を向けて壁に手をつけていた。枠で囲まれた石の扉が、急に回転し始める。異界の忍者がよく使っていたという隠し扉のようだった。

「ここから反対側の運河に行ける。そこに相棒を用意してあるからさ、行こうぜ」

 暗がりに入っていく彼の背を追って、僕は荷物を背負い直して前へ進んだ。彼に追いつくと、気になっていたことを質問した。僕は色々な言葉や物事をライラックやマギに教えられてきたが、さっきの言葉は初耳だったんだ。

「ねえ、グドンってどういう意味?」

 彼は振り向かずに言い返した。

「馬鹿で間抜け、って意味だよ」

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