3-2 悪魔 B

 『青緑』。あるいは『碧色』、もしくは『翡翠』。

 忌色。<悪魔オルクス>の血の色だ。通常多くの生き物、特に人間に流れる血の色は、情熱と生命力を凝縮させたような強い赤色をしている。だがおとぎ話に語られる邪悪な悪魔の血液は、手付かずの自然における生物には全くもって存在しない、緑とも青ともつかない不気味な色をしていた。それは死の色、悪魔の色、穢れの色。

 その色を人間が宿している事実に、まず生理的に発したえずくような嫌悪感が胸を突き上げ、間もなく自分が『性』として持った差別意識に別の不快感を覚えた。その後に、生まれついてその瞳の色だったはずの少年に、同情を募らせずにはいられなかった。

「ヘルク、ヘルク? 買い物終わったわよ」

 肩をポンポンと叩かれて、僕は我に返った。真横には、心配そうに僕の顔を見つめるマギがいた。あの男とは対照的な、赤褐色の目。そしてどこにでもいる焦茶色の髪。

「あー……うん」

 目の前で待っていたライラックの所へ戻り、人混みで溢れる十字路を真っ直ぐ進んでいく。人混みの波をかわしながら、その中に瞬いていたあの色を思い出す。

 (ゴブリン)

 誰にも気付かれないような声で、そっとその言葉を捨てる。

 身体つきの細かったり、逆にふくよかな子供が、強気な子らの集団にいじめられている光景を村で何度か見たことがある。ゴブリンも神話やおとぎ話に語られる悪い生き物で、そいつは骨と皮だけの頼りなく小さな身体に、大きく張り出した腹を持つ怪物だった。

 異界の伝承には<餓鬼>という化け物がいるが、あれとよく似ている。一体あたりの力が弱い分、集団で獲物に襲いかかって、一生満たせない腹を満たす――この説明だけでは、むしろいじめっ子につけられるべきあだ名だ――その性質と竜神の活躍によって、今ではゴブリンの姿はほとんど見かけなくなった。それこそ彼らを保護する人間がいるって言う噂があるくらいには。言い換えれば、ゴブリンは人々にとって『他人事』となったということ。だから、他人をゴブリン扱いする人が出てくる。

 人が『人』に見えなくなる。でもそれは――


 歩きながら回していた思考は、ここで一旦止まった。止めざるを得なかった。

 前方を歩いていたライラックの動きがぴたりと止まる。背中にぶつかり、振り向いた彼に謝った時、そのまま僕の肩を抱いて反対の方向へと歩いていった。

 その時になってようやく目の前の異常を感覚で悟った。止まる人混み。彼らのざわめき。苛立ち。怒号。遠くから聞こえてくる呼びかけ。

 十字路の袂に戻り、声の方向を見ると、通行人の黒い波が沸いた湯のように上下に揺れる。その中ほどから遠くへ向かって、波が左右に割れていく。その割れ方は不自然だった。自分から動いたのではなく、何かに押されているかのような。だから人々の騒ぎ声が聞こえている。よく見ると、その左右に分かれた人々の群れは不安定に揺れ、やがてドミノのように崩れ始めていく。

 人波を押し分ける程の強い力――これは、魔法?

「待てヘルク!」

 あの時と同じように身体が動いた。人混みをかき分けるのに必死で、今度はライラックの制止する声がくっきり聞こえた。でもそれで止まる僕じゃない。また僕にとって『迷惑』な奴が現れたみたいだ。

 人波の裂け目の始点にようやく辿り着くと、僕は一気に走り出した。目の端に、黒い雪崩のように乱れた人達の怒声が聞こえる。目の端から、黒と茶色の波頭の中に混じる白銀の頭が見えた。珍しい髪色だが、今はどうでもいい。

 混乱する人混みが途切れた通りを抜けると、僕を狙いすましていたかのような追い風が吹いた。風を読むのは難しいから判断に迷う。仮にこれが魔人のもたらした風であるならば、なおさら意味が分からない。何故僕の背中を押す?

 単純な疑問を考えた所で、僕は徐々に強くなっていく風に気を取られ、足を取られていく。追い風が止まらない。消耗する僕をあざ笑うように、風はますます勢いを増していく。目の前の景色が素早く流転していく。

 そして高い建物の目抜き通りを抜け、川に沿った道の交差点に出くわしたところで、僕にかかった気圧が突然身体の左右へと流れていく。急な変化に、思わず躓いて膝をつく。いきなり身体の動きを止めた影響で、背負っていた負担がどっと押し寄せて、追い風の代わりに僕を押しつぶそうとしてくるようだ。

 上がる息を何とか抑えた所で、交差点の真ん中で周囲を見回す。風に翻弄されて肝心の魔人の姿を見逃したらしい。視野の狭い自分を呪った。それに、仲間ともはぐれてしまった。

 その場でしゃがみ、途方に暮れたまま地面を見下ろし、それから右手に流れる川の音でしばらく虚しさを消した。川の水も底の石も、流れに逆らえない自分自身に後悔するのなら、それは正しく今の自分自身だなと思った。

 その時はチリチリと何かが擦れる音に気づかなかった。何を考えているのだと思いながら、とりあえず元の十字路に戻ろうかと腰を上げた時、自分の周囲に落ち葉が散らばっていることに気づいた。いや、その言葉は合わない。綺麗に円形に並んでいる、といった方が正しい。

 僕はまず目を疑い、そして確信し、顔を上げた。まだ魔人は近くにいるようだ。そうでなければ、こんな器用な真似はしない。奴は多分僕を試しているが、その理由は何だ? ただ挑発しているだけか、それとも何か言いたげに回りくどく僕を誘っているのか。

 何にせよ、売られたケンカは買っておこう。

 足元を囲んでいた落ち葉が動き始めた。咄嗟にその場から離れると、葉っぱがつむじ風に舞い上がり、<蛟《みずち》>のように長い木の葉の列が頭上を通り過ぎた。僕を誘い出す木の葉を追って川沿いの道へ向かう階段を降りていく。少しだけ真っ直ぐ飛んだ風はすぐに右へ曲がり、対岸の方へと飛んでいった。ちょうど真向かいに小さな扉が見える。風はその扉にぶつかり、漂わせていた木の葉を落としていった。

 遠くからざわめきが聞こえる。振り返ると、辺りをキョロキョロと見回す人が数人いるようだ。僕を探しているのだろう。どうやら奴の顔を見る機会は今しか無いみたいだ。それに時間の有無があっても、僕のやることは変わらない。

 流れゆく川を目の前に少しだけ屈伸した後、僕は靴を脱いで裸足になった。そして水面につけた足に意識を集中させた。身体中をうっすら包んでいた冷気が片足に集中していき、そこから氷が広がっていく。初めて足から氷を生成したが、気にしていた裸足への痛みは全く無い。身体はもうすでに慣れっこらしい。

 氷の床に片足で立ち、強度を確認する。軋む音すらしなかった。一瞬で作り出したにしては上出来だ。これならいける。そう確信した僕は両手に靴を持ち、水面に刻んだ氷の道で一気に対岸へと駆け抜けた。つむじ風の主がもたらした試練は、何とも呆気なく乗り越えられた――。

 そう思って満足げに川を見返した所で、僕は今まで気付いていなかったことに愕然とした。本来自分の冷気では感じないはずの寒気が全身を駆け巡った。

 (この氷、どうしよう……?)

  ざわめきが大きくなっていく。解ける前に氷が見つかってしまう以上、このままでは僕の存在を察知されるのは時間の問題だと悟った。

 とりあえず姿を消さなくちゃ! そう思うが早いか、目の前の扉に手をかけて扉の奥へと転がり込んだ。

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