44.夕暮れ

 10月中旬のうららかな日曜の昼時。武蔵野亭は食べ物を提供していないので、ランチタイムは比較的客が少ない。

「渚さんって英語得意?」

 聖が話しかけてきた。渚は午前中のアルバイトが終わったあと、来週から始まる二学期の中間試験の勉強をしている。

「まあまあかな」

 嘘ではない。英語は学年でも上の方だ。

「じゃあ、ちょっと教えて欲しいんだけど」

 聖に何かを頼られるなんて本当に珍しい。でも悪い気はしない。少なくとも何か一つは自分の方が秀でていると感じると安心する。1学年上だから当たり前なのだが、それくらい今の聖からは万能感が溢れている。

 見せられたテキストの「ここがよくわからない」という該当箇所を解説してあげると、聖は何かを考え込む顔になった。

「説明、分かりにくいかな?」

「いや、よく理解できた」

「じゃあ、もっとそういう反応してよ」

「いやあ、渚さん、本当に英語できるんだなって」

 失礼なやつだ。自分から聞いておいて。ちょっと調子に乗り過ぎではないか?

「あのねえ……」

「ごめんなさい、お礼にお昼俺が作ります」

 武蔵野亭のオーナーの遥さんは、近々ランチメニューも提供したいらしく、聖に料理を教えている。「意外とあの子、料理の素質もあるみたいなのよね」と言っていた。

 しかしここで怒りを引っ込めたら、ただの食い意地がはった女ではないか。

「いや、そうじゃなくて。自分から聞いてきておいて、その態度は失礼だと思わないの?」

「ごめんなさい。マジで調子に乗ってました……」

 素直に謝られると、それ以上は責められない。

「もういいよ。別に教える分には構わないから、また分からないとこあったら聞いて」

「ありがとう。渚さん午後は用事ないの?」

「なに、またヒマ人だなってからかいたいの?」

 納めた怒りが顔を出しかけたが、それを察した聖が慌てて、

「違くて、渚さんがみてくれるなら英語の勉強サクサク進みそうだから、早めに切り上げて気分転換にどこか出かけたいなって。渚さんもずっとここでバイトしているだけじゃ飽きるでしょ」

 おや。気をつかってくれているのだろうか。それともあたしを遊びに誘っている? あたしは楓みたいに可愛くないし可愛げもないぞ。

「いいよ。じゃあ、聖くんにランチ作ってもらって、どこか外で食べたいな。川沿いとか公園とか」

「実は俺もピクニックを提案しようと思ってたんだ」

「どこか行き先の候補はあるの?」

「久しぶりにあの公園に行ってみない? 猫のたくさん出る国分寺の方にある史跡公園。向こうで少し遅めのランチして、日が暮れるまでのんびりして。秋の夕暮れが綺麗って千歳さんが言ってたじゃない」

 その一言が呼び水となって記憶の底に沈澱していた怪猫事件が蘇る。このまま誰とも語ることなく、消えていくのかと思っていたけれど、少なくとも聖の胸にはしっかりと刻み込まれていたのだ。それが嬉しかった。

「それいい!」


 国分寺駅でバスを降りて、史跡公園に徒歩で向かう。紅葉にはまだ早いが、木々の葉の色が燻んできていて、あちこちに落ち葉が散らばりはじめている。「東京は自然が少ない」と聞くけれど、本当にそうなのだろうか。それとも同じ東京でも都心の方に比べたらこのあたりは自然が多いのだろうか。毎日が窮屈で退屈だと思っていたけれど、このあたりの風景は好きだ。地元の調布、学校のある府中、ここ国分寺……。このあたり——つまり武蔵野の原風景が残っているところ。これ誰が言ったんだっけな。遥か千歳か高幡あたりだろう。飛田だったかもしれない。

 それにしても我ながら矛盾している。常に閉塞感があって刺激を求めているのに、ここを出ようと思わないなんて。

「なんでだろう。嫌ならとっとと出ていけばいいのに」

 なぜか地元を出たいとは思わない。今でも新宿や渋谷まで1時間もかからずに行ける距離にありながら、ほとんど行ったことがないし、特に行きたいとも思わない。そんな私でもそのうちここを離れて、もっと都心で暮らしたいと思うようになるのだろうか。

 木々の密度が一段と濃い清流沿いの散策路を通って渚と聖は史跡公園に向かう。3時を回ったばかりなのに日の差し方から日暮れの気配がする。涼しい秋風も少し歩いて温まった体には心地よい。


 ピクニックで正解だ。秋の高い空から降ってくる日差しのもとで食べるご飯は美味しい。遥のいう通り、聖が作ってくれたオムライス弁当はお店で出せるレベルだ。その後、水筒からコップに注いでくれたコーヒーも格別だった。外で飲むホットコーヒーがこんなに美味しいとは。

「ふと思ったけど、渚さんっていつからコーヒー飲めるようになったっけ? アルバイト始めた時苦手だったよね?」

「うん」

「なんでコーヒー苦手なのにカフェでバイトしようとしてんだろこの人って思ってたもん」

 ひと言多い。

「いつからだろ。地域文化研究部の人たちが出入りするようになっていろんなコーヒー淹れるようになったでしょ。そしたらなんかコーヒーって面白いなって思って。レオたちが入れてくれるいろんな豆のコーヒー飲み比べてるうちにいつの間にか飲めるようになってた」

 レオのことを口に出したら、ちょっと寂しくなった。武蔵野亭では今は一週間に1回顔を合わせるか合わせないか、といった具合だ。

「えーと」と聖が露骨に話題を変えようとする。

「遥さんから言伝があったんだ。来月初め、また神社のマーケットに出店する話があるんだって。すっかり人数少なくなっちゃったけど渚さんが手伝ってくれるなら出店しようかって」

「え、もちろんやるよ!」

「予定とかないの?」

「そういう聖くんはあるの?」

 今度は聖が言葉に詰まった。無闇やたらと人にツッコミを入れるものではないよ。

「じゃあ、やることになるのかあ。春、結構大変だったよなあ。寒かったし」

 たしかに。でも楽しかった。あの時参加したから、この半年が刺激的になった。いや、そもそもその前にオープンしたての「武蔵野亭」に足を踏み入れなかったらこんな経験はできなかったし、聖やレオたちとも交流を持てなかった。ということは、やっぱり漱石のおかげか。「この物語は猫に始まる」と心の中でつぶやいて、あれこのフレーズなんだったっけなと思い出そうとするけどもう思い出せない。

「仙川先輩たちにも声かけない? 1日くらいなら手伝ってもらえないかな」

 いいアイディアだ。レオにはすぐに声かけよう。それにしても聖は本当に社交的になったと感心する。

「コーヒーまだあるよ。もう一杯飲む?」

「うん、いただく。ありがとう」

 風が冷たくなってきて、暖かいコーヒーが全身に染み渡る。だんだんと空がオレンジに変わってきた。

「実はもう一つ話があってさ」

 聖をみると、渚の方ではなく沈んでいく太陽の方に目線を向けている。

「高幡さんからメールがきてさ。東京不思議新聞に勧誘されたんだよね」


「東京不思議新聞って、飛田……先生たちが昔作ったっていうアレ?」

「そう、色々な民間伝承とか妖怪とかを調査して記事にしているっていうアレ」

 数ヶ月前まで武蔵野亭に下宿していた高幡さんたちがやっている有志によるウェブ記事。

「23区より西側の多摩地域も探れば色々出そうだけれどこのあたりがホームのメンバーがいなくて困っているんだって。高幡さんも都心に帰っちゃったし。時間がある時でいいので資料集めたり、調査したり、あとこの間みたいに何か怪異があったら記録するとか、そういうことをお願いできる人を探しているみたい。まあ基本的には誰かから指示が来るからそれに従えばいいってことらしいんだけど」

「それで? 引き受けたの?」

「迷ってる」

 そうか。迷うのが当たり前だし、聖が気が進まないんだったら断っても構わない話だ。ただ渚は何かしら惹かれるものがある。

「俺さ、別に妖怪とか怪異とかにそんな興味あるわけじゃないんだよね」

「そうなの?」

「そうだよ。逆に興味あるように見えた?」

「興味かは分からないけれど、漱石の事件に取り組んでいる時、聖くん誰よりも頑張ってるように見えたよ。事件が解決してここから帰る時も本当に自信に満ち溢れている顔してた。私なんかに言われても嬉しくないと思うけど、最初会った時には想像できなかったくらい明るくて頼りになる男の子になってるよ」

「嬉しいよ。嬉しいに決まってるじゃん」

 照れたようだ。

「そう? なら良かった。何が言いたいかっていうと、そんなふうに自分を大きく変えてくれる何かなんだから、聖くんは怪奇現象と相性いいのかなって思ったの」

 聖は何も言わない。言葉を探しているようだった。

「俺、別に事件そのものがどうとかじゃなくて、楓……、先輩たちが気持ちよく助けてくれて、みんなもどんどん一生懸命になっていって……、そうした中で自分が責任

感を持てて、力も発揮できて、大きく貢献した手応えもあって……、そういうのが嬉しかったんだ。別に一人でオカルト研究したいとは思わないよ」

 言いたいことは分かる。そして楓に気があるのがバレバレなのに隠そうとしているところは、年頃の男子らしくて可愛い。

 そういえば、聖の一人称っていつから「俺」になったんだろう。最初会った時は「僕」だったと記憶している。

「じゃあさ、不思議新聞も一緒にやろうよ。私でよければ付き合うよ」

「ホント!?」

「うん。まあ楓やレオやリュウほどは役に立たないけどね。それでもよければ喜んで」

「何言ってんだよ。怪猫事件、最初みんなが全然やる気なかった時に、渚さんがやる方向に持っていってくれたんじゃない」

 そうだっけ? そんな意識なかったけれど。そういえば千歳にもそんなこと言われた気がする。

「渚さんがいなかったらまだ事件はほったらかしのままで、このあたりヤバいことになってたかも知れないよ」

 こうやって怪猫事件のことを話していると、みんなの中で風化したと思っていた出来事が息を吹き返してきたみたいで嬉しかった。

「じゃあまた一緒にやるってことでいいのかな? よろしくね聖くん」

「こちらこそ! でも渚さんこそ妖怪とか怪異とか興味あるの? あんまりそういうタイプには見えなかったけれど」

「うーん、どうだろ。そういう非日常が少しはあった方が楽しいのかも、とは思うよ。ただ不思議新聞の話に興味を持ったのは、地元が好きっていう方が大きいかな。このあたりのこともっと調べることはやってみたい」

「じゃあむしろ地域文化研究部に入ったら? 部員少ないから歓迎されるんじゃない?」

「それ考えてるんだよね。でも顧問がアレだからなあ」

「あ、それ聞いた時びっくりした。結局アレ、顧問のままなんでしょ。先輩たちどう思ってるんだろ」

「彼らは本当に大人なんだよ。そういうとこは見習わないとね。あたしも苦手なことから逃げてばかりじゃ、自分の可能性狭めちゃうから」

 そこまで話した渚を、聖がじっと見ている。

「なに?」

「なんか渚さんも変わったなって」

「なにそれ、どうゆうこと?」

 聖が真面目な口調で言ったので、つい苦笑してしまう。

「大人になったなって」

「それ失礼だから!」

 なんでだよ褒めたのに! 私の方が年上だからよ!

「あーあ、夕暮れ。せっかくゆっくり眺めて感傷に浸ろうと思ったのに、もうすぐ沈みそうじゃない。聖くんのせいで」

 俺の? という不満げな声を無視して渚は努めて心を落ち着け、今にも隠れそうな太陽を眺める。地平線のあたりは青とオレンジが混じり合って本当にきれいだ。残光を浴びている周囲の木々も枯れ草も。

 耳を澄ますとカラスがカアカア鳴いている。千歳が好きだと言った秋の夕暮れ。きっとこの景色も古代から続く武蔵野の風景だ。「悠久の武蔵野」なんて作らなくても、今の武蔵野にも美しい景色はいっぱいある。

「やっぱり、ここの夕日綺麗だったな」

 そうつぶやく聖の足元に見知らぬ野良猫さんがやってきた。

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