35.悠久の武蔵野
灯火はすぐに消えた。けれどもなんだかおかしい。もう一度覗き込んでから意を決して中に入った聖は、不法侵入の後ろめたさではなく、本能的な恐怖のために引き返したくなった。
今日は最近では珍しく晴れている。外はまだ十分明るかった。薄いカーテンはひかれていたが窓から多少なりとも光は入ってくるはず。それなのに中は真っ暗だ。手探りで歩き続けても壁にも家具にもぶつからない。マンションの一室ではありえない広さだ。
違和感は明日の裏からも生じていた。土を踏んでいるような柔らかい感覚がある。
「剥き出しの地面みたいですね」
千歳の声がした。その声でようやく冷静な心を取り戻した聖は、スマホのライトを地面に当てる。フローリングや板張りといった聖が知る室内ではない。コンクリートなどの舗装された道ですらない。公園とか雑木林みたいに人の手の入っていない地面みたいだ。草木の瑞々しい匂いもする。ここはいったいなんだ?
「千歳さん、他のみんなは? 暗くて見えないんですけど、ついてきていますか?」
「さあ。渚さんは中に入った時は近くに気配を感じたんですけれど……。渚さん、いますか?」
千歳が少し大きめな声で呼びかける。だが返事はない。
「あの、僕たちどうすればいいんでしたっけ?」
「漱石がいるかを確認して、飛田先生から私の団扇を取り返すんですよ」
そうだった。空間の異様さに飲まれている場合じゃない。数回深呼吸すると心が落ち着いてきた。剣道の稽古で身につけたことが役に立っている。しばらく歩いてから、大声で漱石の名を呼ぼうとしたが、飛田に見つかるかもと思いとどまった。
「千歳さん、とりあえず探索するしかないと思うのですが、離れないようにお互いくっついていた方がいいですよね?」
千歳からの返事はない。代わりにカアー、という鳴き声が聞こえた。遅かった。千歳ともはぐれてしまったようだ。
「カアー、カアー」
カラスは鳴き止まない。何かを訴えているような気になってきた。カラスって真っ暗闇でも鳴くのか。
「どうしようか……」
どうやらいま聖の呼びかけにこたえてくれる人は誰もいないようだ。入ってきたドアも分からなくなってしまった。聖は心を決めて、聴覚を頼りにカラスの鳴き声がする方に足を進めた。
すでに五分くらい歩き続けたが、カラスの方も移動しているのか、声との距離が縮まった感じがしない。若干目が慣れてきたけれど、まだ周囲はよくみえない。足首に何かが触れている。歩くとパリッと音が鳴り、薄くて軽い何かが崩れる感触がある。落ち葉だ。足首に触れているのは伸び放題になった雑草だ。深大寺の近くでも、こんな風に雑草が伸び放題になっている林がある。
ようやくカラスの鳴き声が近くなった。姿は見えないけれど近くに気配を感じる。と、その時、聖の目の前で小さな玉が二つ光った……ように見えた。
目を凝らすとまた光った。それは生き物の瞳だった。よく見慣れた目、猫の目だ。じっと聖を凝視し逸らそうとしない瞳。ただ瞳の位置は聖の腰くらいの高さである。もし猫型の生物だったら虎かライオンくらいのサイズ感ではないか。聖の知っている漱石ではありえない。それでも聖は呼びかけてみた。
「漱石?」
じっとこちらを見ている瞳がかすかにゆれる。
「漱石、こっちにおいで」
しゃがんで手を差し伸べる。瞳の持ち主は恐る恐る近寄ってくる。聖の心を恐怖が支配する。このまま噛みつかれて手を食いちぎられてしまうのではないかと。
しかし猫科の生物は襲いかかってはこないで、かわりにススっと聖の身体に自分の身体を擦りつけながらひと回りして、ゴロンと横になる。聖はこの生き物を撫でても良いものか迷っていた。
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