36.悠久の武蔵野②

「渚さん」

 声が聞こえた方に、懐中電灯がわりのスマホを向けると千歳がいた。

「千歳さん、ここはいったいなんなの? おかしいよね、草が伸び放題だし葉っぱも落ちている。まるで公園か林みたい」

 自分は確かに304という標識のあるマンションの部屋に入ったはずである。そのはずなのだが、それすら気のせいなのではないかと思えてきた。本当は建物などに入らず、途中でどこかの雑木林に入ったまま夜を迎えてしまったのではないか。あるいはこれは夢なのではないか。その場合どこからが夢なのか……。そんなことを考えていても、いっこうに覚める気配はない。

「おそらく、武蔵野にある雑木林ですね。それが現実にある場所なのか、想像上のものかは分かりませんが……」

「ごめん、何を言っているのか分からない。想像上の雑木林ってなに?」

「つまり、妖怪が作り出した幻だと思われます」

「一応確認だけど、その妖怪って漱石のことよね?」

「でしょうね」

「でもおかしくない? だって漱石が怪猫かいびょうだった場合、その力って天候を乱すような力なんでしょ? これ違う能力じゃない」

「以前言いましたけれど、今どきの妖怪は不定形なんです。その時々に関わる人間との相互作用によって、姿形も引き起こす怪異も変わってきます。『そんなはずない』なんて理屈には付き合ってくれません」

 千歳の声は抑揚に乏しく、感情が分からない。顔が見えない今の状況では、感情が分からないのが不安で仕方がない。それでも渚ははぐれないように千歳の服の裾を掴む。

「とにかく元凶を突き止めるしかないですね。出口も見失ってしまいましたし」

「他のみんなは?」

「分かりません。入った直後は聖くんと一緒だったんですけれど、はぐれてしまいました。他の方も中に入ったとは思うんですけれど」

「千歳さん、何か方法はないの? 千歳さんも妖怪みたいな術を使えるんでしょ」

「団扇か数珠があれば。でも今の状態ではたいしたことはできません」

 団扇は奪われ、数珠は壊れてしまっている。

「ねえ、なんでそんなに落ち着いていられるの? もしかしてそんなにまずい状況ではないとか?」

「いえ、どうしたらいいか分からず困っています。ものすごく焦っています」

 渚の恐怖はますます募る一方だった。楓や聖やレオ、それからわだかまりが残るリュウにさえ側にいて欲しいと思った。「お願い誰か来て」と心の中で唱え続けている。

「渚さん」

 また抑揚のない千歳の声がした。

「なに?」

「私は今パニックで、頭が働きません」

 そんなこと堂々と宣言されても困るよ! 

「ですので、楓さんが打開策を考えていただけませんか?」

 なんでよりによって一番頼りにならない私に? 反射的に浮かんだその言葉をかろうじて飲み込む。ここにいたって、これまで認めまいとしてきたことを認めざるを得なくなった。私以外の誰かだったら状況を打開する方法を考えられたかもしれない。でも私は、レオや聖のように武術ができて度胸があるわけでもなく、楓やリュウのように頭の回転も早くない。私が5人の中で誰よりも役に立たないのだ。恐怖に代わって情けなさと恥ずかしさが渚を支配していった。

「無理だよ、私じゃ。他の人だったら何かしら解決策思いついたかも知れないけれど」

 千歳は何も言わない。

「役に立たなくて、ごめんなさい」

 渚は情けなさに耐えながら、さらに言葉を絞り出す。

「私は無理だとは思っていません」

 相変わらず感情がつかめないが、断定するような強い声だ。

「私が武蔵野亭のみなさんに助力を求めた時、みんなを後押ししてくれたのは渚さんです。渚さんがいなければ他の人が協力してくれることもなかったかも知れない」

「でもそれだけでしょ。聖やレオみたいに力で相手を撃退できたこともないし、楓みたい何かを洞察できこともないし……」

「最初にカラスに襲撃されていた漱石を助けたのは楓さんでしょ。あれがそもそも私たちの接点を作ったんですよ。ですので最後まで責任をとっていただかないと」

 これは褒められているのか、責められているのか……。それでも少しずつ勇気が湧いてきた。

「そういえばあのとき漱石をつついていたカラスたちも千歳さんたちの仲間だったの? だとしたらずいぶんひどいと思うんだけど」

 数ヶ月前のとても寒い冬の朝だった。ずいぶん昔の出来事のような気もするし、つい昨日の出来事のような気もする。

「違います、あれは見廻り隊の一員ではなく、あのあたりを縄張りにしている野生のカラスです。ただカラスは勘が鋭いので、今思えば何かしら異常なものを感じたから襲いかかったのかもしれませんね」

 千歳がその事情を知ったのは、伝達員を通して耳には入ったからだった。見回り隊は武蔵国のほとんどのカラスたちと協力関係にある。

「なるほどね」

 話しながら気分が落ち着いてきた。気分が落ち着くと思考が活性化する。ごちゃごちゃだった頭の中の糸がほぐれだした。カラス、カラス……。

「千歳さん、ここってどこかの武蔵野の雑木林って言ったよね?」

「はい。そうだと思います」

「雑木林って結構カラスがいるイメージあるんだけど。実際いつも見てるし」

「そうですね」

 あいかわらず抑揚のない声で肯定する。

「じゃあ、もしかして何者かが作り出したこの林の中にもカラスがいるんじゃないかしら? 草木があるなら鳥類がいてもおかしくないでしょ? もしカラスたちが……」

「カラスたちがいるなら、ここを作り出した張本人のところに連れていってもらえるかも知れません!」

 抑揚がなかった千歳の声が1トーン上がった。

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