3.武蔵野亭物語
ホットチョコレートを飲み終わる頃、遥がまたやってきて、隣の椅子に腰をおろした。
「本当にありがとうございました。学校大丈夫だった?」
「いえいえ、たまたま通りかかっただけで……。はい、学校は全然大丈夫です」
後半部分は事実ではないのだが、あえて正直に全部話す必要もない。
「カラスって子猫襲うんですね、びっくりしました」
「本当にびっくりね。冬場は食べるものがないからイライラしていのかしら。それとも飢えていたから食べようとしたのかしら」
それは、あんまり想像したくない絵だ。
「でも困ったなあ。当分外に出すのやめようかな」
そんなことを話していると、つばのついたニット帽を目深にかぶった男性がそばにきた。遥と知り合いらしく、彼女の方から声をかける。
「あ、
よく来るお客さんだろうか。帽子を深くかぶっているためか、年齢はよくわからない。20代か30代だろうか。でも40代前半と言われても納得できそうな気もする。大人の年齢はよく分からない。
高幡さんという帽子の男の人は、
「そうなんですね。ありがとうございました。まあ僕の猫じゃないんですけどこの子好きなので」
それだけ言って入口に向かって去っていく男の後ろ姿を見送る。やや痩せ型で背は高い方だろう。ただ「かっこいい」と感じることはなく、リュックを背負いつば付きの帽子をかぶってテクテクと歩いていくその姿は、ムーミン谷のスナフキンというキャラクターを渚に想起させた。
「高幡さんは、このお店の二階に泊まっているのよ」
「え? ここ泊まれるんですか?」
宿泊施設にはまったく見えなかった。
「最初お店を出すときはカフェも兼ねたゲストハウスの予定だったんだけど、構造的に部屋数が二つしか取れなかったのと、管理が大変なのとで、見送ることにしたの。でも一応泊まれるようにはなってるから、今は二部屋とも知人に貸しているってわけ。厳密にはもう一人は来週からなんだけど」
渚はゲストハウスというものを知らながったが、説明してもらって民宿みたいなもの、と理解した。でも話を聞くと、そのふた部屋の借主は、数日間の宿泊ではなく長期滞在しているようで、宿泊客というより下宿人といった方が良さそうだ。いずれにしろ外部に開かれた宿泊施設としての機能はないみたいだ。
「あの、ここっていつからあるんですか? 私の家わりと近くなんですけど、こんなお店あるなんて全然知りませんでした」
オーナーの若葉遥がこの街に「武蔵野亭」というカフェをオープンしたのは2週間前。ごく近所の人を除き、まだ地域の人々にはあまり認知されていなかった。
「もともと祖父母の家だったのここ」
遥はカフェを開くようになった経緯を話してくれた。高校生の渚にはドラマチックな話だった。それは次のような物語。
遥は大学生になった頃から、コーヒーやカフェ文化にのめり込み、近所のお店でバリスタの修行に打ち込んだ。地元のみならず日本全国のカフェを訪れたし、世界のコーヒーのことを知りたくて、ヨーロッパや南米にまでも行ったりした。将来的に自分のカフェをやりたいと思うようになった。大学生活も折り返しを迎えて、まわりが卒業後の進路を考え始める頃は、まだその展望を持っていた。しかしいざ実際に始めようとすると、場所をどうする、とか運転資金をどうする、とか現実的な問題にぶち当たり、だんだんと熱が冷めていった。
「頭で思い描いている間は楽しいことしか想像できていなかったってことね」
親の反対が強かったことも、周りの友人が堅実に就職活動をしていたことも影響した。もしかしたら単純に飽きてきた、というのもあったかも知れない。結局は同期の友人たちと同じように一般企業に就職を決めた。就職してからは特にカフェ経営への未練もなく順調に会社員生活を満喫していた。転機が訪れたのは就職して八年経った頃である。祖父がなくなり、住居だった日本家屋をどうするか、という話になった。その頃の遥は、もうコーヒーに対する情熱はなかったが、今度は両親から、
「せっかく土地と店があるのだからカフェやってみないか」
と以前とは180度違う提案を受けた。
祖父の家は日本家屋で、古いがその分味があるように感じた。多少のリノベーションは必要だろうが、ゼロから店を建てる必要はない。昔カフェの立ち上げを考えた時に立ちはだかった困難のうち「土地」「建物」という大きな部分は解消されることになる。
「すごいですね」
渚が素直にそう感じたのは学生時代の遥のコーヒーに対する情熱である。遥がコーヒーを求めて国内外を旅した光景や実際にお店を開こうと調べ物をする光景が目に浮かぶ。「私にはそんなに夢中になれるものないな」とまた自信を失ってしまう。「好きなこと」とか「やりたいこと」は渚にとってコンプレックスになっていた。
「すごくないよ、その時はもう、『何をいまさら』って感じだったよ」
そう思ったのに結局話を受けてしまったのは、会社や仕事に嫌気が指しているタイミングだったからでさ、ある意味、会社をやめる理由を探していたのよ。でもそう話す遥は楽しそうで、それは今が充実しているからなのだろう。
「オープンしただけで、全然軌道に乗っていないしね」
それはそうかも。たしかに客入りは少なく流行っている感じではなさそうだ。3週間も経っているのなら、近所で多少は話題になりそうなものだと思うが、案外そんなものかも知れない。渚もご近所情報の感度が高い方ではない。
「バタバタしていても、少しは宣伝活動しておくべきだったね」
遥が苦笑いする。
渚が足元に目を落とすと、黒い子猫はまだそこにいた。
「この猫ちゃんは、もともと遥さんが飼っていた子ですか?」
「いいえ。このお店の開店準備をしている時にどこからかやってきて居付いちゃった。せっかくだから、お店のマスコットにでもならないかなと思って飼うことにしたの。招き猫的な、ね。それに高幡さんも気に入ってくれているみたいだし」
高幡というさっきの帽子の人は、遥さんとは数年来の知り合いとのことだった。会っていきなり色々聞くのは失礼な気がしたので、それ以上は聞かなかった。遥本人はこの建物には住んでおらず近くのマンションに両親と住んでいるとのことだった。
その後、お客さんが何組か来たので、遥はその対応をしていたが、時々渚の話し相手になってくれた。気がつくと窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。
「また遊びに来てね。飲み物注文しなくても、猫ちゃんに会いにきてあげて」
店を出る時、渚は気になっていたことを聞いてみた。
「あの、そういえばあの黒猫、なんていう名前なんですか?」
聞き逃すまいとずっと注意していたけれど、遥はついに猫の名前を呼ぶことはなかった。
「ああ、名前はまだないのよ」
そうか。名前はまだないのか。
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