2.帰宅部
「猫を助けていたから、遅刻しただと?」
担任が訝しげな目を向ける。やっぱり信じていないな。せっかくいいことしたのに気分が萎える。どうもこの担任とはソリが合わない。社会担当の男性教諭で、先生たちの中では比較的若い。29歳って言っていた気がする。若いためか生徒のやる気をやたらと引き出そうとするし、勉強に限らずひたむきに何かに打ち込むことを応援してくれる。それは悪いことではないだろう。悪くないどころか、あるべき教師の姿かもしれない。それは分かっている。実際、生徒に人気はある。見た目も悪くない。渚の数少ない友人である楓は「うーん、中の上か上の下かな」と評していた。けれども、学校生活の中で情熱を燃やすものがない渚は、この人がどうにも苦手である。担任の方もそれを感じ取っているようで、1年近くたっても、相変わらず何事につけ反応の薄い渚に良い印象を持っていないようだ。自分の考え方と合わない生徒に歩み寄ることは、彼にはできないようだった。渚も、自分の方から歩み寄っていけるほど大人でもないし、合わない人に愛想よく振舞えるほど器用でもなかった。そういうわけで毎日、この担任と顔を合わせる学校は今のところ快適ではない。
ただ朝の遅刻の件については、担任の方も嘘だと決めつけることはせず注意だけですんだ。失礼します、と言って職員室を出ようとした時、
「国領、念の為聞くけど、君が猫をいじめていたんじゃないよな?」
「は?」
唐突な質問にどう答えていいか分からなかった。それから怒りが沸々と湧いてきた。なぜ、善行をしたのに逆に悪事を疑われないといけないのか。
「あの、私の話聞いていました? 私は助けた方です」
「そうか。いやいい。悪かった。最近そういうことをする高校生がいるという話があってな。でもさすがに君は関係なさそうだ」
ひどいことをする人がいるものだ。
「とにかくどんな理由であれ遅刻はするなよ。今日が期末試験の日だったら、問答無用で再試験だ」
それについては「マジで良かった」と思った。あとはいつもと同じように、今日の授業が終わるまでやり過ごすだけだ。とりあえずちゃんと授業を受けて、楓たちとお弁当を食べて、また授業を受けて……。ん、楓といえば……。
「あ、小説の感想! 冒頭の一部しか読んでない」
やっぱりがっかりするだろうな、と思うと心が痛む。どうして私にとって普通に高校生活はこう気苦労ばかりなのだろう。
渚は部活にも生徒会にも入っていない。塾にも行っていないので、授業が終わったら帰るだけの典型的な帰宅部。もうすぐ一年が終わるというのに、こんなに刺激のない高校生活でいいのだろうか、と不安になることもある。
だからというわけではないけれど、今朝とっさに子猫を助けようと体が動いたことに、自分ごとながら驚いていた。自分にそんな行動的な一面があったなんて……。その驚きに対してか、それとも純粋に子猫を助けられたという結果に対してか、あるいはその両方かはわからないが、この日は気持ちが高揚していた。その感覚は学校が終わった後もまだ残っていた。高揚感に包まれたまま、渚は放課後「武蔵野亭」に立ち寄った。表に朝はなかったメニューの看板が出ていた。
中は暖房がきいていて暖かかった。学校から出ると風が強く吹いていて、ここまでくる間に身体はすっかり冷えてしまっていた。店内を一瞥するとそれほど広くはなく、学校の教室の半分くらいの面積だ。テーブルがいくつかあり、各テーブルのまわりに椅子が置かれている。テーブルも椅子も木でできている。飲食用のテーブル以外にも壁際に本棚があったり、観葉植物が置かれていたり、外国土産のような小物が置かれている棚があった。カフェ兼雑貨屋といったところだろうか。一つのテーブルに二人連れの女性客が座り何かを飲んでいた。
店の奥にカウンターがあって、カウンターの向こう側に小部屋があるようだがカーテンがかかっていて中が見えない。おそらくキッチンで、お店の人はそこにいるのだろう。思い切って「すいませーん」と奥にむかって声をかけると、朝の女性がエプロンをつけた姿で出てきた。
「あ、渚さん! さっそく来てくれて嬉しい」
笑顔で声をかけられ、なぜか少し照れてしまう。
「……どうも」
あたし感じ悪くないだろうか、と心配するが、女性は気にする風もなく、
「オーナーの
と自己紹介してから、カウンターに一番違いテーブルを目で示し、
「あそこに座って。あと好きな飲み物選んで。ごちそうさせてください」
とメニューを渡してくれた。コーヒーのメニューがたくさんあるけど、渚はコーヒーが飲めない。コーヒー以外のメニューをみて、ホットチョコレートに惹かれた。注文を伝えると、
「ちょっと待っててね」
と、その遥というオーナーはまた奥に消えていった。十分ほどして、ドリンクのカップとおしぼりをトレイに乗せて持ってきてくれた時、足元に黒い子猫がついてきていた。朝の猫である。
「どうぞ」
遥がトレイごとテーブルに置く。渚がおしぼりで手を拭いていると、子猫がタンっと地面を蹴って膝の上に乗った。
「あらあら、大丈夫?」
渚が嬉しそうに「大丈夫です」と子猫を撫でたので、「とりあえず冷めないうちにどうぞ」とまた奥に入っていった。
ホットチョコレートはたまに家で親が入れてくれるココアより濃厚で美味しかった。個体のチョコレートをそのまま溶かしたような感じだ。ホットチョコレートを堪能している間、膝の上には小さな猫が丸まって目を閉じている。こんな風に動物と触れ合うのは初めての体験だった。外が暗くなりかけている時間に、暖かい部屋の中で、右手でゆっくりホットチョコレートを飲みながら左手で時折膝の上の猫を撫でる。こんなふうに子猫の温もりに触れていられる贅沢たるや!
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