第1章 物語は猫にはじまる

1.猫

 クラスメイトの高井戸楓たかいどかえでから「感想聞かせてね」と自作の小説の原稿を渡されたのが金曜日。土日に読んでおけば良かったのに今朝までしまい込んでいた。朝慌てて読み始めたせいで、今年度何度目かの遅刻が確定してしまった。しかも結局冒頭の部分すらも読みきれていない。友達をがっかりさせないためになんて言おうか……。憂鬱な気分で家を出て小走りに駅に向かう途中「にゃあ!」と鳴き声が聞こえた。声の方をみると、一羽のカラスが地上の何かをつっついていた。最初はゴミでも漁っているのかと思ったが、それは小さな黒猫であった。

「え!?」

 何より先に頭をよぎったのは、先ほど読んだ原稿である。ちょうど猫が登場するところまで読んだのだった。一瞬、あの謎の街で起こる物語と現実がごっちゃになってしまった。

 しかし不思議な感覚に浸った時間はわずかだった。目の前の現実をみるとカラスの執拗な攻撃に子猫は明らかに劣勢だ。事情は分からないがどうしても子猫を助けたくなった渚は、学校指定のバッグをカラスにむけて振り回し、追い払いにかかった。予想に反してカラスはすぐには引き下がらなかった。諦めずにブンブンと鞄をふり続け、息切れし始めた頃、ようやく根負けしたカラスは猫から離れた。それでもすぐそばの塀の上にとまり、じっとこちらを見ている。目が合ってゾクっとした。「よくも邪魔してくれたな」と恨みがこもっているような漆黒の目。

 足元に目を落とすと、小さな黒猫は逃げ出さすに渚を見上げている。早く逃げればいいのに。それともまだ怖くて動けないのだろうか。まだ子猫だ。首輪がついているのでどこかの飼い猫だろう。思わず撫でようとして手を伸ばすと、子猫はトコトコ歩き出した。

「かわいい」

 つい口から感想が漏れてしまう。なんとも愛らしい造形の生き物だ。

 カラスが気になって振り返ると、まだじっとこちらをみている。不気味で仕方がない。渚は心配半分、好奇心半分で猫についていった。子猫は道を少し進み、角を曲がったところでとまった。そこには木造の日本家屋が建っていた。蔵を思わせる造りだが、窓から中を覗くとカフェかレストランのようだ。朝早いせいか外にはメニューなどの看板は出ていない。僅かに開いている扉のおもて面に「武蔵野亭」という名前が印字されている。

「『むさしのてい』? こんなお店あったっけ?」

 知らない店のいきなりの出現は、先ほど読んだ文章の「猫の妖精亭」を否が応でも想起させ、また小説が現実に侵食してきたような気分になる。

「いけないいけない、なんだか楓の小説に関連づけてものをみてしまう。そもそもこの店は日本家屋なのに」

 それにしても、こんな近所に新しいお店ができていたのに気がつかなかったなんて。

 かたわらの子猫をみると、子猫の方も渚をじっとみている。時刻は8時40分。どのみち遅刻は決定している。それならば、もう少しこの子猫につきあっても結果は変わらない。

 やがて子猫は扉の隙間からスーッと中に入っていった。すると、すぐに人の足音がした。

「あれ、怪我してるじゃない!」

 女性の声だ。すごく若くはないけど、歳をとっている感じでもない。聞き慣れた日本人による標準的な日本語なので「エミリア婦人」ではあるまい。それよりあの猫怪我していたのか。やっぱり助けに入って正解だった。あのまま放置していたら、悲惨なことになっていたかも知れない。とにもかくにも子猫は助かったのだ。渚はホッとして、少しだけ誇らしい気持ちになった。今日の遅刻は意味のある遅刻だったのだ。そうポジティブに捉えて「よし、そろそろ学校いくか」と踵を返そうとした時、扉が開き女性が姿を現した。自分の母親よりはだいぶ若そうだ。30代半ばくらいだろうか。腕に子猫を抱えている。

「あの、あの」

 渚はしどろもどろになりながら自己紹介をして自分がここにいる事情を説明した。

「そうだったんですか! この子を助けていただき、ありがとうございました」

 女性は飲食店の人らしいハキハキと気持ちの良い声で喋る。お礼がしたいと渚を中に招き入れようとしたが、渚が躊躇したので、すぐに学校があることに思い至ったようだ。今日は平日で、時刻は朝の9時前である。

「あ、ごめんなさい。そのせいで遅刻させてしまったんじゃ……」

「いえいえ、お気になさらないでください。もともと間に合わなかった可能性もあるので」

「可能性もある」ではなく「もともと100%間に合っていない」が正しい。

「じゃあ、もしよかったら学校終わりにでもいらしてください。定休日の水曜以外は、毎日11時から20時までやっていますので。たいしたことはできないけれど何かお礼させてください」

 女性の提案に賛同するかのように腕の中の子猫がにゃあと鳴いた。いとおしさが込み上げてきて、つい頭を撫でてしまった。渚の手が触れると子猫は気持ち良さそうに目を閉じる。その仕草がまたいとおしさに拍車をかける。ずっとこうしていたい。けれどこれから叱られると分かっている学校に行かなくてはいけないのだ。どうせ何も楽しいことなんてないのに。

「ああ、本当に台風でもきて、学校に直撃してくれればいいのに!」

 子猫が同意してくれるかのようにまた「にゃあ」と鳴いた。

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