4.聖くん
2週間後、渚が通う多摩北高校たまきたこうこうは三学期の期末試の全日程を終えた。試験の手応えは良くもなく悪くもなく。渚は毎回どの科目も平均点より少し上の点数だ。たぶん今回もそうだとふんでいる。
それにしてももう3月に入っているのに、今年は一向に春の気配が感じられない。今朝も雪を伴った強い風が吹き荒れて、学校に行くのがつらかった。
「それにしても今朝の寒さ、やばくなかった? 最初手がかじかんで焦ったよ」
「今朝はマジやばかった。気温より風がきついよね。風巻しまきっていうらしいよ。雪が混じった冬の激しい風のこと」
試験終わりに渚はクラスメイトの高井戸楓とファミレスに来ていた。小説を書こうとしているからか、楓は言葉に対する関心が強い。ちなみに楓は総じて成績優秀だが、中でも国語と地理歴史の点数が抜群にいい。自分の好きなものがはっきりしているのだ。
渚は楓のそんなところを好もしく思っているのだが、当の楓自身は自分の好きなことをクラスの中でアピールすることはしない。はっきり言うと隠している。小説を書いていることも渚に口止めしている。人と違うことをして目立つのを極端に嫌っているのだ。
もっと周囲に対して自己主張すればいいのにと思ってしまう。せっかく好きなものがあるのに窮屈な生き方を選んでいるように感じる。でもまあ理由はなんとなく分かる。楓は可愛いし、人当たりも柔らかいので男子から人気がある。一方で、女子にも嫌われないよううまく立ち回っている。そのポジションを維持するために、悪目立ちはしたくないのだろう。
側からみれば、いわゆるリア充にみえるかもしれないけれど……、でもそんな生活楽しいのだろうか。
この日、渚はファミレスの帰りにまた「武蔵野亭」に行こうと決めていた。寒さは続くが日はだいぶ長くなってきた。四時でもまだ太陽は沈む気配を見せない。幸い風もおさまっている。ただカアカアというカラスの鳴き声が気持ちに影をさす。あの子猫を助けて以来、渚はカラスもその鳴き声も苦手だった。
気を取り直してお店に入ると、カウンターの中に遥ともう一人、渚と同じか少し年下にみえる少年がいた。
遥は渚に気づくとにっこり笑って挨拶してくれた。少年の方は無表情のままだった。
挨拶を返した渚が、少年の方を見ているのに気がつくと、
「甥です。前話した、高幡さん以外にこの店に泊まる人」
と紹介してくれた。「ほら、自己紹介して」と促され、しぶしぶといったていで少年は名乗る。
「ショウです」
ぼそぼそとした話し方である。人見知りなのか照れているのか。でもそういう男の子は学校にもいるので別に珍しくもない。かくいう渚も明るくもないし社交的でもない。
少年の身長は渚と同じくらいだから男子にしては小柄になるのだろうか。体型はヒョロヒョロとしている。決めつけは良くないがスポーツなどはやっていなさそうだ。
遥が「この人が猫ちゃんを助けてくれた高校生ね。ショウくんの一つ上」と渚を聖に紹介したので、渚も名乗った。一つ下、ということは来月から高校入学か。
前に来た時に「飲み物注文しなくてもいいから」と言われたことは覚えていたけれど、それは申し訳なかったので、メニューをもらって前回と同じホットチョコレートを注文した。遥がカーテンの奥に入っていくと、少年もついていった。渚と2人だと気まずいと思ったのだろう。ふとショウがいたあたりのカウンターの上に、ノートが置いてあるのが目に入った。彼のものだろうか。
5分ほどして遥が飲み物を持ってきた時、少年はもう出てこなかった。置いてあったノートを遥に渡す。さりげなく覗き込むと表紙の下の方に「柴崎聖」と手書きで名前が書いてあった。
「ああ、ショウのだね」
「聖って書いてショウって読むんですね。なんかすごいかっこいい、っていうか立派そうっていうか……」
遥が苦笑する。
「聖のお父さん、つまり私の姉の旦那さんがずっと剣道やっている人なんだけど、昔気質な人でね。自分の息子を強くて逞しい人間にしたいって気持ちが見事に名前に反映されちゃったね」
初対面で大変失礼とは思うが、当の息子さんからは強さも逞しさもほとんど感じられない。
「どっちかというと、外で身体動かすより家で漫画読んだりする方が好きみたいだから、義兄はそこも不満だったみたい」
「どうして、遥さんのお店に下宿することになったんですか?」
遠慮気味に尋ねてみる。
「簡単にいうと義兄の転勤がきっかけ。今年のはじめから茨城に転勤になったんだけど、聖はついていきたくなかったみたい。あの子のお母さん、つまり私の姉も中学卒業まで東京に残っていたんだけど、ずっと単身赴任させるのは嫌だったみたいで。けれども、聖は東京離れるのを断固拒否していたので、私のところで預かってもらえないかと相談されたわけ」
そういう事情か。高校から親元を離れようなんて、見た目によらず芯が強いのかも知れない。渚も特に親と仲が良いわけではないけれど、別々に離れて暮らすなんてまだ想像できない。
ホットチョコレートを一口飲むとやっぱり美味しい。
「この味好きです。うちで飲むココアと全然違う」
渚は思った通りの感想を伝える。
「ありがとう。やっぱり自分のお店のものを褒めてもらえるのって嬉しい」
「このカフェもすごく居心地よくて好きです」
渚の言葉に遥の心が本当に嬉しそうに笑う。それをみて渚の心もじんわり暖かくなる。ふと何かを思いついた、という感じで遥が切り出す。
「渚ちゃんって春休み忙しいかしら?」
「いえ、そんなに」
暇である。部活もやっていないし、塾にも行っていないので。
「近くの神社の境内で、3月25日に、いろんなお店が集まるマーケットみたいな催しがあるんだけど」
そのマーケットに武蔵野亭は、出店することになったらしい。
「もし時間あったら渚さん、手伝ってもらえないかしら? 多くはないけれどバイト代出すよ」
意外な申し出にびっくりしたが、同時にワクワクもしてくる。
「アルバイトとかしたことないですけど、そんな私で役立つことがあるならぜひ」
「良かった、じゃあ後で詳細送るから、SNSの連絡先教えてもらっていい?」
カフェのオーナーと連絡先を交換していると、学校とは違うところで、少しずつ高校生としての時間が動き出したような気がした。
「ちょっと待っててね」と、一度カウンターの奥に姿を消した遥が戻ってきた時、渚も話そうとしたことを思い出した。
「ところで遥さん、猫の名前つけました?」
「まだなのよ、そんなに不便もないからすっかり後回しにしちゃって。でもいい加減つけてあげないとね」
「あの、良かったら私も名前のアイディア出してみていいですか?」
遥は意表をつかれたみたいだが、一瞬間を置いて、
「じゃあ、何かいい名前思いついたら教えて」
と笑顔で歓迎の意を示した。
「実は、もう考えてきたんですけど」
と即座に渚が続けたので、遥はまたも意表をつかれた様子だ。
「どんな名前?」
「漱石そうせきっていうのはどうでしょうか?」
「漱石って、あの夏目漱石の漱石?」
「はい。『吾輩は猫である』とかを書いた漱石です」
漱石か。遥は反芻する。即却下ということにはならなさそうだ。「よかったら候補にいれてください」
時計をみると5時を過ぎていた。まだ明るさは残っていたが、太陽はそろそろ沈みそうだ。
「ごちそうさまでした」
店を出るとまだカラスがカアカア鳴いていた。姿が見えないことが、逆に不気味だった。
その夜、出店イベントの詳細を知らせる案内がSNSで届き、追伸として子猫の名前が漱石に決まったことも記してあった。渚は小さくガッツポーズをとった。
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