強人

@kinutatanuki

第1話

 少し前までたまに見られた流れ星が珍しくなくなっていた。子どもたちはそれを喜んでいたが、科学者たちは深刻に捉えていた。彼らの警告に耳を傾けた政治家も憂慮していた。

 物事には必ず原因がある。それが非常に困ったものであれば必ず解決しなければならない。どんなに難しい問題であっても。


 地球は静まり返っていた。しかしそれは地上から遠く離れた衛星軌道上から見える印象に過ぎなかった。

 国際連合は各国の利害調整に奔走している。一時人口の爆発的増加に伴う食糧不足が心配されたが何とか凌げるらしい。しかし後進国が先進国に追い付こうとして過剰な工業化を進めたことによる大気と海洋の汚染が深刻化している。同時に過剰消費によって進行したエネルギーや資源の不足をどう補うかも問題だ。それによる争いが起きている。他国への侵略が珍しくなくなってきた。それらが人類の未来に不安を抱かせた。

 しかもその上に北朝鮮が核兵器の管理失敗でロシアの地方都市を一つ焼いた。ロシアが報復として自動的に平壌を焼き払って、地球上の汚染がさらに拡大した。北朝鮮という国が実質的に消滅した。僅かに生き残った人々は中国や韓国に保護されたが、それは本当にごく少数だった。我が国ではその飛来した放射能の影響で北海道に人が住めなくなり六百万人もの住民が引っ越しを強いられたが、北朝鮮のように国家が丸ごと無くなったのと比べると大したことではないと耐えていた。

先進国はこういった争いや環境の悪化に巻き込まれることを恐れた。大気汚染は日照の確保も侵すほどの水準になってきている。新しい感染病が発生し、多くの人々が苦しんで死亡した。どう対処すればよいのか。考えた挙げ句に思い付いた対策は地球を見捨てることだった。

 米国やロシアは宇宙船巨大化を進めた。そうして一気に国民を安全な星に移住させるというのだ。それに倣って、欧州共同体やインド、ブラジル、中国、イスラエルや我が国でも宇宙船開発を進めた。

 地球を見捨てると決意してしまうと行き先は自由自在だ。米国はアンドロメダ星雲のM31を狙うと発表。ロシアはNGC224だとか。お互いに利害がぶつからないことを確かめると、米国とロシアは宇宙開発技術を惜しみなく他国に教えてくれた。

 宇宙船はどこでも乗員二千人ばかりの巨大なものが設計された。

 人口二億人の米国は十万台の宇宙船が必要だ。ロシアは自国民だけなら七万台で済むのだが、ベラルーシなどの友好的な独立国家共同体諸国を見捨てるわけには行かず、さらに四万台ほど必要である。ウクライナに攻め込んだことによる戦費と欧米諸国の制裁によって疲弊した経済がまだ十分立ち直っていないのだが、出発が遅れると国民全員が窒息する可能性が高い。中国は八十万台用意しなければならない。こちらも中華民国と戦争したため資金が乏しいが、ぐずぐず言っていられない。

 中国は人口の大きさや経済力から考えて遠方に進出することが不可能である。いち早く火星をもらうと宣言した。そして自国民の体質をさっさと火星の大気や重力の中で宇宙服無しで生活できるように変形させ始めている。それに対応できない者が次々死んでいるらしいが、詳しい情報は不明だ。他国も一定程度行き先の気象や生活の条件を調査してはいるが、それに関わる耐性の問題については目をつぶってきていた。しかし中国の動きを見ていて遅ればせながら耐性訓練を始める国が多かった。火星を移民先に考えたのはもちろん中国だけではないのだが、地球の大気や重力と全く同じでないのなら結局どこに行っても条件は同じだ。どうせ移民するのなら中国とは一緒になりたくないと考える国が多かった。

 宇宙船の試験飛行がどんどん行われている。それによる大気汚染が更に深刻化しているが、もうどうでも良い。

 大阪に住んで商社営業マンをしている一馬は銀行勤めの香澄と結婚できれば、我が国から出発する移民宇宙船の第三百一便に乗車する権利を得ていた。すぐに子供を産みそうな人が優先されることになっている。乗車料金は不要だ。国民全員でアンドロメダ星雲のJWEL007に行く。そこで日本国民だけの星を建設する計画が国民に周知されていた。六十歳以上の男女は出産不可能者として最後の方の便になる。宇宙船は二日に一便出発して、全部が済むまで三十年ほどかかる。祖父母や両親とそれまでは別れ別れになるが仕方ない。

 「ジェイ・ウェルって何年で行けるのかなぁ」

 予定されているのは百五十年だ。宇宙船は光速の八十パーセントで飛べるものが開発されているので、百二十光年ほどの先にある星までそれだけかかる。もちろん普通に生きて飛んで行かせられない。全員眠らされ凍結される。

 我が国の五万台の宇宙船が、本当にそこにたどり着けるかどうかも分からないし、予定よりも早く目覚めてしまう可能性もある。その時に争いが起きては困る。そのために、どの宇宙船にも宇宙船を操縦する人材を育てる学校施設や担当者も乗り込んでいるし、他分野の専門家も必要なので、文科系の大学や娯楽のプロダクションも用意された。もちろん、着陸した時に食糧を自給するための農場や牧場、海流を伴う塩湖を設置する用意もあって、そこに住むべき生物がひと揃い載せられている。万が一目覚めた場合でもいくらかは牛肉や魚を食べられる。もしかしたら生態系維持に必要なのかも知れないので、密かに蛇や蚊、病原菌といった嫌われ者も用意された。一台一台の宇宙船がノアの方舟になっているわけだ。本当は一万人乗りなどのもっと大きな宇宙船を作れば、もっと短期間で済むはずなのだが、早く目が覚めた時に内部で争いが起こると困る。宇宙船に圧迫感、閉塞感を覚えさせないような広さが求められた。生物学、医学、心理学などの様々な領域に関わる実験を経て算出された数値によって機材が設計されている。今の段階では、最適な条件のものなのだ。

「どんな景色の星なのかな」

 山は勿論、海もあると聞かされてはいる。空の色は何色だろうか。それはまだ誰にも分からないようだ。

 「一晩眠るのは分かるけど、百五十年眠るというのはどんな気分がするんだろう」

 まるで眠りの森の美女だ。起こしてくれるのは王子様ではなく睡眠装置の温度・照度の調整器だ。解凍され、目が覚めてもすぐに下船することはできない。眠っている間も僅かながら代謝があって、やせ細った筋肉や、反応の鈍くなった神経を鍛え直す必要がある。

 米国とロシアの宇宙船出発が連日報じられ始めた。

 「行っちゃったね」

 「地球の大気はいつまで保つんだろ」

 最近の大気は汚染ばかりでなく、流れ方までおかしい。瞬間風速六十メートルというのは、一馬も香澄もまだ安全な頃の沖縄で経験したことがあった。最近は百三十八メートルなどというので、どんなものか想像がつかない。テレビで見ると、そんな風でもヤシやガジュマルが地表にへばりつきそうになりながら耐えている。抜けて飛んでいかないのが頼もしい。風力発電機や灯台は壊れるものがあるのに。リニア新幹線の速度だと言うが、それは全体が封じられて走っている(飛んでいる?)ので、誰も見たことがない。

その猛烈な風速を利用する発電所が各地に設けられて、何とかエネルギー不足だけは凌いでいる。

 米国とロシアが先行するのは分かるが、オーストラリアの宇宙船が我が国のものよりも先に飛んだ時はショックだった。オーストラリア・ニュージーランド連合は欧州共同体のと同じ規格の宇宙船で、南太平洋の島嶼国家の人々も乗せて地球を脱出する。

 「我が国では、まだ出来ないのかな」

 欧州連合が、フランス・スペインからバルト三国までの各地から選ばれた人々を乗せて飛び出した。

 スンニー派イスラムのアラブ国家共同体が、試験飛行に二十回連続で成功したのでいよいよ人々を乗せて打ち出す。イランは同じイスラムではあるがシーア派なのでスンニー派とは合同できずロシアに加わるとか。エジプト・南アフリカを中心とするアフリカ連合も試験飛行を始めた。メキシコ・エクアドルが率いる中央アメリカ連合体がカリブ海諸国と共に開発中の宇宙船は途中で幾つかに別れて希望先に飛べるらしい。中華民国・ベトナム・インドネシア・タイなどのアセアン共同体宇宙船は少し出遅れている。しかしこれらの国々は密林が多く、日本の誘いを断って合流した韓国以外は大気汚染が他の地域よりも比較的良好なので落ち着いている。

 インドはかつて同じ国だったので、戦争したこともあるパキスタンを含めてスリランカ、バングラデシュの面倒も見るという。ネパール、ブータンにアフガニスタンも含むというから凄い。

 それぞれの地域の宇宙船が、この銀河系星雲の各地に散らばっていく。

 「何だかドラマみたい」

 香澄が言う。一馬は、仲の悪かった国々が離れるというのは必然的だったのかなと思う。インドとパキスタンは同じ星に行くのか、せっかく移住するのだから別の行先にするのか、詳しくニュースを見ないのでよく分からない。南米連合でも、ボリビアとチリは歴史的に仲が悪く宇宙船開発には仕方なく共同歩調を取ったが、行く先は違う。せっかく他の星に移民するのなら、仲の悪い国とは別々に住む方が機嫌良く過ごせそうだ。ドイツとフランスが一緒に行動するのは奇跡的と言える。

 ようやく我が国の宇宙船が試験飛行を始めた。真っ白の機体に斜めの赤い線が美しい。

 「結局、うちの国は紅白饅頭なんだな」

 「出発は目出度いんだから仕方ないだろ」

 そんな言葉が交わされるのがテレビニュースに映る。一馬が香澄とデートしている喫茶店やレストランでも、同じように二人連れがしゃべっている。みんなあれに乗る。全員が同じ形の交通機関を利用して同じ行先に旅行をするというのが何とも不思議な気分だ。他人と同じことをしたくないという人間もいるはずなのだが、さすがにそういうことは言っていられない。居残ると窒息するのは間違いないらしいからだ。

 宇宙船の試験飛行、そして実際の移民飛行が報じられる中で、また各地の漁場で軍艦を交えての争いがあったと報じられた。

 「さっさと飛び出せばいいのに、鈍くさい国だぜ」

 「結局、他の国がいなくなるのを見計らって地球に居座ってたりして」

 「居座りたければ居座ればいいさ。放射能汚染もひどくなっているし、もうダメだろう」

「放射能に負けない肉体に加工してるかも知れないよ」

 「何でも加工するさ。それが善だと信じてるんだろ」

 いよいよ我が国の宇宙船も発進することになって、搭乗券を受け取った人たちが種子島に集まったようだ。種子島は元は離島だったが、今は九州からリニア新幹線で行ける。船ではないので荒天でも平気だ。勿論風が瞬間風速九十メートル以上のひどい時は宇宙船の発進も延期になる。それも考えた上での隔日発進だとか。

 「何だかわくわくするなぁ」

 次は自分たちだと思うとニュースを見ているだけで興奮する。

 ところがショックなことが判明した。一馬が無精子症だというのだ。

 三百一便搭乗の予約券が紙屑になった。出産能力が無ければ早くても三万台目以降の便になる。

 香澄がひどく落ち込んでしまった。二人の両親も移民先の星で初孫を抱けるのが心の支えになっていたのでがっかりしている。

 「もう一回検査しようよ」

 香澄が言うけれど、一馬は何だか生きる意欲まで減退していた。

 「精子のある奴と結婚した方がいいかも」

 うつろな声で言う一馬に香澄はいらだちを隠せなかった。

 「何を馬鹿なこと言うの」

 香澄に引っ張られていった再検査も無情だった。

 「僕でいいのか。後回しになるぞ」

 「勿論よ。何言ってるの。次の搭乗申し込みに行くわよ」

 両親たちは離れた便よりも続けざまに到着する方が再会しやすいんじゃないのという気休めを言ってくれたが、それが却って心を抉った。両親たちは四万台の数字の搭乗券を既に受け取っている。

 二人で再申し込みに出向いた役場の窓口で香澄だけが呼び込まれて、健康な男性との婚約し直しを勧められた。

彼女は当然のように断り、結局三万六千台の後寄りの便になった。

 「ほとんど爺ちゃん婆ちゃん並みだな」

 一馬が言った。

 「もう言わないの」

と香澄に膝を叩かれた。

 搭乗の順番待ちの間に一馬の父が肺癌で、香澄の母が心筋梗塞で亡くなった。

 「移民先のどんなレベルか分からないような病院で不十分な治療を受けるよりは良かったかもね」

 「そうだね」

 しばらくすると香澄の父が肝硬変による肝不全で亡くなり、一馬の母もくも膜下出血で亡くなった。

 一馬と香澄の二人はそろそろ六十歳を迎えようとしている。

 待機中に子供が生まれた人は、亡くなった人が出て空いた順番に繰り上がった。せっかくの空席は無駄にできない。

 実験物理学の研究者がたくさん地球に残っている。直径が五キロを越えるような巨大実験施設は簡単に作れない。宇宙船で知らない星に行くと、今使っていたような施設で研究できないだろうというのだ。若い研究者も地球で成果を上げる方が手っ取り早いと考えているらしい。窒息死するのと研究成果が出るのと、どちらが早いかの競争である。

 我が国の宇宙船も他国のも毎日順調に発進していく。人類の技術が高まるのを待って、地球は生命を終えようとしているかのようだ。

 今日も二人でニュースを見た。

 「あと二ヶ月で地球から立ち去るなんて想像もしなかったな」

 「ホントだ。地球以外の星なんて、ずぅーっと探検するだけの先と思ってた」

 まだ地球にいる人類は全体で五億人を切ったとか。

 二人はお笑い番組を見る。凝った造りの番組が減ってきた。高齢のスタッフが金をかけずに作った番組ばかりになっている。出演者も若い人は出発してしまい、落ち目だったベテランが出てくる。歌謡番組もそうだしスポーツ番組もそうだ。野球の投球速度は一二〇キロで速いことになっている。

 臨時ニュースが流れた。

 「中国の宇宙船が墜落した模様」

 えっ、墜落? どうして?

 「中国って、有人飛行をロシア、アメリカに続いてやったはずだよね」

 「そうだよ。どうしたんだろ」

 「変だね。失敗するとは思えないのに」

 しばらくどこの放送局でも新情報が出ない。

 ようやくニュース番組が一つ始まった。

 「宇宙船が飛び出すことの出来る空域の隙間が、見付けられなかった可能性が取り沙汰されています」

 どういうことかな。

 「デブリ」という単語が出てきた。宇宙空間に漂うゴミだ。

 地球を取り巻いて宇宙基地や気象・通信の衛星、いつでも敵国に落とせるようにしてある核兵器が飛行している空間に、様々なゴミが漂っているとは聞いている。基地の資材や打ち上げに使ったロケット部品なども散らばっており、その上にこの度の全人類脱出計画による大量の宇宙船打ち上げや制御装置の資材ゴミが加わった。それでとうとう地球を覆い尽くして、宇宙空間に飛び出す隙間が無くなったのだという。幾つかを撃ち落とせば隙間が出来そうに思うが、そういうことをすれば更にデブリが発生して隙間が狭くなるという。実際、中国が二〇〇七年に、使命を終えた衛星の破壊実験をして却ってゴミが増えた。こういう耐用年数を過ぎて機能停止したり、事故や故障でダメになったりしたもの、修理の工具等が様々な軌道で飛んでいる。十センチ以上の大きさのものは監視されてきたが数億個になっている。何と一メートル以上もある物が一万個以上ある。それが速い速度で飛んでくるので、極めて小さなデブリでも機体に穴が開くことがある。

 デブリがぶつかり合うと地上に落下することがある。落下するうちに摩擦熱で燃えだし、それが地上からは流れ星に見えるのだ。しばしば流れ星が見えるということは、デブリがそれほど多くなっていたことを表した。

 そういうものを避けて飛行する間にトラブルが起きたらしい。二千人もの乗員と、現場の地上に残っていた人とで五千人ほどが亡くなったようだ。中国の操縦士が人口密集地を上手く避けることが出来なかったのか、トラブルの起きたタイミングが悪かったのかは分からない。

 次の便が飛び出して何台かうまく通り抜けたようだが、やはり隙間を見付けられずに戻ってくるものが増えた。

 中国の宇宙船だけでなく他の国々のも飛び出せなくなってきた。まだ地球上には四億人ほど残っているのだが、この劣悪な生活環境の地球で生活するしかないのかも知れない。

 多くの国々では刑務所に収容していた者も特赦で解放し連れて行こうとしていたが、中には刑務所の檻に入れたまま放置した国もあり、そういうところでは餓死した者も出ている。我が国でも殺人・強盗・放火・誘拐・婦女暴行といった特別に凶悪な犯罪者は置いていこうという意見もあった。議論の末に、結局、詐欺・麻薬常習者なども含めて最終の便で連れて行くことになっている。無慈悲な国で刑務所に入れられていた者はほとんどが政治犯で、解放しても凶暴なことをするわけではないので助けに行こうという声もあるが、なかなか手が回らないし、僅かに行ったグループは解放に反対する近隣住民との衝突で殺されたりした。

 どこの国も出産能力の無い高齢者は後回しにしていた。そのせいで有毒ガスや放射能に倒れ、さらに寿命が尽きていく者が多かったのは当然だが、それに負けない異様に強靱な者が現れてきた。

 そういう人たちが僅かでも条件の良い場所に移動して生き残りを図った。南米のアマゾン流域や旧ロシア領のシベリアなどだ。

 一馬と香澄は、日本を離れてニューギニアに移住していた。一馬たちと共に行動していた七十歳の男女が子どもを産んだ。夫が取り上げ、一馬たちはその介助をした。

 「君たちも産めるんじゃないか」

 旦那が言った。

 「いや、僕が無精子症だから」

 一馬も子どもが欲しかったが無理だ。

 「検査の間違いもあり得るだろ」

 「二回してもダメだったから」

 「私たちと同じね」

 嬰児を抱きかかえて、奥さんが言った。

 「それなのに産めたんですか」

 香澄が驚いた。

 「不思議よね。長らく御無沙汰だったんだけど、何となく二人とも乗り気になって。そうしたら産めたわ」

 「まさか」

 「こんな年になってから受精するなんて皮肉よね」

 「地球の環境が変わってきているせいかもね」

 一馬と香澄は互いに顔を見合わせた。年齢のこともあるし、どうせダメだと思っていた。

 その夫婦のように予想外の出生が地球上の各地で見られるようになった。無精子のはずだった男性に精子が育まれ、閉経していたはずの女性に月経が復活した。性的興奮も覚えるようになり、何十年ぶりかの性交渉を僅か一回しただけで子どもが出来るようになった。遺伝的に病気の子が生まれそうと出産を遠慮していた人たちも、強烈な性欲を覚えて子供を産んだのだが、なぜか血友病や色盲の人が現れていない。医師や遺伝学者たちは首を捻るが、人類という生物種における滅亡の危機が迫ると何らかの変異が生じるということなのだろうか。

 地球上から出発できずに居残った者たちは新しい文明を作るしかない。爆発的な人数の人類が製造し、放棄していった機材を修理・改良し、そして新規に製造した。そういうことを行うための知見を備えた人々は多数残っている。

 人口が減って敷地に余裕が出来たので、住居はどこもスロープのあるバリアフリー住宅だ。ただ足腰が動かしにくいといった体の不自由だった人たちがみんな何故か不自由でなくなってきた。歩行に問題を抱えているような人は全然見かけない。住む場所を探すうちに死亡したのかも知れないが。

 住むことの出来る場所に人々が集まると、様々な科学者の国際的協働が進められて、衣料品ではナイロン・ポリエステルなどの強靱さ・通気性・肌触りなどの優れた性質を全てまとめて備えた繊維が開発された。人々はそれらによって製造された衣類を身にまとった。

 一馬たちも利用するようになった。極めて快適である。

食生活は残念ながら少し貧弱だ。タンパク質を確保するのに昆虫食が主体になり、それを少しでもおいしく食べるための工夫が求められた。一番簡単なのは揚げること炒めることで、それには油脂が必要だ。世界中の安全な地域から辛うじて集められた牛から製造されるバターや、豚肉・鯨肉・魚等から取れる動物性油脂、大豆、菜種、ゴマ等の植物性油脂が求められた。唐辛子や胡椒などの香辛料も必要だ。これらを使わずに料理するとごわごわしているだけで美味しくない。人々は油脂を必死に探した。

 「歴史の時間に、コロンブスは香辛料を入手するために出航して新大陸を見付けたと習ったよ」

 油脂以上に大切なのは塩で、人々は岩塩の出る場所を囲んで居住することが多かった。一馬たちは海水からの製塩に精を出した。

生活が安定してくると、彼らはかつてもっと多数の人類が地球上に存在したことを忘れないように記録や統計に励んだ。その名を「弱人」としたのは、脱出していった仲間に対して礼を失するものであったかも知れない。彼ら自身は当然「強人」を名乗った。

 人類の歴史は猿人→原人→旧人→新人の四段階に分けられてきた。これは大雑把に言えば大脳の容量による分類である。猿人はアウストラロピテクス属で代表される。原人にはジャワ原人(ピテカントロプス)や北京原人がいる。旧人はネアンデルタール人が代表だ。新人は三万年前から今日に至るまでの人類で、欧州のクロマニョン人、日本の縄文時代人などから始まって現代人に至るまでの人たちがこれに属した。この新人を弱人・強人に二分したわけだ。弱人と強人の大脳容量には大きな差はない。

 彼らは遠方の銀河に移民していった弱人たちが地球を懐かしんできっと電波を送ってくるだろうと考えて、それに応えるための準備を進めている。

 機材を作るには鉄などが必要だが自由に掘りに行くことはまだ難しい。鉱山が掘り尽くされていることと放射能汚染のせいだ。これを何とかしたい。実験物理学者たちも弱人から強人になりつつある。強人たちの体は、ガンマー線に対して肉体の細胞を覆う細胞膜が分厚くなり透過量を減殺したものだ。そのため、これまで立ち入ることの出来なかった汚染地域にも少しずつ入り込むことが可能になっている。放射能汚染の怖さは、放出されるガンマー線によって人間の細胞さらには遺伝子を傷つけられて、通常の生理作用(細胞レベルでの新陳代謝)が出来なくなることによる。ウラン235が核分裂した時に出来るパラジウム107の半減期は六五〇万年だし、使用済み核燃料に含まれるネプツニウム237は二三〇万年だ。これに鉛とビスマスの合金に陽子ビームを当てて発生させる高速中性子をぶつけることによって、半減期が数百年とぐっと短くできた。学者たちはこの研究を従来から続けてきたのだが、さらに元素を別のものに変えることが出来るようにした。窒素に電子一個を加えて酸素に変えるといったことだ。まだ微量なのだが、それが上手く行けば人類は窒息しないで済むようになる。

これらの研究が完成するまでは鉄の代わりに出来るだけ木材を利用する。木材の組織はセルロースという有機化合物だ。これを人造ダイヤなどに置き換えると、とんでもなく頑丈で軽い材料が作れる。さらに、手に入る金属製品を再利用するために冶金に工夫を凝らした。ほとんどの金属製品は元素のまま使用されることがない。幾つかの金属を混ぜた合金が使われる。ステンレスは鉄・クロム・ニッケルから作られる。ジュラルミンはアルミ・銅・マグネシウム・マンガンの合金だ。そのままでは新しい製品を作りにくいので、何と元の元素に戻す冶金術を発明した。材料として手に入れる金属製品は地上だけでなく宇宙にまで及び、スペースデブリの他に核兵器まで回収して元素に戻している。御陰で空間に隙間が出来てきて、弱人を追っていくこともより容易になっている。

 しかし、強人たちは自分たちの体質が変わってきていることを自覚していた。大気汚染に対して僅かに残された酸素を摂取するための肺機能が強化されており、肺の細胞も大量の浮遊汚染物を濾過する能力が高まっている。一方、元素変換実験のことが周知されており、放射能照射を食い止められるのではないかと期待される。それなら一層地球から出ていく必要がない。彼らはこのままこの地球に住み続けることが出来ると信じ始めている。だから、今更本当にたどり着けたかどうか分からない遠方の星まで出向く必要が無いと考える人が増えている。

 それでもかつて地球に居住していた人類との交流への憧れはある。大昔に正体不明の宇宙人からの通信を期待したのとは違って、英語・アラビア語・スペイン語・中国語などの多くの人々が使う言語で送信し、また電波を受け取ることが出来るだろうから、交信を楽しみにしている。向こうでも定住条件を満たせる人と満たせない人がいるだろうから、どれだけ生き残っているか分からない。その人たちが地球上と違って、全く資材のない場所で新しく文明を作り上げていくのには時間がかかるはずだ。資源の探索、採掘、精錬といった工程を進めるための道具はいくらかは宇宙船に載せていったが、ほとんどは新たに製造しないといけない。交信がいつ実現するかは見当も付かない。けれどもそれは完全に実現時期の問題であって、実現するか否かの問題ではない。きっと人類は宇宙のあちこちで文明を育み展開するだろう。それは間違いない。地球は宇宙のあちこちに散らばった植民星の相互連絡を担当するハブになる。

 その時、人類は改めて宇宙開発に乗り出すのだ。強人たちの熱意は、弱人たちが飛び出していく直前に増して熱い。

 一馬は夕食後、香澄にそっと囁いた。

 「久しぶりに、どうかな」

 香澄がうなずき、二人は揃って寝室に向かった。

 地球は静まり返っている。しかしそれは遠く離れた植民星から見える状態に過ぎない。



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