第11話 距離の詰め方
窓を開けると冷たい空気が部屋へ雪崩れ込んで来た。
ツンと鼻の奥を突き刺し、無理矢理に脳をこじ開けて目覚めさせるような冷気にスン、と鼻を鳴らす。
この春が目の前にありつつも冬の厳しさが居座り続ける時期が好きだ。朝と夜と曇りの日に勢力を伸ばした冬は晴れと昼間の穏やかな春に蹴落とされる。
そうして季節が変わり、新たな一歩が始まる。僕の一歩は季節が変わるよりも少し早かったが、師匠と共に歩み出した一歩は何よりも先取りする大きな一歩だった。
朝食もそこそこに宿を出た僕達は、さっさとアケイラの町を出た。これから始まるのは魔王討伐の旅なのだが、修業も兼ねているので徒歩である。
といっても、そこはただトコトコ歩くだけじゃ何の意味もない。我らが師匠であるシヴァ・ノクトが編み出した歩法術【薄氷】による高速移動が修行の一環だ。
「ほらシーザー、もっと氷の上を滑るように摩擦力を消せ」
「はぁっ、はぁっ……!」
「肩で息をするな。腹でしろ」
ただ歩くだけでこれだ。しかしこれが僕の日常だった。ここから始まったと言っても過言ではない。
あの日、『まずは歩き方だ』と言った師匠に大丈夫だろうかと心配した自分をぶん殴ってやりたい。戦いとは足元に勝利が転がっているのだ。
師匠に背中側から木の棒で小突かれながら街道を進む。速度は常に最大だから馬車よりも速い。
その分体力の消費も半端ないが、そこは普段から鍛えられているからすぐにバテることもない。
そんな調子で歩き通しだったから日が暮れる頃には汗で服がビッチャビチャになった。冬にこれは流石に風邪を引いてしまう。
「随分びしょ濡れになったね」
「まだまだ、鍛え方が足りないです……」
師匠は涼しい顔だ。汗一滴流れていない姿は氷像のようだ。はやくこれになりたい……。
「そのままだと風邪引くな……少し待ってろ」
そう言うと師匠は街道を外れて木々の向こうへ消えていった。
何をするんだろうかと首を傾げているとバキバキバキィという木が倒れる音がしてきた。本当に何をするんだろうか……。
大きな音が鳴ったのはそれくらいで、後は音らしい音もしなかったが暫くすると師匠が戻ってきた。
「準備できたぞ」
「何してたんですか?」
「可愛い弟子の為に風呂を用意してたんだ」
「!」
親指で後方を指す師匠の横を抜けて木々を抜けると、一部分だけ木が刈られていた。さっきの音の正体はこれだ。
雑に開拓された中心には土台が置かれ、風呂釜としか呼べない器が置いてあり、中にはお湯がたっぷりと注がれていた。
内側は木の板が敷かれていて、土台はよく見ると窯になっていて木が燃やされていた。
なるほど、直接温めていながら風呂の内側までは熱くならないようにしているのか……。
「昔はよく作ったもんだ。久しぶりだけど上手にできた」
「すごいですね、これ……どうやって作ったんですか?」
「木と土魔法があれば作れる。土魔法でまず竈を作って、その上に高レベルの土魔法で鉄板を生み出して熱を伝える部分を作るだろ? それを木と土で覆えば風呂の出来上がりだ」
「はぇ~……」
土魔法で鉄板がもう意味が分からない。土魔法で石の礫を飛ばしたりする魔法があるとは聞いたことがあるが、あれの上位互換だろうか。師匠は何でも出来るなぁ……。
「じゃあえっと、入ってもいいんですか?」
「あぁ。好きに入れ」
「ありがとうございます!」
師匠が後ろを向いてくれる。モンスターの警戒とかしてくれるんだろうな。本当に優しい。
見える場所にいられるのはちょっと恥ずかしかったが、装備と服を脱ぎ捨てて鞄から綺麗な布を取り出し、手桶で体を洗い流してから布で綺麗に擦る。
汚れた体でお湯の中に入るのが少し憚られた。あとで師匠も入るだろうし。
身綺麗にしてから、ちょっと高い位置にある風呂釜にジャンプして飛び乗り、そっと爪先から入っていく。
冷えた体と空気にやられていた体がじんわりと暖かくなっていく感覚に声が漏れそうになる。全身がお湯の中に沈んでようやく一息つけた。
「気持ち良いか?」
「はぃ……夜空も綺麗で最高です……」
「それは良かった。じゃあ私も入ろうか」
「……はぃ?」
師匠に背中を向ける形で入っていた僕は何を言ってるんだろうかと振り返ると師匠が鎧を刻印の中に仕舞った。
私服姿の師匠はガバっとシャツを脱ぎ捨てる。揺れる巨大な双房と割れた腹筋を晒している姿を見てようやく事態を理解した。
「し、師匠!!」
「うん?」
「僕入ってるんですけど!?」
「見れば分かる」
「じゃあ何で脱ぐんですか!?」
「お前だって風呂に入る時は服を脱ぐだろう」
「……? 確かに……いやちがくて!」
「訳の分からんことばかり言って……寒いんだからさっさとそれを貸せ」
そう言って師匠は風呂釜に掛けてた布をひったくって体を拭い始めた。もう完全に逃げ場がない。ぎゅっと目を閉じてどうにかなりますようにと祈るくらいしかできなかった。
しばらくするとトン、と師匠が風呂釜に立つ音がした。そっと目を開けたらあろうことか真正面で仁王立ちをしていた。
「全部見えてる!」
「見せてるんだ」
「師匠!」
「よいしょっと」
何事もないかのようにお湯の中に入る師匠。風呂釜から溢れたお湯が辺り一面に流れていく。竈の薪が爆ぜる音と僕と師匠の息遣いだけが聞こえる。
どうしようもない。家ではこんな悪戯してこなかったというのに。
しかし逆に考えれば、こうして馬鹿なことをしてくれるくらいには距離が縮まったのだとも思えた。
同じ屋根の下に住んではいたが、割とちゃんとお互いのプライバシーは守っていたからこういう恥ずかしい事故も起きなかった。これは事故ではなく故意だが。
「最初にこうするべきだったと思ってるんだ」
「何をしょうもないことを……」
「この1年、お前との距離の詰め方が分からなかった」
守られていたと思っていたのは僕だけだった。守られていたのではなく、距離を置かれていたのが正しかった。それを勝手にポジティブに解釈して修行中以外の師匠とのコミュニケーションが薄かったのかもしれない。
「ありがとうございます、師匠。……でもこれはいきなり詰めすぎです」
「そうか……長く1人でいると分からなくなるからな。許せ」
「僕が師匠を許さないなんてことは今後も死ぬまでないので安心してください」
「お前ならそう言ってくれると思ってたよ」
優しく微笑む師匠がとても可愛らしく見えてきた。そんな師匠の視線がスッと下を向いた。
「シーザー……」
「不可抗力ですから」
「私も長く1人でいたからな。理解できなくもないが、それはいきなり詰めすぎだ」
「師匠!」
まったくふざけたことばっかり言う。僕は前屈みになりながらも師匠とのお風呂を堪能するのだたった。
□ □ □ □
風呂の後はご飯だ。と言ってもフライパンで肉を焼くだけの簡単なものだ。だからこそ難しいが、それが旨かった。
焼いて焼いて焼きまくって腹いっぱいに詰め込んだ後は就寝の時間だ。
本来なら見張りを立てて夜も警戒しないといけないのだが、この旅にそれは不要だ。何故ならば、師匠は家の倉庫から旅に使う為にと小型の『白織の箱』を持ってきていたからだ。
これがあったから肉も焼けたし、安心して野宿することもできる。
「おやすみ、シーザー」
「おやすみなさい、師匠」
「襲うなよ」
「襲いませんよ!」
ずっとこれだ。もしかして師匠はクールな顔してそういうのが好きなのか……? そういえば最初に会った頃もそんなこと言ってたような気がする。もう殆ど覚えてないが。
とにかく、明日も歩くのだ。普通の旅程よりも詰めたスケジュールなのだから夜は寝る以外の選択肢がない。
体力を回復して明日に供えないとマジで死ぬ。スケジュール通りに旅程を進めないと絶対にもっと厳しくなるに違いない。
必死に目を閉じて眠ろうとするのだが、瞼の裏に焼き付いた師匠が消えてくれなくてとても苦労した。
どれくらい時間が経ったかは分からない。やっとうとうとして意識が手放せそうだった時に、肩を揺すられた。
半開きにした瞼が光に刺激される。まだ夜なはずなのに明るい気がする。
「シーザー、起きろ」
「ん……何です……襲うんですか?」
「馬鹿、黙って起きろ。でないと襲われるぞ」
キリッとした顔の師匠も格好良くて好きだ。
「師匠なら僕、大丈夫ですよ」
「いい加減にしろ、襲われるのは私達だ! 山賊だ!」
「……山賊!?」
一気に目が覚めて跳ね起きた僕は周囲を見る。夜なのに明るいと思ったら松明を持った男たちが何人もウロウロとしていた。
僕達の姿は見えていないようだが、確実にいると思って探索しているのが探し方から察することができた。
風呂釜は魔法でできたものだから全部壊してなかったことにできるが、切り倒した木は隠しようがない。
乾ききってない断面からも新しいものと分かるし、それをやった人間が近くにいると考えるのが普通だ。
姿が見えないのなら、白織の箱を使っているというのも考えがいく。となればここにいるであろう獲物は金持ちだと、結論が出る。
ただ1つ計算違いがあるとするなら、木の断面をちゃんと確認しなかったことだ。
あれだけの木をまったく引っ掛かりもせずに切り倒すだけの力の持ち主がここにいると予想できなかったのが、彼等の唯一の間違いである。
「殺すのは簡単だが、後処理が怠いな」
「僕は人殺しはしたことがないです」
「しないに越したことはないが、慣れておけとも言いたくないな。だがこれからもこういうことはある。装備と心の準備だけは常にしておけよ」
「わかりました」
何かあれば師匠が何とかしてくれる。これは盲目に信じている訳ではなく、確実な信頼があって信じている。
悪人相手に心を痛めて剣が振れなくなっても、師匠は僕を見捨てない。
装備を身に着け、右手の刻印に魔力を流す。赤いフューガーの刻印が光ったかと思うと、手の中に大剣ラーヴァナが姿を現した。飯食ったから重い……!
空いた左手を自分の胸の前に広げ、自身の体を掌握する。
「【
併用さえしなければ何とかなるはずだ。片手で持ちあげた大剣を肩に担ぎ、師匠に目配せをする。
刻印から召喚した全身鎧とアパラージタを持った師匠が頷き返し、足元に転がっていた白織の箱を爪先で小突いた。
すると結界が解除され、山賊達のど真ん中に武器を持った人間が突如として現れた。
流石の山賊も2人も出てくるとは思わなかっただろう。普通、白織の箱は人一人分ギリギリの範囲でも超高額の品だ。
だから驚き、戸惑い、動かない隙を狙った師匠の一振りが山賊の半分を吹き飛ばした。
「賊に遠慮はいらん。堕ちるべくして堕ちた人間だ。殺せ」
「はい!」
目の前の男が剣を振り上げる。それに合わせて僕はラーヴァナの刃を合わせ、一気に距離を詰めた。
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