3
夏休みもとうとう終盤。
由花は今日も学校に来ていた。だが、机の上の勉強道具は無造作に放られ、当の本人はぼーっと空を眺めている。
「もうすぐ夏休みも終わっちゃうのか。そしたら雫先輩にも会えなくなるのかな……」
疑問系で口にはしてみたものの、なんとなく、もう遊べなくなるんだろうと思っていた。
だから、彼女はとある決意を固めてきた。
それは、雫に自分が抱く想いを伝えること。
最近、気がついてしまった。いや、ようやく自身の中で確信したのだ。雫と会うたびに感じる喜びと嬉しさ。それを表す言葉がなんなのか。
「早く時間にならないかなー」
胸の激しい鼓動は、緊張によるものか、ときめきによるものか。
約束の時間を今か今かと待っていると、誰かが教室の扉を開けた。
「あ、由花、またいたー」
慌てて振り向くと、10日ほど前に出会った少女の姿を見つける。
「あっ梢か。また教科書でも取りにきたの?」
「流石に2度目はないよ。お昼食べに来ただけ」
「お昼……?ああ、部活終わり?」
「そうそう。家に帰るまで待てそうになくてさ」
梢は由花の前の席に座り、保冷バックから取り出した弁当を広げる。いただきます、と手を合わせて、彼女はご飯を咀嚼し始めた。
「バレー部だっけ?この暑さの中は大変じゃない?」
「まーね。でも、好きでやってることだし」
「そっか」
好きでやってる。そう言えるのが、由花は羨ましかった。こんな、帰宅部同然の部活に入っている自分なんかよりも、ずっと輝いている気がするから。
「ところで由花、あれからアグリさんに出会ったりした?」
不意に梢が尋ねる。由花は口を開けて笑った。
「まっさかー!そんなのただの七不思議でしょ?」
「それがそうでもないんだなぁ」
「えっ、何それ」
「この記事見てみなよ」
由花は梢に手渡された新聞の切り抜きを受け取る。端は破れたり折れたりしているが、紙自体はそんなに古いものではないようだった。その一面の半分以上を占める記事に、由花は釘付けになった。
「えっ、これって……」
驚きつつ、冷静にそれを読む。
『〇〇高校、生徒転落事件
8月27日、窓の掃除をしていた当時18歳の
その中で由花はまず、「死亡」の文字に息を呑む。それから、「雫」と「18歳」の二つから胸騒ぎを覚えた。
「この亜久里雫って人が『
梢が指差した先を辿ると、少々不鮮明であるが、ひとりの少女が載っていた。彼女は黒髪ロングに、日焼け防止のためかと思われるパーカーを着ている。既視感のあるその写真を、由花は食い入るように見つめた。と思っていたら、唐突に立ち上がる。強く椅子を押す音に梢はビクリと体を震わせて彼女を見上げた。
「ゆ、由花……どうかした?」
俯いた由花の顔には深く影が落ちており、表情は伺えない。
「…‥ってくる」
「えっ?何?」
「ちょっと行ってくる」
由花は途端に教室を飛び出した。
「えっ、ちょ、どうしたの!?」
梢の声は届かなかった。由花は一心に走る。脳裏に蘇る思い出の中で見つけた、小さな違和感。それがまるで、パズルのピースのように当てはまっていく。気づかなかった。気づきたくなかった。でも、あんなはっきりとしたものを目にしてしまったら、現実から背くことはできない。
「雫先輩!」
最初に出会った吹き抜けのフロアで、探していた人の姿を見つけ、由花は叫んだ。窓越しに空を眺めていた雫が振り返る。
「由花ー。どうしたの、そんな大声で私を呼んで。しかも、なんか慌てて来たんじゃない?」
「ちょっと、話したいことがありまして」
「んー、なんだい?」
雫は柔らかな物腰で由花に耳を傾けた。ぎゅっと胸のところで拳を握った由花は、恐る恐る口を開く。
「『
「うん。この間由花が話してくれたやつだよね」
雫は表情を変えることなく頷く。纏う雰囲気は変わらない。そんな彼女を、由花は真っ直ぐに見つめたまま続ける。
「アグリさんって、真っ昼間に現れるらしいんです」
「うん、知ってるよ」
「アグリさんって、友達が欲しいみたいなんです」
「うん、知ってる」
「アグリさんって学校外には出られないんです」
「まぁ幽霊だったらそうだろうね」
「アグリさんってただの七不思議じゃなくて、とある事件を元にそんな話が生まれたんです」
そんなことを口にした僅か一瞬、雫は固まった。まるで、動画を止めたみたいに。けれど、動揺とまでは行かなかったのかもしれない。彼女は「ふーん」と相槌を打つ。
「……そうなんだ。それは初耳」
様子を一切変えない彼女に対し、由花は捲し立てた。
「アグリさんって事故死だったんです」
「……そっか。それは悲しいね」
「アグリさんって18歳だったんです」
「……」
ようやく、雫の表情にはっきりとした変化が現れた。由花はそれを知った上で続ける。
「アグリさんって、多分、もっと生きたかったと思うんです」
「……」
言い終えた時、もう雫に笑顔はなかった。薄らと水の膜を張った彼女の瞳は、由花と視線を合わせようとしない。由花が気づいてしまったことを、ようやく悟ったのだろう。
由花は静かに言い放った。
「ねぇ、雫先輩。貴方なんですよね?この、『
殆ど確信に近いが、やはり、本人の口から真実を聞きたい、と由花は願ってしまった。
ずっと俯いていた雫は、由花の強い視線と圧のある沈黙に耐えきれず、とうとう「そうだよ」と自嘲しながら白状した。
「よく気づいたね。どうして?」
「先輩の行動に、所々違和感を覚えましたから」
「例えば?」
「夏なのに冬の制服を着ているところとか、消えるようにいなくなるところとか。それから……他の人には見えてないところ」
「随分とすごい観察力だね」
雫は笑った。それは肯定の笑み。
「ほんとに……雫先輩が、アグリさんなんですね」
「うん、そう。私がその『アグリさん』だよ。亜久里雫、20年前に、この学校で死んだ生徒」
やっぱり、と思ったとは言え、やはり由花は驚きが隠せない。
「どうして、黙ってたんですか?」
分かってる。理由なんてほんの数個の候補のうちの一つだろう。それでも、苛立ちのせいなのか悲しみのせいなのか、口が勝手に動いていた。酷い人間だ、と由花は自身にそう思う。
「ごめんね。騙す気はなかった。ただ、知られたくなかった。だって、知ったらきっと、拒まれると思ったから」
彼女は自嘲した。とても悲しそうだった。
「由花も怖いでしょ?こんな、死んでいる人と遊ぶだなんて……」
「怖くなんてありません!」
「えっ……?」
予想外の返答に、雫は言葉を詰まらせる。
「え……どうして……」
「だって先輩、優しいし可愛いし面白いじゃないですか!幽霊だってなんだっていい。私は、雫先輩という人が好きなんですっ!」
「由花……」
強く意気込んだ由花の言葉に、雫は涙ぐんだ。
「ありがとう。そんなこと言われたの、初めてだよ」
頰に流れた透明な液体を拭い、雫は由花を見つめる。
「ちょっと、聞いてくれるかな?私の話」
「先輩の話なら、なんだって聞きます」
「ありがとう」
雫はまた、深い青に染まる空を見つめる。けれども、先ほどよりずっと遠くを見ているようにも思えた。まるで、何光年か先に届いている、記憶を見つめているような。
*
私は普通の女子高生だった。毎日学校に通って、友達と喋って、文化部だけど部活にも打ち込んで。だから、まさかあんなところで死んじゃうとはね。自分でも驚いたよ。でも、もっと驚いたのは、死んでからだった。一瞬の激しい痛みと共に意識が飛んで、次に目を開けたら校舎にいたの。ついさっき、私は窓から落ちたはずなのに。だから、初めは自分が死んだのが夢かと思った。だって、学校はあまりにも変わり映えしなかったから。私は少し校舎を歩いた。本当に私が知っている学校そのものだった。ただ、知っている生徒や先生は見つけられなかったんだ。おかしいなって思いながらも、私は近くにいた同級生らしき人に声をかけようとした。でも、出来なかった。私の声は誰にも聞こえなかったみたい。肩を叩いて見ようとも思った。でも、触れることができなかった。私の手はその子をすり抜け、無惨に振り下ろされるだけだった。そこでようやく確信したよ。私、やっぱり死んだんだって。それに、偶然見つけたカレンダーから、私は自分が死んでから5年後の未来にあることが分かった。酷いよね、知り合いなんてほとんどいないようなもんだったよ。その後は、ただただ嘆いてたんだ。なんで、誰も見えないのに私をこの世に留めさせたんだろうって。もちろん、私の涙も、嘆き声も、この世にいる誰1人として知ることはできない。だから、もう吹っ切れたんだ。せっかくこの世に戻ってこれたなら色々と試してみようって。それからこの15年間、手当たり次第色んな人に声をかけてたよ。稀に私が見える人もいたみたいだけど、僅かな間だけだった。すぐに私という存在を認識できなくなる。でも、そんな人がいたって記憶は残ってたみたいでね、気がつけばこの学校の七不思議の一つにされてたんだ。まさか自分が怪談話になる日が来るなんてね。笑えるよ。だけど、私は懲りもせず、来る日も来る日も私が見える人を探した。でも、私と友達になれるような、それぐらい私を覚えていられる人は現れなくて、心が折れそうになった時だった。由花に出会ったんだ。そんなわけ無いって思うかもしれないけど、由花を見た瞬間に感じたんだ。この子だって。私のことが見えて、声が聞こえて、しかも触れる唯一の人。私ね、由花に声をかけるの、すごく緊張したけど、それと同じくらい、高揚してたんだ。由花を見つけられて、本当に嬉しかった。
*
「だから、調子に乗って色んなことに付き合わせちゃったよね。ごめん」
「そんな。私は先輩といて楽しかったですよ」
「ふふっ。そう言ってくれて嬉しいな。由花、私がやりたいこと全部やってくれたもん。だから、もう私は、この世にやり残したことはないんだと思う。ほら、見て」
雫は自身の右腕の袖を捲り上げた。しかし、そこに腕はなく、空っぽの袖だけがだらんと垂れている。由花が息を呑む。
「多分、私はもう消える。本当にいなくなるんだと思う」
「えっ……」
雫の腕が在ったはずの場所を見つめ、由花は絶句した。
「そんな……嫌です!そんなの……そんなの……っ!」
切羽詰まった声と共に、由花の目から一粒の滴が溢れ落ちた。必死の形相の彼女の肩に触れ、雫は泣くのを我慢して言った。
「泣かないでよ。由花なら、私なんかよりもっとずっと素敵な人に出会えるから」
「そんなのいません!先輩じゃなきゃ、私……」
「大丈夫。由花は、大丈夫だから。だから……」
雫は由花から手を離し、少しずつ後ずさる。何をする気なのか、とハラハラする由花に、彼女は言い放った。
「私のことなんて、忘れてね」
そして雫は突然窓を開け、手すりに腰掛ける。あまりにも突飛な行動に由花は動けなくなった。
「先輩、何して……!?」
「今までありがとう。そして、さようなら」
「……っ!?」
その言葉が何を意味するのか、理解できないほどの馬鹿ではない。由花は無意識のうちに雫に手を伸ばす。だが、雫はそんなことを気にせず、手すりから足を外した。
「そんなっ!雫先輩っ!」
落下していく雫の体。最後に落ちる腕を掴もうとするも、あと数センチで届くというところで、唐突に日光が強まる。激しい光は由花の目に直撃し、落ちる雫の手が大きく揺らいだ。前のめりに倒れ込んだ由花は、やがて意識を失った。
*
「……か、……ゆい、か……由花っ!?」
「う、ん……?」
由花の名前を呼ぶ声がこだまする。彼女が目を覚ますと、焦った表情の梢が視界に飛び込んできた。
「あ、起きた、良かったぁ」
「あれ、私、なんで……?」
由花は体を起こそうとするもの、激痛が頭に走る。
「痛っ!」
「動かないほうがいいよ。そのまま寝てて」
「う、うん」
梢の言う通り、由花は再び身を横にする。
「私、どうして、こんなことに……?」
「多分倒れたんじゃなのかな?ここで横たわっていたから。具合でも悪い?」
「いや、そんなことはないんだけど……」
由花は、何故自分が吹き抜けのフロアで倒れていたのか、何故ここにきたのか、何も思い出せなかった。何か、大切なことをしようとした気がするのに。
「一応保健室行……って、どうしたの!?」
「えっ?」
「いや、由花、泣いてるから」
「え、嘘……?」
自覚のない由花は自身の頰を撫で、その指に暖かい水滴がついていることに気づく。
「あっ、ほんとだ。なんで、だろう……?」
訳のわからない涙が留めなく溢れてくる。由花はしばらく、意味もなく泣き続けた。
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