古びた映像、ありふれた幻

 濡れた服を脱ぎ、「本物の」シャワーを浴び、俺はケースの中身を自室に運び込んだ。「Beer」と書かれた缶たち、そしてパイプと煙草をモニターの前に並べれば、またも心臓は期待に高鳴っていく。

 バスローブの前を珍しくきっちり合わせ、腰の紐もきつめに締めて、俺はモニターを点けた。ライブラリの一覧から、お気に入りの項目を選択する。


「The Lord of the Rings - The Fellowship of the Ring」


 何度も繰り返し見た映像が、モニター一杯に広がる。

 小高い丘の上に、年老いた「小さい人」と灰色の魔法使いが腰を下ろしている。二人は気持ちよさそうに「パイプ」を吹かしている……そして浮かんだ煙の輪に、魔法使いが煙の船を飛ばす。船は輪をくぐり、空の彼方へ消えていく。

 昔からずっと憧れていた。パイプから煙を吹く「煙草」にも。皆で楽しげに酌み交わす「酒」にも。

 所有も使用も犯罪だとは分かっている。だが憧れることさえ罪なのだろうか。一度試してみたいだけなのに。たった一度、どんなものか知りたいだけなのに。


 と、不意に、部屋いっぱいに鐘の音が鳴り響いた。来客だ。

 あわてて俺は、ビールと煙草に布をかけて隠した。背景はバーチャルとはいえ、何かのはずみで見えてしまわないとも限らない。物のヤバさを考えれば、慎重にならねば。

 隠し終わったところで通話ボタンを押すと、来客用の椅子の上に若い女性が現れた。彼女は優雅に足を組み、長い黒髪をけだるげに掻き上げながら口を開いた。


「よ。ひさしぶりだなアキト」

「なんだケンイチ。俺は忙しいんだが」


 退屈そうにあくびをしながら、若い女――ケンイチは伸びをした。

 ケンイチは三十年来の友人だ。俺と同じ「日本系」の男で九十二歳……登録情報が正しければそのはずだ、本人を見たことはないが。

 まあ本人を見たことがないのは、ケンイチにとっての俺も同じこと。「日本系」で九十四歳の俺は、ケンイチには金髪碧眼の美女に見えているはずだ。

 九十代とはいえ、人間の平均年齢が二百歳を超えた現在、九十代はまだまだ人生の盛りだ。人類は疫病に勝利し、老化にも対抗する術を身に着けた。二十世紀あたりの九十代とは訳が違うのだ。


 二十一世紀から二十三世紀の「疫病の世紀」を経て、人類社会は大きく様変わりした。

 有害な伝染病が流行し、ひとつのウィルスを抑え込んでも変異株や別種が次々と現れ、世界人口は大幅に減少したという。最終的に人類は結束し、病や老化に対抗可能な生活様式を編み出し、全世界に普及させた。

 ひとつ、人類同士の直接接触を極力避ける。

 ひとつ、集団での居住を極力行わない。各個人に「区画エリア」を割り当て、原則としてその範囲内で生活する者とする。

 ひとつ、人類の健康および防疫力を害する要素はすべて排除する。酒・煙草・麻薬・その他健康に有害な物品や要素は徹底的に取り締まる。

 そこまでして、ようやく人類は疫病の嵐に打ち勝ったのだ、と聞いている。

 互いに直接会うことがなくなった人類は、アバターを通して他者と接触するようになった。当然ながらアバターは、かならずしも本人の容姿と一致しない。やがて、長命となった世界のアバターは若い男や女ばかりとなっていった。誰しも、老い衰えた自分の姿を晒すことを望まなかったのだ。

 ともあれ、俺の部屋に現れたケンイチのアバターは、けだるげに俺へ流し目を送ってきた。


「梅雨明け豪雨で外に出られてねえだろうからな。たまには顔見に来てやったんだが」

「つれないなあ。また昔の映像でも見てたか?」


 当てられた。だがここまでなら、言ってしまっても問題はないだろう。


「……ああ。『指輪』の」

「古いのばっかり見て何が楽しいんだか。酒もたばこも出てくるし、じじいだって出張ってるじゃねえか」

「わかってねえな。アバターじゃない人間が演技してるのがいいんだよ」

「ああ、わかる気がしねえな。不健康なじじいより、健康的な若いのばっかりの方がいいじゃねえか」


 ケンイチの弁は至極常識的だ。少なくとも、世の人間の十人中九人はケンイチに賛同するだろう。

 だが。


「俺は老人も綺麗だと思うがねえ。昔の映像には、かっこいい爺さんが山と出てくるぜ」


 理解はされないだろうと思いつつ、言い捨てる。

 老いないアバターよりも、老いる生身の人間が好きだ。おそらく、世の大多数の人間には理解されないのだろうが。


「小綺麗なものばっかりじゃ、息が詰まっちまう。世の中もうちょっと、『不健康』になった方がいいと思うがねえ」

「それは危険発言だな、アキト。健康あってこその人類だ、それはおまえもわかってるだろう」

「まあ、な」

「このところ禁制品の取引をしようとする輩も多い。危険思想を持っていると、反社会的集団につけこまれるぞ」

「ああ」


 気のない返事を繰り返す。

 どうにも居心地が悪い。早く会話を打ち切りたい。ケンイチのアバターをぎろりと睨みつけると、女の幻影は黒い瞳を細め、にやりと笑った。


「アキト、禁制品は危険だぞ。健康を害するし、バレれば御用だ。連中はどこからか確実に、禁制品を追ってくるからな。そう、たとえば――」


 ケンイチの言葉と、同時に。

 突如、爆発音がした。玄関の方からだ。

 振り向けば、歳の頃は俺と同じくらいの男が、数人の禁制品取締官を引き連れて仁王立ちになっていた。


「――こんなふうに、な」


 目の前の男と、椅子に掛けた若い女のアバターが、同時に同じ言葉を発した。

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