命を育てる
Tomokazu
第1話
広大な土地の中を、たくさんの人たちが泥にまみれながら動き回っている。
ぬかるみの中をかがみ、後ろ向きに進んでゆくのはなかなか骨が折れる作業に思える。けれども、彼らは大変そうだと思わせないくらい、きびきびと動いているのだった。
作物を植え、育てること。これがいかに尊いことなのかと思わずにはいられない。作物とはいえ生き物だ。人が人を生み育てるのと同様、違う生き物の性質を知り、それを育て上げることは大変なことなのだろう。しかも、誰かがそれをしてくれるからこそ、大勢の人間が命をつないでいけるのだ。何かを利用したり加工したりして、別のものを作り上げる人もいる。その技術も素晴らしいが、命そのものを扱う農作は人間の根本的な営みといえるのかもしれない。
そんなことを考えながら、田んぼに苗が植えられていく様子を、イチコは眺めていた。時おり風が吹き抜けていく。朱袴の裾がひらひらと動き、胸の辺りで抱えた大幣のさらさらと鳴った。
やがて、農作業をしていた一人の老人が、イチコ気づいて歩み寄ってきた。
「これはイチコさま、はるばるこんなところまでお越しいただくなんて」
「いえいえ、仕事に精が出ますね」
イチコはにっこりと微笑んだ。
「ええ。この土地もようやくこんなに豊かになりまして」
再び広大な田の風景に目をやった。彼の言う通り、少し前までここがこんなにも恵まれた地域になるとは、想像もできなかった。荒れ果てた大地に、草木はほとんど枯れ果て、人々は目がくぼみやせ細っていた。まさに“死”を連想させるような場所だったのである。
いまではそんな過去を塗り替えるように、人々の表情ははつらつとし、生き生きと働いている。まだ多くの人たちは、十分な食事が取れているとは言えず、健康とはほど遠い。けれども、これから実りが増えれば、気力だけでなく身体も元気になってゆくことだろう。
「本当に良かったですね」
「トワリさまがこの地域に用水路を引いてくれたり、色々と手を尽くしてくださったおかげです」
トワリはイチコの旦那である。巫女として神に祈りをささげることでわがクニを支える使命をもつイチコに対し、トワリの役目は知力を使い設備を造ることだ。お互いの役割は正反対のものでありながら、なぜかお互いを意識し合うようになり、結婚することになった。
王や要人たちは、クニがより確固たる地盤を築けるよう、政策を掲げていた。その一つとしてトワリが行ったのが、各地の整備の充実だ。この付近には広大な湖があって、方々に河川として流れている。そのことに着目し、水があまり行き渡らなかった土地に、用水路を造ることにした。さらに、栄養の豊富な肥料を作って、実りの少ない土地に提供したり、荒廃した土地を田畑に作り変える大工事を計画したりした。そのような取り組みの効果が、少しずつ出始めてきたといえる。クニを強くするという政治的な側面、庶民の暮らしをより豊かにすること、そしてトワリの知的好奇心――それらの歯車が合致してきたのだ。
彼の仕事を感謝してもらえて、イチコも嬉しい気分になる。妻の立場でいうのも何だが、トワリは類稀なる知性と行動力をもっているのもかかわらず、なかなかに偏屈な性格が災いして、人から評価されるよりも疎まれることの方が多かった。
老人は遠い目をして言った。
「わしらの祖先は、もともとこのクニとは敵対していた部族で、争いに破れ支配されたのです。だから、恵まれない土地で暮らすことを余儀なくされてきました」
「そうでしたか」
「……いや失礼。イチコさまにはあんまり関係のない話でした」
「そんなことはありません。私だって、もとは違うムラの出ですから」
今、イチコたちが暮らすヒノイリノクニは、周辺で一番の勢力をもつ大国となっている。しかし、もちろんそのためにさまざまな部族を征服し、支配していかなければならない。イチコのもと暮らしていたムラも、そのような政略によってクニに吸収されたのだった。
このクニの王族は基本的に平和主義で、不要に血を流すことは望まない。だから、イチコたちのムラの人間は、誰も死なずに済んだ。とはいっても、すべてがそうだったとは限らず、中には凄惨な争いに苦しめられた部族もあるのだろう。そして、そのような一族の人間たちが、不遇な目に遭わされるのは世の常だ。
「このまま苦しみ続けて死んでいくものだと、ずっと思っていたのですが……。こんな夢のような日が来るとは思っていませんでした」
と老人は言う。イチコの胸にこみ上げるものがあった。このような人たちに幸せな未来が訪れるよう、神に願うのがイチコの役目だ。
「私もこの地とあなたがたの繁栄のため、神に祈ります。今日、私はそのために来たのです」
「それは願ってもないことです。おい、みんな! イチコさんがわしらのために祈ってくださるそうだ」
老人は周囲の同胞たちに向けて大きな声で言った。その声に反応して、ぞろぞろと人が集まってくる。やがてイチコの周りには大きな人だかりができた。大勢の人に注目されて、イチコは少し恥ずかしい気持ちになる。けれども、しりごみしてはいられない。この人たちのために、心をこめて祈祷をするのだ。
イチコは深々と一礼して、大幣を天にかかげ、神に祈りの歌を捧げた。凛と張りのある彼女の声が、辺りへと拡がってゆく。共鳴するかのように、木々の葉が揺れざわざわと音を立て始めた。人々は目を閉じて、彼女の歌声に耳を傾けている。
この人たちに前途ある未来がありますように――イチコはより強く願い、いっそう声の張りを強くした。
命を育てる Tomokazu @tomokazutomoerinaki
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