完全犯罪に関する一考察

風船葛

第1話

どうしても人を殺さなければならないとき、どうしたら良いのだろう。



 ここしばらく、そんな悩みが私の頭を支配していた。これは人に相談できることではないし、する気もない。これは自分で何とかすべき問題だと、私のプライドがそう言っているからだ。

「でもなぁ」

大きなため息が出る。

 別に恨みがあるわけではないのだ。彼は休日返上で仕事に打ち込むほどの熱血漢で、周囲からも認められている立派な人物である。彼がいなくなったら悲しむ人が大勢いるだろう。それでも私と家族が生きのびるためには、もう彼に死んでもらうしかないのである。この苦悩をどうしたらよいのだろうか。

「あああ」

 葛藤のあまり叫びだしそうなのを必死でこらえた。深夜のアパートでそんなことをしたら、それこそ警察のお世話になりかねない。

「仕方ないか」

わざと声に出して呟いてから、私は彼を殺す算段を始めた。私たちが生きるため、彼には尊い犠牲になってもらおう。



 実を言うと、彼は過去にたくさんの危険を潜り抜けた人物である。体当たりされて階段を転げ落ちたり、密室に閉じ込められたり、夜道で襲われたり。そんな数々の逸話が武勇伝として知られており、今では「ミスター危機一髪」なんて部下にからかわれている。

 たくさんの修羅場を経験している彼のことだ。生半可な危機で死ぬ方が不可解だから、本当に綿密な計画で追い詰めなければならないだろう。ああ、今回だって、専売特許の危機一髪で済ませてあげたいところなのだけれど。でも、私には組織に逆らうだけの力が無い。



 まず、すぐに捕まるような無様な方法は避けたいと思った。これは当然だろう。証拠を残さないように上手くやって、速やかに逃亡する算段を立てておかなければならない。ならば車で移動すると目立つから、新幹線のチケットでも買っておくのがいいだろう。そして出来るだけ遠くに逃げる。逃げる?

「逃げるって、一体どこに」

再び呟きが漏れる。頭が真っ白になって、何度目かに停止した思考は脳内の大混乱を引き起こした。

 遠くに逃亡なんてしたら、真っ先に疑いの目が向くのではないか。いっそ堂々と容疑者リストに挙がったあと、どうにかして嫌疑を晴らした方が安全かもしれない。裁判までいってから一事不再理を狙うのも手だ。

 いや、でも嫌疑を晴らすのは至難の業だろう。一度でも任意同行に応じて警察署に行ったら、警察側は何としてでも犯人にしようとすると聞いたことがある。そうして冤罪が生まれるとか何とか言っていたのは誰だったか。

 そもそも「証拠を残さず上手く」なんて、素人が簡単にできることじゃないだろう。その道のプロならともかく。


「プロ?」


 閃いた、気がした。

 そうだ、何も素人が無理に自分でやることはない。プロの殺し屋にやらせれば良いのだ。それなりの金がかかるだろうが、素人がイチから用意すべき道具やら交通費やらと比べれば、そう高くは無いのかもしれない。

 いや、ちょっと待て。

「殺し屋ってどこにいるの?」

 表の世界に生きている一般人が、裏の世界の仕事人にどうやって連絡をつけるのだろう。ネットで漁ってたどり着けるものだろうか。一体相場はいくらなのか。一見さんお断りなんて可能性はないか。

 そうだ、あの人に相談してみるのはどうだろう。何度か会ったことがある程度の知り合いだが、以前そちらの方向に手を出して……。


「待て待て待て!」


 いったん冷静になろう。そうだ、安易な解決策に流れるのは危険だと知っているじゃないか。例の知人はそちらに手を出してしまった結果、悲惨な末路を辿ったことは記憶に新しい。なぜ忘れていたのだろう。

 余計な方向に行きそうなので、この考えは頭から消した。アニメの見過ぎだったと思うことにしておこう。

「何でかなぁ」

何度目とも分からない溜息。本当に、他に道はないのだろうか。彼が死ななくてよい、私が彼を殺さなくてよい道は。

 そこまで考えて、両手で頬を叩いた。

「もう決めたじゃない」 

こんな堂々巡りの問答を繰り返して何日目だろう。いい加減にしなければ。


ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ……


スマホの着信に飛び上がった。こんな時間に連絡が来るなんて、相手は一人しかいない。

「待って。もうちょっとだけ、待ってよ」

悲鳴のような声が出た。自分でも驚くような、悲痛で掠れた声が。

「ママ」

はっと振り返ると、息子がこちらを見ていた。

「ごめん。起こしちゃったかな」

「お水のみに来ただけ。どうしたの?」

心配そうな頭を撫でてやる。

「何でもないよ。おやすみ」

隣室に消える小さな背を見送って、私は顔を洗いに行った。鏡に映った凶悪な顔がこちらをにらんでいる。覚悟を決めろと、怒っている。

「分かってる。殺るよ」

 冷水に顔と尻を叩かれた私は、意を決して殺人に向き合い始めた。



 スマホの音で目を覚ました。窓の外ではすっかり陽が昇り、近頃見ることも減った雀がさえずっている。

「ああ、はいはい。今出ますよ」

今度は夜中のように無視せず、ちゃんと通話を押した。

「おはようございます。昨日は夜中に電話しちゃってすみません」

電話の向こうで元気な声が聞こえた。私と同じくらい徹夜が多いはずなのに、彼がこんなに溌溂としていられるのはなぜだろう。数年越しの謎だ。

「こちらこそ、出られなくてすみませんでした」

「いえいえ。どうです、進捗のほどは」

私は手元の紙、文字の塊に目を落とした。明け方までかかって書き上げた小説のプロットだ。

「一応プロットはできましたけど。あの」

遠慮がちに聞いてみた。

「白川警部、本当に殉職する展開じゃないと駄目ですか」

私の一番のお気に入りだったのに。初めて手を出した警察小説というジャンルの中で、ここまで愛したキャラだったのに。

 電話の向こうで、担当編集者が困ったように笑うのが分かった。

「お気持ちは分かるんですけどねぇ。先生の小説って、今まで人が死なない話がメインだったじゃないですか。この辺でグサッと刺さるような展開が欲しいんですよ」

「過去の設定みたいに、危機一髪で助かるみたいな方向は」

「遺された人々の葛藤とか、落ち込んだあと奮い立つ部下の成長とか、じんわり来る要素も欲しいんですよね。もう長く続いてるシリーズなので、登場人物の入れ替え時期なのもありますし。今後の作家生命のためだと思って、何卒お願いします!」

 分かっている。私だって職業作家だ、売れるものを書かなければ収入に響く。だからこそ彼が死なずに面白くなる展開を必死で考えたのだが、どれも編集者のお眼鏡には叶わなかった。たとえ彼が渋々折れてくれたとしても、その先で編集長が許してくれないだろう。出版社という大組織を敵に回す度胸は無い。

「そういえば先生、夜にお伝えしようと思った注意事項なんですけど」

「ああ。そういえばご用件は?」

「殺し屋とか安易な展開はやめてくださいね。黒咲先生が前作で大コケしたの、編集長がまだ引きずってるんですよ」

そのせいで新作がよりプレッシャーになっているらしいと噂で聞いた。心底気の毒だと思う。

「もしそういう展開だったら、即ボツになっちゃうんで。これ以上スケジュール伸ばせないですよ。まあ、先生ならその心配はないと思ったんですけどね」

「も、もちろんです」

危なかった。危機一髪は私だった。

「大丈夫ですよ。プロット、メールで午前中に送っておきますから」

早口で言って電話を切った。

 仕方ない。私たち家族の収入のため、白川警部には死んでもらおう。大好きだったあなたのために、せめて最高の死に方を用意してあげる。天才的な殺人犯の完全犯罪を命と引き換えに突き崩す、最高に素敵な最期を描いてあげるから。

「さよなら、ミスター危機一髪」



こうして私は人を殺した。

作家として、一枚の紙の上で。


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