一発目
「で、それっていつのこと?」
麻紀が机に身を乗り出した。指先はいつものように髪をくるくるしている。
「そう、あれは、入試の日のことだ」
祐輔が真面目な顔で話し始めた。麻紀と朱里の向こう側にいる、祐輔がいたグループの男子もにたにた笑って聞いている。
「前の晩、中々寝つけなくてさ。寝坊しちゃったんだよ。それで電車に乗り遅れて、猛ダッシュする羽目になっちゃったんだよな」
「単に自己管理できてないだけじなない」
あきれはてた優芽が鼻で笑う。
「いやほら、オレって繊細だからさ。緊張したんだよ」
「ぶふ~っ!」
朱里がふきだす。
「祐輔ほど緊張なんて言葉が似合わないやつもいないでしょ」
男子もげらげら笑いだす。
「そ~んなことないんだけどなぁ」
おどけて言いながら、祐輔が続ける。
「まあ、それでもオレの俊足でもって、危機一髪一限目の試験が始まる直前には間に合ったんだ」
「あ~、それ覚えてるわ。遅刻ギリギリで飛び込んできた奴がいたの。あれ、お前だったんだ」
男子の数人が「俺も俺も」と頷いて笑う。
「マ~ジでヤバかったんだ。俊足ゆえに正門前で止まりきれず、スリップしちゃってさ」
「そういえばドロドロだったな」
「お前、よく受かったよな」
「そんな状況で試験受けて集中できたのは、尊敬するよ」
「危機一髪なんて言うから、どんな大層な事故かと思ったら、単なる遅刻かぁ」
やいのやいのと男子が騒ぎ出す。
「でもそれって、危機回避というより、自ら危機をまねいてるよね?」
朱里のつっこみに、辺りにいたみんなが爆笑した。
陽菜子も思い出した。あの時は、集合時間が過ぎても試験の説明が始まってもやってこない祐輔を待って、どれだけ焦ったことか。陽菜子にも責任があったから。
同じ中学から二人だけの受験で、家がすぐ近所だったから待ち合わせて一緒に行ったのだ。几帳面で心配性の陽菜子は、三十分以上前には高校に着いていたかった。だから時間的余裕はたっぷりあった。
それなのに。
「あ!」
駅までもう少しのところまできて、陽菜子は忘れ物に気がついた。
受験に直接は関係ない。受験票や筆記用具を忘れたわけではないから、受験はできる。でも……。
「どうした?」
祐輔がちょっと立ち止まった陽菜子の顔を覗き込む。
「なんでもな……」
「くはないだろ?」
途中で祐輔がセリフをひったくって足を止める。
「後輩たちがくれたお守りを忘れたの」
「いつも筆箱につけてたやつか?」
「そう。その筆箱がふざけすぎてるから、シンプルなのを用意してたの。はずして持ってくるつもりだったのに」
「いや、あのお守りも無駄にでかくてアウトだろ」
陽菜子の好きなうさぎのキャラクターが、合格祈願と書いたお守りをかかえているフェルトのマスコットだ。陽菜子の握りこぶしより一回り大きい。
「机には出さないよ。鞄の中に入れておくつもりだったの。でも受験に直接必要なわけじゃないから大丈夫」
歩き始めた陽菜子の背中に声がかかる。
「手作り感満載だったし、思い入れがあるんだろ。とってきてやるよ。おばさんに言えばわかるだろ」
「なくて大丈夫だよ。遅刻したら意味ないじゃん」
陽菜子が振り返って返事をした時には、もう五メートルほども先に駆け出している。
「ちょっ! 待って! いいって!」
「大丈夫大丈夫。電車は二、三本余裕あるだろ。陽菜は先に乗って行ってろよ~。俺は走れば間に合うから。絶対待つなよ!」
止めようにも、陽菜子より速い祐輔が先に走っているのに追いつけるはずもない。
「ダメだって! 祐くん!」
声だけで制止をかけたけど、あっという間に祐輔は小さくなって角を曲がって消えてしまった。
待っていても、陽菜子は戻ってきた祐輔と同じスピードでは走れない。電車を一本乗り遅れたら、最寄りの駅からも急ぎ足になるかもしれない。祐輔にとっては普通のスピードだろうけど。……気はひけるけど先に行くのが正解なんだろう。祐輔も、絶対待つなと言っていた。
「待ってたら逆に足手まといになるよね」
陽菜子は自分に言い聞かせて先に高校へ向かった。
気になって後ろを振り返り振り返り歩いた陽菜子が、受付をすませて教室に入って待っていても中々来ない。先生の説明が始まって陽菜子は泣きそうになった。
どうしてこんなに遅いんだろう。急ぎすぎて事故にでもあってたらどうしよう。祐輔の足ならこんなに遅いはずないのに。間に合わなかったらどうなるんだろう。途中から入れるのかな。陽菜子の頭をぐるぐるいろんな心配がかけまわる。
そして時計の針が試験開始の一分前をきった。
とりあえず自分の試験に集中しないと。もし陽菜子が落ちたりしたら、祐輔が気にするだろう。落ち着いて。集中! と陽菜子が目を閉じたとき。
勢いよく戸が開けて祐輔が飛び込んできた。先生に謝って急いで陽菜子の後ろの席へ大股でタッタッタッと向かう。
「悪い! 渡すの、次の休みになる」
通り過ぎざまにこそっと小声で言い、にかっと笑った。
あの時、その余裕の笑顔にちょっと腹をたてた陽菜子は、後からあんなにギリギリになった理由を聞いてあきれはてた。
陽菜子の向かいの家のおばあちゃんが重そうな荷物を持って駅まで歩いていたから、持ってあげたというのだ。つまり駅までおばあちゃんのペースで歩いたのだろう。自分の人生がかかってるのに、お人好し過ぎる。でも放っておけないのが祐輔なのだ。
陽菜子はみんなの真ん中でバカをやってる祐輔に目をやった。
寝坊して遅刻。みんなの記憶にはそれしか残らないだろう。寝坊も、嘘ではない。毎朝ランニングしている時間には起きそびれたと言っていたから。遅刻したのは寝坊が原因ではないのに、あえて言わない。それは陽菜子だけが知っている祐輔だ。
ふと、祐輔と目が合った。
祐輔は陽菜子にニヤッと笑ってみせ、それからおどけた声で話題を変えた。
「で、もう一つの危機回避は~」
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